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第三章 ミクロ・シーン2 「バイロンを倒せ」 1
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ヘルパーT細胞のチモシーは、無気力のまま血流に任せて、血液循環中を漂っていた。そのまま何もしないでいると、あっという間に宿主体内を二、三周はしてしまう。
右肺の肺胞壁辺りで出会った、チモシーにとって気持ちの悪い抗原もどき。
それらはチモシーに対して何ら危害を加えるものでもなかったが、その感触は妙な違和感となって彼の体内に覚え込まれていた。
そしてリンパ節内で見かけた、チモシーとは同類であるヘルパーT細胞たちの無数の死骸。それらを貪り食っているファージ軍団……。
「何かの異変が起きている」
それを肌で感じながら、チモシーにはその原因がわからなかった。
チモシー達が宿るこの宿主は、二十八才とまだ若い。
体中のどこの血管も、動脈硬化などの障害なく弾力があって、血流もスムーズだ。
流れの良いさらさらの血液に連れられて、自分の故郷ともいえる胸腺に滑り込んだチモシーは、ふと我に返ったようにそこで触手を伸ばし、辺りの組織壁にへばりついて、胸腺内部に留った。
胸腺は、胸腔内の心臓の上辺りにのっかる形でついている免疫関連の臓器だ。それは蝶が羽を広げたような形をしており、チモシーたちT細胞の分化成熟に深く係っている。
胸腺組織内は、白く美しい細胞で満たされている。もちろんチモシーが色を識別することはないが、そのすべすべしたさわり心地の良い触感は、チモシーにとって特別のものであった。
この胸腺組織を形成する細胞たちは、宿主の免疫系の成り立ちにおいて、非常に重要な役割を担っている。チモシーも、骨髄から生まれてまだ未熟だったころ、立派なヘルパーT細胞に育つようにと、ここでずいぶんと厳しくかつ暖かい教育を受けたものだ。
胸腺細胞は、立派な大人に成長したチモシーの身体に触れながら、今でもいろいろな情報や刺激をくれる。
刺激を受けないヘルパーT細胞は、その役割を終えたように徐々に活動を弱め、ついにはアポトーシスで消滅していく。だからチモシーたちにとっては、時々樹状細胞のデンドロや他のリンパ球、あるいは胸腺細胞などから刺激を受けることが、その生存に必要なのである。
ここに言う「刺激」とは、細胞の表面に突き出ている受容体と呼ばれる糖タンパク質が、リガンドと呼ばれる相手の細胞の突起とがっちりはまり、その「握手」がもたらす物質と物質の物理化学的変化が相手から伝授されることである。
デンドロたちからもらった「刺激」は、チモシーの細胞の中にある無数のタンパク質リン酸化酵素をドミノ倒しのように次々に活性化して行き、ついには細胞核内の遺伝子をつついてその働きを始動させる。細胞の中にある種々のタンパク質は、リン酸化すなわちリン酸をくっ付けられることによって、動きが活発になるのだ。
こうして遺伝子が始動すると、チモシーたちヘルパーT細胞は、免疫ネットワークの運営に必要なサイトカインを産生したり、DNAを合成して分裂増殖を繰り返し自分の分身を増やしたりできるようになる。
「みんなちょっと元気がないみたいだね」
チモシーは、胸腺組織を構成している細胞たちに濃密に接触しながら語り掛けた。
「私たち胸腺組織の活動能力のピークは、宿主が二十才くらいになった年を境に徐々に落ちていくことを、あなたは知らないの?」
「そうだったね……」
チモシーは頷く。
「でも俺たちの宿主はまだ若い。君たち胸腺細胞も、老けるのはまだ早いだろう」
「老けてるんじゃないわよ。活動が衰えるだけよ」
「同じことじゃないか」
「失礼ね」
チモシーたちが住んでいるこの宿主の年齢は二十八才と、人間の中では若い方だ。しかし人間の胸腺組織は、成熟したころすなわち二十才前後を境に萎縮していく。
現在、チモシーの宿主の胸腺は、最盛期のころに比べて三分の二ほどに小さくなっていた。
「ところで、ここへはバイロンの襲撃は無かったか」
チモシーは、細胞膜からさらに複数の突起を伸ばし、胸腺細胞との情報交換を続けた。
「バイロン由来の抗原がいくつか流れて行ったわ。でも、バイロン感染細胞にはまだ出会っていないわ」
「ふむ……。抗原が流れて来たということは、やはりまだバイロンは、この宿主の身体のどこかに潜伏しているということだ」
胸腺細胞は首肯して返す。
「早く見つけ出して始末して頂戴。私たちも心配で眠れないわ」
そんなやり取りをしながら、チモシーはしばし胸腺組織の内部にとどまり、英気を養っていた。
