あわいの宦官

沖弉 えぬ

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雲朱編

28義絶

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 先日、戊陽ウーヤンの房事を手伝った日から、彼との間になんとも言葉にしがたい空気が漂っている。
 ぎこちない。しかし、嫌ではない。ちら、と目が合うと戊陽は一度目を逸らしてすぐにまた玲馨リンシンを見て目を細めた。その仕草がどうにもくすぐったい。しかも自分は戊陽がこちらを見てくれるのを待っている。それを自覚した時、訳もなく叫び出したい衝動に駆られた。
 こんな事は初めてだ。正直に言ってすっかり持て余している。日常の仕事に影響は出ていないが、いつ失敗するかも分からないほど地に足がついていないのが自分でよく分かった。
 こんな事ではいけないと自分に言い聞かせ、心を入れ替えようと思った矢先の事だった。
「これを、お前にと預かってきた」
 賢妃けんひ宮の戊陽の寝所、初代皇帝の名を示す文字を崩して透かし彫りにした漏窓に寄りかかり、戊陽はぶっきらぼうに丸めた紙を片手で差し出してくる。
 丈夫な紙だ。表面がざらざらしていなくて真っ白な紙。一目に上質な材料を使われていると分かるそれは、皇室で使われている一級品の代物だ。算術や文字の書き取りなどに使う紙はもう少し雑な物を使っていて、これは主に皇族同士かあるいは上級貴族に宛てて書く書簡などに用いられる。
 それだけ貴重なものをほんのまだ子供のそれも宦官である玲馨に宛てて使う人間など一体誰が居るというのか。
 じ、と玲馨が疑いの──この場合期待と言った方が正しいかもしれない──眼差しを戊陽に向けるも、戊陽は我関せずと窓の外に視線を向けている。その横顔はどこか落ち着きがなくそわそわして見えるのは気のせいではないだろう。
 紐を使わず細く丸めてあっただけの手紙を広げるとふわりと漂うのは桃の香り。賢妃が調香したお香の香りだ。果肉を使っているのだとしたら染みにならないのが不思議で、木の皮を削っているのだとしたらなぜ桃の木から桃らしい香りがするのかやはり不思議な、この世でここにしか無いお香。これを使えるのは作り手である賢妃とその息子の戊陽だけだ。生家から後宮まで随伴してきた宮女たちにも使わせていない。
 何だか子供の悪戯のようでたまらず小さく笑いを漏らしながら、手紙を読み進める。
 玲馨よりは上手い字に、玲馨よりもずっと下手な詩。代筆を頼んだって良いのに、有名な詩を引用しても良いのに。苦手な詩に苦戦し利き手を墨で汚しながら机に向かうところを想像すると、胸がいっぱいになる。
「……あの、殿下」
 返事が返ってこないので「戊陽」と呼ぶと低い声が答える。
「この手紙に、私は返事を書くべきでしょうか?」
 玲馨が言い終わるよりも早く振り返った戊陽は興奮した様子で「書いてくれ!」と叫んだ。
「あ、いや、書いてやってくれ。随分悩んでしたためたようだからな。きっと相手も喜ぶ」
「はい……」
 どんな事を書こうか。何を書けば喜ばせられるだろうか。自分の頬がだらしなく緩んでしまっているような気がして、軽く握った拳で口元を隠す。
 戊陽の前で筆を執ってしまいたくなる衝動を堪えながら、それからしばらくは手紙以外の事が考えられなかった。
 




