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過去 - 10
しおりを挟む- Asako Itsuki -
彼女は、玄関で立ったまま、私のことを見つめていた。
どうしたのと聞いてみる。
「……もう一回言ってもいい?」
今度は、なにをと尋ねる。
彼女は照れたような仕草で答える。
「……ただいまのあいさつ」
私は驚いてしまう。
この子は普段どうやって家に迎えられていたのだろう。
ただいま。おかえり。
こんな普通のやりとりが、彼女にとっては嬉しいことだった。
「ただいま」
私は気持ちを込めて、彼女に贈る。
「おかえりなさい」
それと同時に彼女を憂う。
この子からすべての不幸を取り除いてあげたい、と思った。
◇ ◆ ◇
別れの日。
初めてあの子が涙を流したあの日──
私は涙を堪え、ハカナを抱きしめ、それから笑顔で送り出した。
どうして私は、
彼女を引き止めることができなかったのだろう。
エプロンの裾を掴んでいた、小さな手。
震えていることに気がついていた。
全身についた痣や傷やヤケドの痕。
ハカナが誰かから虐待を受けていたのも知っていた。
それなのに、私には何もできなかった。何かをしようともしなかった。
そして。
ハカナは、死んでしまった。
もう一度、彼女の「ただいま」という元気な声を聞くことができるなら。
そのためなら──
◇ ◆ ◇
月日を費やすにつれて心の傷が癒えていく。
彼女の命日を迎えるたび、苦しみが遠ざかっているような気がする。
目を閉じると、朧気な記憶が蘇る。
彼女を探す日々──瞬く間に過ぎ、最後に彼女の死に辿り着く。
出会いの終着点。
線香の香り。
私は人生の中で一番の悲しみを体験した。
彼女の亡骸は火葬され、小さな骨のカケラと灰になった。
私は、なんて無力なのだろう。
骨と灰が骨壷に収められていく様子を見ながら、泣き崩れることもできず、私はただ自分の弱さを恨んでいた。
◇ ◆ ◇
あれから8年。
私たち家族はうまくやってきた。
悲しみを乗り越え、普通の生活を取り戻した。
進也さんも進も、ハカナのことを口にすることは無くなったけれど、心の奥底には彼女の存在を大切に残している。
私だってそうだ。
最後の日に感じた、小さな手のひらの感触を忘れることができない。
時折、思い出す。
私たちには家族がもう一人いたのだと。
そして、永遠に、いなくなってしまったのだと。
◇ ◆ ◇
《お礼を言うのは私のほうです。》
《私は、迷子になったハカナが、あなた方に巡り会うことができたことを、奇跡に近い幸運だったと思っています。》
《ハカナは、ずっとここで、みなさんのことを待っていました。》
《あの子の人生は短かったかもしれません。子どもにはつらいことが多すぎました。》
《でも、それでも、ハカナは最後に幸せな毎日を送ることができました。》
《あなた方に出会うことができたからです。》
片瀬さんは、穏やかな口調で言った。
傘を打つ雨音の中、私は8年ぶりに、彼女のために声を出して泣いた。
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