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プロポーズ
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所帯持ちの男なんかと関係を持つものではない。
彼は「妻とはいずれ別れるつもりだ」とそう言った。僕はその言葉を信じて、この部屋でいい子で待っている。
けれど、本当は知っていた。いずれは、この先も訪れることはない。彼が、何も手放したくはない強欲で臆病な男であることは、僕が一番知っていた。社会的な地位も、普通の男であることも、美しい妻や愛らしい子供たちですら、彼の人生を彩る装飾品なのだろう。
彼にとって、僕は決まった曜日に、刹那的な快楽を分かち合うだけの存在でしかない。
それでも僕は、彼を不幸にしたいわけではない。日陰者の僕にとって、彼は唯一の心の拠り所に違いないのだから。この部屋にいる間は、彼は僕だけのものでいてくれるのだから。
されど、街が色めき立つ年の瀬は、ひどく僕の心をざわめかせる。恋人たちが肩を寄せ合う聖夜には、いつも僕は一人きりだった。
彼は、家族と共にシャンパンを空けて、ご馳走を食べて、ホールケーキを切り分けるのだろうか。子供達が寝静まれば、枕元にプレゼントなんかも置いて、その小さな頭を愛しそうに撫でるのかもしれない。
彼は知らないのだ。
クリスマスは、僕の誕生日でもあることを。
ベッドの中でうずくまって、早く時間が過ぎることだけを切望する。誕生日という日は、誰にとっても特別なものだ。僕にとっては、この一年に重ねた罪と、これから先に重ねる罪の重さに苛まれる日であった。
そんな僕の贖罪の夜に、訪ねてきたのは、彼女であった。
「ひどい顔ね」
玄関先に佇む彼女は、僕を見上げながら、そう言った。けれど、ひどい顔はお互い様。彼女の黒髪は雪で濡れ、目元は赤く腫れて、手には安物のホールケーキがあった。いつも朗らかな彼女とは、別人であった。
彼女の恋人は、女である。
僕が男しか愛せないように、彼女は女しか愛せない。そして、彼女もまた報われない恋に溺れる愚かな人間の一人であった。そう、クリスマスの夜に、僕を訪ねてくる程度には。
二人で肩を並べて、甘ったるいケーキを食べる。彼女の乳房は女にしては小さかったが、それでも身体はどこか柔らかい。化粧っ気のない厚い唇は潤んでみえた。
「結婚しよう?」
彼女は、無邪気な少女のように笑った。あまりにも愉しそうに笑うので、それもいいかもしれないと思った。僕を見上げる瞳は、憂いを帯びた黒曜石で、見つめていれば、魂さえも吸い込まれてしまいそう。
僕が女と結婚したら、彼は少しぐらい動揺して、未練たらしい言葉を吐くだろうか。少しだけでも後悔の涙を流したりするのだろうか。そんな薄暗い優越感を抱いてしまい、そんな自分にほんの少し怖くなる。
「僕たちの結婚は許されるのかな」
「どうかしら。でも、世の中の夫婦がみんな恋愛の末に結婚しているわけではないでしょう?」
ぽつりと溢した僕の不安に、彼女は理知的な言葉を紡いだ。
冬の冷たい風が窓を叩いた。肌寒いのか、彼女はそっと僕の肩に凭れかかる。それがどこか儚げで、彼女の丸びを帯びた肩を抱き寄せた。それでも、僕には彼女と唇を重ねたいとは思えない。
「子供はどうするんだ?」
「人工受精だっていいじゃない?」
彼女は自らの薄い腹を撫でた。彼女は男を知らない清らかな身体のまま、僕との子供を産む気でいるらしい。まるで聖母マリアのようで可笑しくなる。けれど、彼女の腹の底には、生々しい子宮が確かに存在する。腹の中に胎児を宿す女の身体は、まるで未知の生き物のように得たいが知れず、恐ろしい。
それでも、彼女は優しくて温かい女である。彼女は、誕生日の夜に、僕を一人になどしないだろう。
彼女の手に手を重ねて、腹を撫でる。小さくて細い指先は、守らなければならない幼児を連想させた。
