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ビリヤード
第132幕
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ポケットビリヤードで、定番のゲームと言えば、ナインボールが挙げられるだろう。手球を最小番号の的球に当てて、9番ボールを最終的にポケットしたプレイヤーが勝者となる。
正確なショットを打ち込むテクニックは当然必要であったが、ブレイクショットでポケットしても、ゲームの途中で偶然ポケットしても、とにか9番ボールをポケットすれば、勝者となりえる。そんな単純明快なルールと、運の要素を兼ね備えた奥深さが、多くのビリヤードプレイヤーに愛される所以であった。
そうして、今宵、若い狼たちも1セット限りのゲームに興じていた。
「俺のターンが来ないじゃないですか」
柳瀬はキューの先を弄びながら、唇を尖らせた。プレイヤーである神崎響のフォームは美しい。音を立てずに長い棒を滑らせる。白い手球が的球である8番ボールを弾けば、カンッと乾いた音が響いた。転がった的球は9番ボールを弾く。角度を変化させた8番ボールは吸い込まれるようにポケットに落ちていく。見事なキスインを決めると、響は振り返って、得意気に笑ってみせた。
「ブレイクショットは、柳瀬くんに譲ってやっただろ?」
「…………そうですけど、」
柳瀬は更に唇を尖らせる。確かにブレイクショットは譲ってもらったものの、柳瀬は二つ目のボールを落としたところで、ミスをした。そこからは、神崎響の独壇場であった。一度たりともミスすることなく連続でボールをポケットし続け、遂には9番ボールを残すのみである。ほんの僅かな力加減で、ボールの軌道は容易く変化するものであるが、神崎響のショットは精妙巧緻であった。柳瀬は勝機を逸していたが、それでも魔法のように自在にボールを転がす狼の姿は美しく、いつまでも見ていたくなる。
響は、キューで角度を計りながら、ボールの軌道をイメージする。導きだした勝利の道筋に、口角を持ち上げて、フォームを構えた。響は静かにキューを引いた。
「俺、神崎先輩と家族になれるのが楽しみです」
キューが手球を撞いた。カンッと乾いた音が響いて9番ボールが弾かれるも、クッションで跳ね返った軌道は僅かに逸れてテーブルの上を転がっていく。代わりにポケットに吸い込まれたのは白いボールの方であった。
「…………どういう意味だ?」
響は柳瀬の言葉に顔をあげる。
「俺のターンですね」
ビリヤード台に残ったボールに、柳瀬は顔を綻ばせた。大逆転の好機に胸が熱くなる。
「柳瀬くん……?」
柳瀬はリターンボックスから、白い球を掴むと、ボールの重さを確かめるように握り込んだ。
「神崎先輩は、俺の妹の詩織と婚約をされるのでしょう? 俺は先輩の義理の兄になるわけですよね。……先輩が俺の弟なんて、ちょっと変な感じがしますけど、」
「俺が君の妹と婚約だって?」
照れ臭そうにハニカミながら、柳瀬は白いボールを黄色ボールの隣に置いた。しかし、響は、彼の言葉の理解が追い付かない。柳瀬の妹君とは面識もなければ、彼に妹がいることすら知らなかったのだ。
「ええ、父からそのように聞いていますが」
柳瀬はフォームを構えた。
キューが白いボールを撞けば、9番ボールはポケットに落とし込まれる。バックスピンがかかった手球は柳瀬の方に戻るように転がった。
「俺の勝ちですね」
柳瀬は素直に喜んだ。対して、響は眉を曇らせた。いつの間にか勝敗は決していたのだ。どれほど素晴らしいテクニックで数多のボールを落としても、最後の一球を落とさなければ、無価値であった。
響は息を吐くと、ビリヤード台に腰を預けて、後輩の男の耳元で小さな声で尋ねた。
「それで、柳瀬くんは、俺に何をして欲しいんだ?」
「ぁ、えっと、……考えてなかったです」
柳瀬は驚いて振り返る。ふわりと広がった煙草の臭いと、至近距離で見上げる切れ長の瞳に、柳瀬は思わず一歩後退った。カァと赤面している男に、響は可笑しそうに笑いながら「なんだよ、それ」と軽く肘を小突いた。
「響、」
ビリヤード台を挟んだ向かい側から名を呼ばれて、視線を流した。そこには、白髪の交じりの紳士が怪訝な顔つきで佇んでいた。
「これは、優人さん。響とはお知り合いでしたか?」
「はい、響さんが高校に在学中の頃に、理学部でご一緒させていただき、大変良くしていただいておりました」
「そうでしたか。それは、それは、……こちらこそ、響と仲良くしていただいてありがとうございます」
柳瀬は慌てて襟を正すと、神崎響の実父に会釈した。神崎氏は、素直な好青年に薄く微笑んだ。
「父さん、話がある」
「そうだな。私も響と話をしたいと思っていたところだ」
響の顔から笑みは消え失せ、父を鋭く睨み付ける。そんな反抗的な視線を受け流すように、神崎氏は微笑んだ。響は小さく舌打ちすると、隣の男の耳元で小声で囁いた。
「柳瀬くん、賭けの話は考えておいてくれよ」
いつになく苛立ち露にする先輩に圧倒され、柳瀬は頷くことしかできなかった。
「それでは、我々は失礼しますね」
紳士がにこやかに会釈して、立ち去っていく。その背中を追うように、響は腰をあげて遊技場から離れていく。敬愛する先輩が高校を卒業してから、神崎響と顔を会わせる機会はなくなってしまった。だからこそ、今宵の、この瞬間が名残惜しい。それでも、実妹の詩織が、神崎響と婚姻を果たせば、親族として接する機会は増えるだろう。
