アンドロイドが真夜中に降ってきたら

白河マナ

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第30話

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 エレナ先生の代わりに、臨時で古典の教師がやってきた。
 先生は夏休み明けまで休暇を取るらしい。
 担任は一身上の都合だとみんなに伝えたけれど……本当の理由を知っているのは、学校内で俺だけなのかもしれない。

 最近、時間の流れを早く感じる。
 期末テストも終わり、夏休み気分で毎日のんびり──と、いきたいとろこだが。

「うぉぉーっ! わかんねーっ!」

 自習だというのに、多川たがわですら、勉強っぽいことをしている。
 うちは進学校ではないけれど、先日行われた進路希望調査で、第一希望に進学と書いた生徒がほとんどだったらしい。
 そのせいか、真面目に授業を受ける生徒が、少し増えてきた気がする。

 俺は、将来、何がしたいのだろう。
 今、何ができるのだろう。

 配られた進路希望用紙を前に、考えた。

 自分自身の問いに、まだ答えることはできなかった。
 親父があんな特殊な仕事をしているから、働くってことがどういうことか、いまいちわからない。
 考える時間が欲しい、そう思い、とりあえず進学と書いた。

「……ふぁ」

 眠い。
 陽射しは強いけれど、今日は窓からいい風が入ってくる。


**********










 その猫は、半年ほど前、
 誤って水の枯れた古井戸に落ちてしまった。

 古井戸の底に閉じ込められた猫の毛の色はわからない。
 暗闇が猫を真っ黒に染め上げていた。
 2つの瞳だけが、闇に反抗するかのように輝いてる。

 闇色の猫は、約8メートルの高さから落ち、底の石にぶつかった拍子に後ろ足を骨折していた。井戸に落ちてから半年も経過しているので折れた骨は繋がったが、左足は少しおかしな角度に曲がっている。


 猫は毎日、丸い形をした空を眺める。

 井戸に落ちたばかりのころは、助けを求めて鳴いていたけれど、今はやせ細り、鳴き声を上げることも難しくなっていた。
 井戸の底に、食べるものは、ほとんどない。

 何日、経ったのだろうか。
 何十日、経ったのだろうか。
 何百日、経ったのだろうか。

 空腹が猫の意識をぐちゃぐちゃにかき混ぜ、時間の感覚を麻痺させていた。
 闇色の猫は、井戸の底に生えた草や、奇跡的に井戸に落ちてきたカエルやコオロギなどを食べ、くぼみに溜まった雨水を飲み、どうにか生き長らえていた。

 大雨の日、首のあたりまで水が溜まり、死を覚悟したこともある。
 雨の振らない日が続き、動けなくなったこともある。

 幸運だったのだろうか。
 不運というべきだろうか。

 猫はどうにか今日まで生きることができた。

 しかし。
 死の影は、ついに、猫の四肢ししに絡みつきはじめていた。
 飢えと乾きは、猫からあらゆる感覚を奪い取り、生きようとする気力さえ削り取ろうとしている。石の壁に爪を立てても、その音に力はない。


 猫は、思う。

 最後にもう一度──
 一度だけ、試してみよう、と。


 持てる力の限りを尽くし、自分と外の世界を隔てる、垂直の壁をよじ登ってみようと。

 過去に二度、猫は井戸の内壁を登ることを試みた。
 一度目は、爪が三本、折れ落ちた。
 二度目は、七分ほどまで一気に駆け上ることができたが、壁に生えた苔で滑り落ちて、背中と頭を打った。井戸の底で、血がはじけた。


 そして。
 三度目──満月の夜。

 痩せた猫は、
 尻尾が壁につくほど助走をとり、
 伏せるように全身を屈ませ、
 意を決し、
 勢いよく駆け出した。


 硬い石の壁に爪を立て、
 登り、
 登る。


 あと三歩、

 二歩、

 一歩──


 黒猫は、空に浮かぶ月を引っかくように、前足を伸ばす。
 赤く染まった爪先に力を込める。

 最後は、その身を放り出すようにして、 猫は古井戸の縁から外の世界にどさりとこぼれ落ちた。















 右前足を襲った激痛で、目を覚ます。
 同時に、ばさばさという大きな音がした。

 目を開けると、視線の先の木の枝に一匹のカラスが止まっていた。
 カラスは、口ばしに何かをくわえている。


 赤い。
 雫が、滴っている。


 それは。
 猫の肉片だった。


 井戸の底から抜け出した猫を待っていたのは、新たな絶望。

 そのとき初めて、
 猫の視界が、深い哀しみで滲んだ。










 猫は、声を聞いた。











「こらー、あっちいけーっ!」

 猫は、声を聞いた。
 それがニンゲンのものであることを思い出したのは、助けられた後のことだ。

よみ、何があったの?」

「う゛うっ……沙夜さやちゃ……ん……」

「かわいそうに……」

「……え゛うっ…」

「待って、よみ。その子……まだ生きてる」

「……でも、こんなにいっぱい……血が出たら、死んじゃうよぉ……」

「泣かないで、大丈夫だから。お母さんに看てもらえば、きっと助かるから。さあ立って。早く連れて帰ろう?」

「……う゛……ん」










◇ ◆ ◇


「おはよう、カナ」

 その覚醒は、優しげな女性の声によってもたらされた。

『…………し、ろ』

「シロ? 大丈夫?」

 見知らぬ女性が心配そうに顔を覗き込んでくる。
 私は、ベッドの上に寝かされていた。

『……夢を、見ました』

 答えると、女性は緊張した表情を和らげて、

「そう。楽しい夢だったのかしら?」

『いえ、とても可哀想な……でも、最後に、その子は幸せになれました』

「それはよかったわね」

『……はい』

「話を変えて悪いけど、聞いて頂戴。手術は終了したわ。やれることは、みんなやったつもり」

 シュジュツ?
 一体どういうことなのか、状況が飲み込めなかった。

 まずは、
 目の前にいる女性が誰かを思い出してみる。

 ……。

 何も思い出せない。
 分からない。

 しかし、分からないのは、それだけではなくて、

『わたしは、誰ですか?』

 私は自分自身のことですら、記憶から見つけ出すことができなかった。

「あなたは、」

 女性が答えようとした瞬間──
 私は、咄嗟に、

『わたしは、にんげんです』

 そんなことを口にしていた。

 私は過去に、今と同じ状況を経験したことが……ある。
 そう、直感した。

「ええ。あなたは、人間よ。でもね、ちょっと複雑な事情があって、長い間、眠っていたの」

『……眠っ……て?』

「そのせいで、体調はとても悪いと思うし、記憶に錯誤があるでしょうし、ろくに身体を動かすこともできないはずよ。体のどこかに痛みはない?」

 言われてみて、具合の悪さに気づく。

『少し、頭が痛いです』

「……そう」

『どうされました?』

「本当に、忘れて……しまったのね」

『……』

 どうしてだろう。
 私は、このときの彼女の言葉が、とても哀しかった。

『……あの』

「何?」

『……お名前を教えてくださいませんか?』

「エレナよ。宇佐美うさみエレナ」

『エレナさん、ですね』

 口に出してみても、その名前が記憶を呼び起こすことは無かった。

は、いらないわ」

『でも……』

「呼び捨てでいいの。私たちは、これから家族になるのだから」
 
 
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