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第二章 マクロ・シーン1「アリサと瑠奈」 2
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首都医科大学附属病院血液内科の医局では、十数名の局員と二名の病棟看護師、および二名の病棟薬剤師による、入院患者の症例検討会が行われていた。
医局内のカンファレンスルームは、細長く並べられた数台のテーブルの周りに二十名ほどがソーシャルディスタンスで着座すると一杯になる。今、その全席がほぼ埋まり、中央の上座に陣取る血液内科学講座主任教授 呉地 達三(くれち たつぞう)の主導で、会議が進められていた。
呉地の横には多比良准教授と血液内科医局長の佐伯アリサが、また末席の方には病棟看護師の趙水鈴と、病棟薬剤師の岩清水 満里耶(まりな)の顔もあった。
「……左肺気管支周辺の扁平上皮癌で、この方は三十五年間、一日三十本の喫煙歴があり、……」
若手の男性医師が、立ち上がったまま手元のメモを見ながら報告している。
症例検討会では、まず医局員がそれぞれ主治医として担当している七人から十人程度の入院患者の臨床経過と治療の現状を、一人一人報告する。続いて主任教授の呉地や他の医局員が、それに対して質問したり今後の治療方針に関する指示を授けたりする。
治療経過が芳しくない患者がいた場合には、医局員全員でその患者に対する現治療法を見直し、そして病状が改善していくようそれぞれの立場から知恵を絞る。
「クレアチニンが上がってるのは、カルボプラチンの腎毒性が出てるからじゃないの? 岩清水先生どう思う」
呉地教授が物憂そうな顔つきで、末席の方にいた病棟薬剤師の岩清水を見やりながら尋ねた。
相手が薬剤師であっても、呉地は岩清水を先生と呼ぶ。医局と薬剤部では部署が違うので、相手を敬っての配慮でもある。
唐突に発現を求められ岩清水は、やや緊張した面持ちでおもむろに立ち上がると、教授に視線を向けながら答えた。
「高齢な方ですから、もともと腎機能は落ちていると思います。昨日から今日に掛けてクレアチニンの上昇は0.2ミリグラムパーデシリットルですから確かに注意が必要ですが、注視しつつ一応明日まで様子を見てはいかがでしょうか」
岩清水は、血液内科病棟の薬剤師で、入院患者の薬物療法を専属で担っている。
彼女の所属はもちろん首都医科大学附属病院の薬剤部だが、その業務のほとんどを病棟で行っている。
二十七才と、病棟を任される割にはまだ若い。童顔ながらベテラン域の薬剤師のごとき眼光を忍ばせ、薬物療法のプロフェッショナルとして、てきぱきと病棟業務をこなす。呉地教授をはじめ、血液内科の医局員はみな彼女のことを信頼している。
「そうだね。そうしよう。では次の患者」
呉地は岩清水の提案を受け入れ、主治医の若い男性医師に素っ気なく指示を出すと、議題を転じた。みな入院患者を十数名受け持っているので、会議に割く時間も惜しい。
呉地は、首都医科大学血液内科分野の主任教授になってから、今年で五年目となる。
まだ四十代だが、血液系の感染症分野ではすでにいくつかの秀でた業績を上げており、日本感染症学会の間では名が知られていた。日本内科学会や感染症学会では理事を務め、これまで発表した欧文論文数も二百報を超える。
体は大きくでっぷりとしていて、いかつい顔と太い硬質の黒髪が、勢いを感じさせる。
「次の患者は、東御兼 瑠奈、二十八歳。皆さんご承知のように、当血液内科の医局員です」
先ほどの男性医師に替わって、多比良准教授が、呉地の隣の席に座ったまま発言し始めた。呉地は黙って頷いている。
多比良は続けた。
「肺炎球菌かインフルエンザ菌による軽症の肺炎と思われますが、現在スルバクタム・アモリンの点滴で様子を見ています。今朝の体温は三十八度でしたが、医局長、その後の検温では下がっていましたか」
多比良は先刻、肺炎で入院した瑠奈への抗生物質の投与を始めると、医局長の佐伯アリサを瑠奈の病室に残したまま別の患者の回診に出てしまった。
瑠奈の主治医は多比良であったが、彼には他の医局員より多くの入院患者がいた。また瑠奈はアリサの同僚であり、アリサからも一緒に瑠奈を診させてほしいとの申し出があったので、手が空かないときなど多比良は、瑠奈の診療をアリサに任せていた。
アリサはさっきまで瑠奈のそばにいたはずだ。それで多比良はアリサに質問を向けたのだ。
