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ビリヤード
第133幕
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豪奢な洋館から黒塗りの外国車が滑り出していく。後部座席には、壮年紳士と青年紳士が腰かけていた。言葉の一つもない車内では、ゆったりとしたピアノの音色だけが流れている。
ハンドルを握る運転手は、彼等の不穏な空気を少しでも和らげようと、音量を少しだけ大きくした。
神崎響は、車窓の向こう側で輝くネオンを眺めていた。眠ることのない近代的な街並みは、退廃的な活気さを醸し出し、往来する有象無象の人々は、妬ましいほど自由に見えた。
「柳瀬家のご令嬢と婚約とは、どういうことですか?」
息子の不快そうな口振りに、神崎氏は小さく咳払いをした。
「耳が早いな。まだ確定しているわけではないんだが」
響は窓越しに、父の横顔を眺めた。
「前々から縁談の話はあったんだ。柳瀬家のご令嬢は貴重なオメガということもあって、他からも引き合いがいくつか来ているらしい。柳瀬から、こちらの動きを探られてな」
アルファ性が多くを占める上流階級は、閉塞的で封建的な世界であった。いつまでも前時代的な世襲制度にしがみついている彼等を、響は鼻で嗤ってしまいそうになる。
「その麗しの詩織嬢とやらは、おいくつなんですか?」
「来月、十五歳になる」
響は、驚いて振り返った。
「まだ中学生じゃないですか、」
少女愛の趣向を持ち合わせていない響は、思わずの嫌悪の言葉を口にする。そうして、訪れた静寂は、車内に得も言われぬような空気を漂わせた。神崎家の現当主と次期当主の脳裏に過ったのは、神崎家の次男が十四歳の誕生日を迎えたばかりの春に、一匹の狼に花を散らされた事実であった。
僅かの間の後に、神崎氏は溜め息を溢した。
「名門の女学院では、幼少期から婚約している者も珍しくない。それに、神崎家の嫁に迎え入れるなら、それなりの家柄の娘でないとな」
神崎氏が「良家のオメガ」に拘るのは、神崎が医師の家系であることも理由の一つであったが、愛息子には「正式な番」が必要不可欠であると痛感させられたことが大きかった。
神崎氏は、息子たちに欺かれていたのだ。
神崎響は、実弟との番の契約を破棄してからは、「薫」の名前を口にすることもなく、かつての聡明で大人びた長男を演じ続けていた。
けれど、その仮面の下は、魔性のオメガに取り憑かれた愚かな狼であったのだ。両親を謀って、逢い引きを繰り返し、子を孕み、逃避行まで企てていた事実を無視することなどできはしない。「全てを捨てて、愛する者と二人で生きていく」など、ロマンス小説の中だけの夢物語である。そんな、戯れ言を本気で口にするなど、若者特有の青臭さのためか、それとも、アルファ性特有の万能感のためか。いずれにせよ、現実はそんなに甘いものではないのだ。ならば、子が、取り返しのつかない過ちを犯す前に、制止して正しい道に導いてやるのは、親の責務であろう。
「薫とは、いつ会わせていただけるんですか?」
響は忌々しそうに、父に吐き捨てた。この二ヶ月間、神崎響は大人しく父の言いつけを守り、聞き分けのよい息子であったはずである。
「来月、詩織嬢の誕生日に、顔合わせをセッティングしている。お前が彼女の前でお行儀よくできれば、薫と会わせてやろう」
「あはは、気を引けってことですか? 中学生を相手に」
響は冷ややかに笑ってみせた。神崎氏は、じっと響の瞳を覗き込む。
「お前ならできるだろ?」
父の瞳に、静かに赤みが射し込んでいく。神崎氏は、息子と交渉などする気はないのだ。これは冷徹な家長命令であった。
「薫に何かしたら許しませんから、」
精一杯の虚勢で、響は父を睨み付けた。
薫を人質にされている響には、最早、選択肢など、残されてはいなかった。
ハンドルを握る運転手は、彼等の不穏な空気を少しでも和らげようと、音量を少しだけ大きくした。
神崎響は、車窓の向こう側で輝くネオンを眺めていた。眠ることのない近代的な街並みは、退廃的な活気さを醸し出し、往来する有象無象の人々は、妬ましいほど自由に見えた。
「柳瀬家のご令嬢と婚約とは、どういうことですか?」
息子の不快そうな口振りに、神崎氏は小さく咳払いをした。
「耳が早いな。まだ確定しているわけではないんだが」
響は窓越しに、父の横顔を眺めた。
「前々から縁談の話はあったんだ。柳瀬家のご令嬢は貴重なオメガということもあって、他からも引き合いがいくつか来ているらしい。柳瀬から、こちらの動きを探られてな」
アルファ性が多くを占める上流階級は、閉塞的で封建的な世界であった。いつまでも前時代的な世襲制度にしがみついている彼等を、響は鼻で嗤ってしまいそうになる。
「その麗しの詩織嬢とやらは、おいくつなんですか?」
「来月、十五歳になる」
響は、驚いて振り返った。
「まだ中学生じゃないですか、」
少女愛の趣向を持ち合わせていない響は、思わずの嫌悪の言葉を口にする。そうして、訪れた静寂は、車内に得も言われぬような空気を漂わせた。神崎家の現当主と次期当主の脳裏に過ったのは、神崎家の次男が十四歳の誕生日を迎えたばかりの春に、一匹の狼に花を散らされた事実であった。
僅かの間の後に、神崎氏は溜め息を溢した。
「名門の女学院では、幼少期から婚約している者も珍しくない。それに、神崎家の嫁に迎え入れるなら、それなりの家柄の娘でないとな」
神崎氏が「良家のオメガ」に拘るのは、神崎が医師の家系であることも理由の一つであったが、愛息子には「正式な番」が必要不可欠であると痛感させられたことが大きかった。
神崎氏は、息子たちに欺かれていたのだ。
神崎響は、実弟との番の契約を破棄してからは、「薫」の名前を口にすることもなく、かつての聡明で大人びた長男を演じ続けていた。
けれど、その仮面の下は、魔性のオメガに取り憑かれた愚かな狼であったのだ。両親を謀って、逢い引きを繰り返し、子を孕み、逃避行まで企てていた事実を無視することなどできはしない。「全てを捨てて、愛する者と二人で生きていく」など、ロマンス小説の中だけの夢物語である。そんな、戯れ言を本気で口にするなど、若者特有の青臭さのためか、それとも、アルファ性特有の万能感のためか。いずれにせよ、現実はそんなに甘いものではないのだ。ならば、子が、取り返しのつかない過ちを犯す前に、制止して正しい道に導いてやるのは、親の責務であろう。
「薫とは、いつ会わせていただけるんですか?」
響は忌々しそうに、父に吐き捨てた。この二ヶ月間、神崎響は大人しく父の言いつけを守り、聞き分けのよい息子であったはずである。
「来月、詩織嬢の誕生日に、顔合わせをセッティングしている。お前が彼女の前でお行儀よくできれば、薫と会わせてやろう」
「あはは、気を引けってことですか? 中学生を相手に」
響は冷ややかに笑ってみせた。神崎氏は、じっと響の瞳を覗き込む。
「お前ならできるだろ?」
父の瞳に、静かに赤みが射し込んでいく。神崎氏は、息子と交渉などする気はないのだ。これは冷徹な家長命令であった。
「薫に何かしたら許しませんから、」
精一杯の虚勢で、響は父を睨み付けた。
薫を人質にされている響には、最早、選択肢など、残されてはいなかった。
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