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雲朱編
26第三採掘場
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「いやはや、まさか旅のお方だったとは。それならそうと早く言って下さいよー、旦那方」
大げさに肩を竦めてみせた男はそう言ってわざとらしく笑う。その抑揚の多い語り口や荷物の背負子を見るに行商人だろう。歳は三十を過ぎたくらいか。無精髭や些かみすぼらしい格好もそうだが、何よりあわいをたった一人で行こうとしているあたり、彼の商売はあまり上手くいっていないようだ。
紫沈を発ってからおよそ一日と半が過ぎ、玲馨たち一行は熔岩鉱山道の隧道を進んでいたところで、足を挫いて休憩していたという行商人の男と遭遇していた。
「あなたは何故お一人で? この辺りは既にあわいに入っていますよ」
「お察しの通り、護衛を雇うのをケチった口ですわ」
言い換えれば、この男は出費を渋って命を危険に晒していると言って笑っている事になる。玲馨には男の気が知れない。
「あのー旦那方。差し支えなけりゃ道中お供させてもらえませんかね?」
おおよそ男がそう頼んでくるだろう事は想像出来ていたので頷くと、男は我が子でも誕生したかのように喜んでみせた。
男は足を捻挫していると訴えた割にはそれをあまり感じさせず、玲馨たちの後ろを難なくついてきた。他人と物怖じせず話す風蘭が男の話し相手になってやっている。
梅は多少は調子を戻していたが、いつもの軽口が出てくるほどではないらしい。おかげで静かな前列まで後列の会話が聞こえてきていた。
男は格好から想像出来る通り行商を生業にしているという。売り物はその時々によって変わり、今回は品物の鮮度を保つためにわざわざ氷室から氷を貰って南に運ぶ途中だった。
隧道は暗く、地面には湿った苔か何かが生えているようで滑りやすい。うっかり足を滑らせた拍子に足を捻挫し尻を強か打ち付けたので休んでいたところ、玲馨たちが遅れて現れた。
男の話を聞いて、玲馨は彼の素性を怪しむ。
紫沈にある氷室は言うまでもなく皇室のための物だ。特に後宮で暮らす女子供たちが夏に涼をとる時に使われ、土がついていない綺麗な部分は砕いて果物と一緒に食べたりもする。
それをこんな小汚い男が売り物を新鮮に運ぶために、しかも地方から中央へ向けてではなくその逆の行路で氷を分けてもらったなど普通ではありえない。恐らく氷室番に伝手があり、皇室の許可なく拝借してきたのだろう。これを窃盗という。売り物が入っている背負子の中身も怪しいものだ。
城から一歩外に出ただけで、既にいくつの無法な出来事に遭遇したろうか。今まさに玲馨たちと行動を共にする風蘭もそのうちの一人だ。そのうち頭では覚えていられなくなりそうなので、どこかで書き留めておかなくてはいけないかも知れない。
「──待って! 全員止まって!」
風蘭が神経質に叫んだ後の、ほんの一瞬の隙だった。
「え」
気の抜けたような声が風蘭より少し後ろから上がり、ど、と重たい物が地面に落ちる音がした。
すかさず玲馨が後ろへ松明を向けると、少しも動かなくなった男が正面から地面に突っ伏していた。
「妖魔だ! 武器構えて!」
「言われなくてもとっくに構えてら」
梅が応答する頃には玲馨も右手で剣を抜き、付近を照らせるよう松明をなるべく高く掲げる。
妖魔には人のように気配というものが無い。少なくとも玲馨には感じられず、火の光を嫌うように少し先の闇の中で蠢く影をその目で捉えても、まるでそこに存在していないかのような不気味さがある。
しかし風蘭は誰より早く妖魔の出現を察知していた。もしよほど夜目が利くというのでもなければ、風蘭は何らかの力を持っている事になる。
「玲馨、少し下がってろ」
「任せていいんだな?」
「おう」
梅が答えるより早く、ず、ぶ、と梅の剣が妖魔の体を深く穿つ。妖魔は剣を刺したところを中心に弾け飛ぶように消え、また人型の妖魔を袈裟に斬れば灰のように崩れ落ちていく。
あわいの怪物である妖魔は、失った地脈を求めて生きた者の生気を吸う。風蘭の近くで転がったままびくともしなくなった男の事が気にかかった。
しかし梅一人で前方の妖魔を全て相手にするのは限界があり、一つ、また一つと玲馨の方へ討ち漏らしが流れてくる。
妖魔の体には指一本触れてはいけない。触れた傍から肉体の動きを奪われるかのように力がなくなり、腕の一本などすぐ駄目になる。
これで三度目の旅となる玲馨は、しかし決して油断はしていなかった。それでもじわじわといつの間にか数を増やしていた妖魔は玲馨を襲ってくる数も比例して増え、危うく松明を落としそうになる。
灯りは今この戦いでは生命線だ。何としても手放すまいとした結果、妖魔のどろりとどす黒く溶けた腕に似たものが玲馨へと伸びる。
「っ──!」
咄嗟に右手を引き剣を盾のようにして顔の前を守る。しかし、その剣には何の衝撃も訪れなかった。その代わりに松明の火を激しく揺らす風のようなものが玲馨を中心に隧道の奥へと広がっていき、妖魔は悲鳴さえ上げる事なく端から消滅していった。
これは──。
「ひーっ! 間一髪!!」
「戊陽と、同じ力……」
辛うじて玲馨の呟きを拾ったらしい梅がその目を眇めて風蘭を見遣る。
「兄さんたち怪我無かった……え、何? なに!?」
あんまりにも大人二人が見つめるもので風蘭は自分の体を見てそれから背後を振り返り、そこで行商の男を思い出して三人で駆け寄った。
「おい、起きろおっさん!」
うつ伏せに倒れている男の体をひっくり返し呼びかけるも、男は瞼を開いたまま石のように硬直し、息絶えていた。
これが、妖魔に触れられるという事なのか。
ぞ、と背筋を駆け上ってくるものがある。怖気だ。
「……こんな短時間で体が冷たくなっちまってる。持病で倒れたって訳でも、毒を呷ったんでも無さそうだな」
慣れた様子で遺体を確かめると、梅は男の瞼をそっと下ろしてやる。
