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第18話
しおりを挟む雨粒が傘を打つ。
昨晩から全国的に雨が降り続いている。
不揃いな濃淡のグレーの雲が重なり合い、それぞれ違った速度で流れていた。
降水確率100%。
明日の昼まで止まないらしい。
「田舎だな」
電車を4回乗り継いで降りた駅は、無人駅だった。一本の線路が左右一直線に果てしなく伸びている。
駅のホームに屋根がないので、電車から降りるのと同時に傘を差す。
「これはどうするのかしら」
母さんがあたりを見渡しながら切符を持て余している。
「その箱に入れるのだろう」
親父はそう言うと、駅の出入口に置いてある郵便ポストに似た箱に、持っていた切符を放り込む。
「随分いい加減だな」
「都会を離れればどこもこんなものだ」
「ここはその中でもかなり末期的だと思うけどな」
駅を出ると、ロータリーらしきものがあったけれど、タクシー乗り場もなければ、バス停もない。
そもそも人間がいない。
ロータリーを挟んだ向こう側にタバコ屋が一軒あって、シワだらけの婆さんが目を細めてこちらを眺めている。
他に人の姿はない。
婆さんは身動きひとつしないので、置物か何かじゃないかと疑いたくなる。
「ここで待ってれば、車で迎えが来るって言ってたんだけど……」
雨宿りをする場所もない。
周囲を眺めても、畑と田んぼと山々と民家がちらほらあるだけで、特に注目を引くものはなかった。
「海の匂いがするわ」
母さんはそう言うが、俺にはわからない。
「進、連絡先は聞いてないのか」
「聞いてあるけど、かなり前からスマホの電波は入らないし。電話ボックスもないだろ……あ、タバコ屋で借りればいいのか」
歩き出そうとしたとき、1台の車がやってきた。
「伊月せんぱーーーいっ!」
雨などお構いなしで窓から顔を出して、椎奈が手を振っていた。
車が俺たちの前で止まる。
「ようこそいらっしゃいました」
運転手席からスーツを着た白髪混じりの痩せた男が降り、礼儀正しく頭を下げる。助手席から出てきた椎奈が一緒になってお辞儀をしてくる。
「今日はお招きくださり、ありがとうございます」
親父と母さんに椎奈のことを紹介すると、椎奈はスーツの男のほうを見ながら『運転手の三崎さんです』と説明してくれた。
運転手……。
詮索はしないことにする。
「お荷物はこちらに」
開けられたトランクの中に手荷物を入れてから後部座席に乗り込むと、車はロータリーを一回りしてから来た道を引き返した。
「言っちゃ悪いけど、ずいぶんな田舎だなー」
どこまでも同じ景色が続いている。
「この付近は特に過疎化が進んでいるんです」
と、椎奈。
「右手の山を越えれば海が見えてきます。港の周辺はここより遥かに発展しております。私たちにとっては、自動車や連絡船のほうが便利なので、鉄道を利用する人はとても少ないのです」
そう三崎さんが言ったように、山を越えると港を中心として町が広がっていて、駅周辺とは比べ物にならないほど賑わっていた。
「そろそろ到着します」
てっきり何十メートルも続く石塀に囲まれた、大きな屋敷にでも連れて行かれるものだと覚悟していたのだが、そうじゃなかった。
そこは目的の墓地だった。
車が止まり、俺たちは外に出る。
母さんがトランクの中から線香と花束を持ってきた。
「申し訳ありません。長い時間かけて来られてお疲れでしょうからお屋敷で一休みして頂いてからと思っていたのですが、少々事情がありまして……」
三崎さんが済まなそうに頭を下げる。
「どうか、気になさらないで下さい。私たちはこうしてこの場所を訪れることができたことに感謝しております」
母さんの言葉に、俺と親父は頷く。
「すみません、伊月先輩」
「だ、か、ら。感謝してるって言ってるだろ。俺たちは、観光で来たんじゃないんだから」
ハカナの墓参りにやってきただけだ。
「……はい。では、ご案内します」
**********
依然として雨脚は衰えない。
椎奈の後をついていくと、俺の身長を超える高さの墓石が立ち並んでいた。
「こちらです。ハカナとその母親のお墓です」
黒い墓石。
確かに、ハカナの苗字が彫られている。
俺たち家族は無言で線香に火をつけ、備え付けの線香皿に置く。
それぞれ順番で傘を持って、手を合わせる。