「まだ熱は下がっていません」
多比良の対面、少し下座の方の席にいた医局長のアリサが、簡潔に答えた。
「感染菌が肺炎球菌かインフルエンザ菌なら、スルバクタム・アモリンがすぐ効いてもよさそうなものだが……」
呉地がくぐもったような声で独り言を述べた。
「菌の同定検査は依頼したのだろうね」
呉地が隣にいる多比良准教授を見て訊くと、多々良は「当然」という顔をして深くうなずいて見せた。
「もしペニシリン系の抗生剤が効かない場合、原因は何が想定される?」
呉地がなおも尋ねると、多比良は眼鏡の細いフレームを右手でつまんで持ち上げ、眼鏡の位置を正してから返答した。
「多剤耐性菌による感染か、あるいは間質性肺炎……。しかしその心配はないと思います」
多比良の見解に、呉地は口をへの字に曲げたまま黙って腕を組んだ。
間質性肺炎の中には、原因の分からない特発性のものも含まれるので、もしそうなると有効な薬物がない恐れもある。だが細菌性肺炎とは胸部X線像が異なるので、診断を違えたとは思えない。
「誰か他に意見は無いか」
呉地はおもむろに一同を見渡した。誰からも発言はない。
「菌培養の検査結果が出たら報告してくれ」
彼はもう一度多比良に向き直ると、そう短くまとめた。
「医局長」
症例検討会がはけ、医局内のカンファレンスルームから病棟に戻ろうとしていたアリサは、後ろから女性の声に呼び止められた。
「すみません。ちょっとお時間良いですか」
先ほど来一緒に症例検討会に出ていた、病棟薬剤師の岩清水だった。
「……十分くらいなら。何?」
「そんなにお手間は取らせません」
医局には応接セットが置いてあって、そこでくつろいでコーヒーなども飲める。
二人はソファーに腰を落ち着かせた。
症例検討会から解放された医局員たちは、皆忙しそうに病棟かナースステーションに去って行った。
呉地と多比良もそれぞれ教授室と准教授室に戻ったので、今医局には、アリサと岩清水の他は誰もいなかった。
外は肌寒く、院内にいても暖かい飲み物がほしくなる。
アリサは、医局に常備されているインスタントのホットコーヒーが湛えられたカップで両手の白く細い指を温めながら、岩清水の方に視線を向けた。
「医局長。瑠奈先生は何か別の病気じゃないでしょうか」
アリサの顔色を窺いながら、岩清水が唐突に言った。
「別の病気?」
「ええ。私は医師ではありませんから、診断はできませんが……」
「何か気が付いたことでもあるの」
アリサが水を向けると、しばしためらったのち、岩清水は過去のことを思い出すような口吻で話し出した。
「瑠奈先生、時々薬剤部に顔を見せるのですが、その時はそっと私のそばに寄って来て、『岩清水さん抗生剤ちょうだい』、とか『解熱剤もらうわね』、と言ってちょこちょこ薬を持って行くんです」
「そう。まあ、以前だったら、医師たちはみんなそういうことをやってたわね。自分の飲む分は、処方せんなしでも勝手に」
「ええ。今では禁止されてますけどね」
「病院の方針も厳しくなったからね。でも、瑠奈は何でそんなにいろいろな薬を?」
怪訝な顔をしてアリサが訊くと、岩清水も表情を曇らせた。
「そうなんです。私もちょっと心配になって、瑠奈先生に伺ったことがあるんですけど」
「何て?」
「ええ。瑠奈先生ずっと前から顔色が悪いでしょ。それで、『風邪でもひかれましたか。咳は?』というようなことを訊いたのですが……」
「そういえば、二、三週間ほど前から、彼女なんとなく様子が変だったわね。瑠奈はあなたに何か言ってた?」
「いいえ。ちょっと風邪を引いたみたい、とか頭痛が治らなくて、とかありきたりのことを」
「そう……」
既述したように、新型ウイルス感染症の検査は医局員全員が受けているが、全て陰性である。アリサは眉根を寄せて、目線を宙に浮かせた。
「菌培養の検査結果が気になります。抗生剤が効く菌による肺炎だったらいいのですけれど」
岩清水はそんなことを呟きながら、
「お時間を取らせてしまってすみませんでした。少し心配だったものですから、瑠奈先生とは仲の良い医局長のアリサ先生のお耳に入れておこうと思いまして」
と言い残して、先に医局を出て行った。
「瑠奈は私には何も言ってなかったけど、確かに近頃はずっと様子が変だったわ。悪い病気に罹っていなければいいけれど」
誰もいなくなった医局で一人、アリサは壁に向かってぽつんと呟いた。
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