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第五章 復讐 4
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西東京医療大学の名高准教授は、八王子のマンションで変死を遂げた篠崎賢が現在行方不明のミステリー作家楢原豪乃介と同一人物であることを、八王子横山署の丸花警部補に連絡した。
そのことに気付いたのは、篠崎賢の尋ね人のポスターを見た同大学三年生の三条梨花の機転からであった。
丸花はこの通報を高く評価し、名高と三条梨花に直接謝礼の気持ちを伝えるために西東京医療大学を訪れた。どのような経緯で尋ね人の写真が楢原豪乃介と分かったのかも、丸花は二人から聞きたかった。
約束の日時に丸花が名高の准教授室に行ってみると、名高は実験の手を止めて丸花を待っていた。
名高准教授室は六畳間程度の広さで、意外と本が少ない。代わって実験器具やパソコン関係の備品、ディスポーザブルの手袋やマスクなどが壁際の棚の上に雑然と置かれていた。
「参考書や論文のコピーなどは電子媒体でPCに保存できるので、紙媒体では持たないことにしているんです。積読資料が増えるばかりですからね」
と、名高は自分が勉強嫌いなのを言い訳するように、笑いながら右手で後頭部をかいた。
テーブルの脇に、座り心地が悪そうな小さな脚立のような椅子があった。丸花にそれに掛けるよう差し示すと、名高は座り心地のよさそうな自分専用の肘かけ椅子にかけた。丸花がかけた椅子からは大きな尻がはみ出ていた。
「木村瀬里奈さんや三条梨花さんは、あいにくと今学生実習中でして。どうも今日の実習は忙しくて、途中で抜け出られないらしいんです」
「結構です。学業が大事。私の方が学生の皆さんにはアポもとらず、突然押しかけてきたようなものですから」
そう詫びると、丸花はまとまりのない准教授室内を改めて見渡していた。
やがて用件を思い出したように名高に目を向けると、まずは先日の尋ね人に関する決定的な情報を届けてくれたことに対して謝辞を述べた。
「おかげさまで、八王子マンションの男性変死事件の捜査に新たな進展がありそうです。情報の発信源となった三条さんと名高さんには、是非直接お会いしてお礼を申し述べなくてはと思っていました」
丸花は顔の奥に引っ込んだ眼をしょぼしょぼさせながら、名高に向かって丁寧に頭を下げた。
「いやいやそんな大げさなものでは」
名高はそう謙遜して、丸花の前で右手を素早く左右に振りながら、
「……と私が言うのも変ですが、丸花さんがお配りになったあのポスターを見て篠崎さんという方と作家の楢原さんが同一人物であることに気付いたのは、三年生の三条梨花でした」
すると丸花も笑顔でうなずく。
「三条さんには先生の方から是非よろしくとお伝えください」
「分かりました。彼女は、今日夕方には木村瀬里奈と一緒に私の教室に顔を出すと思いますので」
「ときに……」
丸花はそこで一呼吸置くと
「先生の教室では、何ですか精神に影響を及ぼすような薬物の作用を詳細にご研究なさっているとか」
唐突にそう話を持ち出され、名高はやや虚を突かれた。少し考えてから、名高は説明した。
「ええ。精神神経系に作用する薬物の種類は多々ありますが、それらが人間の中枢神経系に及ぼす薬理作用は意外と不明な部分が多いのです。
そういった薬物の作用を一つ一つ詳細に研究することで、究極的にはいまだに解明されていない我々の脳の機能的な働きまでをも表出させ明らかにしようというのが、私どもの研究テーマなのです」
丸花は一応うなずいたが、名高の専門的な説明は正直言ってよく分からなかった。
だが、彼が本当に考えていたことはその部分ではなかった。丸花はそれを思い切って訊ねた。
「先生。そういった精神機能に影響する薬物を服用した患者の血中や唾液中から、微量の薬物を検出できる方法はあるのでしょうか」
すると丸花が危惧していたこととは裏腹に、名高はあっさりとうなずいてみせた。