「この子は幸せになれるのかな?」
「ええ、きっと」
彼女は、うっとりと夢見るように呟いた。
彼は「妻とはいずれ別れるつもりだ」とそう言った。僕はその言葉を信じて、この部屋でいい子で待っている。
けれど、本当は知っていた。いずれは、この先も訪れることはない。彼が、何も手放したくはない強欲で臆病な男であることは、僕が一番知っていた。社会的な地位も、普通の男であることも、美しい妻や愛らしい子供たちですら、彼の人生を彩る装飾品なのだろう。
彼にとって、僕は決まった曜日に、刹那的な快楽を分かち合うだけの存在でしかない。
それでも僕は、彼を不幸にしたいわけではない。日陰者の僕にとって、彼は唯一の心の拠り所に違いないのだから。この部屋にいる間は、彼は僕だけのものでいてくれるのだから。
されど、街が色めき立つ年の瀬は、ひどく僕の心をざわめかせる。恋人たちが肩を寄せ合う聖夜には、いつも僕は一人きりだった。
彼は、家族と共にシャンパンを空けて、ご馳走を食べて、ホールケーキを切り分けるのだろうか。子供達が寝静まれば、枕元にプレゼントなんかも置いて、その小さな頭を愛しそうに撫でるのかもしれない。
彼は知らないのだ。
クリスマスは、僕の誕生日でもあることを。
ベッドの中でうずくまって、早く時間が過ぎることだけを切望する。誕生日という日は、誰にとっても特別なものだ。僕にとっては、この一年に重ねた罪と、これから先に重ねる罪の重さに苛まれる日であった。
そんな僕の贖罪の夜に、訪ねてきたのは、彼女であった。
「ひどい顔ね」
玄関先に佇む彼女は、僕を見上げながら、そう言った。けれど、ひどい顔はお互い様。彼女の黒髪は雪で濡れ、目元は赤く腫れて、手には安物のホールケーキがあった。いつも朗らかな彼女とは、別人であった。
彼女の恋人は、女である。
僕が男しか愛せないように、彼女は女しか愛せない。そして、彼女もまた報われない恋に溺れる愚かな人間の一人であった。そう、クリスマスの夜に、僕を訪ねてくる程度には。
二人で肩を並べて、甘ったるいケーキを食べる。彼女の乳房は女にしては小さかったが、それでも身体はどこか柔らかい。化粧っ気のない厚い唇は潤んでみえた。
「結婚しよう?」
彼女は、無邪気な少女のように笑った。あまりにも愉しそうに笑うので、それもいいかもしれないと思った。僕を見上げる瞳は、憂いを帯びた黒曜石で、見つめていれば、魂さえも吸い込まれてしまいそう。
僕が女と結婚したら、彼は少しぐらい動揺して、未練たらしい言葉を吐くだろうか。少しだけでも後悔の涙を流したりするのだろうか。そんな薄暗い優越感を抱いてしまい、そんな自分にほんの少し怖くなる。
「僕たちの結婚は許されるのかな」
「どうかしら。でも、世の中の夫婦がみんな恋愛の末に結婚しているわけではないでしょう?」
ぽつりと溢した僕の不安に、彼女は理知的な言葉を紡いだ。
冬の冷たい風が窓を叩いた。肌寒いのか、彼女はそっと僕の肩に凭れかかる。それがどこか儚げで、彼女の丸びを帯びた肩を抱き寄せた。それでも、僕には彼女と唇を重ねたいとは思えない。
「子供はどうするんだ?」
「人工受精だっていいじゃない?」
彼女は自らの薄い腹を撫でた。彼女は男を知らない清らかな身体のまま、僕との子供を産む気でいるらしい。まるで聖母マリアのようで可笑しくなる。けれど、彼女の腹の底には、生々しい子宮が確かに存在する。腹の中に胎児を宿す女の身体は、まるで未知の生き物のように得たいが知れず、恐ろしい。
それでも、彼女は優しくて温かい女である。彼女は、誕生日の夜に、僕を一人になどしないだろう。
彼女の手に手を重ねて、腹を撫でる。小さくて細い指先は、守らなければならない幼児を連想させた。
「この子は幸せになれるのかな?」
「ええ、きっと」
彼女は、うっとりと夢見るように呟いた。
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