気の毒だが、ここから人里まで男を運んでやる事は叶わない。食料や旅の資金を考えると紫沈へ引き返す訳にも、成人男性の体を背負って歩き旅程に遅れを出す訳にもいかなかった。
せめて埋めてやれたらと思うが、日中ですら妖魔が襲ってくるような暗い隧道の、更にはどこを掘っても木の根に行き当たりそうな地面では満足に弔ってやる事も出来無さそうだ。
男の不自然なほど固く冷たくなった亡骸を隧道の脇に運び三人はいっとき死を悼むと、再び出発する。
「オレの故郷は東江の端っこだから、少し外に出れば妖魔が出てくる事も珍しくなかったんだ。そんで、戦ってたらたまたま、みたいな? この力があれば母ちゃん連れて紫沈に行けるかもって思ったから来たんだよ。けど大して金は持って来れなくて、紫沈に辿り着いても浮民集落で暮らすしかなくってさー」
「お前……根明というよりさては馬鹿だな?」
「梅兄さんに言われたくねぇし」
「何だとぉ!?」
軽口を叩き合う二人の一方で、玲馨は別の事を考えていた。
浮民集落を通りがかった時に風蘭へと投げかけられた罵声を思い出す。
風蘭は、玲馨と梅以前にも護衛を引き受けた事があるのかもしれない。東江出身なのに雲朱への道を知っているのは、その時の経験からだろうか。そしてその時、今回のように妖魔にやられて護衛対象を死なせていたとしたら、一人戻ってきた風蘭が誹りを受けても不思議ではない。
「……風蘭、体に問題はないか?」
「ないよ? 何で?」
「妖魔祓いは大きく体力を消耗するものだろう」
「別に妖魔を退治して体がどうこうなったことないなぁ」
「……本当か?」
「今晩の見張りはオレがやったっていいぜ!」
梅も不思議そうな顔をしているので、岳川に架かる橋の上で妖魔と戦ったあの時は戊陽が意地を張り自分の不調を隠し通した事を思い出した。
「妖魔祓いの力には個人差があるものなのか……」
ふーん、と気のない返事の後、風蘭は梅の隣に並んで先頭を歩き始める。どうやら妖魔の気配が彼には分かるらしい。こういう事は早く言っておいてほしいものだが、恐らく事情があるのだろう。
──この人殺しが。
強い憎しみが籠もった声だった。力を隠す理由に過去の出来事が絡むのであれば、無理に暴く事は出来ない。それに、妖魔祓いともう一つ別の力の事を考えると、このまま隠して過ごした方が身のためだろう。
風蘭は、恐らく西の領地を治める金王の縁者だ。つまり蘇氏の血が流れている。
本人がそれに気付いている可能性は低い。知っていたらおいそれと人前で『金物を操る力』を発揮したりはしないだろう。東江から逃げてきたというなら尚更だ。
「兄さん方、気をつけろ」
玲馨の思考を風蘭の緊張を孕んだ声が破った。
「来たぜ、第二陣だ」
風蘭の声を食うようにして、闇の向こうに蠢くものが三人を襲い掛かった。
長く続いた天然の隧道を抜け切ると、茶褐色の土肌が傾斜を描く山の向こうに朝日が昇るのが見えた。
「だーっ! 疲れた……! 疲れたっ!!」
もはや声を出す元気さえも残っていない玲馨は顎を滴る汗を拭いながら無言で山を見上げる。
緑は無いが、あわいのように不毛の土地になってしまった訳ではない岩山。
「漸く熔岩鉱山か……」
木々や草花の萌芽のかわりに地下深くに鉱石を眠らせた宝の山である。あわいの発生以後も主な採石場は無事だったおかけで、今も雲朱を支える主要産業だ。
三人の目の前にも大きな洞穴のようなものがあるが今度こそ天然の物ではなく人工的に掘った穴だ。穴の入り口からは奥へと続く坑道が見える。
「おーい風蘭、こっからの道は? 案内しろー」
「えー! 休憩は!?」
夜通し妖魔と戦い続けたのだからもちろん休息は必要だが。
玲馨が周辺を見渡すと、つられて二人も同じように視線を動かした。
辺り一帯は岩場に囲まれて、足元の悪さも相変わらずだ。その上死角となる場所がなく、今ここで敵に見つかれば再びあの隧道に引き返さなくてはならなくなる。
──敵、か。
漠然と嫌な予感がずっと消えないままだ。常義と出会った辺りから悪いものが玲馨に付き纏っているような感覚がある。
妖魔の巣窟となっていた隧道に、単なる行商人が居たのも引っ掛かる。足を挫いたという割に足を引きずる様子もなく、皇室の氷室を使ったという突拍子もない話。
「風蘭、何事にも抜け道はあるのだったな」
「言ったけど」
「坑道を抜ける以外の道はあるか?」
「──無いわよぉ、そんなもの」
わっ、と三人が一斉に体勢を整え武器を構えると、「ひゃっ」と甲高い悲鳴が上がった。
「あ、あんたたちが旅人に見えたもんだから、あ、案内したげようってあたしは」
梅と視線を交わし、武器を下ろす。
突然背後に現れた女はほっと胸に手を当て息を吐き出す。
「親切で殺されるんじゃたまんないよ」
「悪いねぇ、お姉さんがあんまり美人だから驚いちまった」
「口が上手い男は信用ならないね。うちの息子なんてもうとっくに成人してるんだから、お世辞も過ぎればただの嘘さ」
梅がつまらなさそうに肩を竦めると、玲馨の肩を叩いて後ろに引っ込んだ。梅がたらしこむには相手の方がいくらか経験豊かだった。だが若い頃には美しかったろうという面影があるので、梅の言った事はあながち嘘ではないだろう。
「改めて謝罪を。私たちは紫沈から雲朱の親戚を頼ろうとあの隧道を抜けてきたところです」
「あらまぁあの道を? あんたたち強いんだねぇ」
驚きの中にも怪訝の色が混じったので玲馨がすかさず梅の方を見ながら「兄が元自警団だったのです」と付け加えておく。
「末の弟の母が死んで、兄は酒癖で職をなくしたので仕方なく雲朱へ」
はんっ、と梅が鼻で笑うのが聞こえる。自分が「酒癖の悪い兄」だと察したようだ。
「そうかい。そりゃ苦労したねぇ」
玲馨の身の上話に憐れむように眉を下げて女は同情してくれる。良い人だ。尤も、咄嗟に仕立てた異母兄弟の不幸話にやすやすと騙されるのはどうかと思うが。
「中央って言やぁあたしの幼馴染みもえらく苦労して中央の役人になったよ。南の女は気が強くてかなわんって訳分かんないこと言ってね。自分が小心者だから女の尻に敷かれるって分かってたんだろうさ」
