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オフィスに潜む狂気
このぬくもりを知っている
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「あの女を苦しめないと気が済まないのよ!!」
あんな人間を庇うというのだろうか。私を散々苦しめて追い詰めたあんなクズを、傷つけるなと言うのだろうか。
私は見てみたい。あの女が嘆き苦しむ姿を。痛みに悶えながら許しを乞う姿をみたい。それだけが見たくて今の私は存在する。存在する理由なのだ。
殺したい
苦しめたい
痛がればいい
死んでしまえ
泣け 泣け
絶望に打ちひしがれろ
この世に生まれてきたことを後悔するほどに
持っているハサミを思い切り振り下ろした。素早く避けられてしまったことに舌打ちしながらも、こんな人に構っている暇はないのだと冷静に思う。
「いけない、光さん、しっかり!」
知らぬ名前を呼ぶ男を無視して出口へと向かう。それでもあきらめずそいつは私の腕を掴んで止めようとしてくる。それを力の限り暴れて振り払おうとした。ハサミだけは絶対に離してなるものかと強く握りしめる。この刃だけが頼りなのだ、一瞬であの女に苦痛を与えるには。
その光景だけを毎日夢みているのだから、ここで邪魔されるわけにはいかないというのに!
「光さん!」
資料室を飛び出したいのに、そんな声を聞いたときなぜか自分の足が踏みとどまった。知らない声を懐かしいと思う自分がいた。私の中に私じゃない人がいて、何かを必死に叫んでいる。
止まって。止まって。あなたはそんなことをしてはいけない。どうか落ち着いて。ちゃんと話を聞いて。
幻聴なのだろうか、私にだけ聞こえているような気がする。動かない足に苛立ちをおぼえた。その時、先程の男が私の持っているハサミを取り上げようと動く。
「! やめて!」
必死にそれを拒否して体をよじらせた。彼はキツくこちらを睨んできていた。
「伊藤さん、光さんを……」
男がそう声を出した瞬間、私の背後にある何かを見てハッとして止まった。その一瞬の隙をついて出口へ駆け出していく。かろうじて足は動いてくれた。
早く、早く、早く……!
資料室のドアノブに手をかけた時だった。
「のぞみ」
低くてそれでいて柔らかな、懐かしい音がした。
手が止まる。
それは「私の中の誰か」の仕業ではなくて、紛れもなく「私」の反応だった。
息をするのも忘れ、憎しみと怒りでいっぱいだった体が突然軽くなったように感じた。
ゆっくりと振り返ってみる。そこに立っていたのは、どこかの学生ぐらいに見える幼い顔立ちの青年だった。まるで知らない人なのだが、確かにあの声を発したのは彼だと確信した。
「…………え」
「のぞみ。ようやく聴こえるか?」
聞き間違えるわけのない声だ。子供の頃からずっとそれを聞いて育った。怒られた時も褒められた時もその声で私の名前を呼んだ。
混乱する頭の中、目の前の青年がぼやけてくる。自分の目がおかしくなったのだろうか、と不思議になった。陽炎のようにゆらゆらとゆらめく彼の姿が徐々に姿を変えていく。青年の中から誰かが出てくるような感覚だった。
「お、と、うさん?」
震える声がそう呼んだ。何千回、何万回と使った呼び名だ。子供の頃からずっと私と暮らしてきた人を見間違えるはずがない。
幼い頃に母を亡くし、男手一つで育ててくれた。仕事と苦手な家事をこなし、女性のような細かな気配りができない父とは何度も喧嘩した。
それでも、私が受験合格した時も就職成功した時も、誰より一番喜んでくれた人だった。
父は優しく笑っていた。
「のぞみ、やっと聞こえた」
「お父さん?」
「もう大丈夫、お前はそんなことしなくていいんだよ。手を汚す必要はない。辛いだろう、もう休むことを考えよう。ごめんな、父さん助けてあげられなくて」
そう言う父の目は真っ赤になっていた。お父さんが泣いているとこを見るのは、お母さんの葬式以来のことだった。
私の頬にも涙がつたる。
爆発しそうだった怒りの思いが浄化していく。憎しみは残っているけれど、それよりもお父さんと会えたことにほっと安心している自分がいた。
なぜ忘れていたんだろう。私、ずっとお父さんのこと忘れてた。
ただひたすら憎いあの人に仕返ししたくて、それだけを考えていた。ほんのこれっぽっちも、お父さんを思い出せなかったなんて。
