君の「好き」を教えて。~ガリ勉とイケメン定時制ヤンキーDKの奇妙な100日間の話~

清田あお

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第二話

はじめての授業

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「……で、めでたく朝倉光成くんは、一度しか会ったことのないどこの馬の骨とも知らぬ定時制ヤンキーに毎週金曜日勉強を教えることになりましたとさ。めでたしめでたし、ちゃんちゃん、ってか?」
 翌日月曜日の昼休み。生徒もまばらになった教室で、テーブルを挟んだ向こうで大夢が言った。
「う、うん……」
「はあー。みつは、まじでお人よし過ぎんだよ。そもそも恋愛を教えてあげるってどういう意味だ」
 溜息を吐いて、大夢は胡乱げに髪を掻いた。確かに、こうやって第三者の口で再現したら、だいぶおかしなことに巻き込まれているのが客観的に俯瞰できる。でも、もうやるって言っちゃったから仕方ない。ドタキャンする勇気はないし、さすがに春日に悪い。
「で、今週の金曜日からレッスンがはじまる、と?」
「……うん」
 弁当箱の隣で僕が机の上に広げていた教科書に目をやって、大夢が尋ねてくる。
 今週の金曜日に、café A hui houで待ち合わせて一時間だけ勉強することになった。ジュース代は春日がもってくれるらしい。春日の通っている定時制高校の授業がどれくらいの進度か分からないので、とりあえず中三のときの教科書を家から引っ張り出してきた。やりこみすぎて、ページはぼろぼろ、蛍光ペンで超カラフルになっている。
 大夢はその中三の数学の教科書をぱらぱらとめくる。
「因数分解、二次方程式、平方根四則ねえ……。本当にその春日って奴、解けるのか?」
「わからない……」
 本人も言っていた通りあまり勉強は得意そうではないが、とりあえずまずは基本の因数分解と二次方程式からだろうか。この二つができなければさすがに大学受験は厳しいだろう。
「で、その春日って奴はどの定時制通ってるんだ?」
「坂の上って言ってた」
「坂の上の定時制高校……? H高か?」
「……多分」
「たぶんってなんだよたぶんって」
 大夢はさっきからかなり機嫌が悪く、せっかくのイケメンも二割減になっている。いつもは大きな怒りも悲しみも笑顔もみせない、感情が一定なタイプなのに。
「……とはいえ、いざ教えようって思うと、どうすればいいか分からないんだよね」
 問題は、案外単純ではなかった。
 春日がどれくらいできないのか、どこまでならできるのか、その情報が無いとどう教えていいのかが分からない。そもそも、二次方程式のやり方をどうやれば勉強が得意でない春日に分かりやすく伝えられるのか?――考えてみると、意外に難しい。
 でも、それを考えるのが思いのほか楽しいのだ。昨日も、「どうやったら分かりやすくなるかな」と色々問題や導入の説明を考えているうちに、気付いたら数時間が経っていた。
「とりあえず、時間もないんだし分配法則を丸暗記させて、展開の演習でもさせればいいんじゃね?」
「展開って言ったって、展開のやり方が分かるのかな、春日に」
「さあ……」
 つまらなさそうに大夢は教科書を閉じる。大夢は頭が良いから簡単に理解するだろうが、春日はそうはいかないだろう。
僕は閉じられた教科書の上にノートを置いた。昨晩、僕が考えた春日用特別カリキュラムだ。
「ちょっと昨晩考えてみたんだけどさ。教科書の順番通りに二次方程式単体で解かせても、春日みたいな勉強に抵抗がある子はパニクって駄目な気がするんだよね。解の公式を覚えさせるためには平方根も同時に教えないといけないし、解と係数の関係も、まずはお金……それこそ、百円玉とかを分ける練習をしたり、いきなり概念じゃなくて証明問題をちゃんと解いてもらうことから丁寧に始めてもいいと思うんだ」