抑揚をつけた豪快な話し方や言葉遣いを聞くに彼女は「南の女」そのものような気がしたが、余計な事は言わないにこした事はない。
「ところであなたは何故こんなところへ?」
「あたしは熔岩第三採掘場の飯炊き女だよ。ここいらは町から離れてるからみんな住み込みで、仲間の女たちはあっちの沢に洗濯に行ったところさ」
あっち、と言って指差すのは隧道側に広がる深い森だ。熔岩鉱山は隧道の辺りを堺にがらりと景色が変わるのが特徴的だ。
女は遠目に玲馨たちの姿が見えたので、最初に言った通り案内をしてやろうと一人こちらへ来たという。
「しかし、何故案内を?」
金が欲しいのだろうかと思ったが違うらしい。
「あんたたち坑道の中がどうなってるか知らないね? あの中はまさに迷路さ。鉱夫やあたしらみたいなの以外は迷子になって食料が尽きて、最後は廃坑に行き当たっておっ死ぬのが関の山さ」
ちらと横目に風蘭を見遣るとすっとぼけた顔をしているので彼も知らなかったようだ。雲朱までの道を知っているというのは護衛の仕事をなくしたくないがための嘘だったのかも知れない。もしくは途中までしか知らなかったか。
「死なれちゃ病が出て困るし、鉱夫の仕事の邪魔んなってもいけないからね。たまな旅人には飯炊き女が第一採掘場まで案内するって事になってんのさ」
「なるほどなぁ。じゃあ早速案内してくれって言いたいところだが、どっかでちっと休ませてくれねぇか? さっき沢があるって言ってたろ。俺たち一晩掛けてあの隧道抜けてきたばっかで疲れてんだ」
「そうだね。じゃあ先にそっちに連れてったげるよ」
楊美子と女が名乗ると玲馨は内心でぎょっとしていた。怪しまれてはいけないのでおくびにも出さなかったが、楊は林隆宸の生家と同じ姓だ。楊美子はどこからどう見ても平民で、恐らく楊氏が治めていた土地の出身というだけだろう。生粋の雲朱人ではないのか、はたまた先祖が東江の生まれなのか。
つくづく奇妙な縁に出会うものだと思いながら楊美子に連れられ小川の方へ下っていくと、老若様々な飯炊き女たちにわらわらと囲まれた。
「ねぇやだ、綺麗な顔だねお兄さん」
「結婚は? 故郷は紫沈なんだってね。兄弟で来たって事は好い子が居ないんだ」
「じゃああたしが立候補しようかなぁ」
「あんたじゃ無理よぅ。ねぇそっちのお兄さんも脱いだら結構良い体してるんじゃない?」
「筋肉ならうちの男たちで我慢しなさいよ」
「あんな筋肉達磨、汗臭くってたまんないわ!」
「坊や、大変だったねぇ、あの隧道は怖い妖魔ばっかりだもの」
「今日一日ゆっくり休んでくといいわ。ね、そうなさいな」
姦しいとはまさにこの事で、疲れ果てた今の玲馨ではとてもではないが彼女たちの相手は務まらない。そうでなくても身の回りの女と言えば高貴な生まれの妃やその娘たちなので、こんなによく喋る女への耐性がまるでなかった。
一方梅は慣れたもので女たちの話に頷きながら上手に言葉を返している。風蘭もまた大人に気後れするような子供ではないので菓子か何かを貰って素直に喜んでいた。
玲馨は女たちの相手を二人に任せてどうにか抜け出すと、沢の水に水筒を浸して水を汲む。
すっかり日が昇ると雲朱の暖かい気候を実感していた。日中には汗ばむほどになるだろう。今は冷たく感じるこの沢の水も、昼時なら足をつけて涼むのに良さそうだ。
「すまないねぇ羅さん」
ひとまず名乗れる姓がなかったので咄嗟に梅の昔の名を借りる事にしていた。羅と呼ばれて一瞬反応が遅れたが、特に訝られた様子はない。
「ここいらは人の行き交いが無いせいで、若いうちに働きに来た子なんかは外の人間が珍しくて仕方ないんだよ。食い扶持に困った無宿者なんかは仕事欲しさによく来るんたけどねぇ」
「いえ。閉鎖的な土地だと、そうなってしまうのも仕方がないのでしょう」
幼少の頃の戊陽は兄弟たちの宮を訪ねる時に必ず玲馨を伴った。二妃や三妃は母同士の関係は良くなくとも、その子供まで恨むような人柄ではなく、宮殿の外の事を話してくれる戊陽の来訪を拒む事はしなかった。それはやはり、閉塞的な環境からくる外への憧れもあったのだろう。
「あんたは他二人と何だか違うね? 異母兄弟って話だったけど、違うところで育ったのかい?」
「……ええ。母方の祖父が私塾を開いていたので、そこで少しばかり学を身につける機会があったのです」
言葉を無理に崩すより、こうしておいた方が自然だろう。
頭に思い浮かんだ翁の姿は燕太傅だ。祖父だなんておこがましくてとても名は出せないが、玲馨に教養を与えてくれたのは間違いなく彼の人だ。
「ここが第三採掘場という事は、第一の南が雲朱ですか?」
「いいや。数字は見つかった順に割り振られてるから、雲朱に一番近いのは第四になるよ」
楊美子は大きさの違う小石を五つ拾い、一番大きな石の下に四つをばらばらに並べる。
「この大きいのが雲朱だとするよ? そしたらあたしたちが今いる一番北、ここが第三。ここから一旦西の第一採掘場を経由して南の第四に行く必要がある。坑道がそんな風に掘られてんのさ。どうしたって今すぐ雲朱に行きたいってんなら山肌を歩いていくしかないねぇ」
断崖絶壁と言うほどではないが熔岩鉱山は人の足で通れるような山の形をしていない。岩石があちこちに突き出しており、街道を敷けるような平坦な場所が極端に少なかった。つまり雲朱へはどうしたって坑道を抜けるしかないという事だ。
「ですが、確か隧道の外にも道があったはずでは?」
「ありゃ、あんたたちてっきり知ってるから隧道の方を無理して通ってきたんだとばかり」
「いえ、その……行商人に行き合いまして。その方に隧道を行かない道を聞いたのです」
「じゃあその商人は知ってたのかもねぇ。隧道を通らない道は今臨時の関所が置かれてるんだよ。一週間だかそれくらい前に急にね。それからぽつぽつここを通る旅人が増えたけど、あんたたちみたいに無傷でピンピンしてる御一行様は珍しいかも」
──関所? 一週間前に?
