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第二章 マクロ・シーン1「アリサと瑠奈」 6
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翌日の午後になって、外来診療の患者がようやく途切れたところで、アリサは血液内科の研究室に行ってみた。
この時期はそろそろインフルエンザが流行り出し、血液内科の外来を訪れる患者も連日増加している。その日アリサの外来がはけたのは、午後三時過ぎであった。
研究室は八十平米ほどの面積で、十数人の血液内科の医局員が交代で実験をするには、十分すぎる広さである。
ここは数年前に改装されたので、実験プラッテ、クリーンベンチ、インキュベータ、遠心分離機、PCR用サーマルサイクラーなどの研究用機器もみな新しい。
研究室の入り口は二か所で、医局に近い方の入り口から中に入るとすぐ右側に、アリサに与えられた研究用デスクと実験プラッテ(実験台)がある。
アリサはまず、研究用デスクに備えられた自分専用のデスクトップ型PCを立ち上げてから、マイナス八十度の冷凍庫に保存してある細胞株をチェックした。そこにはヒトの肺がん細胞株など六種の細胞株が冷凍保存されていた。
彼女はディスポーザブルのゴム手袋をはめ、化粧箱ほどの大きさの凍結しているサンプルケースを、一つ一つ手にとってよく調べた。だがいずれも、誰かが勝手に触ったような形跡はなかった。
続いてアリサは、マイナス百九十度の液体窒素ボンベのふたを開け、そこに保存してあった数種類のレトロウイルス感染細胞株の状況を確かめた。
レトロウイルスとは、RNAからDNAを生合成できる逆転写酵素という特殊な酵素を備えたウイルスのことである。肺炎ウイルスやエイズの原因となるHIVウイルスも、この種のウイルスに属する。
免疫細胞がレトロウイルスに感染することによって、生体防御機構や免疫細胞ネットワークシステムがどう影響を受けるのかという疑問を解決するのが、アリサの研究分野の一つである。
従って、アリサの研究試料には、種々のレトロウイルスに感染させたヒトの免疫細胞が多い。それらはいずれも、マイナス百九十度の液体窒素ボンベの中で眠っていた。
ボンベのふたを開けると、液体窒素の冷気が空気中の水分を瞬時に凝結させ、そのあたり一帯に白く深い霧ができた。
アリサは、厚手の実験用ゴム手袋を両手にはめたまま顔にマスクを付け、もうもうと沸き上がる霧を手で振り払いながら、保存されている貴重な細胞株を一つ一つ丹念に調べた。
だがそれらにも異常はみられなかった。
液体窒素ボンベのふたをしっかりと閉め手袋を外すと、続いて立ち上がったPCに自分でしか知り得ないIDとパスワードを入力して保存データを確認した。
十数分の時間を要する作業であったが、こちらも問題なさそうだ。ハッカー等のウイルス感染も見られなかった。
研究試料やデータが紛失したという多比良の危惧は、噂でしかなかったのだろうか。
アリサはほっと一息つくと、PCの電源を切り、研究室を出てドアを施錠した。
せっかくの機会に研究室にとどまって、研究を続けたいところではあったが、なかなか時間が取れない。病棟では、十数名の入院患者が彼女の回診を待っていた。
先ずは、瑠奈の様子を見に行こう。アリサは、血液内科病棟へとエレベーターを上がった。
瑠奈の病室は個室で、八階の血液内科病棟の端にあった。
八階でエレベーターを降りると、知った顔の看護師たちが、医局長であり自分たちの上司のひとりでもあるアリサに、かわるがわる挨拶した。
ナースステーションに医師の姿は無かったが、そこで忙しなく働いている看護師たちの中に趙水鈴の姿を見つけ、アリサは声を掛けた。
「瑠奈の具合はどう」
「熱は下がってます。先ほど今日の胸部X線検査の結果が来たようですが、もう肺に浸潤影は見られなくなったと、呉地教授がおっしゃってました」
趙は、しばし入院患者用の点滴液をチェックする手を止めると、アリサの方に顔を向けながら応えた。
「そう、良かったわ。本人は? 元気にしてる?」
「これから検温に行きますので、良かったらご一緒に」
アリサはうなずいて、趙の後について瑠奈の病室に向かった。
病室には、南側のレースのカーテンを透かして、明るい陽光が差し込んでいた。加湿器の湯気がひっそりと湧き上がり、陽光を遮っては消えた。
