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第32話
しおりを挟む夏休みに突入してから1週間が過ぎ去った。
「おはよう」
カナの部屋のドアを開け、小さなキリンのぬいぐるみに挨拶する。
返事はない。
正直、むなしい。
だけど俺は、カナとの約束を律儀に守っていた。他にやれることがなかったからかもしれない。
「……バカみてーだな」
そう言いつつも、挨拶を声に出すと少しだけ気分が楽になった。
「あら、進。おはよう」
「親父は寝てるのか?」
「ええ。また明け方まで仕事してたみたいなの」
母さんは寂しそうな表情を向けてくる。
カナがいる間は、毎朝食卓にいて鬱陶しかったが、最近は親父と一緒に飯を食うこともほとんどなくなった。
夜起きて、昼間寝るという昼夜逆転した生活をしているので、同じ家に暮らしていてもなかなか会うことがない。
近々、大規模な個展を開くことにしたらしい。
親父が創作活動に専念しているとき、この家はまるで母子家庭のようだ。
「ふぅん。ま、静かでいいけど」
「……母さんは寂しいわ」
「わかってて結婚したんだろ。あの親父と」
俺があんなのの息子だということは、何かの間違いなのでおいておく。
「それは……そうだけど」
「カナが帰ってきたら、また毎日起きてくるんじゃねーのか」
あんな形でカナと別れてしまったことは、親父と母さんに少なからずショックを与えている。
2人とも落ち込みまくっていた。
しかしそれも、多川たちを連れてカナを見舞った日の夜までだった。
カナが元気だったこと、生きることに希望を持って手術を受ける決心がついたことを多少の脚色をつけて伝えると、ようやく2人は立ち直った。
「だといいけれど。たまたまカナさんがいた時期と、あの人のリフレッシュ期間が一致しただけのような気もするのよね」
「確かに、その可能性もあるな」
「……はぁ」
「短い間だったけど、普通っぽい家庭を味わえただろ」
「……毎日がいい」
あんたは子どもか。
いい歳して駄々っ子のように口を尖らせている。
「とりあえず、俺は出かけるから」
「そうなの?」
「ああ、だから朝メシの用意してくれ」
「多川くんたちと?」
「いや、今日は学校の図書室。夏休み中も、週2日でやってるから」
「お昼までには戻ってくるのかしら」
「一応、そのつもりだけど。何かあって帰って来れないときは電話するから」
**********
「……あぢぃ」
地面付近の景色が暑さでゆらゆらと揺れていた。
じりじりと肌に照りつける太陽、セミはやかましいし、誰かが道路にまいた打ち水もわずかな時間で干上がってしまう。
麦藁帽子をかぶった小さな女の子が両親の手を引っ張るように歩いていた。その親子を別の3人の子どもが駆け足で追い越していく。
子どもたちは炎天下でも元気だ。
学校へと続く、緑を茂らせた葉桜の並木道を歩く。暑さを助長するセミの大合唱の中、無駄に汗をかかないように、のんびりと進んでいると、
「あ、」
背後からチリンと自転車のベルを鳴らされ、振り返る。
「おはようございます、先輩」
片瀬妹だった。
「よう、椎奈お嬢さま」
「怒りますよ」
にこやかに微笑みながら言われたのに、首筋にナイフをあてがわれたような緊張が走った。
「今日は当番じゃないよな?」
椎奈は自転車から降り、隣に並んで手押しする。
「はい。でも、自宅より図書室のほうが落ち着きますので、開いてる日は、夏休みの課題をしに通っています。薙先輩に質問できますし」
「あいつは、夏休み中も住んでるのか」
「ふふ。先輩に、失礼ですよ」
「いや、薙ならそうよって言いそうだ」
正門を抜けると、学校名の入ったユニフォームやジャージを着た、部活組が大勢いた。
グラウンドでは、野球部が二遊間の連携を何度も繰り返している。
椎奈に付き合って駐輪場に寄ってから、昇降口で上履きに履き替えて図書室へと向かった。
校舎内に生徒は見当たらない。
リノリウムの床を叩く2人の靴音だけが、廊下に響き渡る。
「伊月先輩は、どうして本が好きなんですか」
「んー。どうしてだろうな」
「私は、今の両親が2人とも読書家で、その影響を受けたからです。小さな頃から本ばかり読んでいました。……そのせいで、目が悪くなってしまいましたけど」
困ったような顔をして、眼鏡のフレームに触れる椎奈。
「俺は、」
多分。
「現実逃避、だな。最初は」
悲しみを紛らわすための。
その意味を察して椎奈の表情が翳るのを見て、
「今は、単に好きだからだ。きっかけは、好きだった映画の原作を読んでからかな」
と、付け足す。
「どんな映画です?」
「昔の邦画で、『影武者』っていうタイトルの。知らないと思うけど……」
「それ、読んだことあります」
「え、本当?」
かなり古い映画で、小説も絶版になっているので、鵜呑みにはできなかった。
「私は時代小説も好きですから。映画は見たことないですけど、小説は読んだことがあります。武田信玄の影武者の話ですよね?」
「……」
いくら椎奈でも、立ち入らないジャンルだと思ってたのに。内容、合ってるし。
「先輩の好みに合わないと思ってましたので、これまで薦めてきませんでしたが……お薦めの時代小説、沢山ありますよ」
「よろしく頼む!」
「はいっ。任せてください」
図書室に着くと、カウンターでくつろいでいる薙と挨拶を交わし、さっそく椎奈はお薦め本を探しに行ってしまった。
俺は近くにあった椅子を持ってきて、カウンターの前に座る。
生徒は3人のほかに誰もいなかった。
「誤算ね」
「なにがだ?」
「こんなに早くくっつくとは思わなかったから」
「途中で偶然会って一緒に来ただけだ」
「あの子もそう言ってた。まさか、この短期間で上級スキルの口裏合わせまで習得してるとはね」
「アホか」
薙は意地悪そうに笑い、
「満更でもないんじゃない? それとも、他に彼女できちゃった?」
「……いねーよ」
「今の反応の遅さ、ぁゃιぃ」
「その目をやめろ。そういや、うちのクラスの白貫にも教えただろ、それ」
「心にやましいことがある人を不快にさせる技だから、これ」
「俺にやましい事なんてない」
「どうかしら。誰かと付き合ってるかはともかく、気になってる子はいそうね」
「…………いねーよ」
「あ、3点リーダーが増えた」
「わけのわかんねーこと言うな」
「ねえ、伊月くん」
片瀬薙は、声のトーンを落とす。
「椎奈に告白された?」
「は?」
「あの子には黙っておいてね。誰にも言わないって約束しちゃったから。あの子ね、伊月くんに会うためにこの学校に入学したのよ」
「みたいだな」
「え、知ってたの?」
「まあな。だけど、あいつが俺に会いに来た理由は、好きだからとか、そういうんじゃねーよ」
「……へー」
「次その目をしたらデコを叩くからな、マジで」
じーーーーっと、俺の瞳を覗き込んでくる。
「小説に出てくる『疑いの眼差し』ってのがどういうものか、よーくわかった。かなりムカつく」
「いまいち納得いかないけど、嘘じゃなさそうね」
「疑いが晴れたんなら納得しろ」
「でもちょっとがっかりね。代わりに私が伊月くんにコクろうかな」
「……」
「あ、本気にしないでね」
「するか」
「酷い、酷いわ。実は本気だったのに」
「そういうことは、本を読みながら話すのやめてから言おうな」
「……面と向かって言うなんて……恥ずかしくて」
「活字を目で追いながら言うな」
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