紫沈から雲朱への道に関所を置くという話は紫沈では聞かなかった。となるとその関所は雲朱側が敷いたものだ。
関所の目的は一体どちらだろうか。雲朱から出ていく何かを探しているのか、それとも紫沈からくる何かを引き止めるためか。通るのに金を取るようなら城に報告が行くはずなので、恐らく金目的ではないだろう。
「何分雲朱へは初めてだったので。たまたま隧道を見つけられて良かったのかも知れません」
「運がいいねぇ。人探しをしてるって聞くから、背格好が似てるってだけで捕まったりしたかも知れないよ」
「それは、恐ろしい事です」
水を汲み終える頃には女たちは洗濯を始めたようで、二人は彼女たちの包囲網から解放されていた。尤も梅にとっては極楽で、風蘭にとっはただお菓子をくれるだけの大人たちだったようだが。
川辺に火を熾して休む二人と合流すると、楊美子から聞いた関所の話を二人にも聞かせる。
「関所ねぇ。中央に許可なくそんな事していいのか?」
「例えば規模の大きい盗賊団などが逃走し急を要する事態ならば事後報告でも許可が出る。だが……そうでなくとも今の朝廷に、雲朱の動きを抑制するのは難しいだろうな」
関所が置かれて一週間も経っているのに戊陽のもとにその情報が入っていないとなると、どこかでその報告が止まっている可能性が高い。
つまりそういう事だ。中央側に知られては困るような事を関所で取り調べているのだろう。そして同時にそれだけ戊陽の力が弱い事の証左でもある。
人探し、と楊美子は言っていたが、それがどこまで正しい情報かも分からない。とにかく現状は偶然とはいえ隧道の方を通ってきて良かったと思っておくしかないだろう。
それから日が中天に昇る頃まで休息を取った。
昼過ぎに沢へ戻ってきた楊美子について坑道を進んでいくと、筋骨隆々の鉱夫たちとすれ違う。ツルハシ片手に襲い掛かられたら玲馨では到底敵わないような屈強な男たちばかりだ。
楊美子は仕事のついでに玲馨たちを案内するようで、道中すれ違う男たちに食事を配っていく。配っているのは饅頭のようだ。これを合図に鉱夫は昼休憩を取るらしい。
道は複雑に入り組んでおり、この採掘場が発見されてから随分長い時が経っている事が分かる。証拠にすれ違うのはどれも荷車に掘った石を乗せて運ぶ男たちばかりで、ツルハシで岸壁を掘る姿は見かけない。もうこの付近は掘り尽くしたという事だ。
「一体どこらを掘ってんだって顔だね」
図星だったので気まずくなって小さく笑う。そんなに顔に出ていただろうか。
「あたしたちが進んでるのはあくまで第一に行く道だから、今まさに採掘してる切羽は通らないんだよ」
「ねぇおばちゃん。あとどれくらいかかるの?」
「夜には着くさ」
「夜!? そんな遠いのかよー……」
思わず叫んだ風蘭の声がわん、と響いて次第に消えていく。
玲馨は遠さよりもこの第三採掘場の規模に驚いた。人の手で掘った道を抜けるのに半日もかかるのだ。それも西の第一採掘場まで脇道に逸れる事なく行くのだから、あちこちに伸びた他の坑道の長さを足せばどれほどの距離になるかもはや想像がつかない。
「第三ったって、見つかってから百年は経ってるって話だよ。だから初めてこの山に入る鉱夫なんかはまず道を覚えるところからさね」
坑道の天井や壁には坑内支保といって木材で枠を組んで崩れてこないよう支えがしてある。柱の一つ一つには燭台がついており、その全てに火が灯っていた。これらの灯りを維持するだけでも相応の油が必要だろうが、その支出を補って余りあるほど鉱業とは儲かるものなのだろう。
この第三採掘場で採鉱されるのは主に金と銀で後は少量の紫水晶だそうだ。他の採掘場ではまた違う物が出るという。
鉱石と言われて思い出すのは四郎と于雨の事だ。于雨はあれからどうしただろうか。どんな選択をとっても玲馨はそれに口を出すつもりはない。だけどその一方で無責任だったかも知れないという悔いはある。
玲馨は半ば于雨を保護する立場だった。他にもたくさんの子供が永参に手籠めにされる中で、脈読の力を持つ子供だからという理由で玲馨は于雨だけを救った。いや、救ったのではない。正しく手中に収めたのだ。そのくせ、先の事は自分で決めろと放り出すのだから勝手だと責められても返す言葉はない。
何が正しかったのだろうか。素性の知れない四郎の事など明かさず、于雨をいち宦官として教育するだけが良かったのだろうか。
けれど玲馨はもうずっと昔に自分のために生きるのだと決めていた。于雨が玲馨を頼るなら最大限の事をして彼を助けるつもりだが、玲馨の展望の邪魔になるというならその限りではない。
玲馨はふと思った。自分は魔だと。女でもなければましてや男でもない、あわいに生きる、魔だ。
大げさに肩を竦めてみせた男はそう言ってわざとらしく笑う。その抑揚の多い語り口や荷物の背負子を見るに行商人だろう。歳は三十を過ぎたくらいか。無精髭や些かみすぼらしい格好もそうだが、何よりあわいをたった一人で行こうとしているあたり、彼の商売はあまり上手くいっていないようだ。
紫沈を発ってからおよそ一日と半が過ぎ、玲馨たち一行は熔岩鉱山道の隧道を進んでいたところで、足を挫いて休憩していたという行商人の男と遭遇していた。
「あなたは何故お一人で? この辺りは既にあわいに入っていますよ」
「お察しの通り、護衛を雇うのをケチった口ですわ」
言い換えれば、この男は出費を渋って命を危険に晒していると言って笑っている事になる。玲馨には男の気が知れない。
「あのー旦那方。差し支えなけりゃ道中お供させてもらえませんかね?」