 力説しながら、僕が切り貼りしたオリジナルの問題用紙を見せると、大夢が、目はジト目のまま唇だけでへらりと笑った。
「なに?」
「……いや」
「なに、気になるんだけど」
「……今のみつ、今まで見た中で一番楽しそうだったから」
 テンション高すぎて引かれたかな、とちょっと後悔する。
「……そ、そうかな」
 確かに、たかが勉強を教えるだけ(しかも無料)なのに、力が入りすぎちゃったかもしれない。
「ま、楽しいならいいけどな」
大夢に呆れたように言われると、こんなことに夢中になっているのがちょっとだけ気恥ずかしくて、頬に灯った熱を追い払うように顔を振った。


 学校と塾の往復、そして春日の授業準備をしているうちに、あっという間に金曜日の放課後は来た。
校門の前で不機嫌な大夢に見送られ、café A hui houに向かう。ちょうど塾までは徒歩圏内だからそのまま梯子するにはちょうどいい。
そっとドアを開けると、奥のほうにピンク色の髪が目立っている。大きいヘッドホンをしていて、腕を組んでじっと俯いている。瞑想でもしているのだろうかというくらい身動きしない。
僕に気づいたマスターの「いらっしゃい、みっちゃん」という優しい声に、ばっと春日がこちらを向く。
「みっちゃん!」
 嬉しそうな声がカフェに響いた。なんだか髪の毛が先週よりも綺麗になっている。
「髪、染め直した?」
「うん、だってみっちゃんの初レッスンだし。気合入れてきた」
 嬉しそうに髪をくるくる弄んでいる。本当に僕に会うのが楽しみだったような笑顔だから、つい気恥ずかしくなってしまう。
「なんで遊んでばっかりなのにそんなお金あるんだ? って思ってる?」
「うぐ」
 透視能力でもあるんだろうか。
「ちゃんとバイトしてるよ、ここで」
「ん?」
「このカフェで、土日はバイトしてる」
「えっそうなの?」
「俺の叔父さん」
 そう言って、マスターのことを親指で示す。マスターはコーヒーを淹れながら「春日の叔父さんでーす」とピースした。確かにちょっと顔とか髪型や雰囲気が似ている気がする。以前LINEで「週二でバイトしている」といったのはこのカフェのことのようだ。
「土日はさ、春日目当ての女の子がいっぱい来てがっぽりよ」
と言って、マスターは右手の親指と人差し指で丸を作った。それにしても、バイトってちょっと楽しそうだ。S高はバイト厳禁だから。
「何食べる?」
「え?」
「好きなもの食べてよ、勉強教えてくれるお礼」
「いや、いいよ」
 同い年だし、毎週奢ってもらうのも気が引ける。「大丈夫だよ、本当に」ともう一度断ろうかと思ったが、春日の好意を無碍にするのも申し訳ないかと思い、今日は甘えようと思い直す。
「……じゃあ、今日だけ」
 バスクチーズケーキ、アフォガード、クレープ……僕は甘いものが好きなので、どれも魅力的だった。
「じゃあ、クレープを」
「おっけ」
「ありがとう」
「ううん、全然」
 クレープを待つ間、春日と話していると、不思議と雑談が弾む。春日の話が上手だからかもしれない。僕は勉強ばかりで今流行りのテレビもネットの情報もよくわからないから、とりあえず春日の話に相槌を打つだけだけど、気付いたら三十分くらい経ってしまっていた。
(やばい、ちゃんと勉強しないと)
とりあえず雑談でたるんだ空気を引き締めるために、僕は軽く咳払いした。
「……とりあえず、始めるね」
 春日はぴしっと背筋を伸ばして、「よろしくお願いします!」と小さく礼をした。なんだか元気な小学生みたいで可愛くてちょっと面白い。
「今日は、二次方程式の勉強をしようと思います。ちなみに二次方程式って分かる?」
 春日は、うーんと呻った後、小首をかしげる。
「xとかyとかでてくるやつ?」
 まあ確かに間違ってはない。
「中学校で習った?」
