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第二章 マクロ・シーン1 「アリサと瑠奈」 5
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「東御兼 瑠奈のHIVウイルス検査結果は、間違いなく陰性だった……」
メタル仕様のBMWアクティブツアラーのハンドルを握り、前を見つめたまま多比良が呟いた。
平日夜の甲州街道は、制限速度を超えてスイスイ飛ばせる。
「そうね。瑠奈のヘルパーT細胞数が減ったのは、HIV感染が原因ではなく、別にあるという事ね」
助手席の佐伯アリサは、通り過ぎる家々や店舗の灯りをぼんやり見やりながら返した。
「血液内科の診療スタッフから東御兼君が脱落したのは痛いな。外来患者もこのところ増えているというのに、今スタッフが足りない。我が血液内科学教室の研究機能は、ストップ状態だ」
多比良はアクセルを踏み込んだ。
「研修医にも、研究を手伝ってもらいましょうか」
ややイラついた感情を表にする多比良と自分の気持ちを共に落ち着かせるように、アリサは静かな口調で言った。
「ふむ、そうだな……」
だが多比良からは気のない返事だ。
週末になると、二人はほぼ毎週デートを重ねた。
付き合いは半年前からになる。救急患者の治療で夜遅くなったアリサを、多比良が彼女のマンションまで車で送ったのがきっかけだった。
多比良も、血液内科の准教授になってから、独身のままもうすぐ四十才を迎える。
看護師連中にも人気が高かったし、見合い話なども無くはなかった。
だが彼はこれまで、研究・教育を中心とした様々な仕事への衷心が過ぎ、いくつかの結婚の機会を逸して来た。それでも多比良はいいと思っていた。
一方のアリサも、診療や研究の仕事一筋で、医局長という多忙な立場も手伝って、最近まで男女関係に何の縁もなかった。
だが、多比良との出会いが彼女の人生を変えた。
自分たちが付き合っていることを、多比良もアリサもまだ医局員に話したことは無かった。アリサにとっては親友の瑠奈にさえ、多比良のことは黙っていた。したがって、彼女が多比良と付き合っていることを瑠奈も知らないはずであった。
アリサは、自分たちの仲を隠す必要はないと、医局員への公表を多比良に迫った。だが多比良の方では、まだ話す時期ではないと言ってその話題を避けていた。
多比良は、府中市街まで慣れた道に車を走らせ、行きつけのイタリアンレストランに入った。
店の隅の空いたボックス席に身を落ち着けると、自分ではソフトドリンクを注文し、アリサにはワインを勧めた。
だがアリサはそれを遠慮して、レモンティーにした。
会話はぎこちなかった。
附属病院の医局や研究室で、臨床医として振舞っている時の二人の会話は屈託なかった。しかし、いざお互いだけになって男と女に変わると、まるで別人と話すようである。
東御兼瑠奈に関する話題が途切れると、二人はしばし言葉を噤んでいた。
多比良は戸外のクリスマスツリーに点滅するイルミネーションを見やった。まだ十一月ではあったが、気の早いアウトレットの商店街が同調してツリーを店頭に飾っている。アリサも思わずそちらに目をやる。
「クリスマスか……」
やがて気まずい沈黙に負け、何気なしにアリサが呟いた時、丁度ウェイトレスが飲み物とパスタを運んで来た。注文の品がテーブルに置かれていく。
「ねえ先生」
ウェイトレスが去り、運ばれたパスタと飲み物に早速手を付けて集中し出した多比良のしぐさを見つめながら、アリサが重い口を開いた。
多比良が面を上げると、アリサは少しためらった後、意外なことを言い出した。
「瑠奈にも、付き合っている人がいるんじゃないかしら」
多比良は一瞬食事の手を止めた。
口元からちょっとスパゲティーの端が覗いていた。だがそれをするすると口の中に引っ込めると、多比良はろくにかまずに飲み込んでから言った。
「ほう。それは初耳だな。相手は?」
「分からないわ」
アリサはすかさず返す。
「彼女、私には何も言ってなかったし」
さらにアリサは、そう不満そうにつぶやいた。
自分が多比良と付き合っていることを瑠奈に隠している件は棚上げにし、瑠奈が交際相手のことを自分に何も打ち明けてくれないと言ってへそを曲げる。考えてみれば、アリサの方が自分勝手だった。
多比良は、アリサから振られた話題には関心なさそうに、また食事を続け出した。
アリサの方もどこか気まずい思いを残しながら、ようやくフォークを手にした。
「ところで、僕は最近臨床の方が忙しくて、血液内科の研究室にはほとんど顔を出していないんだが」
多比良は唐突に話を転じた。
アリサは、フォークでパスタをからめていた手を止め、怪訝そうな顔を上げた。
多比良の表情にアリサは、「瑠奈が付き合っている人」の話題にとどまっていたくない、という彼の本心をちらと見た。
「研究室では何か変わったことは無かったかい」
「変わったこと?」
「ああ」
「どうして……」
アリサが尋ね返すと、多比良は一瞬ためらっていたが、やがて言葉を継いだ。
「試薬やサンプルなどが、いくつか紛失したという話を聞いたものだから」
アリサは黙って相手を見つめた。初耳である。
彼女はゆっくりとかぶりを振った。
「私も研究室にいられる時間は、あまり長くないわ。きっと何か起きても気が付かないんじゃないかな」
「そうか……」
「でも先生はどうしてそんなことを?」
訊き返されて、多比良はまた返答を逡巡していたが、小さくため息をつくと仕方なさそうに言った。
「薬剤部の岩清水さんから耳にしたんだ。ほら、彼女も時々血液内科の研究室で実験をしているだろう」
「知ってます。いつも遅くまで頑張ってるようだけど」
大学病院では、医師はもちろん、他の医療スタッフも研究を行う。診療、研究、教育が、大学病院の医療スタッフの三つのポリシーだからだ。
しかし一般的に言って、病院の薬剤師が医局の研究室で実験研究を行うことはあまりない。そういう意味では岩清水は特別であった。彼女は感染制御専門薬剤師の資格を持ち、積極的に研究も行っていた。
「君には、何か心当たりは無いか」
「何か、って……?」
「研究に関する試薬とか、保存していた細胞とか……。もしかしたら、データなんかも紛失している可能性がある」
「まさか……」
アリサは絶句する。
瑠奈が入院したこともあって、最近研究室にはあまり顔を出していない。試薬やデータ等の保存管理の確認も、しばらく手付かずのままだ。
「明日、チェックしてみます」
「ああ、それがいい」
多比良は憮然として言うと、また黙々と食事を続け出した。
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