おおよそ男がそう頼んでくるだろう事は想像出来ていたので頷くと、男は我が子でも誕生したかのように喜んでみせた。
男は足を捻挫していると訴えた割にはそれをあまり感じさせず、玲馨たちの後ろを難なくついてきた。他人と物怖じせず話す風蘭が男の話し相手になってやっている。
梅は多少は調子を戻していたが、いつもの軽口が出てくるほどではないらしい。おかげで静かな前列まで後列の会話が聞こえてきていた。
男は格好から想像出来る通り行商を生業にしているという。売り物はその時々によって変わり、今回は品物の鮮度を保つためにわざわざ氷室から氷を貰って南に運ぶ途中だった。
隧道は暗く、地面には湿った苔か何かが生えているようで滑りやすい。うっかり足を滑らせた拍子に足を捻挫し尻を強か打ち付けたので休んでいたところ、玲馨たちが遅れて現れた。
男の話を聞いて、玲馨は彼の素性を怪しむ。
紫沈にある氷室は言うまでもなく皇室のための物だ。特に後宮で暮らす女子供たちが夏に涼をとる時に使われ、土がついていない綺麗な部分は砕いて果物と一緒に食べたりもする。
それをこんな小汚い男が売り物を新鮮に運ぶために、しかも地方から中央へ向けてではなくその逆の行路で氷を分けてもらったなど普通ではありえない。恐らく氷室番に伝手があり、皇室の許可なく拝借してきたのだろう。これを窃盗という。売り物が入っている背負子の中身も怪しいものだ。
城から一歩外に出ただけで、既にいくつの無法な出来事に遭遇したろうか。今まさに玲馨たちと行動を共にする風蘭もそのうちの一人だ。そのうち頭では覚えていられなくなりそうなので、どこかで書き留めておかなくてはいけないかも知れない。
「──待って! 全員止まって!」
風蘭が神経質に叫んだ後の、ほんの一瞬の隙だった。
「え」
気の抜けたような声が風蘭より少し後ろから上がり、ど、と重たい物が地面に落ちる音がした。
すかさず玲馨が後ろへ松明を向けると、少しも動かなくなった男が正面から地面に突っ伏していた。
「妖魔だ! 武器構えて!」
「言われなくてもとっくに構えてら」
梅が応答する頃には玲馨も右手で剣を抜き、付近を照らせるよう松明をなるべく高く掲げる。
妖魔には人のように気配というものが無い。少なくとも玲馨には感じられず、火の光を嫌うように少し先の闇の中で蠢く影をその目で捉えても、まるでそこに存在していないかのような不気味さがある。
しかし風蘭は誰より早く妖魔の出現を察知していた。もしよほど夜目が利くというのでもなければ、風蘭は何らかの力を持っている事になる。
「玲馨、少し下がってろ」
「任せていいんだな?」
「おう」
梅が答えるより早く、ず、ぶ、と梅の剣が妖魔の体を深く穿つ。妖魔は剣を刺したところを中心に弾け飛ぶように消え、また人型の妖魔を袈裟に斬れば灰のように崩れ落ちていく。
あわいの怪物である妖魔は、失った地脈を求めて生きた者の生気を吸う。風蘭の近くで転がったままびくともしなくなった男の事が気にかかった。
しかし梅一人で前方の妖魔を全て相手にするのは限界があり、一つ、また一つと玲馨の方へ討ち漏らしが流れてくる。
妖魔の体には指一本触れてはいけない。触れた傍から肉体の動きを奪われるかのように力がなくなり、腕の一本などすぐ駄目になる。
これで三度目の旅となる玲馨は、しかし決して油断はしていなかった。それでもじわじわといつの間にか数を増やしていた妖魔は玲馨を襲ってくる数も比例して増え、危うく松明を落としそうになる。
灯りは今この戦いでは生命線だ。何としても手放すまいとした結果、妖魔のどろりとどす黒く溶けた腕に似たものが玲馨へと伸びる。
「っ──!」
咄嗟に右手を引き剣を盾のようにして顔の前を守る。しかし、その剣には何の衝撃も訪れなかった。その代わりに松明の火を激しく揺らす風のようなものが玲馨を中心に隧道の奥へと広がっていき、妖魔は悲鳴さえ上げる事なく端から消滅していった。
これは──。
「ひーっ! 間一髪!!」
「戊陽と、同じ力……」
辛うじて玲馨の呟きを拾ったらしい梅がその目を眇めて風蘭を見遣る。
「兄さんたち怪我無かった……え、何? なに!?」
あんまりにも大人二人が見つめるもので風蘭は自分の体を見てそれから背後を振り返り、そこで行商の男を思い出して三人で駆け寄った。
「おい、起きろおっさん!」
うつ伏せに倒れている男の体をひっくり返し呼びかけるも、男は瞼を開いたまま石のように硬直し、息絶えていた。
これが、妖魔に触れられるという事なのか。
ぞ、と背筋を駆け上ってくるものがある。怖気だ。
「……こんな短時間で体が冷たくなっちまってる。持病で倒れたって訳でも、毒を呷ったんでも無さそうだな」
慣れた様子で遺体を確かめると、梅は男の瞼をそっと下ろしてやる。
気の毒だが、ここから人里まで男を運んでやる事は叶わない。食料や旅の資金を考えると紫沈へ引き返す訳にも、成人男性の体を背負って歩き旅程に遅れを出す訳にもいかなかった。
せめて埋めてやれたらと思うが、日中ですら妖魔が襲ってくるような暗い隧道の、更にはどこを掘っても木の根に行き当たりそうな地面では満足に弔ってやる事も出来無さそうだ。
男の不自然なほど固く冷たくなった亡骸を隧道の脇に運び三人はいっとき死を悼むと、再び出発する。
「オレの故郷は東江の端っこだから、少し外に出れば妖魔が出てくる事も珍しくなかったんだ。そんで、戦ってたらたまたま、みたいな? この力があれば母ちゃん連れて紫沈に行けるかもって思ったから来たんだよ。けど大して金は持って来れなくて、紫沈に辿り着いても浮民集落で暮らすしかなくってさー」