「もちろんです。精神神経系に作用する薬物は、その血中濃度の高低によって現れる薬理作用がまったく異なります。ですから、服用者の血中濃度を正確に測定することは、これらの薬物の作用を研究する上で必須事項なんです」
そこで丸花は勢いづくと、願い出た。
「それでは先生。大変ぶしつけなお願いなのですが、ある方のご遺体から採取した血液三ミリリットルを検体として、そこに薬物の存在を示す証拠がないかどうか調べていただけないでしょうか」
今日名高を訪問した丸花の本題はそこであった。名高は一瞬キョトンとした目をして丸花を見つめた。
「僕に、ご遺体の血液分析を?」
「ええ。ご多忙な先生にいきなりこんなことをお願いするのは、誠に心苦しいのですが」
丸花は姿勢を低くして懇願する。
「他にお願いできる人がいないのです」
「しかしそんな大事な分析を、僕ごときの准教授がやっていいものかどうか。例えば科捜研などに持って行かれた方がよろしいのでは」
名高の方がかえって恐縮していたが、丸花は態度を変えなかった。
「血液中の薬物成分はごく微量かもしれません。それに、どんな薬物が検出されるかも手掛かりがないのです。ここはこの分野の専門家の名高先生に頼るしかないと、今日は無理を承知でお願いに上がりました」
名高は黙ってやおら腕を組むと、宙を睨んだ。
現在八王子横山署の見解としては、篠崎賢の死因を事故死としている。従って、遺体から血液を採取したことは丸花の一存によっている。血液分析を科捜研に依頼することははばかられた。
しかし篠崎こと楢原豪乃介の事件の捜査は、もしかすると殺人事件に急転回するかもしれないと丸花は考えている。楢原が危険ドラッグなどを汎用していたとしたら、捜査の方向性はさらに大きく変わる可能性がある。
このように楢原の血液分析の情報は、今後の事件の展開に重大な影響を及ぼしかねなかった。
「何も検出されないかもしれませんし、検出できないかもしれませんよ。どんな分析法にも、検出限界値というものがありますので……」
名高は当たり前のことを思った通り正直に述べたが、言い終わらぬうちに丸花が口を挟んだ。
「むろん承知の上です。結果がどうあれ、名高先生には何の責任もありません」
丸花の視線は名高のそれにくぎ付けとなっている。
名高はとうとう折れた。
研究者になって以来この方、名高は警察の依頼を受けて遺体の血中薬物の分析を任されるとは思ってもみなかった。
薬物分析のスペシャリストとして、警察からの血中薬物分析依頼は進んで受諾したいところだ。だが引き受けた以上、失敗は許されない。名高はそう決意を固めた。
大学に勤めている者の立場として名高には学生への講義、ゼミナールの開催、学生実習指導、研究指導、学内外の会議への出席など多様な業務が山積している。加えて大学教員には、研究の遂行と論文発表、社会や地域への知的貢献、専門性をもった情報の提供なども期待されている。
このような多忙さから、名高はまずその日の大学業務をすべてやりこなした。そうした上で、学生が帰宅し人影まばらになった研究室で、丸花に依頼された血液試料分析に取りかかるのだった。
血清分離から抽出までが四十分、抽出したサンプルを高速液体クロマトグラフに注入して分離分析するまでが三十分、そして得られたデータを解析ソフトにかけ、ピークの同定と濃度計算を完了するまでが二十分。
研究室の壁にかけられた時計は、すでに午後十時を回っていた。
結果が出た。
それは名高にとっても驚くべき結果であった。
「結果が分かったら、何時になっても構いませんのですぐにご連絡ください」
と丸花に懇願されていた名高は、約束通り早速八王子横山署の丸花に電話連絡を入れた。
丸花は署にいた。
名高は、電話口で淡々と説明を続けた。名高から結果を聞きながら、丸花は電話の向こうで一人唸った。
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