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第1章 サタナエルの息吹
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ここは大陸の北東にあるリアという村。
小さな村だがネールという工芸品で知られている。
ネールとは村独自の染め物だ。透明感のある美しい瑠璃色と肌触りの良さで、アラキア全土で幅広く愛用されている。
月に一度、村の代表者が荷馬車に乗せて隣の町まで売りにいく。安定して高値で取引されるネールのおかげで、リアは地方の村にしては経済的に豊かだった。
「うむむむーーーっ!」
村の中央にある井戸の周りに子供たちが集まっていた。
うなり声の主は、井戸の縁に座っている少女──リットという女の子。今年で十二歳になる。
この少女を初めて見る人の誰もが、まずその瞳に目を奪われる。わずかに青を帯びた白い瞳。これは病気ではなく生来のものだ。
冷たい印象はなく、その瞳は、ただただ神秘的で美しい。
「どうしたんだよー」
待ちくたびれた誰かが口を開く。
「ちょっと黙ってて。集中できないじゃない」
束ねて後ろに垂らしているハニーブロンドの髪が左右に大きく揺れ、まるで狐のしっぽのようだ。
「えーっと、ライブラリとは繋がってるはずだから……」
ピアノを弾くように指先を動かしながら、リットは独り言を呟く。
魔法書を確認しながら、
「パスワードはこれで間違いないし……」
手順に誤りがないことを確認し、再び言葉を紡ぎ出す。
これで三回目。
だが今度は、二回目までとは違い、囁くような詠唱とともに、突き出された指先の空間が徐々に歪みはじめた。
間もなく。
空間がねじれ、その中心から生暖かい空気が漏れてくる。
周りの子供たちは、さきほどまでとは違う、ただならぬ雰囲気を感じ取って、皆一様に黙ってしまう。
リットの右足首についている輪っか状のモジュレータが淡く光りはじめた。
ごくんっ、と、誰かが固唾を呑む音。
リットはゆっくりと、魔法書に書かれてある内容を一言一言を丁寧に読み上げていく。そして、最後の一行を叫ぶようにして読み上げる──
が。
ぽわっ
「あれ?」
リットの指先あたりから申し訳ていどに煙が出て、瞬く間に風に溶かされていく。
歪んだ空間は、何事もなかったように元に戻っていた。
一同沈黙。
「……お、惜しかったよね?」
気まずそうなリット。
「つまんねー」
「でも、なんか凄かったよ」
村の子どもたちは、それぞれに感想を述べる。なにも起こらなかったが、ここに居合わせた全員が、なにも起こらなくて良かったような気がしていた。
しかし、リットだけがひとり悔しそうだった。
夕刻を迎え、家々の煙突から煙が上がりはじめている。
西からの陽光が周囲を茜色に染めていた。もうすぐ日が暮れる。
この時間になると、女の子たちは夕食の手伝いをするために家に帰る。男の子たちは仕事を終えた父親たちの帰宅を遊びながら待つ、それが日課になっていた。
本日も例に洩れず、誰かの言葉を皮切りに、また明日、という言葉が飛び交う。少女たちは一斉にそれぞれの家へと帰っていった。
井戸の周りに少年たちが集まり、今日の最後の遊びを話し合っていた。
◇ ◆ ◇
「ただいまー」
「おかえりなさい、リット」
家のドアを開けるなり母親のライズが、微笑みながら娘を出迎える。エプロンを外しつつリットの元にやってきて、
「つかまえたっ」
まるで子どもが珍しい虫を捕まえたときの調子で、リットのことを抱きしめる。
何事かと見上げるリットに、
「さっき、すごい魔法を使おうとしたでしょう?」
腕に力が込められる。ライズは娘に対しては怒るときは、いつも決まって抱きしめるのだ。娘のことを怒鳴りつけたり、手を上げたことはこれまで一度もない。
「あ、あれはね、なんとなく、その……」
いいわけを必死に見つけようとするリット。
多少呼吸が苦しくなる程度の強さで、ライズはリットの顔を胸に押しつける。
「ごふぇんらさひ~」
ごめんなさい、と言いたいらしい。
「今回は特別に許してあげます」
と言うが、今回も、のほうが正しい。ライズは娘に対して底なしに甘かった。
「それにしても、どうしてあんな魔法を使おうとしたの?」
「だって、私がいま使える魔法は全部見せちゃったもん」
口を尖らせながら言う。
ランク持ちとは言え、その最下級のαであるリットは、使用できる魔法が最も少ない。
「それで、サタナエルの息吹?」
「たまたま開いたページがそれだっただけなの」
手にしている分厚い魔法書を見せる。
「わぐっ!」
再びライズの胸に押しつけられるリット。
「とにかく偶然でも発動しなくて良かったわ。σクラスの魔法ならこの村なんて一瞬で灰になっていたでしょうから」
ライズはリットを解放する。
「……」
(奇跡が起きても成功するわけないもん。私はαなのよ)
心の中ではそう思いながらも、表情には後悔と反省を浮かべる。リットは、見た目の可愛らしさにそぐわず、なかなか計算高い子だった。
「もういいわ。夕食にしましょう」
「うんっ」
「食事が終わったら、ソークを空にしてモジュレータをしばらく預かります」
「え、あ、」
「わかったわね?」
「……う、うん」
ライズも口で言ったくらいでは、娘が反省などしないことを承知している。ある程度の罰を与えないと、次はなにをしでかすかわからない。