「お前……根明というよりさては馬鹿だな?」
「梅兄さんに言われたくねぇし」
「何だとぉ!?」
軽口を叩き合う二人の一方で、玲馨は別の事を考えていた。
浮民集落を通りがかった時に風蘭へと投げかけられた罵声を思い出す。
風蘭は、玲馨と梅以前にも護衛を引き受けた事があるのかもしれない。東江出身なのに雲朱への道を知っているのは、その時の経験からだろうか。そしてその時、今回のように妖魔にやられて護衛対象を死なせていたとしたら、一人戻ってきた風蘭が誹りを受けても不思議ではない。
「……風蘭、体に問題はないか?」
「ないよ? 何で?」
「妖魔祓いは大きく体力を消耗するものだろう」
「別に妖魔を退治して体がどうこうなったことないなぁ」
「……本当か?」
「今晩の見張りはオレがやったっていいぜ!」
梅も不思議そうな顔をしているので、岳川に架かる橋の上で妖魔と戦ったあの時は戊陽が意地を張り自分の不調を隠し通した事を思い出した。
「妖魔祓いの力には個人差があるものなのか……」
ふーん、と気のない返事の後、風蘭は梅の隣に並んで先頭を歩き始める。どうやら妖魔の気配が彼には分かるらしい。こういう事は早く言っておいてほしいものだが、恐らく事情があるのだろう。
──この人殺しが。
強い憎しみが籠もった声だった。力を隠す理由に過去の出来事が絡むのであれば、無理に暴く事は出来ない。それに、妖魔祓いともう一つ別の力の事を考えると、このまま隠して過ごした方が身のためだろう。
風蘭は、恐らく西の領地を治める金王の縁者だ。つまり蘇氏の血が流れている。
本人がそれに気付いている可能性は低い。知っていたらおいそれと人前で『金物を操る力』を発揮したりはしないだろう。東江から逃げてきたというなら尚更だ。
「兄さん方、気をつけろ」
玲馨の思考を風蘭の緊張を孕んだ声が破った。
「来たぜ、第二陣だ」
風蘭の声を食うようにして、闇の向こうに蠢くものが三人を襲い掛かった。
長く続いた天然の隧道を抜け切ると、茶褐色の土肌が傾斜を描く山の向こうに朝日が昇るのが見えた。
「だーっ! 疲れた……! 疲れたっ!!」
もはや声を出す元気さえも残っていない玲馨は顎を滴る汗を拭いながら無言で山を見上げる。
緑は無いが、あわいのように不毛の土地になってしまった訳ではない岩山。
「漸く熔岩鉱山か……」
木々や草花の萌芽のかわりに地下深くに鉱石を眠らせた宝の山である。あわいの発生以後も主な採石場は無事だったおかけで、今も雲朱を支える主要産業だ。
三人の目の前にも大きな洞穴のようなものがあるが今度こそ天然の物ではなく人工的に掘った穴だ。穴の入り口からは奥へと続く坑道が見える。
「おーい風蘭、こっからの道は? 案内しろー」
「えー! 休憩は!?」
夜通し妖魔と戦い続けたのだからもちろん休息は必要だが。
玲馨が周辺を見渡すと、つられて二人も同じように視線を動かした。
辺り一帯は岩場に囲まれて、足元の悪さも相変わらずだ。その上死角となる場所がなく、今ここで敵に見つかれば再びあの隧道に引き返さなくてはならなくなる。
──敵、か。
漠然と嫌な予感がずっと消えないままだ。常義と出会った辺りから悪いものが玲馨に付き纏っているような感覚がある。
妖魔の巣窟となっていた隧道に、単なる行商人が居たのも引っ掛かる。足を挫いたという割に足を引きずる様子もなく、皇室の氷室を使ったという突拍子もない話。
「風蘭、何事にも抜け道はあるのだったな」
「言ったけど」
「坑道を抜ける以外の道はあるか?」
「──無いわよぉ、そんなもの」
わっ、と三人が一斉に体勢を整え武器を構えると、「ひゃっ」と甲高い悲鳴が上がった。
「あ、あんたたちが旅人に見えたもんだから、あ、案内したげようってあたしは」
梅と視線を交わし、武器を下ろす。
突然背後に現れた女はほっと胸に手を当て息を吐き出す。
「親切で殺されるんじゃたまんないよ」
「悪いねぇ、お姉さんがあんまり美人だから驚いちまった」
「口が上手い男は信用ならないね。うちの息子なんてもうとっくに成人してるんだから、お世辞も過ぎればただの嘘さ」
梅がつまらなさそうに肩を竦めると、玲馨の肩を叩いて後ろに引っ込んだ。梅がたらしこむには相手の方がいくらか経験豊かだった。だが若い頃には美しかったろうという面影があるので、梅の言った事はあながち嘘ではないだろう。
「改めて謝罪を。私たちは紫沈から雲朱の親戚を頼ろうとあの隧道を抜けてきたところです」
「あらまぁあの道を? あんたたち強いんだねぇ」
驚きの中にも怪訝の色が混じったので玲馨がすかさず梅の方を見ながら「兄が元自警団だったのです」と付け加えておく。
「末の弟の母が死んで、兄は酒癖で職をなくしたので仕方なく雲朱へ」
はんっ、と梅が鼻で笑うのが聞こえる。自分が「酒癖の悪い兄」だと察したようだ。
「そうかい。そりゃ苦労したねぇ」
玲馨の身の上話に憐れむように眉を下げて女は同情してくれる。良い人だ。尤も、咄嗟に仕立てた異母兄弟の不幸話にやすやすと騙されるのはどうかと思うが。
「中央って言やぁあたしの幼馴染みもえらく苦労して中央の役人になったよ。南の女は気が強くてかなわんって訳分かんないこと言ってね。自分が小心者だから女の尻に敷かれるって分かってたんだろうさ」
抑揚をつけた豪快な話し方や言葉遣いを聞くに彼女は「南の女」そのものような気がしたが、余計な事は言わないにこした事はない。
「ところであなたは何故こんなところへ?」
「あたしは熔岩第三採掘場の飯炊き女だよ。ここいらは町から離れてるからみんな住み込みで、仲間の女たちはあっちの沢に洗濯に行ったところさ」