室内には物音一つなかった。
瑠奈はベッドの上で動かず、眠っているようである。
「瑠奈。気分はどう」
アリサが囁き声で病人に微笑みかけると、瑠奈は薄目を開けた。
立ったまま自分を見つめているアリサに、瑠奈はゆっくりと目を向けた。
趙が検温を始める。
「大分やつれたみたいだ」
とアリサは思った。
肺炎との戦いはひとまず収まったが、瑠奈の先日の検査結果を見ると、彼女の血中には免疫系の要のヘルパーT細胞がだいぶ不足しているようだ。その原因はまだ分かっていない。
「ありがとう……」
瑠奈はかすれる声でか細く応えた。
「私ももう若くないわ……」
「何を弱気なこと言ってるの。抗生剤が効いて肺炎の起因菌は駆逐できたから、後は体力付けて早く現場に復帰してもらわなくちゃ」
アリサはやや声高に言った。
瑠奈から体温計を外した趙は、それを目の高さに持って行ってから読み上げた。
「三十六・七度。平熱です」
「デジタル体温計より水銀柱タイプの方が信用できるんです」といって、趙はいつもその体温計を持ち歩いている。
趙からの検温結果の報告を聞き流した瑠奈は、うるんだ目でアリサを見上げた。
「ねえ、アリサ。私、何か別の病気なんでしょう」
「別の病気、って……?」
「だって、HIV感染症以外でヘルパーT細胞数が減るなんて変よ。その他に何か免疫異常はなかったのかしら」
イラついたような言い方だった。
「さあ……」
アリサが戸惑っていると、瑠奈はなおも追い打ちをかけるように訊ねた。
「ねえ、隠さず教えて。その他に何か異常は見つからなかったの」
「あなたに隠したって意味ないでしょ。何も見つかっていないわ」
アリサは諫めるように返して、白くしなやかなその手を伸ばすと、瑠奈の掛布団の乱れを丁寧に直した。
瑠奈は憮然とした表情でアリサから目を逸らし、天井を見た。
その横顔に向かってアリサが言う。
「心配しなくても大丈夫よ。それより、あなたが欠けてしまって、外来も病棟も大変なんだから。早く戻って来てもらわなくちゃ困るわ」
瑠奈はひとつため息をついてから、ようやく気が変わったように、口元に小さな笑みを浮かべた。
「冷たい言い方なんだから」
「もう良くなったのよ。子供みたいに駄々をこねないで」
「分かったわ。あなたにかかっちゃかなわないわね、医局長」
瑠奈はあきらめたように言って、両手でかけ布団を引くと目まで顔を覆い隠した。
翌日の午後になって、外来診療の患者がようやく途切れたところで、アリサは血液内科の研究室に行ってみた。
この時期はそろそろインフルエンザが流行り出し、血液内科の外来を訪れる患者も連日増加している。その日アリサの外来がはけたのは、午後三時過ぎであった。
研究室は八十平米ほどの面積で、十数人の血液内科の医局員が交代で実験をするには、十分すぎる広さである。
ここは数年前に改装されたので、実験プラッテ、クリーンベンチ、インキュベータ、遠心分離機、PCR用サーマルサイクラーなどの研究用機器もみな新しい。
研究室の入り口は二か所で、医局に近い方の入り口から中に入るとすぐ右側に、アリサに与えられた研究用デスクと実験プラッテ(実験台)がある。
アリサはまず、研究用デスクに備えられた自分専用のデスクトップ型PCを立ち上げてから、マイナス八十度の冷凍庫に保存してある細胞株をチェックした。そこにはヒトの肺がん細胞株など六種の細胞株が冷凍保存されていた。
彼女はディスポーザブルのゴム手袋をはめ、化粧箱ほどの大きさの凍結しているサンプルケースを、一つ一つ手にとってよく調べた。だがいずれも、誰かが勝手に触ったような形跡はなかった。
続いてアリサは、マイナス百九十度の液体窒素ボンベのふたを開け、そこに保存してあった数種類のレトロウイルス感染細胞株の状況を確かめた。
レトロウイルスとは、RNAからDNAを生合成できる逆転写酵素という特殊な酵素を備えたウイルスのことである。肺炎ウイルスやエイズの原因となるHIVウイルスも、この種のウイルスに属する。
免疫細胞がレトロウイルスに感染することによって、生体防御機構や免疫細胞ネットワークシステムがどう影響を受けるのかという疑問を解決するのが、アリサの研究分野の一つである。
従って、アリサの研究試料には、種々のレトロウイルスに感染させたヒトの免疫細胞が多い。それらはいずれも、マイナス百九十度の液体窒素ボンベの中で眠っていた。
ボンベのふたを開けると、液体窒素の冷気が空気中の水分を瞬時に凝結させ、そのあたり一帯に白く深い霧ができた。
