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第17話
しおりを挟む- Kana -
全ての人間は、等しく年を取る。
初生児から幼児に、幼児から子どもに、子どもから大人へ、大人は時を経てやがて老人と呼ばれるようになる。そして死にたどり着く。
成長と衰退。
人間の一生は心体の変化の軌跡とともにある。
わたしは。
違った。
生まれたわたしが誕生の瞬間に感じたのは、まるで誰かの生を途中から引き継いだような、空っぽの体に用意済みの心を放り込まれたような、激しい違和感。
わたしは日本語を理解し、最初から自我を有していた。
しかし、何も思い出せなかった。
目の前にいた男に尋ねた。
『わたしはだれ?』
男は答えた。
「君は……私が創りあげたアンドロイドだ」
『わたしは、にんげんです』
反射的に出た言葉──本能が男の言ったことを否定した。
「よく自分自身を見てみるといい。そんな姿で君は人間だと言うのか?」
首を動かすことができなかったので、瞳を動かす。
男の背後に、長細い台があった。
台の上に裸の女性の胴体部分が寝かされていて、作り物の両腕と両足が、糸のように細い無数のケーブルの束と一緒にぶら下がっていた。
体の頭部は見当たらない。
色のついた数え切れないほどの糸が、わたしに向かって伸びている。
わたしに向かって……。
「右手の指を動かしてみてくれ」
『……』
ぶら下がっている手の指が反応する。
わたしは、わたしの知識の中にある人間とは、かけ離れていた。
「君は私が創った」
『……』
やはり思い出せない。
思い出そうとすればするほど、空っぽの引き出しを探っているような、虚しい気分が膨らんでいく。
わたしには過去がなかった。
しかし、それでいて思考力が身についているので、戸惑い、混乱した。
記憶喪失とは根本的に異なる。
記憶喪失は、情報が入っている引き出しの場所、リンク先へと続く道を一時的または恒久的に消失してしまうというものだ。
脳の物理的な損傷が原因でなければ、記憶そのものが消えることはない。
ふとした瞬間、道が繋がることもある。
情報の出口のひとつを閉ざされても、蓄積された記憶は、知覚できないレベルで、心体を統制しているので、生活に支障をきたすことはない。
ただ、思い出せないだけだ。
わたしの場合は、引き出しの中に、何も入っていなかった。
人間は行住坐臥、絶えず想起している。あらゆる行動に対して、過去の経験をもとに状況の把握と判断が繰り返される。意識して、あるいは意識下で、過去に頼りながら生きている。
未来と現在の土台として積み重ねた過去がある。
では、それがない者は、どうやって今を認識するのだろう。
『今』は『今』だけでは成り立たない。
たまらなく不安になる。
未熟な言語能力と幼い自我、成長しない機械の体、過去を持たないことの恐怖、空白を塗り潰してくる情報の濁流、全身を襲う痛み……。
「気分はどうだ?」
『いたい……です』
Imprinthing(インプリンティング)という言葉がある。
生まれたばかりの動物の子が、最初に接した動物を親と見なして依存するという習性──刷り込み。そのときのわたしは、まさにそれだった。
もしも人間の新生児が自分の力で歩くことができたなら、他の動物と同じように、最初に見た動物を親と見なして依存するようになると、わたしは思う。
わたしは。
目の前の男にすがるしかなかった。
過去を持たないわたしが、今を認識するためには、そして生きるためには絶対に他者の力が必要だった。
「他には?」
『……ねむいです』
「そうか」
男の表情が柔らかくなる。
「好きなだけ眠るといい。おやすみ、カナ」
あの日から、何年経ったのだろう。
わたしは、幾度も体を作り直され、その度に、気を失うほどの痛みに耐えなければならなかった。
わたしのためだと言った男のことを信じ、何もかもを受け入れた。
耐える日々が続く。
とても苦しい毎日だったけれど、わたしの心は、体に追いつこうと、急速に成長していった。
わたしが容姿相応の知識と知恵を得たころ、男は病に侵された。
以来、男は、少しずつ話してくれるようになった。
生まれたばかりのわたしが日本語を話せた理由や、わたしが彼の妹の細胞から創られ、一卵性双生児と同じような存在であること、未だ不完全な機械の体のこと。