あっち、と言って指差すのは隧道側に広がる深い森だ。熔岩鉱山は隧道の辺りを堺にがらりと景色が変わるのが特徴的だ。
女は遠目に玲馨たちの姿が見えたので、最初に言った通り案内をしてやろうと一人こちらへ来たという。
「しかし、何故案内を?」
金が欲しいのだろうかと思ったが違うらしい。
「あんたたち坑道の中がどうなってるか知らないね? あの中はまさに迷路さ。鉱夫やあたしらみたいなの以外は迷子になって食料が尽きて、最後は廃坑に行き当たっておっ死ぬのが関の山さ」
ちらと横目に風蘭を見遣るとすっとぼけた顔をしているので彼も知らなかったようだ。雲朱までの道を知っているというのは護衛の仕事をなくしたくないがための嘘だったのかも知れない。もしくは途中までしか知らなかったか。
「死なれちゃ病が出て困るし、鉱夫の仕事の邪魔んなってもいけないからね。たまな旅人には飯炊き女が第一採掘場まで案内するって事になってんのさ」
「なるほどなぁ。じゃあ早速案内してくれって言いたいところだが、どっかでちっと休ませてくれねぇか? さっき沢があるって言ってたろ。俺たち一晩掛けてあの隧道抜けてきたばっかで疲れてんだ」
「そうだね。じゃあ先にそっちに連れてったげるよ」
楊美子と女が名乗ると玲馨は内心でぎょっとしていた。怪しまれてはいけないのでおくびにも出さなかったが、楊は林隆宸の生家と同じ姓だ。楊美子はどこからどう見ても平民で、恐らく楊氏が治めていた土地の出身というだけだろう。生粋の雲朱人ではないのか、はたまた先祖が東江の生まれなのか。
つくづく奇妙な縁に出会うものだと思いながら楊美子に連れられ小川の方へ下っていくと、老若様々な飯炊き女たちにわらわらと囲まれた。
「ねぇやだ、綺麗な顔だねお兄さん」
「結婚は? 故郷は紫沈なんだってね。兄弟で来たって事は好い子が居ないんだ」
「じゃああたしが立候補しようかなぁ」
「あんたじゃ無理よぅ。ねぇそっちのお兄さんも脱いだら結構良い体してるんじゃない?」
「筋肉ならうちの男たちで我慢しなさいよ」
「あんな筋肉達磨、汗臭くってたまんないわ!」
「坊や、大変だったねぇ、あの隧道は怖い妖魔ばっかりだもの」
「今日一日ゆっくり休んでくといいわ。ね、そうなさいな」
姦しいとはまさにこの事で、疲れ果てた今の玲馨ではとてもではないが彼女たちの相手は務まらない。そうでなくても身の回りの女と言えば高貴な生まれの妃やその娘たちなので、こんなによく喋る女への耐性がまるでなかった。
一方梅は慣れたもので女たちの話に頷きながら上手に言葉を返している。風蘭もまた大人に気後れするような子供ではないので菓子か何かを貰って素直に喜んでいた。
玲馨は女たちの相手を二人に任せてどうにか抜け出すと、沢の水に水筒を浸して水を汲む。
すっかり日が昇ると雲朱の暖かい気候を実感していた。日中には汗ばむほどになるだろう。今は冷たく感じるこの沢の水も、昼時なら足をつけて涼むのに良さそうだ。
「すまないねぇ羅さん」
ひとまず名乗れる姓がなかったので咄嗟に梅の昔の名を借りる事にしていた。羅と呼ばれて一瞬反応が遅れたが、特に訝られた様子はない。
「ここいらは人の行き交いが無いせいで、若いうちに働きに来た子なんかは外の人間が珍しくて仕方ないんだよ。食い扶持に困った無宿者なんかは仕事欲しさによく来るんたけどねぇ」
「いえ。閉鎖的な土地だと、そうなってしまうのも仕方がないのでしょう」
幼少の頃の戊陽は兄弟たちの宮を訪ねる時に必ず玲馨を伴った。二妃や三妃は母同士の関係は良くなくとも、その子供まで恨むような人柄ではなく、宮殿の外の事を話してくれる戊陽の来訪を拒む事はしなかった。それはやはり、閉塞的な環境からくる外への憧れもあったのだろう。
「あんたは他二人と何だか違うね? 異母兄弟って話だったけど、違うところで育ったのかい?」
「……ええ。母方の祖父が私塾を開いていたので、そこで少しばかり学を身につける機会があったのです」
言葉を無理に崩すより、こうしておいた方が自然だろう。
頭に思い浮かんだ翁の姿は燕太傅だ。祖父だなんておこがましくてとても名は出せないが、玲馨に教養を与えてくれたのは間違いなく彼の人だ。
「ここが第三採掘場という事は、第一の南が雲朱ですか?」
「いいや。数字は見つかった順に割り振られてるから、雲朱に一番近いのは第四になるよ」
楊美子は大きさの違う小石を五つ拾い、一番大きな石の下に四つをばらばらに並べる。
「この大きいのが雲朱だとするよ? そしたらあたしたちが今いる一番北、ここが第三。ここから一旦西の第一採掘場を経由して南の第四に行く必要がある。坑道がそんな風に掘られてんのさ。どうしたって今すぐ雲朱に行きたいってんなら山肌を歩いていくしかないねぇ」
断崖絶壁と言うほどではないが熔岩鉱山は人の足で通れるような山の形をしていない。岩石があちこちに突き出しており、街道を敷けるような平坦な場所が極端に少なかった。つまり雲朱へはどうしたって坑道を抜けるしかないという事だ。
「ですが、確か隧道の外にも道があったはずでは?」
「ありゃ、あんたたちてっきり知ってるから隧道の方を無理して通ってきたんだとばかり」
「いえ、その……行商人に行き合いまして。その方に隧道を行かない道を聞いたのです」
「じゃあその商人は知ってたのかもねぇ。隧道を通らない道は今臨時の関所が置かれてるんだよ。一週間だかそれくらい前に急にね。それからぽつぽつここを通る旅人が増えたけど、あんたたちみたいに無傷でピンピンしてる御一行様は珍しいかも」
──関所? 一週間前に?
