桜夜 ―桜雪の夜、少女は彼女の恋を見る―

白河マナ

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- Another Story 01 - 冴子の闇、詠の死

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 神社の階段を下りて、人が踏み固めてできた細い道を東に向かって歩き、二番目の十字路を左に曲がって直進する。
 獣道のような舗装も手入れもされていない坂道の林道をひたすら進むと、やがて橋にたどり着く。

 対岸まで三十メートルほどの細く長い吊り橋。
 両岸に突き刺さっている太い杭を数本の縄が結び、丈夫で分厚い橋板が等間隔に並んでいる。板と板のあいだに隙間があるのは、橋が風に煽られるのを防ぐためだ。
 橋の下には川が流れていて、重く低い唸るような音が絶えず轟いている。
 そこに川を覗き込んでいる女性がいた。

 女性──といっても、その容姿は二十歳前後で、表情にはまだ子どものあどけなさが残っている。少女と言ったほうがしっくりくるかもしれない。しかしそれでも充分な美しさを湛えていた。若さ特有の可愛さ、ではなく。
 見るものにそう思わせるのは、衣装のせいもあるだろう。赤い袴に真っ白い衣。白衣の上には千早を身に纏っている。神に仕える者──この村では月使と呼ばれている巫女──の正装だ。

 長い銀色の混じる神秘的な黒髪が衣の白に映え、一層の美しさを醸し出している。
 少女は手で髪を押さえる。
 懐から短刀を取り出し、鞘から引き抜く。これで五度目だ。女は、刃を出しては仕舞う、その動作を五たび繰り返している。

よみ

 巫女装束の少女が突然の言葉に振り返る。

「お母さん……」

 よみと呼ばれた少女は、現れた人影にそう言った。林道の木陰から麻の衣を着た女性が姿を現す。現れた女性の名前は、沢角冴子さわすみさえこ。村の神社の神主である。詠の母親だが、姉と言っても通用しそうなくらい若く見える。

「やはり躊躇っているようね」

 二人は、歳の差こそはあるものの、よく似ていた。銀髪混じりの長い黒髪も、目鼻立ちも。しかし母親のほうには表情に無機質さと冷たさが伺える。

「私、」

「橋の向こうに行ってもいいのよ。今からでもあの子たちに追いつけるでしょう」

 冴子は抑揚のない声で言う。

「お母さん、どうしても橋を落とさないといけないの?」

「そうよ」

 冴子は詠が持っていた短刀を奪い取るようにして掴み、橋を吊っている縄の一本を切断しはじめる。太い三本の縄を捻り束ねてあるのでなかなか刃が通らない。

「選びなさい。村を出るか、それとも残るか」

 詠は戸惑いを隠せなかった。
 そこまで急ぐことの意味がわからない。

「理由を教えてよ。どうしてこんなに慌てる必要があるの」

 冴子は手を止めて詠の方を見る。

「私が何のために今まで生きてきたと思う?」

 はき捨てるような口調で逆に聞き返す。冴子は、詠が知っている普段の冴子とは違っていた。いつもの冷静さは影を潜め、口調は荒々しい。

「意味がわからないよ、お母さん」

 さらに戸惑いを増した表情で訴える詠に、

「村のクズどもに復讐するためよ」

 冴子は言う。

「死を待つ? 自然に滅びる? そんな終わり方なんて許せない。私がこの手で殺してやるの。一人残らず。あいつらを」

 詠の表情が固まる。

「あのクズどもをどんな方法で殺すか。そのことだけを考えて私は生きてきた」

 それは母の口から出るはずがない言葉だった。クズども、あいつら、殺す。そんな言葉を母が使ったのを、詠は耳にしたことがない。

「どうしちゃったの、お母さん……」

「ママゴトはおしまいってこと。確かに私はあなたの母親だけど、父親はクズどもの誰か……あなたも可愛そうな子」

「それって、どういう……?」

「あなたはよくやってくれたわ。あなたが私の後継者にとして月使になってくれたから色々と準備ができたの。感謝しているわよ」

 消えないの、と冴子は呟く。

「憎しみが消えないのよ。私を、あの人を、妹たちをあんな目に合わせた奴らを、絶対に許すことはできない」

「おかしいよ……今日のお母さんは……」

「あなたには隠してきたから、そう思われても仕方ないでしょうね。でも、私がおかしくなったのは、もっと昔のこと。そして、おかしくなったのは、あいつらのせい」

 冴子は短刀を縄に突き立てる。
 ひゅん、という風を叩く音がして、橋を支えていた縄の一本が切れ飛ぶ。冴子はもう一本の縄に刃をあてる。

「この状態でもまだ渡れるわ。早く選びなさい」

 詠は、

「理由を聞かせて、お母さん。お母さんは優しい人だよ。勉強のときは厳しいけど……それでも私を大切に育ててくれた」

 冴子は儚げに笑う。

「泣きたくなるわね。あのクズどもから、あなたのような子が生まれるなんて。でも、それ以上余計なことを言うと──最初にあなたを殺すわ」

「できないよ」

 詠は確信を込めて言った。

「お母さんは、そんなことしないよ」

「まだ言う気なのね。いいわ。あなたがこれまで生きてきた二十四年が、みんな幻だったってことを教えてあげる」

 冴子は縄を切るのを止め、短刀の刃を詠に向ける。それでも詠の瞳は、母親である冴子のことを信じきっていた。
 だが──
 呆気なく、音もなく、詠の胸に刃が突き刺さった。熱い血が刃から柄と冴子の両手を伝い、地面の草の上に落ちる。詠の白衣は赤く染まり、じわじわとその染みが広がっていく。

