あわいの宦官

沖弉 えぬ

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雲朱編

24仇敵

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 玲馨は梅の事をさほど知っている訳ではない。玲馨の知る梅は飄々とした軽薄そうな男で、戊陽と相性が良いだろうなという事くらいだ。だから、こんな梅の姿を見るのは初めての事だ。
 梅は怒りに塗れて今にも殴りかかりそうな顔つきで槍使いの男を凝視していた。男が現れてからというもの、まるで梅の意識から玲馨と風蘭の事が消えてしまったみたいだ。
「生きてたとはなぁ。だが何でこんな所に居る?」
 顎を手で擦りながら男は梅を鼻の先から見下ろした。
 武人のようだが体格はさほど大きくはなく背丈も体の厚みも梅の方が勝っているが、ふてぶてしい態度がそう見せるのか体格差がさほど感じられない。怒りを露わにする梅を前にして男は素知らぬ顔でいる。
 梅の吐く息は震えていた。小さく「常義チャンイー」と憎々し気に呟く。
「ふん……。なるほど」
 常義と呼ばれた男は目玉だけを動かして玲馨の姿を検分するような目つきで見た後に、何かを納得したようにそう声にした。
 あんた、上手く化けてるつもりかも知れねぇが、見る奴が見りゃすぐ分かるぞ。気をつけな──。
 宿の主人から受けた忠告が脳裏を過る。
パオを切り宦官になったか」
 玲馨から梅に視線を戻し自答するように言う常義を、玲馨もまた注意深く観察した。
 まさか本当に正体を見破られてしまうとは思わなかった。一体、常義は玲馨の何からそれを読み取ったのだろうか。市井に紛れられるような格好をしてきたし、仮に宦官の衣のままだったとしても宦官は城の外に出ないので町人には見抜けないはずだ。
 常義から何か不気味なものを感じ取って、玲馨は無意識に後退る。
「だとしてもやはり説明がつかんな。宦官が何故城外に出ているんだ?」
「お前に話す事はない。──行くぞ」
「おい待て、梅っ」
 素早く踵を返した梅が玲馨と風蘭の腕を引っ張り強引に去ろうとする。思わず玲馨が声を上げると、背後で「メイ?」と怪訝な声が聞こえてきた。
「そういえば、お前の妹もそんな名だったなぁ」
 それを聞くやいなや梅の足はぴたりと止まった。
 玲馨たちから手を離した梅は振り向きざまに剣を抜いて常義に斬りかかっていく。
「梅、よせ!」
 咄嗟の事に反応が遅れもはや玲馨が止めても間に合わない。反射的に叫ぶも梅の耳に玲馨の声は届いていなかった。
 まずい──そう思った瞬間、槍と剣が激しくぶつかる音がして、次にはあろう事か梅の方が思い切り剣を弾かれていた。どうにか剣を取り落とす事はなかったが、力が妙な方向にかかったのか梅は右肩を押さえて後退る。
「変わってないな。いや、宦官というのは武芸を習うものではなかったか。変わりようがないという訳だ」
「さっきから一人でべらべら喋りやがって……! 何で声を掛けてきた!!」
 梅に食って掛かられて常義は一度深く息を吸ったようだった。玲馨の目には今初めて常義が梅をその視界に捉えたように見えていた。
「仕事に決まっているだろう。さきほど南門付近で何やら騒ぎがあったんだ。その犯人を捜せと禁軍兵が言うので協力しているところだ」
 口ぶりからして彼は禁軍兵ではないらしい。確かに兵士たちが纏っている魚鱗の甲冑を彼は着ていない。だが、彼の槍の腕は本物だ。いくら怒りで冷静ではないとは言え、梅の力任せの一撃をそれを上回る技術で跳ね返すなんて真似は少なくとも玲馨には出来そうになかった。
「まさか、お前たちがその騒ぎの原因だったんじゃないだろうな?」
「さっきも言ったろ。お前に話す事は何もない」
「そうか。俺も仕事でなければ羅清だと知って声を掛ける事などありえんな」
「っ……常義!」
 激昂する梅をよそにどこまでも冷静に返す常義から感情のようなものはいまいち読み取れない。
 再び斬りかかってくるとも知れない梅の事を油断なく警戒しながらも、常義は何故かまた玲馨を一瞥いちべつした。
「お前たちが犯人でないのなら構わん。どこへなりとも去れ」
 恐らく歳もそれなりに上で、尚且つ冷めた常義を相手にしては梅が何を言っても負け惜しみのようになるだろう。梅もそう考えたのか再び無言で向きを変えて今度は一人でどんどんと歩いて去っていく。その後ろを玲馨と風蘭は慌てて追いかけたのだが、去り際に気になって後ろを振り返ると玲馨と常義の視線が交わった。
 ──私を見ていたのか……?
