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愛情深い人

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 どうか、どうかソウスケに戻ってきてほしい。私なんかより、たくさんの人たちに必要とされる存在だ。あんなに愛情深いんだから。

 情けなくも嗚咽まじりの声を、白い人は黙って聞いていた。

 音のない世界で、しばらく私の鼻を啜る音だけが響いていた。長く時間が経った後、突如目の前から笑い声が聞こえてきて、私は顔をあげる。

「ははは……! これはまた、神にこんなに説教を食らわせた人間とは初めて見ました……!」

 まるで普通の人間のように、白い人は目を線にして笑う。その優しい笑顔は、また違った神々しさを感じる。白い着物と髪が笑うたびに揺れた。

 怒られたりするかと覚悟していたので、まさかここで大笑いされると思っていなかった自分はぽかんとしてしまう。そんなに面白いところあった? 私真剣なんですけど。

 私は黙って、笑っている光景をみつめる。ひとしきり笑ったのち、彼は言う。

「威勢のいいこと。あなたのそういうところ、私も気に入っていたからあの日救ったのですが」

「え?」

「いいえ、なんでもありません」

 彼はふうと息を吐くと、再びしゃんと姿勢を正してこちらを見据えた。つい、私もぐっと気を張る。

 笑顔を消し、彼は言う。

「あなたの言うことは正しい。ですが、ソウスケに罰を与えないわけにはいかない。彼は今現在決められている掟を破ったのですから。彼を元の姿に戻すわけにはいかない」
 
 キッパリと断言されたことに絶望を覚える。笑顔を見ただけで、少し期待してしまっていた。

「そん、な……」

「それと一点。ソウスケが自身の存在を賭けてまで守ったあなたの命、簡単に差し出してはいけません。彼が悲しむだけですよ」

「でも……!」

 私が言いかけた瞬間、目の前がゆらりと揺れる。蜃気楼のように、白い人が揺らめいている。

 はっと慌てて彼に手を伸ばしたが、もうその姿を掴むことはできなかった。

「待って! 行かないで!」

「あなたに出来ることは一つ。彼がその存在をかけてまで救った命を大切にしなさい。それが彼の望むことです」

「待ってください!」

 ソウスケを助けるにはここしかチャンスがないのだ、あの人に交渉するしかないのに。

「行かないで、ソウスケを助けて!」

 微笑みながら私を見ていた彼は、次の瞬間ふっと消えた。まるで見ていたテレビの電源を切ったかのように、突然消えたのだ。

 耳に風のそよぐ音と葉が擦る音が届く。ああ、現実なのだと実感せずにはいられなかった。虚しく差し出した自分の右手だけが残っている。

……消えてしまった

 しばらくその場に立ち尽くした。皮肉なほどに空は青く、私の心と正反対の色をしていた。

「……ソウスケ」

 彼の顔が目に浮かぶ。いつだって失礼でデリカシーのないやつ。でも、困った時は絶対に私を助けてくれる人だった。

 一緒にいて居心地がよかった。気を張らなくて済む、不思議な人だった。

 最後に見えた彼の顔は、汗だくのまま笑っていた。私を安心させるために、笑っていたんだ。

「……ソウスケ」

 止まることを知らない涙は溢れ続けた。ぽたぽたと地面にシミを作り続ける。

 溢れる涙が、熱くなっている体が、苦しい呼吸が、

 全てが、あの人が助けてくれたこの命を表している。


『あなたに出来ることは一つ。彼がその存在をかけてまで救った命を大切にしなさい。それが彼の望むことです』



 私今、生きてる。生きてるよ、ソウスケ。

 でもこんな悲しみを抱きながら生きていくのは、あんまりにも辛い。ソウスケに酷いことをした罰だというのだろうか。

「会いたい」

 後悔してもしきれない。私はあまりに無力で、これほど自分を憎いと思ったことはなかった。ソウスケには何度も助けられたのに、私はあなたを救えないなんて。

 ゆっくりと振り返れば、朽ちてしまいそうな古い祠が目に入る。ここに毎日祈り続けていた事で、あなたとの不思議な生活が始まった。

 もっとお互い早く素直になれていれば。もっと早く自分の気持ちに気づいていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。

 いつでも隣にいると安心している存在こそが、失って最も悲しい者なのね。

 ただその祠を見つめながら涙を零し続けた。爽やかな風が吹いて私の髪を揺らす。ああ、あの人の黒髪も、いつも美しく風に靡いていたななんて、そんな映像だけが私の頭に残っていた。



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