 目が覚める。幸せだった頃の夢を見てふわふわと心地良い微睡まどろみは、すぐに肩が痺れるように痛んだせいであっという間に現実へと引き戻される。固く冷たい壁に寄りかかって眠ってしまい、体のあちこちが軋むように痛んだ。
 なぜこんな環境に身を置いていてあんな夢を見てしまったのだろう。現状から逃げ出したいあまり、心がそうさせたのかもしれない。
 結局返事の手紙は書けなかった事を思い出す。何を書けばいいか悩んでいたのも理由の一つだが、宦官風情が皇子に返歌を送ってはならないと思ってしまうと、羽が生えたように踊っていた気持ちは消えて筆が止まった。
 それからすぐに黄雷ホアンレイが病に臥せ亡くなると、戊陽は賢妃宮を出て紅桃ホンタオ宮へと居所を移し、同時に玲馨は宿舎暮らしに戻った。燕太傅エンたいふの遺言の事もあり玲馨に師事したいという小杰シャオジエからの打診を受ける事にしたからだ。皇太子の黄昌ホアンチャンが即位してからは戊陽も政務に関わるようになり、そしてあの事件が起きる。
 兄を早くに失って、そこから二年。戊陽の十代後半は忙しなく過ぎていった。彼に献身してきた玲馨も同じように多忙に身を置く事になった。あまりの忙しさに忘れてしまった事がきっといくつもあるだろう。手紙もそのうちの一つだ。
 けれど玲馨は戊陽の事だけは忘れる事はないし、諦める事もしたくない。
「……痛っ」
 強張った体を動かそうとすると後ろ手に縛られた手首が鋭く痛んだ。疲れて眠りに落ちる前、どうにか縄を解けないかと矢鱈に手首を擦り合わせたのがしっかりと傷になってしまったらしい。
 結局体を起こすのも嫌になって再び壁に凭れると、忘れていた匂いが鼻を衝いた。
 湿気があって埃っぽい空気に混ざるのはかびの匂いと鉄錆の匂い。そして饐えた臭いが空腹の胃を竦みあがらせる。せりあがってくる嘔吐感を必死に堪えて視線を巡らせるが、ここには窓もなければ灯りも無かった。今が昼なのか夜なのかも分からない。
 雲朱ユンジューに入った途端に捕らえられた玲馨たちはそのまま牢に連行された。捕まった理由も何も明かされず別々の牢に入れられて、体感では三日ほどが過ぎた辺りから、日数の感覚が怪しくなり始めた。
 その間、最低限の水と食料は与えられたが、腕を解いてはもらえず獣のように床に這いつくばって食べなくてはならなかった。
 一回目の食事は毒があるかも知れないと警戒して食べなかった。しかし、二回目には空腹が辛くなっていた事と、牢番がしきりに毒は無いから食えとしつこく食い下がったので、諦めて食べる事にした。
 そして三回目の食事を終えた辺りから食事の回数を数えるのをやめていた。何度目か分からないぼそぼその饅頭マントウを無理矢理胃に詰め、それからすぐ眠りに落ちて目を覚ましたのが今だ。耳が痛くなるほどの静寂と、湿気を含んだまとわりつくような空気の中で誰と言葉を交わす事もないせいで、刻一刻と自分が参っていっているのが分かった。
 助けなど来る当ては無い。こうなっては自力で抜け出す以外にここから出る方法は無いだろう。捕らえられた理由は分からないが玲馨を玲馨と知っての捕縛だっただけに、恐らくは中央勢力に反する何某からの指示だ。
 メイ風蘭フーランがどうしているかも気になる。こことは別の場所に捕らえられているのか、恐らく一日に一回水と食事を運んできている牢番以外に人の気配は無かった。梅に至っては捕まる時に自分こそが玲馨だと嘘を吐きそのまま連れられていった。相手が騙されてくれたかどうかも分からないが、事と次第によっては最早生きてはいないだろう。
「……」
 玲馨は目だけで辺りを見回しながら、自分を捕らえたあの大男の事を考える。
 雲朱の楼門付近で玲馨たちを捕縛した大男が雲朱軍の武官だとしたら、玲馨たちを捕らえたのは雲朱を治める火王かおうという事になるが、まさか玲馨たちが皇帝の密命を帯びていると気付かれてしまったという事だろうか。だとしたらいくら何でも相手の動きが早すぎるような気がするのだ。玲馨たちは雲朱に着いたその日のうちに、街並みを散策する間もなく捕まった。玲馨たちの動きをある程度正確に読んでいなくてはこれほど迅速には動けまい。誰かが玲馨たちの正体を見抜き雲朱軍に報告していたのだろう。
 雲朱に来るまでに出会った者と言えば熔岩ロンヤン鉱山道の隧道で死んだ行商人と、採掘場の鉱夫と女たちだ。あの中に日ごろから諜報を任された者でも居たのだろうか。
 ──違うな。
 何かを見落としているという感覚がある。
 諜報活動をしているにしても隧道を抜けてきた旅人の全てを報告したりするものだろうか。それとも、自分たちがいかにも怪しいと思わせる何かがあったとでも言うのだろうか。
 思い出せ、考えろと疲れた頭に命じて黙考する。
『──。こいつらか?』
 男三人と武官らしき大男は言っていた。つまり男三人組が雲朱に入ったという報せを受けていた訳だ。