 嫌な感覚を感じて玲馨はすぐさま視線を前に戻す。二人の後に続く玲馨の足取りは、無意識に早くなっていた。




「えっと、何か話の途中だったよね。何だっけ?」
「東江では浮民も武術を習うのかという話だ」
「あー思い出した。オレの母ちゃん商家の娘だったんだ。それで軍に伝手があって槍術を教えられてた」
 すっかり意気消沈してしまった梅は会話する二人の後ろからとぼとぼとついてくる。普段の軽薄な態度のせいでそうやって落ち込まれてしまうと調子が狂うというもので、どうにも扱いあぐねた。
 常義と呼ばれた男は何故か玲馨の事を気にしている様子だった。男はどうやら自警団の人間らしいが梅はそれ以上の事を語ろうとせず詳細は不明だ。もちろん幼少期から城の一角で暮らしてきた玲馨に城の外の組織である自警団に面識のある者は居ない。梅の事といいなんとも後味の悪い邂逅だったが、細かな事を知るには梅が立ち直るのを待つ外にないだろう。
「何故名を変えた?」
「東江から逃げ出してくるのに前の名は使えないじゃん」
 梅と常義の事は分からないままだが、その一方で風蘭の事は少しずつ明らかになっていく。聞けば紫沈へ来て一年そこらだといういう。道理で浮民という割に全くそれらしくなく明るく闊達な訳だ。
 事情ばかり抱えた三人がこうして揃って旅路につくといのは何かしら運命的なもの感じずにはいられない。例えばそう、神に与えられる試練のように。これを乗り越えた暁に待つのは果たしてどんな未来だろうか。
「護衛をするなら東江に戻る事になるが、構わないのか?」
「べっつにー。オレの顔覚えてるやつなんて居ないだろうし。それより日銭稼ぐのが先決だろ。てか、兄さん方、西に行きたかったのか」
「そうか。言っていなかったな。私たちは東江に用事がある。今ならまだ代わりの護衛を探す事も出来るから、よく考えなさい」
「だから良いって言ってるのにー」
 名も家もあっただろうにそれらを捨ててまで東江から紫沈まで逃げてきた理由は何なのだろうか。何か罪を犯したのだとしたら、やはりこのまま風蘭を同行させる訳にはいかないのだが。
「何か心配してる? 大丈夫だよ、向こうの衛兵に見つかっていきなり捕まるとかそんな事にはならねぇよ。罪人じゃあるまいし」
 そう言われてしまうと玲馨も強くは出られない。ここまで来たら風蘭を連れていかないのも人の道理に外れるような気がして今更断るのも憚られた。
 風蘭に先導してもらいながら先の宿に戻ると、道中通りがかった騒ぎを起こした辺りはもうすっかり日常の風景を取り戻していた。ああいった事は案外よくある事なのかも知れない。市井の日常をさほど知っているわけではないので単なる想像だ。
 一度宿に戻っていった風蘭は自分の荷物を支度してから玲馨たちに合流する。戻って来た風蘭の背中には立派な槍が担がれていた。
「それが風蘭の本来の得物か」
「そ。これとちょっとの金だけ握りしめて東江から逃げてきたってわけ」
「……いいんだな? 東江に戻って」
「しつこいよー。それよか、西に行く街道が今封鎖されてんのは知ってる?」
「封鎖? いや、初めて聞くが、まさか通れないのか」
「そのまさかだよ。だから雲朱ユンジューを経由しないと」
 



 風蘭によれば南への道は悪路が続くというので店で丈夫な靴に履き替えた。南を経由するとなると旅程に大幅な遅れが出る事になるが、市井に西街道の封鎖の話が流れているということは、一両日中に城の方へも情報が届く事になるだろう。
 果たして雲朱への旅支度は整ったのであるが、南門を前にして玲馨は足を止める。
「ん? 早く行こうぜ玲馨兄さん」
「いや待て、旅券だ。旅券はあるのか、風蘭」
「ん?」
「紫沈から出るにはどんな人間でも旅券が必要だ」
「へぇー……?」
 男二人に少年一人という取り合わせはきっと珍しいのだろう。見た目に兄弟にも見えないので衛兵の視線が刺さる。玲馨は風蘭を連れて衛兵たちの目の届かない家屋の影に引っ込んだ。
「傭兵をするというならもう少し知識をつけてからにしろ」