「……痛い……。おか……あさん……」

「さようなら、詠。あなたは、今ここで死んでしまうほうが幸せなの。外の世界に希望なんてないわ。何も、なかった……」

 冴子が体重をかけて詠の体を後方に押す。
 詠は崖から川に転落した。
 川面に飛沫が上がり、うつ伏せの状態で詠の体が浮かんでくる。だがすぐに濁流の波に飲まれて水中に消えてしまった。

「……」

 冴子は震える右手を左手で押さえる。
 村と外の世界を繋ぐ唯一のルートである吊り橋を落とし、短刀を川に捨て、村の方に戻っていった。
 夕暮れの刻、片側のすべての縄を切られた橋が、風が吹くたびに対岸の岩とぶつかって大きな音を響かせていた。
 地面に短刀の鞘が転がっていた。その近くには、何滴かの血痕が土に染み込み、滲んでいた。
 どこか遠くで鳥の鳴く声が聞こえた。


**********


 意識を失った詠の体は、川を流れ、やがてその場所にたどり着いた。
 偶然や奇跡などではなく、人の手が一切加えられていない自然な水の流れが、人の体を傷つけることなく、ゆるやかにその場所に運ぶのだ。
 大きな川の岸辺。
 枝だけの桜の巨木が、詠のことを見つめるように聳えていた。
 半身を川に浸したまま眠る詠の右胸のあたりからは血が流れ、水と混じりあい川の流れに向かって細く伸びていた。
 近くに人の姿はない。

「……う」

 詠が目を覚ましたのは日が沈もうとする頃だった。
 立ち上がり、おぼつかない足取りで水辺から出る。ふらふらとよろけながらもなんとか体制を保ち、桜の木に向かって歩いた。
 巨木の幹にもたれ掛かり、詠は両足を投げ出して座る。村の方角に顔を向けたが目が霞み、朧気にしか見えない。
 オレンジ色の光が点在し、闇に滲み込んでいた。
 しかし詠にはその明かりの正体を判別することはできなかった。冷たい川の水に晒されていたせいで、視覚も含め全身の感覚が麻痺している。
 右胸の痛みが、かろうじて詠を現実に留め、細く切れそうな記憶の糸を手繰り寄せようとする。短刀を持った冴子の姿が思い出された。

「はぅっ……ぐ……」

 イタイ
 ムネ ガ イタイ

 ドウシテ?

 詠にはわからない。
 思考は交錯しながらも心は妙に落ち着いていた。意識は、寄せては返す波のように朦朧と揺れている。
 多くのことは考えられなかった。
 ただその中で自分の命が尽きようとしていることは理解できた。

 オカアサン ハ ナニヲ シヨウト シテイルノ?

 オカアサン ノ カコニ ナニガ アッタノ?

 詠は疑問を投げかける。
 答える者はいない。
 母親の冴子とは生まれてから現在まで二十四年も一緒に暮らしてきた。母の子供のころの話や村を出たときの話、父親のことも聞いた。でも全部じゃない。人の一生を限られた時間で、しかもその全てを言葉にすることは不可能だ。
 空白。
 もしくはどこかに嘘がある。
 父親だと思っていた人が本当の父親じゃないこと。それが本当であれば、嘘を伝えられていたことになる。

 なぜ。
 何のために。
 わからない。わかりようも無い。
 でも、ずっと村を見つづけてきた御神木なら──
 詠は祈る。
 一途に、真実を知ることを望んだ。
 たとえそれがどんな過去だったとしても。

 冴子が言ったとおり、冴子が憎しみや恨みで村を滅ぼそうとしているのなら、それ相応の理由があるはずだ。
 それを知るまでは、死ねない。
 詠は最後の力を振りしぼる。
 神事のときにそうするように、御神木に思念を重ねる。いつもであれば、事前に御神木を眠らせて別の神霊を降ろしてあるので、その神霊と同調して言葉を感じ取る。
 しかし今、御神木は降霊されていない。
 体中の隅々から失われつつある力をかき集め、死にゆく身体を残し、詠は幽体となって木の幹の中に入り込んだ。
 主を失った体が脱力し、人形のように倒れる。
 暗闇から一転して、詠の目には圧倒的な景色が広がった。
 人間のままでは体験できない、三六〇度の風景。夕日に染まる東西南北の空、一本に繋がっている稜線、村の、ぽつぽつと距離をおいて建っている平屋建ての家々、川、畑に田んぼ、そういったありとあらゆるものが同時に見えた。
 村では炎が踊っていた。

『なに……これ』

 夕日よりも濃く、オレンジがかった赤。

『どうしてこんな……』

 詠は心を閉じ、それによって視界を閉ざす。
 御神木からそう離れていない場所で、何かが一箇所に集められ大量に焼かれていた。火に包まれていたのは人間だった。
 村人たちは、山のように積み上げられ、ただ炎に包まれていた。動く者はいない。包帯や肉や骨や服や髪が焼ける臭いが混ざって、不快な空気として周囲に漂っている。
 御神木から眺めると、それは、影絵のようだった。高さ三メートルほどの三角形の影、それと向かい合って立っているひとつの人型の影──。

 日が沈んでいく。
 夕焼けは色を吸い取られ、明度のみが下がっていく。太陽は急に速度を上げて稜線の奥に消えようとしていた。まもなく夜になる。
 一匹のカラスの鳴き声を最後に、春の虫の声が聞こえはじめると、焼けた死体の山の前には、もう誰も立っていなかった。

 詠は落ちていった。過去へと。真実を求めて。

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