アリサは、厚手の実験用ゴム手袋を両手にはめたまま顔にマスクを付け、もうもうと沸き上がる霧を手で振り払いながら、保存されている貴重な細胞株を一つ一つ丹念に調べた。
だがそれらにも異常はみられなかった。
液体窒素ボンベのふたをしっかりと閉め手袋を外すと、続いて立ち上がったPCに自分でしか知り得ないIDとパスワードを入力して保存データを確認した。
十数分の時間を要する作業であったが、こちらも問題なさそうだ。ハッカー等のウイルス感染も見られなかった。
研究試料やデータが紛失したという多比良の危惧は、噂でしかなかったのだろうか。
アリサはほっと一息つくと、PCの電源を切り、研究室を出てドアを施錠した。
せっかくの機会に研究室にとどまって、研究を続けたいところではあったが、なかなか時間が取れない。病棟では、十数名の入院患者が彼女の回診を待っていた。
先ずは、瑠奈の様子を見に行こう。アリサは、血液内科病棟へとエレベーターを上がった。
瑠奈の病室は個室で、八階の血液内科病棟の端にあった。
八階でエレベーターを降りると、知った顔の看護師たちが、医局長であり自分たちの上司のひとりでもあるアリサに、かわるがわる挨拶した。
ナースステーションに医師の姿は無かったが、そこで忙しなく働いている看護師たちの中に趙水鈴の姿を見つけ、アリサは声を掛けた。
「瑠奈の具合はどう」
「熱は下がってます。先ほど今日の胸部X線検査の結果が来たようですが、もう肺に浸潤影は見られなくなったと、呉地教授がおっしゃってました」
趙は、しばし入院患者用の点滴液をチェックする手を止めると、アリサの方に顔を向けながら応えた。
「そう、良かったわ。本人は? 元気にしてる?」
「これから検温に行きますので、良かったらご一緒に」
アリサはうなずいて、趙の後について瑠奈の病室に向かった。
病室には、南側のレースのカーテンを透かして、明るい陽光が差し込んでいた。加湿器の湯気がひっそりと湧き上がり、陽光を遮っては消えた。
室内には物音一つなかった。
瑠奈はベッドの上で動かず、眠っているようである。
「瑠奈。気分はどう」
アリサが囁き声で病人に微笑みかけると、瑠奈は薄目を開けた。
立ったまま自分を見つめているアリサに、瑠奈はゆっくりと目を向けた。
趙が検温を始める。
「大分やつれたみたいだ」
とアリサは思った。
肺炎との戦いはひとまず収まったが、瑠奈の先日の検査結果を見ると、彼女の血中には免疫系の要のヘルパーT細胞がだいぶ不足しているようだ。その原因はまだ分かっていない。
「ありがとう……」
瑠奈はかすれる声でか細く応えた。
「私ももう若くないわ……」
「何を弱気なこと言ってるの。抗生剤が効いて肺炎の起因菌は駆逐できたから、後は体力付けて早く現場に復帰してもらわなくちゃ」
アリサはやや声高に言った。
瑠奈から体温計を外した趙は、それを目の高さに持って行ってから読み上げた。
「三十六・七度。平熱です」
「デジタル体温計より水銀柱タイプの方が信用できるんです」といって、趙はいつもその体温計を持ち歩いている。
趙からの検温結果の報告を聞き流した瑠奈は、うるんだ目でアリサを見上げた。
「ねえ、アリサ。私、何か別の病気なんでしょう」
「別の病気、って……?」
「だって、HIV感染症以外でヘルパーT細胞数が減るなんて変よ。その他に何か免疫異常はなかったのかしら」
イラついたような言い方だった。
「さあ……」
アリサが戸惑っていると、瑠奈はなおも追い打ちをかけるように訊ねた。
「ねえ、隠さず教えて。その他に何か異常は見つからなかったの」
「あなたに隠したって意味ないでしょ。何も見つかっていないわ」
アリサは諫めるように返して、白くしなやかなその手を伸ばすと、瑠奈の掛布団の乱れを丁寧に直した。
瑠奈は憮然とした表情でアリサから目を逸らし、天井を見た。
その横顔に向かってアリサが言う。
「心配しなくても大丈夫よ。それより、あなたが欠けてしまって、外来も病棟も大変なんだから。早く戻って来てもらわなくちゃ困るわ」
瑠奈はひとつため息をついてから、ようやく気が変わったように、口元に小さな笑みを浮かべた。
「冷たい言い方なんだから」
「もう良くなったのよ。子供みたいに駄々をこねないで」
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