頭の中に残っていたのはあの女に罵倒される言葉だけだった。辛くて苦しみながら会社に行く日々だけだった。電車に轢かれた瞬間感じた言葉にできないひどい痛みだけだった。
幸せの全てを忘れて、私は辛いものしか覚えていなかったんだ。
手に持っていたハサミが音を立てて床に落ちた。
「ごめん……お父さん、わす、れてて」
「いいよ」
「私、弱くて……本当は、もう、一度、頑張りたかったのに」
「いいよ」
「お父さん……ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。のぞみは何も悪いことをしてない。優しくて繊細で、父さんの自慢の娘だよ」
子供の頃からずっとそばにいた人を忘れていたなんて、私は一体何をしていたんだろう。苦しくて悲しくて憎くて、それでいっぱいになってしまっていた。でも、思えばいつもどこかで自分を呼ぶ声がしていた。
のぞみ、のぞみ、聞いて、って誰かが呼びかけてくれていた。
そんな声すら無視していたのは私だ。必要のない邪魔な声だと思い込んでいた。
それがまさか、お父さんだったなんて。
お父さんは私に近づいて頭に手を置いた。ついにその赤い目から涙がこぼれ落ちる。
「辛かったな、ごめんな」
「お父さんが謝ることない……!」
「辛いし悔しいだろう。でもこれ以上はお前自身が辛くなる。新しい道を歩んだ方がのぞみのためだ」
ゆっくりその腕が私を抱きしめた。お父さんに抱擁されるだなんて子供の時以来。なんだかお腹がふっくらしていて、『最近お腹出てきたじゃん』なんてからかったのを思い出して、こんな時だというのに少しだけ笑った。
そうだった、私、子供の頃よくこうやってお父さんと寝てた。お母さんが死んじゃってから悲しむ私を、寝るまでずっとこうやって温めてくれたんだ。
どこか懐かしい匂いに目を瞑る。盲目だった自分は今、ようやくちゃんと目を開けられた気がした。
私らしく、
また頑張れるだろうか。
「また、新しく、進めるのかな」
「大丈夫。のぞみだから。大丈夫」
「今度は楽しく歩いていけるかな」
「大丈夫。絶対に大丈夫だから」
「ほんとに? ほんとに大丈夫?」
「何年のぞみを近くで見てきたと思ってる。のぞみは優しくて素敵な人間だよ。間違いない、お父さんは嘘つかないよ」
優しい声にただただ涙が溢れた。諦めた幸せで平穏な時間を、次こそは手に入れたい。もう二度と間違えたくないよ。
「また、お父さんの子供に生まれたい」
ひどく眠気が襲ってくる。温かくて気持ちいいせいだ。私はかろうじてそう最後の一言を残すと、そのまま気持ちよく眠りについた。
あんな人間を庇うというのだろうか。私を散々苦しめて追い詰めたあんなクズを、傷つけるなと言うのだろうか。
私は見てみたい。あの女が嘆き苦しむ姿を。痛みに悶えながら許しを乞う姿をみたい。それだけが見たくて今の私は存在する。存在する理由なのだ。
殺したい
苦しめたい
痛がればいい
死んでしまえ
泣け 泣け
絶望に打ちひしがれろ
この世に生まれてきたことを後悔するほどに
持っているハサミを思い切り振り下ろした。素早く避けられてしまったことに舌打ちしながらも、こんな人に構っている暇はないのだと冷静に思う。
「いけない、光さん、しっかり!」
知らぬ名前を呼ぶ男を無視して出口へと向かう。それでもあきらめずそいつは私の腕を掴んで止めようとしてくる。それを力の限り暴れて振り払おうとした。ハサミだけは絶対に離してなるものかと強く握りしめる。この刃だけが頼りなのだ、一瞬であの女に苦痛を与えるには。
その光景だけを毎日夢みているのだから、ここで邪魔されるわけにはいかないというのに!
「光さん!」
資料室を飛び出したいのに、そんな声を聞いたときなぜか自分の足が踏みとどまった。知らない声を懐かしいと思う自分がいた。私の中に私じゃない人がいて、何かを必死に叫んでいる。
止まって。止まって。あなたはそんなことをしてはいけない。どうか落ち着いて。ちゃんと話を聞いて。
幻聴なのだろうか、私にだけ聞こえているような気がする。動かない足に苛立ちをおぼえた。その時、先程の男が私の持っているハサミを取り上げようと動く。
「! やめて!」
必死にそれを拒否して体をよじらせた。彼はキツくこちらを睨んできていた。
「伊藤さん、光さんを……」
男がそう声を出した瞬間、私の背後にある何かを見てハッとして止まった。その一瞬の隙をついて出口へ駆け出していく。かろうじて足は動いてくれた。
早く、早く、早く……!