柳瀬優人は遠くはない未来を期待しながら、響の背中にそっと手を振った。
正確なショットを打ち込むテクニックは当然必要であったが、ブレイクショットでポケットしても、ゲームの途中で偶然ポケットしても、とにか9番ボールをポケットすれば、勝者となりえる。そんな単純明快なルールと、運の要素を兼ね備えた奥深さが、多くのビリヤードプレイヤーに愛される所以であった。
そうして、今宵、若い狼たちも1セット限りのゲームに興じていた。
「俺のターンが来ないじゃないですか」
柳瀬はキューの先を弄びながら、唇を尖らせた。プレイヤーである神崎響のフォームは美しい。音を立てずに長い棒を滑らせる。白い手球が的球である8番ボールを弾けば、カンッと乾いた音が響いた。転がった的球は9番ボールを弾く。角度を変化させた8番ボールは吸い込まれるようにポケットに落ちていく。見事なキスインを決めると、響は振り返って、得意気に笑ってみせた。
「ブレイクショットは、柳瀬くんに譲ってやっただろ?」
「…………そうですけど、」
柳瀬は更に唇を尖らせる。確かにブレイクショットは譲ってもらったものの、柳瀬は二つ目のボールを落としたところで、ミスをした。そこからは、神崎響の独壇場であった。一度たりともミスすることなく連続でボールをポケットし続け、遂には9番ボールを残すのみである。ほんの僅かな力加減で、ボールの軌道は容易く変化するものであるが、神崎響のショットは精妙巧緻であった。柳瀬は勝機を逸していたが、それでも魔法のように自在にボールを転がす狼の姿は美しく、いつまでも見ていたくなる。
響は、キューで角度を計りながら、ボールの軌道をイメージする。導きだした勝利の道筋に、口角を持ち上げて、フォームを構えた。響は静かにキューを引いた。
「俺、神崎先輩と家族になれるのが楽しみです」
キューが手球を撞いた。カンッと乾いた音が響いて9番ボールが弾かれるも、クッションで跳ね返った軌道は僅かに逸れてテーブルの上を転がっていく。代わりにポケットに吸い込まれたのは白いボールの方であった。
「…………どういう意味だ?」
響は柳瀬の言葉に顔をあげる。
「俺のターンですね」
ビリヤード台に残ったボールに、柳瀬は顔を綻ばせた。大逆転の好機に胸が熱くなる。
「柳瀬くん……?」
柳瀬はリターンボックスから、白い球を掴むと、ボールの重さを確かめるように握り込んだ。
「神崎先輩は、俺の妹の詩織と婚約をされるのでしょう? 俺は先輩の義理の兄になるわけですよね。……先輩が俺の弟なんて、ちょっと変な感じがしますけど、」
「俺が君の妹と婚約だって?」
照れ臭そうにハニカミながら、柳瀬は白いボールを黄色ボールの隣に置いた。しかし、響は、彼の言葉の理解が追い付かない。柳瀬の妹君とは面識もなければ、彼に妹がいることすら知らなかったのだ。
「ええ、父からそのように聞いていますが」
柳瀬はフォームを構えた。
キューが白いボールを撞けば、9番ボールはポケットに落とし込まれる。バックスピンがかかった手球は柳瀬の方に戻るように転がった。
「俺の勝ちですね」
柳瀬は素直に喜んだ。対して、響は眉を曇らせた。いつの間にか勝敗は決していたのだ。どれほど素晴らしいテクニックで数多のボールを落としても、最後の一球を落とさなければ、無価値であった。
響は息を吐くと、ビリヤード台に腰を預けて、後輩の男の耳元で小さな声で尋ねた。
「それで、柳瀬くんは、俺に何をして欲しいんだ?」
「ぁ、えっと、……考えてなかったです」
柳瀬は驚いて振り返る。ふわりと広がった煙草の臭いと、至近距離で見上げる切れ長の瞳に、柳瀬は思わず一歩後退った。カァと赤面している男に、響は可笑しそうに笑いながら「なんだよ、それ」と軽く肘を小突いた。
「響、」
ビリヤード台を挟んだ向かい側から名を呼ばれて、視線を流した。そこには、白髪の交じりの紳士が怪訝な顔つきで佇んでいた。
「これは、優人さん。響とはお知り合いでしたか?」
「はい、響さんが高校に在学中の頃に、理学部でご一緒させていただき、大変良くしていただいておりました」
「そうでしたか。それは、それは、……こちらこそ、響と仲良くしていただいてありがとうございます」
柳瀬は慌てて襟を正すと、神崎響の実父に会釈した。神崎氏は、素直な好青年に薄く微笑んだ。
「父さん、話がある」
「そうだな。私も響と話をしたいと思っていたところだ」
響の顔から笑みは消え失せ、父を鋭く睨み付ける。そんな反抗的な視線を受け流すように、神崎氏は微笑んだ。響は小さく舌打ちすると、隣の男の耳元で小声で囁いた。
「柳瀬くん、賭けの話は考えておいてくれよ」
いつになく苛立ち露にする先輩に圧倒され、柳瀬は頷くことしかできなかった。
「それでは、我々は失礼しますね」
紳士がにこやかに会釈して、立ち去っていく。その背中を追うように、響は腰をあげて遊技場から離れていく。敬愛する先輩が高校を卒業してから、神崎響と顔を会わせる機会はなくなってしまった。だからこそ、今宵の、この瞬間が名残惜しい。それでも、実妹の詩織が、神崎響と婚姻を果たせば、親族として接する機会は増えるだろう。
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