「んー、たぶん」
「二乗とか三乗とかはわかる?」
「んー、たぶん」
 心もとない返事が返ってくる。これはたぶんやってないだろう。まずは一次方程式の基礎からやり直してもらったほうがよさそうだ。
「じゃあとりあえず、これ解けるかやってみて」
「えー? いきなり?」
 目の前にA4のプリントを置くと、春日は唇を尖らせてぶーたれた。
「まずは春日がどれくらいできるか把握しないと。あっちの席行ってたほうがいい?」
 多分だけど、勉強が苦手な子は勉強しているようすをつぶさに観察されるのは好まないと思う。僕だって、あまり他人にじろじろ見られたくはない。学校で教師が巡回しながら答案を覗き込んでくるのも苦手だ。本当はどこで躓いているか観察するのがベストだろうけど、とりあえず本人の意志を確認してみる。
「うーん、じゃあ一人で解く」
「分かった、じゃあ十五分にするね」
 そう言って、タイマーをテーブルに置いて僕はちょっと離れた席に移動して、僕は歴史の参考書を読んでいた。
 横目で春日は見る。真剣な表情で、ペンを走らせている。とても綺麗な横顔だった。
 ピピピ、とタイマーが鳴ったので、春日の解答を確認しにいく。
 出来映えといえば、予想通りだった。超初級の問題にしたが、七割がた解けている。
(展開と分配はできてるけど、解の公式が頭に入ってないみたいだ……。でも平方根をいきなり解説したらパニックになるかな……? 丸暗記させるのは手っ取り早いけど、春日みたいなタイプだと暗記は苦痛かも……)
 赤ペンで丸をつけながら今後の教え方について、考えていると、外界の感覚がなくなって、つい集中してしまうみたいだ。
「みっちゃん?」
春日の声で、意識が戻る。
「あ、うん、ごめん」
こんなに集中したことが初めてで、集中が解けた前と後で、世界の色彩が鮮やかに変わった感じすらする。
視線をあげると、目の前の春日は不安そうな顔をしている。
「どう? みっちゃん?」
 不安そうに丸つけをする僕を見ていた。
「ううん、悪くないよ! むしろ思ったよりよくできてた!」
 そう励ますと、春日は破顔した。
「よかったあ」
「こことここ、間違えてる問題は、『解の方式』っていうのを当てはめればすぐ解ける問題なんだけど、解の方程式って分かる?」
「ん、わかんない!」
 食い気味に飛んできた元気な回答に苦笑いする。
「解の方程式はこれ。この屋根みたいな記号わかる?」
「んー?」
 春日は左右に首を傾げる。
「あれだ、二乗」
 やっぱり理解はまだ中途半端そうだ。平方根の原理について、別に用意したプリントで説明してあげると、捻っていた首がまっすぐになる。
「わかった、みっちゃん!」
 そう言って、さっそく平方根の練習問題を解き始める。
(やっぱり、教科書の順番通りで教えられても、勉強苦手な子には分からないのかもしれないな……。僕が先生なら教科書通りの順番で教えないなあ)
 教科書をぺらぺらめくりつつ春日の様子を見て、そんなことを考えた。勉強自体は苦手ではないし、これくらいの初歩で躓いたことはないから、今までそんなこと考えたことなかった。世界は少し見方を変えるだけで、一日でこんなにも粗や難題がみえてくるものなのかもしれないものなんだな、としみじみする。
 春日が演習問題を解くのを手伝っていたら、あっという間に、一時間半が経っていた。今日のレッスンは終わりだ。もう塾に行かなければ。
「じゃあ、今日はおしまいね」
 そう言った瞬間、なんだか不思議な充足感に身体が満たされていくのを感じた。あっという間の一時間半だった。久しぶりに集中した気がする。
 春日がどこでペンを止めたのか。
 どんな表情で問題を解いているのか。
 どこで消しゴムを使ったのか。