「けど俺のおかげで兄さんは足を怪我せずに済むんだぜ? 街道の封鎖の事だってそうさ」
「それはそれ、これはこれだ」
 浮民だと身分を明かした時点で旅券の不所持を疑わなくてはいけなかったのだが、予想外の事が起きすぎて完全に失念してしまっていた。
 玲馨は家屋の屋根越しに高い楼門の扁額を見上げる。ちなみに浮民たちが暮らす土地はこの門の向こうにあるのだが。
「……風蘭、お前は一体どこから門の中に入って来たんだ」
 その上宿に雇われているというのもおかしな話だが、あの宿のどこか倦んだような法外な雰囲気を思うに少年の身分など気にしないのだろう。そして客を追い払うための口実でしかない風蘭に旅券を持たせているとも思えない。もっと早くに気付くべきだったのだ。
「宿に行けば旅券を出してもらえそうだが、そんな事をしていては日が暮れてしまう……」
 それに旅券を求めれば相応の対価が必要になるだろうし、それはやはり偽造されたものになる。何せ風蘭は身分を証明する事が出来ない。
 頭を抱える玲馨のを見ていた風蘭は、ぱちぱちと目をしばたたいてから得意げな顔で笑ってみせる。
「あるんだな、何事にも抜け道ってやつが」
 その口ぶりから察するに西から逃亡してくる時も抜け道を使って逃げてきたに違いない。まったくもって身綺麗ではない拾い物をしてしまった。何より本人にさほど罪悪感がないのが問題だ。
「旅券ってのは手に入れるのは難しいもんなの?」
「戸籍がなくては発行されないな」
「げ。じゃあ抜け道使うしかないじゃん。兄さんたち他言しないでくれよ?」
 言うが早いかさっと進行方向を変えた風蘭は、南門から東西に伸びる城郭を辿って西の方へどんどんと進んでいく。
 まだ抜け道を使うとは一言も言っていないのだが、どうせ玲馨たちが持たされた旅券も偽造である。どっちにしろ見つかれば捕まるというのなら、どこから紫沈を出ようが結局は同じ事かも知れない。浮民を旅の仲間に加えた時点である程度の正攻法は諦める外ないのだろう。
 諦念の思いで風蘭の後についていくと、やがて家屋が密集したところにたどり着く。そのうちの一つの家の裏手に回った風蘭は、大量に置かれた空っぽの水瓶や同じく土が盛られていない大きな鉢を退かし始めた。
 まさかと思っていると風蘭が手伝えと言ってくるのでほとんど確信しながら言う通りにすれば、やはり、物を退かした先には城郭に人一人がやっと通れるくらいの穴が出来ていた。
「造った時にいい加減な仕事をしたんじゃないかってさ。退かした水瓶はそのままでいいよ。夕方になったら家の奴が戻って来て元に戻す手筈になってるんだ」
 つまりこの家の人間は浮民が門を使わず自由に出入りする手助けをしているという事か。立場上玲馨はこの家や風蘭の事を見過ごす訳にはいかないのだが背に腹はかえられない。
 穴は崩れたのかそれとも壊したのか、比較的体格の良い梅が抜けるのはあっちこっち引っ掛かって大変だった。どうせ穴があいてしまっているのならもう少し割って広げれば良いのにと思いつつ出た城郭の向こう側。わ、と一斉に大勢の視線が玲馨たちを取り巻いて、思わず萎縮した。
 壁穴の向こうは浮民たちの居住域だった。切り出したままの木材に布を張っただけの家とも呼べない天幕が並び、襤褸を身に付けた人間たちがひしめきあっている。
 遠い記憶に覚えのある湿った土の匂いと垢の匂いが鼻を衝いた。が暮らしていただろう貧民街と同じ空気を肌で感じ、どっと嫌なものが胸を覆っていく。
「こっから南の道に戻るんだから、えっと……」
「東に向かえば南門のはずだ」
 南門から滅茶苦茶に逃げた時とは違い、風蘭について城郭を抜けるまでの道はきちんと頭の中で地図に描いていたおかげでおおよその方角は分かる。
 へへっと照れ臭そうに笑って再び風蘭が先導し始めて、しばらく進んだところで風蘭を呼ぶ声があった。
 四十を過ぎたくらいの痩せぎすの女だ。女は風蘭の前に通せんぼをするようにして立ちはだかると、無言で風蘭を見上げた。
