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第19話

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 駅のホームまで椎奈しいなが見送りに来てくれた。無人駅なので入場券も必要ない。
 雨はまだ降り続いている。
 しかし、雨脚はだいぶ弱まり、水たまりに落ちた雨粒が跳ねることもない。

 電車を待つ間、ハカナとの思い出を話してくれる椎奈しいなの幸せそうな声を、黙って聞いていた。

 親父と母さんは、その話を聞きながら、笑いあっている。

 約20分後──

 ようやく電車がやって来た。

「この電車は、時間調整のために10分ほど停車します。その間に先輩にお話があります」

 椎奈しいながそう切り出したのは、親父と母さんが電車に乗り込み、俺と2人きりになった直後だった。

「なんだ?」

「以前、私がお薦めしました、アルビノという絵本のことです」

「ああ。ぬいぐるみの話だろ。黒猫になれなかったぬいぐるみの話。でも、絵本なのにあんなストーリー……散々な目にあって、焼かれちまうなんて、救いがねーぞ」

「先輩はあの物語の不幸はどこにあると思いましたか?」

「他のぬいぐるみと同じ黒猫になれなかったことと、何度も捨てられたこと、汚れて黒いぬいぐるみになって、そんなことに喜んで、その矢先に焼かれたところとか。まあ、ひとつのぬいぐるみを一生大事にするやつなんて少ないだろうから、何人かの手に渡れたのは、幸せだったのかもしれないけどな」

「アルビノはとても不思議な絵本なんです」

 椎奈しいなは続ける。

「あの物語を薦めた人には、続きを語る義務があります」

「続き?」

「いったい誰がはじめたのか、それはわかりません。それはすでに、著者の意思を離れているのかもしれません。私もなぎ先輩から教えられました」

 椎奈しいなは、何を言っているのだろう。
 見当がつかなかった。

「アルビノに出てくる、ぬいぐるみの一番の不幸──それは、人間の心を持って生まれてきてしまったことです」

「人間……って、ちょっと待て。絵本なんだから、ぬいぐるみに感情があっても不思議じゃねーだろ」

「はい。絵本の中では、動物と話をしたり、玩具が意思を持ったりすることは不思議ではありません。しかしアルビノのぬいぐるみの主語は『あなた』です。読者自身。つまりは、人間です」

「確かに変な書き方だとは思ったけど……」

 物語の文頭を思い出してみる。



《エルという町に、ぬいぐるみを作る工場がありました》
《あなたはそこで生まれました》
《工場で事故がおきました》
《あなたは、黒猫として生まれたのに、白い猫になってしまいました》



「アルビノは、人の心を持って生まれてしまった、ぬいぐるみの物語です」

 再度、椎奈しいなが言う。
 人間の心を持って、生まれてしまった……。

 そういえば、俺は絵本を読み終えて、絵本に出てくる猫のぬいぐるみとカナの境遇が、似ていると思った。

 黒猫になれなかった白い猫のぬいぐるみ、人間にはなれないアンドロイド。

「人の心を持って生まれたのに、体はぬいぐるみで。人間の言葉を理解できるのに、話すことはできなくて。そして、そのことに疑問すら抱かない。ただ、本来そうなるはずだったと思い込んでいる、黒い猫になることを純粋に願う……とても悲しいことだと思いませんか」

 生を受けた日、皆と同じ生を受けられなかった。
 その理不尽な運命が、持ち主に愛されるというぬいぐるみとしての役割を2番目にさせてしまった。

 だから哀しいんだ。
 俺は、漠然とそんな風に感じていた。

 でも、そうじゃなくて、ぬいぐるみとカナは似ているのではなくて、まったく同じ……どちらも、人間の体を持たず、人間の心を持って生まれてしまった。

伊月いつき先輩は、アルビノという言葉の意味を知っていますか?」

「いや」

「突然変異や遺伝により生まれてくる白い生き物──白蛇や白いカメ、全身真っ白で赤目のインコとか……そういった、色素欠乏症の生き物のことです。私たち人間や動物に色があるのは、細胞の中にメラニン色素を持っているからです。ごく稀に、そのメラニン色素が極端に少ないか、まったくない個体が生まれてくることがあります」