わたしは、誰なのだろう。
疑問の答えが明らかになっていく。
わたしは、今の自分が到底人間とは呼べないものであり、どんな手段を用いても人間として生きることはできないことを知った。
それでも。
わたしは、生きている。
生きてここにいる。
すべての命には意味がある、だから、こんなわたしにだって、どこかに居場所があるのだと、思いたかった。
男の容態が日増しに悪くなり、わたしは1人になった後のことを考えはじめた。
記憶を辿る。
暗闇を照らす、わずかな光が見えた。
いつか見た国営放送……家族でもない行方不明の女の子のために、2年間も探し続けているという少年の声を思い出した。
女の子を探しています。名前は──
声を張り上げ、
右目の下に小さなホクロが──
一生懸命に訴えかける少年。
お願いします。どんな些細なことでも構いません──
彼は、今も変わらず、女の子を捜しているのだろうか。
……までご連絡ください──
彼であれば、わたしを受け入れてくれるだろうか。
わたしは、人間ではなくなってしまったけれど、人間の心を持っている。
もしもこの世界に、神さまの悪戯で、ヒトの心を持って人間以外の生命が生まれてしまったとしたら、それは人間と呼べるのだろうか。
◇ ◆ ◇
- Susumu Itsuki -
──創ってよ。
──父さん、ハカナを創って。
俺は親父にハカナを創ってくれと頼んだ。
確か、ハカナの葬式が終わってから1年も経っていなかった頃だと思う。
たったそれだけの月日で、ハカナを失った悲しみは和らいでいた。
でも俺は。
そのまま悲しみが薄れていき、ハカナのことが思い出に変わっていくことが、許せなかった。
いつかハカナのことを忘れて、名前すら思い出せなくなるかもしれない。それが恐ろしかった。
ハカナはいなくなってしまったけれど。生きていた。その証をいつまでも残したかった。
『創ってよ。父さん、ハカナを創って』
きっと、親父が創るハカナの像は今にも動き出しそうな程そっくりで、それがあれば、いつまでも俺はハカナを忘れない。
素晴らしいアイデアに思えた。
俺は親父に懇願した。ハカナを創ってくれと。
半年後──
石膏で創られたハカナの像が完成した。
だが、俺が親父のアトリエで見たのは、バケモノだった。
ハカナの皮を剥いで、ハカナに成り済ましている、薄気味悪いバケモノ。
頭の中に映像が飛び込んでくる。
黒い影のバケモノが、ハカナを森の中に誘い込み、残忍に殺し、鋭い爪で皮を剥いでいく様子が……まるで俺がその現場に居合わせているような、リアリティのある情景として脳裏に焼きつく。
憎しみの感情が一気に膨れ上がる。
こいつが!
こいつがハカナを殺しやがったんだ!
石膏像が笑う。
俺は、我を忘れて、そいつを抱え上げ、床に落として壊した。親父にぶん殴られたが、そんなことはお構いなしに、欠片さえ残らないように、両足で踏み潰し、床に転がっていた工具で粉々になるまで砕いた。
親父は立ち尽くしていた。
半年かけて創ったそれを壊されたことよりも、俺の行動に驚きを感じているように思えた。
その日を境に親父は創作活動を休止した。
数年して、親父が活動を再開したときには、以前のような精巧な作品ではなくなっていた。
何年も積み重ねて、やっと認められるようになった親父の芸術を、俺がハカナの像と一緒に粉々にしたんだ。
ハカナの像を通して見た映像は、印象強く記憶に残っている。
だが俺は、単にハカナが死んだことを、何かのせいにしたかっただけなのかもしれない。
自分のせいにできなかったのは、人の死というものの大きさに、ガキだった俺が釣り合わなかったからだ。
バケモノは幼さが作り出した幻だったのだと思う。
親父が創った石膏像は完璧すぎた。
あれは、ハカナだった。
作り物なんかじゃなくて、心を失って動くことができなくなった、ハカナそのものだった。
だから。
見ていられなかった。
あれを目の前から消すためには、理由が必要だった。俺は理由を、虚像を、創りあげた。そして破壊した。
心の無い姿で生まれ変わったハカナ。
俺は、ハカナに2度目の死を、与えてしまったのだろうか。
もしもこの世界に、人間の姿を持っていながら、心を持たない存在があるとしたら、それは人間と呼べるのだろうか。
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