 どうやら風蘭の顔見知りのようで、風蘭は女を相手にへらりと笑うと「阿姨おばさん、久しぶり」と子供が親しみを込めて呼ぶ呼び方で壮年の女を呼ぶ。
 しかし愛想よく笑う風蘭とは対象的に女は皺の目立ち始めた目をきつく眇めた。
「後ろのは何?」
「傭兵の仕事さ。オレのお客さん」
「客に抜け道を使わせたの?」
「だって、旅券がなくちゃ門から出られないって」
「そうかい」
 それだけ確認すると女は脇に避けて道を譲ってくれる。一体何のための問答だったのかと疑問に思いながらすれ違うと、女は玲馨が隣を行く時に「この人殺しが」と恨みの籠もった声で呟いた。
 聞くだけでゾッとするような嫌な声だった。まさか玲馨の事をそう詰ったのではないだろう。だとすると──。
「別にオレが殺したんじゃないよ」
 人通りが薄くなってくると、誰も何も聞かなかったが風蘭は思いの外はっきりとした口調でそう言った。
「でも、不気味だって言うなら今からやめてもいい」
 しかし、どこかやけっぱちな口調でらしくない事を言い出すので女の罵声を気にしていない訳ではないらしい。
「誰も何も言っていないだろう。旅程は大幅に遅れてるんだ。早く本来の道に戻るぞ」
「……うん」
 精一杯意地を張っていたのだろう、玲馨が暗に気にするなと言ってやれば落ちるように消沈する。
 どうしてこんな事になってしまったのかと玲馨は自身の左右を眺めて溜め息を吐きたくなった。それぞれ何があったか知らないが、二人して落ち込まれては陰気臭くて仕様がない。
 文句を言っても二人が立ち直るわけでないので、浮民の居住域を出るまでの間、ひたすら無言で進み続けた。
 それにしても酷い、と玲馨はひとりごちる。城郭に沿うようにして住み着いた浮民たちはほとんど野晒しの中で生活しているようだった。
 飲み水は川があるとしても、食料の調達はどうしているのだろうか。国からの補助は一切無いはずで、恐らくは川の魚や近くの山林で獣を仕留めてくるのだろうが、山林まで行けばそこはあわいだ。
 こうして浮民たちを見ていると、どうしても明杰だった頃の事を思い出さずにはいられない。だが、明杰の生活よりも城郭の外の生活は悲惨だ。彼らが自力で這い上がってくるのはきっと不可能だろう。
 戸籍が無かろうと彼らとてシェンの民なのだ。であれば皇帝は、彼らを救う義務がある。
 浮民の全てに人らしい生活を送らせる事が出来るようになるまで、一体どれだけの時間がかかるだろうか。城郭の中にだって、貧しく飢えた人間が多く居るというのに。
 沈は西だ東だと争っている場合ではないのだ。だが玲馨とて、今の今まで困窮に喘ぐ者たちの事を忘れていた。幼い明杰が大人たちに性を搾取され続けた事も、根本には貧しさがあったはずだった。
 戊陽。あなたの治める国は、中も外もすっかり蝕まれてしまっている。あなたはきっと出来る限りの手を尽くしてこれを改善しようと努めるのだろう。だけど、だけど私は──。
「もうすぐ坂になるよ。そしたら一気に足場が悪くなるから」
 いつの間にか気を持ち直したらしい風蘭の声で、玲馨は顔を上げる。後ろを振り返れば城郭はすっかりぼやけて見えるほど遠くになっていた。間もなく日は傾き始め、野営に適した場所を探さなくてはならなさそうだ。
 城を発ち、浮民の居住域を離れてしばらく行くと、風蘭の言った通り地面は軽い傾斜を描き始めた。それとほとんど同時に足元には粒の大きい石が転がり始め、緩い傾斜と共にじわじわと体力を奪っていった。
 東の空が暗くなり始めるより早くに比較的平地になっている場所を見つけて、三人は野営の準備を始めていた。
 この辺りは当然あわいだ。夜には携帯用の小ぶりの炉に妖魔除けの薬を焚いて、この後は交代で周辺を見張らなくてはならない。
「本当に大丈夫なんだな? 梅」
「ああ。任せとけよ」
 夜の見張りは梅が担当すると言い出したが、当然玲馨は不安に思わずにはおれない。朝までには交代するとは言え、今の梅は休むべきだと誰の目にも明らかだ。だが本人はどうせ眠れないと言って聞かなかった。