「……」

「それがアルビノです」

「……どうして高校生がそんなこと知ってるんだ?」

「一般常識です」

 と言って、微笑む。

 ……絶対に違う。

 クラスのやつら全員に聞いても、誰もここまで知らないと思う。

「で。椎奈しいなが伝えたいことってのは何だ?」

「先ほども言いましたが、絵本の続きです。アルビノには、最後に、救いの言葉が残されています。薦めた人が絵本を読み終えた人に、聞かせてあげることになっています」



《とても寒い日でした》
《おとなは、あなたのことを火の中に投げ入れました》
《あなたは、いなくなりました》



「これからお話しすることは、絵本のどこにも書いてありません。私も人づてに聞きました。著者は関与していないのかもしれません。一体いつから、誰が考えたのか、もしかしたら、悲しいラストに対する読者の願いが生んだものなのかもしれません」

「……」

「では、お話します。たった5行の、希望の言葉です」


**********


 俺たち家族が自宅に着いたのは、23時を回ったころだった。

「疲れた……」

 夕飯は途中で食べてきたので、あとは風呂に入って寝るだけだ。

 いろいろあった。

 とりあえず、そのことは全部忘れて、ゆっくり寝て、考えるのは起きてからにしたかった。

「すぐにお風呂沸かしますね」

「今夜はシャワーでいいだろう」

「異議なし」

 珍しく俺も親父に同調する。

「では着替えを用意しますから、あなたから先に入ってください」

 親父は頷き、風呂場に向かった。
 俺は居間の椅子に座って一息つく。テーブルの上にある紙──母さんが書いた、出かけてきますというカナへの伝言を見つめる。

「……」

 紙を丸めてゴミ箱に投げる。
 ぽす、という音を立てて、紙屑はゴミ箱の中に消えた。

 テレビの電源を入れ、ぼんやりとニュース番組を見る。

 今朝の予報では明日の昼まで雨が残ると言っていた気がするが、女性予報士は笑顔で明日は朝から晴れると断言していた。

「……ふぁ」

 だんだんと眠くなってくる。
 意識が飛びかけた瞬間、母さんに声をかけられ目が覚める。

「郵便受けに本とすすむ宛ての封筒が入ってたわ」

 絵本と薄緑色の封筒がテーブルの上に置かれる。

 真っ白い絵本。
 タイトルには『アルビノ』と、明朝体で小さく書かれている。

 ふと、椎奈しいなが話してくれた、絵本の続きを思い出す。
 それを思うたび、絵本だけの話ではなくて、現実でもそうあって欲しいと願わずにはいられなかった。

 カナはこの絵本を読み終え、どんなことを思ったのだろうか。

 ……続きを教えてやりたい。
 哀しい物語が生み出した、救いの言葉を。

 だけどそれは、カナに、光を見せてしまうだけなのではないだろうか。
 決して浴びることのできない陽だまりを直視させることに。

 それは良いことなのか。
 エレナ先生は、カナに対して、どこまでのことができるのだろうか。

「……」

 絵本を閉じ、封筒を手に取る。
 裏には、アルファベットの筆記体で『Elena』と書かれていた。

 封を切る。
 丁寧に三つ折にされた手紙に目を通す。

「母さん、」

「どうしたの?」

明日あした、学校休むから」

「どうしたの急に?」

「これ」

 俺は手紙を見せる。

「ええと……『明日学校を休みなさい。そして同封してある地図の場所に来ること。出番がやってきたわよ、頑張りなさい』」

「……」

「どういう意味かしら」

「さあな。でも間違いなくカナのことだと思う」

「行くがよい! 非力なおのれを知るために!」

 声のした方を見ると、バスタオルを腰に巻いて腕を組む親父がいた。

「いきなり話に割り込んでくるな」

「学校にはサボリだと私から電話しておこう」

「余計なことすんな。親父は粘土遊びの続きでもしてろ」

「貴様はどうなってもかまわん。だが、不甲斐ない貴様がまんまと奪い去られた、カナさんだけは連れ戻して来い」

「学校の先生がカナを直すために連れて行ったんだっつの」

 そうだったのか、という顔をする親父。
 こいつは……カナがいなくなった日の夜、俺が丁寧に説明したのをまったく聞いてなかったのか。

「わかりました。学校には、私からうまく説明しておきますから」

「ああ。頼むよ」

気張きばって来い。全員薙ぎ倒して来いッ!」

「わかったわかった」

「うむ」

 親父は何度もうんうんと頷くが、そんなイベントは、どうあっても発生しねえ。















 その夜、アルビノを読み直した。

 涙が、流れた。
 
 
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