バイロンとの戦いが真近かに迫っている。
そんな予感が、チモシーの核内のDNAを躍動させるのであった。
既述したように、胸腺は免疫機能の発達と維持に重要な器官であるが、個体の成熟期をピークに徐々に衰えていく。
男性の場合三十才を過ぎれば、胸腺は委縮してほとんど活動していない状態となる。それに伴って免疫機能も衰える。
一方女性の場合、やはり成熟期を境に胸腺機能は衰退していくが、その速度は男性に比べてずっと遅い。高齢になればなるほど、男性と女性の胸腺機能の差が広がって行く。
自己免疫疾患が思春期以降の女性に多いのは、免疫機能の衰えが遅いがために、かえって活動性をある程度維持した免疫系が自分自身を攻撃してしまうから、と考えられている。
ある種の自己免疫疾患は、性周期に合わせて悪化と緩解を繰り返す。この事実も、免疫と女性ホルモンとの間に何らかの関係があることを裏付けている。
一方男性は女性に比べて感染症や悪性腫瘍に罹患しやすく、また罹患後も女性に比べて悪化しやすい。この傾向は、女性に比べて男性の方が免疫機能が劣っているから、とも言える。
チモシーの宿主は三十才前の女性であり、免疫機能はまだ十分に維持されているはずであった。
しかし、バイロンのごときT細胞を標的とするウイルスは、チモシーのようなヘルパーT細胞にとりついて自己の増殖のためにこれを利用し、最後には殺してしまう。その結果ヘルパーT細胞の数が激減し、宿主は免疫不全に陥る。
宿主のどこかにバイロンが潜んでいるのをそのままにして放っておくと、いずれチモシーも彼らに取りつかれる運命にある。何としてでも、バイロンにやられる前に奴らを見つけ出し、これを撲滅せねばならない。
ふとチモシーは、からだの表面に心地よい刺激を感じた。
そういえば、かつて何回となくこの刺激を受けたことをチモシーは思い出した。
「これは力になる」
チモシーは、全身でその刺激を細胞の中に取り込んだ。
刺激の源は、女性ホルモンのエストロゲンであった。
宿主の性周期に合わせて、卵巣などの性腺組織からこのホルモンが大量に分泌され、全身を回って来る。
ヘルパーT細胞に及ぼすエストロゲンの作用は、科学的にはまだあまりよく知られていないのだが、チモシーはこの刺激を
「心地よい」
と感じていた。
女性の身体が妊娠可能な状態になると、免疫機能にも変化が訪れる。
これは妊娠中にも言えることである。女性は胎児をはらむと、身体中の神経・内分泌・免疫系にいろいろな変化が現れる。
胎児の遺伝子の半分は夫から来ており、妊婦にとってこれは生物学的に異物なので、夫の遺伝子産物に対して拒絶反応が働く。
拒絶反応は妊婦の免疫系が活性化されるために起こる反応であり、そのままでは妊婦の免疫で胎児が殺されてしまう。
しかし実際にそうならないのは、宿主の神経・内分泌・免疫系がネットワークを形成してバランスを取りながら、免疫反応をうまく調節しているからである。
また胎児と母体の間にあって、両者をつかず離れず取り持っている胎盤という組織は非常に巧妙にできている。
そのおかげで胎児は、母体から酸素や栄養分を自由に取り込める一方で、胎児にとっては恐ろしい存在の母体の免疫細胞からブロックされているのだ。
妊婦が妊娠中に感染症にかかっては母子ともに危険なので、妊娠中は病原微生物に対する免疫反応が非妊娠時より強化され、敵の侵入に備える。
性周期の妊娠可能な状態の期間や妊娠中のある時期に、卵巣や子宮から多量に放出されるエストロゲンは、種々の免疫細胞を「心地よく」刺激し、その機能を亢進させる。その結果、全身の感染免疫機能が向上するのだ。
このように女性は妊娠中、胎児に対する免疫反応を抑える一方で、病原微生物に対する免疫力は強化するという、相矛盾した免疫状態を保っている。しかしそのバランスは、見事なまでにうまく成り立っているのだ。
性周期において、月経を迎えても受精が成立しなければ、エストロゲン濃度はやがて正常に戻る。宿主体内においても、血液内のエストロゲン濃度が高い期間だけ、チモシーはいつもよりも元気になるのだ。
こうして血中を流れてきたエストロゲンによって活力をもらったチモシーは、意気揚々と胸腺を後にし、再び全身パトロールに出た。
そうしてチモシーが胸腺からリンパ管内に入ろうとしたときであった。
突然、チモシーの周りを無数の小さな粒子が取り巻いた。
各粒子の大きさはチモシーの百分の一以下だが、その数が半端ではない。
「バイロンだ!」
チモシーの体を構成するたくさんの分子が、一斉に叫んだ。
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