資料室のドアノブに手をかけた時だった。
「のぞみ」
低くてそれでいて柔らかな、懐かしい音がした。
手が止まる。
それは「私の中の誰か」の仕業ではなくて、紛れもなく「私」の反応だった。
息をするのも忘れ、憎しみと怒りでいっぱいだった体が突然軽くなったように感じた。
ゆっくりと振り返ってみる。そこに立っていたのは、どこかの学生ぐらいに見える幼い顔立ちの青年だった。まるで知らない人なのだが、確かにあの声を発したのは彼だと確信した。
「…………え」
「のぞみ。ようやく聴こえるか?」
聞き間違えるわけのない声だ。子供の頃からずっとそれを聞いて育った。怒られた時も褒められた時もその声で私の名前を呼んだ。
混乱する頭の中、目の前の青年がぼやけてくる。自分の目がおかしくなったのだろうか、と不思議になった。陽炎のようにゆらゆらとゆらめく彼の姿が徐々に姿を変えていく。青年の中から誰かが出てくるような感覚だった。
「お、と、うさん?」
震える声がそう呼んだ。何千回、何万回と使った呼び名だ。子供の頃からずっと私と暮らしてきた人を見間違えるはずがない。
幼い頃に母を亡くし、男手一つで育ててくれた。仕事と苦手な家事をこなし、女性のような細かな気配りができない父とは何度も喧嘩した。
それでも、私が受験合格した時も就職成功した時も、誰より一番喜んでくれた人だった。
父は優しく笑っていた。
「のぞみ、やっと聞こえた」
「お父さん?」
「もう大丈夫、お前はそんなことしなくていいんだよ。手を汚す必要はない。辛いだろう、もう休むことを考えよう。ごめんな、父さん助けてあげられなくて」
そう言う父の目は真っ赤になっていた。お父さんが泣いているとこを見るのは、お母さんの葬式以来のことだった。
私の頬にも涙がつたる。
爆発しそうだった怒りの思いが浄化していく。憎しみは残っているけれど、それよりもお父さんと会えたことにほっと安心している自分がいた。
なぜ忘れていたんだろう。私、ずっとお父さんのこと忘れてた。
ただひたすら憎いあの人に仕返ししたくて、それだけを考えていた。ほんのこれっぽっちも、お父さんを思い出せなかったなんて。
頭の中に残っていたのはあの女に罵倒される言葉だけだった。辛くて苦しみながら会社に行く日々だけだった。電車に轢かれた瞬間感じた言葉にできないひどい痛みだけだった。
幸せの全てを忘れて、私は辛いものしか覚えていなかったんだ。
手に持っていたハサミが音を立てて床に落ちた。
「ごめん……お父さん、わす、れてて」
「いいよ」
「私、弱くて……本当は、もう、一度、頑張りたかったのに」
「いいよ」
「お父さん……ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。のぞみは何も悪いことをしてない。優しくて繊細で、父さんの自慢の娘だよ」
子供の頃からずっとそばにいた人を忘れていたなんて、私は一体何をしていたんだろう。苦しくて悲しくて憎くて、それでいっぱいになってしまっていた。でも、思えばいつもどこかで自分を呼ぶ声がしていた。
のぞみ、のぞみ、聞いて、って誰かが呼びかけてくれていた。
そんな声すら無視していたのは私だ。必要のない邪魔な声だと思い込んでいた。
それがまさか、お父さんだったなんて。
お父さんは私に近づいて頭に手を置いた。ついにその赤い目から涙がこぼれ落ちる。
「辛かったな、ごめんな」
「お父さんが謝ることない……!」
「辛いし悔しいだろう。でもこれ以上はお前自身が辛くなる。新しい道を歩んだ方がのぞみのためだ」
ゆっくりその腕が私を抱きしめた。お父さんに抱擁されるだなんて子供の時以来。なんだかお腹がふっくらしていて、『最近お腹出てきたじゃん』なんてからかったのを思い出して、こんな時だというのに少しだけ笑った。
そうだった、私、子供の頃よくこうやってお父さんと寝てた。お母さんが死んじゃってから悲しむ私を、寝るまでずっとこうやって温めてくれたんだ。
どこか懐かしい匂いに目を瞑る。盲目だった自分は今、ようやくちゃんと目を開けられた気がした。
私らしく、
また頑張れるだろうか。
「また、新しく、進めるのかな」
「大丈夫。のぞみだから。大丈夫」
「今度は楽しく歩いていけるかな」
「大丈夫。絶対に大丈夫だから」
「ほんとに? ほんとに大丈夫?」
「何年のぞみを近くで見てきたと思ってる。のぞみは優しくて素敵な人間だよ。間違いない、お父さんは嘘つかないよ」
優しい声にただただ涙が溢れた。諦めた幸せで平穏な時間を、次こそは手に入れたい。もう二度と間違えたくないよ。
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