幾筋もの白い煙が、雨に打たれながらも、天に昇ってく。
「……」
街の喧騒から離れ、雨天でも大海原を臨む景色は美しく、傍にはハカナの大好きだった母親がいる。
ここなら。
寂しくないだろう。
日常を繰り返していく中で埋もれてしまった記憶の数々が、目を覚ましはじめる。
しかし、悲しみよりも安堵感が勝っていた。
「片瀬さん、本当にありがとうございます」
親父が墓石に向かいながら言う。
「お礼を言うのは私のほうです。私は、迷子になったハカナが、あなた方に巡り会うことができたことを、奇跡に近い幸運だったと思っています。ハカナは、ずっとここで、みなさんのことを待っていました。あの子の人生は短かったかもしれません。子どもにはつらいことが多すぎました。でも、それでも、最後に幸せな毎日を送ることができました」
図書室での椎奈とは違う。
今日の椎奈は、やけに大人びて見えた。
「あなた方に出会うことができたからです」
その言葉に、母さんが嗚咽を漏らす。
ハカナの姉である椎奈の言葉は、他の誰の言葉よりも胸に響く。
「俺たちもハカナに会えて良かったって思ってる。本当に」
「三崎さん、あれを持ってきてください」
椎奈が言うと、三崎さんは墓地を出ていき、間もなく一枚の丸まった紙を手にして戻ってきた。
三崎さんは紙を椎奈に渡し、椎奈が濡れないように傘をさす。
「これを受け取ってくださいませんか」
椎奈は一枚の画用紙を広げ、俺たちに向かって見せる。
絵だった。
クレヨンで描かれた、いかにも子どもが描きそうな、画用紙一杯に大きな顔が並んでいる絵。
4つの顔は、みんな微笑んでいる。
「私が最初この絵を見つけたとき、ハカナが私と両親を描いたものだと思ったのですが、そうではありませんでした」
俺たち家族とハカナ自身を描いたものだということは、見た瞬間にわかった。
でもハカナのために流せる涙はとっくに枯れてしまっている。
絵を見て、心が揺さぶられはしたけれど、それ以上の感情は湧いてこない。
「この絵は、ハカナがあなた方の元を離れてから描いたものです」
ハカナは親戚らしき男に引き取られ、その4日後にいなくなった。その間に描いたものか……。
「伊月先輩、どうか受け取ってください」
濡れてしまわないように絵を受け取る。
「ありがとう、椎奈」
「裏を見てください。あの子からの最後のメッセージです」
画用紙の裏。
黒いクレヨンで、へたくそな字で、ありがとうと書いてあった。
「……」
10年越しで届けられたハカナからの言葉──
当時のハカナが当時の俺たちに向けて書いたものなのに。
それは、天国からの、ハカナがいなくなってから俺たち家族が行ってきた、すべてのことに対しての、感謝の言葉に思えた。
「この絵のように、いつまでも笑顔で満たされた、ハカナが愛した家族でいてください」
「うちは親父が変なことを除けば、ごく普通の家庭だ。ハカナに特別なことをしてやれたわけじゃない」
「その『普通』の環境は、すべての子どもに与えられるわけではないです」
椎奈は視線を地面に落とす。
「私たちのお母さんは、ハカナを産んでから体を悪くして、亡くなるまで病院のベッドの上でした。お父さんは仕事の関係で海外出張をすることが多くて、私たち姉妹は、別々の親戚の家に預けられました」
椎奈は沈黙する。
俺から目を背け、墓石を眺めながら話を続ける。
「ハカナはそこで虐待を受けました」
また話が止まる。
俺たち家族は、黙って次の言葉を待つ。
「あの子は私にさえあまり話してくれませんでしたけど、それはあの子の体を見れば誰でもわかるほど酷いものでした。あなた方には到底想像できないことなのかもしれませんが、無力な、本来であれば大人が守るべき子どもたちを徹底的に傷つけることができる、そんな大人たちがこの世の中にはいるんです」
雨音が遠ざかっていく。
ハカナの絵をもう一度見る。
親父と母さんとハカナと俺、4つの顔が幸せそうに笑っている。
伊月家は、あの時期、誰が見ても4人家族だった。
裏返して大きな5つの文字を見つめる。
《ありがとう》
ありがとう、お兄ちゃん。
忘れていたハカナの声が聞こえる。
その無邪気な声に、涙腺が緩む。
こぼれ落ちる前に涙を拭い、俺は再び、ハカナの墓に手を合わせた。
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