 辺り一帯は完全なあわいではないようで、緑と茶色の混じり合った下草を敷物にして風蘭は既に寝息を立てている。
「子供はいいな、単純で」
 風蘭を見下ろし呟く梅の声には未だ覇気が戻らない。
 梅も風蘭もそれぞれ出会いたくない人間に遭遇してしまったらしいが、梅の消沈ぶりはまだしばらく尾を引きそうな気配があった。
 構い過ぎてもお互い疲れを残すだけかと考えて玲馨は横になる事にした。余計な事に体力と気力を使ったおかげか、すぐに眠気は訪れた。




 パチッ、と火の爆ぜる音で目を覚ます。まだ空は暗い。晴れているようで満点の星空が広がっているが、南の空は霞んで見えた。あわいの大気が淀んでいるせいだ。
「まだ交代には早いぜ」
「そうみたいだな」
 獣の声は無く、妖魔の気配も感じない。まだ人里に近くあわいが薄いせいだろう。鳥獣たちはもっと森深いところで暮らす。
 この先の道のりがどれほどのものかを知らない以上、休める時に休んでおくべきだ。そう理解していても、どうやら目が冴えてしまったようで睡魔はやってこない。
「常義、だったな」
 徐に訊ねてみる。答えが返ってこないようならもう一度眠る努力をしようと考えていた。
「あの男は何者だ」
「自警団の……」
 考えるような間が空いた。
「自警団の隊長だった。今はどうか知らねぇ」
「お前たちがいがみ合う理由は問わない。その代わり、知っている事を教えろ」
 常義の薄気味悪い視線は尚も玲馨の記憶に残っている。のっぺりとした熱の無い視線。そのくせ目の奥では深く玲馨を観察し、見極めようとする鋭さがあった。
 今後二度と関わる事が無いのなら、このまま忘れてしまえばいい。だがそうはならないという予感が告げる。
「……センパイは、もう少し後輩を心配してくれてもいいんだぜ?」
「何だ。お前の母親にでもなったつもりで、あやしてやればいいか?」
「うわっ、あんたも冗談なんて言うんだな。それとも陛下と二人っきりの時はそうしてやってるとか?」
 無言で睨むと梅は肩を竦めておどけて見せた。
「奴は、常義は元禁軍の兵士だった。武官にまでなったかどうかは知らねぇが」
「禁軍兵……?」
「怪我だったかな。退役してから自警団に来たんだ」
 元禁軍兵という言葉がどうしてか引っ掛かり抜けていかない。
「軍に居たのはいつ頃だ?」
「七年か八年くらい前じゃねぇかな」
 七、八年前というと戊陽の父黄雷の時代だ。その後黄昌の時代を経て戊陽の即位に合わせてと二度禁軍は再編されている。そうでなくとも七、八年も前だとしたら当時とは将官や佐官といった要職の顔ぶれは随分変わっているだろう。ともすれば常義の退役は軍の再編がきっかけかと勘繰ったが違うらしい。
「何だよ? 気になる事でもあんのか?」
「いや、私の思い過ごしだ」
 少なくとも七年前に軍に居たとなると、その頃玲馨は既に戊陽付きになっている。玲馨の話題を遠巻きにでも聞く事はあったかも知れない。まがりなりにも皇子に仕えていた玲馨は、宦官でありながら武芸を学ぶ機会を与えられていた。それには軍部から人が寄越されていたのだ。師事した武官の中に常義のような顔はなかったと思うが、宦官が剣を教わるなど玲馨の他には無かっただろう事を思えば、それが軍部で話題にされていても不思議ではなかった。
 常義は十中八九玲馨を見て梅が宦官になったと気付いていた。彼は恐らく玲馨を知っていた。
「……常義は、まさか貴族なのか?」
「そりゃな。禁軍に庶民は居ねぇだろ」
「姓はチャンか。常、常……」
「おいおいどうしたよ、急にチャンチャン言い出して」
 何かを思い出しそうで、あと少しのところで出てこない。喉奥に何かつかえたようで気持ちが悪い。
 最後の熾火が風と共にと消えた時、ぱっと頭に閃く何かがあったのだが「ぶわっくしょん」という遠慮も何も無い梅のくしゃみで全てが消し飛んでいった。玲馨が嘆息すると、はなを啜りながら梅が不貞腐れる。
「何だよ」