娘の魔法に対する楽観的な考え方だけが、ライズの悩みの種だった。
小さな村だがネールという工芸品で知られている。
ネールとは村独自の染め物だ。透明感のある美しい瑠璃色と肌触りの良さで、アラキア全土で幅広く愛用されている。
月に一度、村の代表者が荷馬車に乗せて隣の町まで売りにいく。安定して高値で取引されるネールのおかげで、リアは地方の村にしては経済的に豊かだった。
「うむむむーーーっ!」
村の中央にある井戸の周りに子供たちが集まっていた。
うなり声の主は、井戸の縁に座っている少女──リットという女の子。今年で十二歳になる。
この少女を初めて見る人の誰もが、まずその瞳に目を奪われる。わずかに青を帯びた白い瞳。これは病気ではなく生来のものだ。
冷たい印象はなく、その瞳は、ただただ神秘的で美しい。
「どうしたんだよー」
待ちくたびれた誰かが口を開く。
「ちょっと黙ってて。集中できないじゃない」
束ねて後ろに垂らしているハニーブロンドの髪が左右に大きく揺れ、まるで狐のしっぽのようだ。
「えーっと、ライブラリとは繋がってるはずだから……」
ピアノを弾くように指先を動かしながら、リットは独り言を呟く。
魔法書を確認しながら、
「パスワードはこれで間違いないし……」
手順に誤りがないことを確認し、再び言葉を紡ぎ出す。
これで三回目。
だが今度は、二回目までとは違い、囁くような詠唱とともに、突き出された指先の空間が徐々に歪みはじめた。
間もなく。
空間がねじれ、その中心から生暖かい空気が漏れてくる。
周りの子供たちは、さきほどまでとは違う、ただならぬ雰囲気を感じ取って、皆一様に黙ってしまう。
リットの右足首についている輪っか状のモジュレータが淡く光りはじめた。
ごくんっ、と、誰かが固唾を呑む音。
リットはゆっくりと、魔法書に書かれてある内容を一言一言を丁寧に読み上げていく。そして、最後の一行を叫ぶようにして読み上げる──
が。
ぽわっ
「あれ?」
リットの指先あたりから申し訳ていどに煙が出て、瞬く間に風に溶かされていく。
歪んだ空間は、何事もなかったように元に戻っていた。
一同沈黙。
「……お、惜しかったよね?」
気まずそうなリット。
「つまんねー」
「でも、なんか凄かったよ」
村の子どもたちは、それぞれに感想を述べる。なにも起こらなかったが、ここに居合わせた全員が、なにも起こらなくて良かったような気がしていた。
しかし、リットだけがひとり悔しそうだった。
夕刻を迎え、家々の煙突から煙が上がりはじめている。
西からの陽光が周囲を茜色に染めていた。もうすぐ日が暮れる。
この時間になると、女の子たちは夕食の手伝いをするために家に帰る。男の子たちは仕事を終えた父親たちの帰宅を遊びながら待つ、それが日課になっていた。
本日も例に洩れず、誰かの言葉を皮切りに、また明日、という言葉が飛び交う。少女たちは一斉にそれぞれの家へと帰っていった。
井戸の周りに少年たちが集まり、今日の最後の遊びを話し合っていた。
◇ ◆ ◇
「ただいまー」
「おかえりなさい、リット」
家のドアを開けるなり母親のライズが、微笑みながら娘を出迎える。エプロンを外しつつリットの元にやってきて、
「つかまえたっ」
まるで子どもが珍しい虫を捕まえたときの調子で、リットのことを抱きしめる。
何事かと見上げるリットに、
「さっき、すごい魔法を使おうとしたでしょう?」
腕に力が込められる。ライズは娘に対しては怒るときは、いつも決まって抱きしめるのだ。娘のことを怒鳴りつけたり、手を上げたことはこれまで一度もない。
「あ、あれはね、なんとなく、その……」
いいわけを必死に見つけようとするリット。
多少呼吸が苦しくなる程度の強さで、ライズはリットの顔を胸に押しつける。
「ごふぇんらさひ~」
ごめんなさい、と言いたいらしい。
「今回は特別に許してあげます」
と言うが、今回も、のほうが正しい。ライズは娘に対して底なしに甘かった。
「それにしても、どうしてあんな魔法を使おうとしたの?」
「だって、私がいま使える魔法は全部見せちゃったもん」
口を尖らせながら言う。
ランク持ちとは言え、その最下級のαであるリットは、使用できる魔法が最も少ない。
「それで、サタナエルの息吹?」
「たまたま開いたページがそれだっただけなの」
手にしている分厚い魔法書を見せる。
「わぐっ!」
再びライズの胸に押しつけられるリット。
「とにかく偶然でも発動しなくて良かったわ。σクラスの魔法ならこの村なんて一瞬で灰になっていたでしょうから」
ライズはリットを解放する。
「……」
(奇跡が起きても成功するわけないもん。私はαなのよ)
心の中ではそう思いながらも、表情には後悔と反省を浮かべる。リットは、見た目の可愛らしさにそぐわず、なかなか計算高い子だった。
「もういいわ。夕食にしましょう」
「うんっ」
「食事が終わったら、ソークを空にしてモジュレータをしばらく預かります」
「え、あ、」
「わかったわね?」
「……う、うん」
ライズも口で言ったくらいでは、娘が反省などしないことを承知している。ある程度の罰を与えないと、次はなにをしでかすかわからない。
娘の魔法に対する楽観的な考え方だけが、ライズの悩みの種だった。
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