紫沈から雲朱への道に関所を置くという話は紫沈では聞かなかった。となるとその関所は雲朱側が敷いたものだ。
関所の目的は一体どちらだろうか。雲朱から出ていく何かを探しているのか、それとも紫沈からくる何かを引き止めるためか。通るのに金を取るようなら城に報告が行くはずなので、恐らく金目的ではないだろう。
「何分雲朱へは初めてだったので。たまたま隧道を見つけられて良かったのかも知れません」
「運がいいねぇ。人探しをしてるって聞くから、背格好が似てるってだけで捕まったりしたかも知れないよ」
「それは、恐ろしい事です」
水を汲み終える頃には女たちは洗濯を始めたようで、二人は彼女たちの包囲網から解放されていた。尤も梅にとっては極楽で、風蘭にとっはただお菓子をくれるだけの大人たちだったようだが。
川辺に火を熾して休む二人と合流すると、楊美子から聞いた関所の話を二人にも聞かせる。
「関所ねぇ。中央に許可なくそんな事していいのか?」
「例えば規模の大きい盗賊団などが逃走し急を要する事態ならば事後報告でも許可が出る。だが……そうでなくとも今の朝廷に、雲朱の動きを抑制するのは難しいだろうな」
関所が置かれて一週間も経っているのに戊陽のもとにその情報が入っていないとなると、どこかでその報告が止まっている可能性が高い。
つまりそういう事だ。中央側に知られては困るような事を関所で取り調べているのだろう。そして同時にそれだけ戊陽の力が弱い事の証左でもある。
人探し、と楊美子は言っていたが、それがどこまで正しい情報かも分からない。とにかく現状は偶然とはいえ隧道の方を通ってきて良かったと思っておくしかないだろう。
それから日が中天に昇る頃まで休息を取った。
昼過ぎに沢へ戻ってきた楊美子について坑道を進んでいくと、筋骨隆々の鉱夫たちとすれ違う。ツルハシ片手に襲い掛かられたら玲馨では到底敵わないような屈強な男たちばかりだ。
楊美子は仕事のついでに玲馨たちを案内するようで、道中すれ違う男たちに食事を配っていく。配っているのは饅頭のようだ。これを合図に鉱夫は昼休憩を取るらしい。
道は複雑に入り組んでおり、この採掘場が発見されてから随分長い時が経っている事が分かる。証拠にすれ違うのはどれも荷車に掘った石を乗せて運ぶ男たちばかりで、ツルハシで岸壁を掘る姿は見かけない。もうこの付近は掘り尽くしたという事だ。
「一体どこらを掘ってんだって顔だね」
図星だったので気まずくなって小さく笑う。そんなに顔に出ていただろうか。
「あたしたちが進んでるのはあくまで第一に行く道だから、今まさに採掘してる切羽は通らないんだよ」
「ねぇおばちゃん。あとどれくらいかかるの?」
「夜には着くさ」
「夜!? そんな遠いのかよー……」
思わず叫んだ風蘭の声がわん、と響いて次第に消えていく。
玲馨は遠さよりもこの第三採掘場の規模に驚いた。人の手で掘った道を抜けるのに半日もかかるのだ。それも西の第一採掘場まで脇道に逸れる事なく行くのだから、あちこちに伸びた他の坑道の長さを足せばどれほどの距離になるかもはや想像がつかない。
「第三ったって、見つかってから百年は経ってるって話だよ。だから初めてこの山に入る鉱夫なんかはまず道を覚えるところからさね」
坑道の天井や壁には坑内支保といって木材で枠を組んで崩れてこないよう支えがしてある。柱の一つ一つには燭台がついており、その全てに火が灯っていた。これらの灯りを維持するだけでも相応の油が必要だろうが、その支出を補って余りあるほど鉱業とは儲かるものなのだろう。
この第三採掘場で採鉱されるのは主に金と銀で後は少量の紫水晶だそうだ。他の採掘場ではまた違う物が出るという。
鉱石と言われて思い出すのは四郎と于雨の事だ。于雨はあれからどうしただろうか。どんな選択をとっても玲馨はそれに口を出すつもりはない。だけどその一方で無責任だったかも知れないという悔いはある。
玲馨は半ば于雨を保護する立場だった。他にもたくさんの子供が永参に手籠めにされる中で、脈読の力を持つ子供だからという理由で玲馨は于雨だけを救った。いや、救ったのではない。正しく手中に収めたのだ。そのくせ、先の事は自分で決めろと放り出すのだから勝手だと責められても返す言葉はない。
何が正しかったのだろうか。素性の知れない四郎の事など明かさず、于雨をいち宦官として教育するだけが良かったのだろうか。
けれど玲馨はもうずっと昔に自分のために生きるのだと決めていた。于雨が玲馨を頼るなら最大限の事をして彼を助けるつもりだが、玲馨の展望の邪魔になるというならその限りではない。
玲馨はふと思った。自分は魔だと。女でもなければましてや男でもない、あわいに生きる、魔だ。
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