「……もういい。他に何か常義について気になる事はないか? 自警団として功績を上げて禁軍に戻りたがっていた、とか」
「いいや、あいつは軍とは馬が合わないってよく言ってたな。だから自警団に入れて良かった、って……」
 梅の声は尻窄みになって消えていった。思い出したくない事でも思い出してしまったのだろう。
 それからしばらく会話は無かった。結局寝付けないまま交代の時間になり梅を休ませたが、時折もぞもぞと動いては寝返りを頻繁にしていたので梅もまた寝付けなかったのだろう。
 この時、玲馨は常義の正体について気付けなかった事を後に後悔する事となる。




 夜が明けて、東江への旅二日目である。
 黙々と進んでいると砂利道から始まりそのうち子供の拳大くらいの石がごろごろ転がるようになって、更に進むとやがて登山道の入り口が見えてくる。あわい発生後に長く放置されたらしい看板には「熔岩ロンヤン鉱山道入口」の文字が刻まれ、谷に向かって枯れた木が寄りかかって出来た天然の隧道ずいどうが薄暗い穴を広げた。
 紫沈を発ってからおよそ一日と半歩いたところで、玲馨たちはじめっとした森の中に来ていた。変わらず傾斜は続いており、ここから先は熔岩という名の山を登っていく事になる。
 二股に別れた道のうち、梅は隧道の仄暗い入り口を指差してげんなりとした。
「あの穴を抜けんのか? 崩れてきそうでおっかねぇな」
「迂回する道もあるよ。ほら、草が倒れてるでしょ。でもあっちは雲朱まで倍の日数がかかるけど。食料あるならオレはどっちだっていいぜ」
「食料は長くもたせたとしてもせいぜい五日が限度だ」
「一択じゃねぇか」
 文句を垂れつつも梅が先頭を進み始めると、その後ろを風蘭、玲馨の順で後に続く。
 静かな森だ。昨晩野営した辺りと同じように死活が複雑に入り乱れた森の景色はどことなく不気味に見える。まるで何かの毒に侵されたかのように半死半生となった植物に、ジワジワと自分の体も侵食されていくような錯覚を覚える。実際にもあわいは人の体に毒となるので、あながちその妄想は全くの見当違いというわけではない。
 土が腐って落ちたのか奇妙な形の谷間たにあいには茶と緑の木々が折り重なって屋根を作っている。梅が手を伸ばしても全く届かないほど天井は高く、幅も玲馨たちが横に並んで十分余裕があるほど広い。そして隧道の奥は、全くの闇。どこまで道が続くのかも分からず、さながら地獄の入り口のようにも見えた。
 地図によれば、ここから先はあわいが深くなる。木々の屋根で光が届かなくなる以上、時間の感覚をどれだけ保っていられるかが不安だ。
 日の光が届かなくなる前に松明に火を点すと朱色の炎に風蘭の槍が照らされ、槍の穂が反射した光がチラチラと視界で瞬く。
「その槍には鞘がないのか?」
「うん、なくした」
 松明の灯りでも分かるほど使い込まれた槍だ。刃こぼれも酷く、もはや鈍器に近いのではないだろうか。研ぎに出す金を辛抱しているのだろうとは思うが、そんな槍でこれから先妖魔が出てきてもちゃんと戦えるか不安が残る。
「二人とも止まれ」
 先頭を歩いていた梅が不意に立ち止まった。松明で遠くを照らすようにしながら、闇の先を注意深く観察している。
「何か居たのか?」
 梅は問いには答えず、松明を隧道の奥に向かって放り投げた。すると奥から「ぎゃっ」という悲鳴が上がって松明の火が一瞬だけ人の足を浮かび上がらせ、あさっての方向へと転がっていった。
 三人は無言でそれぞれの武器を抜き警戒していたが、少し待っても何も聞こえて来ず、三人で顔を見合わせる。
「おい! そこに居るのは誰だ!」
 代表して梅が叫ぶと、奥で何かを擦るような音が反響した。やはり人が居るのだと確信すると、玲馨が持っていた松明を頼りに音のした方へ進んでいく。そして。
「ひ、ひぃっ、い、命だけは、命だけはどうかっ!!」
 灯りも何もない暗闇で、木の根に頭を埋めるようにして一人の男が丸まっていた。
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