 そういう一挙一動に意識を向けると、どうすれば春日が問題を解けるようになるのか少しずつ分かってくる――。自分はいままで問題を解かされる側だったけど、解いてもらう側になったときに、はじめて見えてくるものがたくさんあった。それが難しくもあり、達成感があった。あっという間に時間が過ぎて、清々しい気持ちでゆっくりと身体は満たされている。
(すっごく楽しかったな……)
 心の中でほっと溜息をついていると、
「あーっ、頑張ったー」
 と、僕に呼応するように、春日は両手で万歳をして、ぐーんと背伸びをした。
「みっちゃん、ありがとう! すごい楽しかった!」
 それは僕も同じ気持ちだった。
 それに、息を吸って吐いた春日は、満面な笑顔だった。今日一番晴れやかな笑顔。
「勉強って、面白いんだね、みっちゃん」
 しみじみと春日は言った。
「勉強って嫌々やったらつまらないけど、みっちゃんに教えてもらったら、すごく楽しいと思えた」
「そ、そんなことないよ……!」
 気恥ずかしさを隠すように、テーブルに広げっぱなしになったプリントや資料を束ねていると、春日がふとその一枚を取った。
「これ、みっちゃんが作ったの?」
「あ、うん」
 春日用に作ったカリキュラム。教室に大夢に見せて馬鹿にされたものだ。
「これ、なに?」
 ふと、春日の口元から笑みが消えて、真剣な顔になる。あの鷹みたいに鋭い視線だ。
「あっ……、一応、春日のために作ったカリキュラム。三か月全十二回で」 
「俺のために作ってくれたの?」
「え? ああ、うん」
 手書きで一発書きしたそれはアピールするのも申し訳ないくらいの簡単な代物だし、でも否定するのも違うので、ぎこちなく頷いてみせると、春日は目を瞬かせた。
「……ありがとう、みっちゃん」
「い、いや、どういたしまして……?」
 別に全然大したことじゃないんだけどな。塾や学校の先生はもっとちゃんとした授業計画とか作ってるし。
「そこのコンビニで、コピー取ってもいい?」
「え?」
「俺のためにみっちゃんが作ってくれたんだから、大切にとっときたい」
 別に、ただ手書きでまとめた簡単な表だし。大袈裟にも程がある。
「みっちゃん、本当にありがとう」
 春日はゆっくりと、嬉しさを噛みしめるみたいに繰り返した。
「で、でも、本当にそんな大したことじゃないよ」
 照れくさくて謙遜すると、春日は「でも、本当にありがとう」とお礼を繰り返した。
「俺みたいな馬の骨のためにここまでしてくれて嬉しいよ」
「うま? まあ、たしかにそうかな」
「えー」
故意の厭味な返しにも気負いなく笑う春日は、たとえ勉強ができなくてもとても性格が良いんだと思う。こんなにも喜んでくれたことが胸にきて、思わず唇がゆるむ。
(こんなに人の役に立てたのって、いつぶりかな……?)
 塾に向かう間、心の中でしみじみとそんなことを思った。
 顔も不細工だし、ガリ成だし、ちびだし、運動神経も悪くて誰かに笑って感謝してもらった記憶なんてほとんどない。かも、得意なはずの勉強だって特別秀でているじゃない。この世には数か月受験勉強を頑張っただけでT大には入れるような天才たちがたくさんいて、僕なんてその足元にも及ばない。だから、こんな中途半端な自分に価値がないようにたまに思ってしまう。
(でも、今日だけは、人の役に立てたのかな)
 今日だけは、こんな自分にも価値があるって思えた。春日が喜んでくれた笑顔のおかげで。
カフェを出て、春日と二人で並んで、最寄駅に着く。改札の前で、春日が「じゃ」と右手をあげた。
「じゃ、塾、頑張ってね、みっちゃん」
 カードを改札にタッチして、ふと振り向くと、まだ春日がこちらを見ていた。僕が振り向いたのに気づくと、ふたたび手を振る。
 そのまま春日に見送られ、塾に向かう電車のホームに降りて行った。
結局、駅に着く前に強引にコンビニに寄らされて、コピーを撮られた。
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