 では玲馨たちが「男三人」になったのはいつだったか。
「っ……!」
 あの視線を思い出した時、ぞわりと背筋を悪寒が駆け上がっていった。
 ──常義チャンイー、そうだ、あの男だ。何故もっと早くに気付かなかったんだ……!
 常という姓の正体に今更気付いて歯噛みする。
 禁軍の常と言えば黄雷が皇帝だった頃の将軍に就いていた者の名だ。黄昌が禁軍の編成に腐心した理由も、常元将軍の起こした軍閥内の諍いが発端だった。リー将軍の生まれは中級以下の貴族で、将軍職に就けるような家柄ではなかったが、黄昌の進めた禁軍の改革によって李将軍はその実力に見合った階級を与えられたのである。
 常義の年齢は玲馨たちより少し上といった風だったので、恐らく常元将軍とは常義の事ではない。せいぜい三十そこらの歳若さで将軍の座を務める事はまずない。その上常義は退役しているので、前将軍だったのは彼の父か縁者か、とにかくもっと上の世代だ。
 何にせよ、常家が信用ならないのは間違いない。
 常家は常元将軍が内乱を扇動した罪で、将軍はもとより彼と血の近しい縁者のうち数名が連座させられている。そして一族は軒並み降格されて軍部からは全て除隊されたはずだ。それほど当時は国を騒がせる大きな事件だった。どうして常と聞いてすぐに思い出せなかったのかと再び悔しさがこみ上げてくる。常の者なら皇帝に叛意を持ち四王たちに協力するに足る動機は十分なほど備わっているというのに。
 とにかく常義が軍を退役した理由は分かったが、一方で当時梅を含めた自警団の人間たちがその事実に気付かなったのかという疑問も残る。或いは自警団にも何かの力が裏で働いているのか。自然と玲馨の脳裏を過るのは桂昭グイジャオの顔だ。
 ここに至ってやはり梅には詳しく話を聞かなくてはならなくなったが、果たして玲馨は生きてここから出られるかも分からない。もしこのまま秘密裡に殺されてしまうなら、雲朱には皇帝に対する叛意があるという証拠になるが、殺されてしまうのでは意味がない。
 次に牢番が来た時に一か八か体当たりでも食らわせて逃走を図るしかない──。
 玲馨が覚悟を決めた時だった。
 奥の方からくつの固い音が聞こえ始める。牢番の足音とはまるで違うので、すぐにいつもとは別の人間が来たのだと分かった。
 耳を澄まして聞いていると聞き慣れない足音の後、いつもの牢番の足音が慌てるように駆け足で追いついてきて最初の足音にぴったりと並んだ。牢番が入り口の施錠をしている間に沓の主がさっさと先へ進んでしまった、といったところか。音を聞いているだけだが、沓を履いた何某は牢番などよりは身分の高い人間である事が察せられた。
 玲馨は尻を引きずって牢の端まで後退る。足音が近づくにつれて、緊張が高まった。
「ここで間違いないか?」
「はい」
 ああやはりここで止まるのかと思いながらも、これは何かのきっかけになるかも知れないと思い目を開ける。ぼう、と橙の灯りが暗闇に慣れた目を焼く。
 右手に扇子、左手に手燭を持ったやけに着飾った男が鉄格子の向こうから玲馨を見下ろす。
「あなた、名を名乗りなさい」
 男にしては妙に高い声だ。少年のそれとも違う声音は宦官を彷彿とさせた。
「……私が何者かを知っているから、こうして捕らえたのでしょう?」
 檻の向こうでつまらなさそうに鼻を鳴らされる。
「今の姿はまるでドブ水で毛を洗う野鼠やそのようですが、その顔で一体どれだけの男を騙してきたのでしょうね?」
 鼻にかかった妙に高い声が癪に障った。玲馨を下に見ているというより、自分をとても高尚なものだと思い込んでいるように見える。
「自分が少しくらい美しく生まれたとて、外の世界にはもっと美しいものがあると知れて良かったですね」
「なっ……!」
 男はたまらず持っていた扇子を閉じて鉄格子を殴りつける。固い物同士がぶつかる硬質な音が牢屋中に反響したが、誰かが反応する事はなかった。もしかするとここには玲馨以外誰も閉じ込められていないのかも知れない。
「出なさい。主上がお待ちです」
「主上……?」
 それは皇帝の事、つまり戊陽の事を指す呼び方だ。まさか雲朱に戊陽が来ているはずもないのでこの男は自分の主君の事をそう呼んでいるのだろうか。
 腕は縛られたまま、牢番に腕を掴まれ無理矢理牢の外へと引っ張り出される。着飾った男は玲馨が傍に寄るとさっと扇子で自分の顔半分を覆った。絵に描いたように嫌な男だと思うも、これから「主上」とやらに会うのであれば相手にするだけ無駄だと割り切って、牢番に引っ張られるよりも先に自分の足で歩いた。




 牢から出され、明るい陽射しの下に来るとしばらくの間まともに目を開けていられなかった。それくらい牢には明かりが差さなかったのだ。
 閉じようとする瞼を強引に押し開けて、牢からの道順を必死に覚えながら連れられてきたのは、向青倫シャンチンルンの屋敷に負けず劣らずの大きな屋敷だ。恐らく雲朱を治める火王かおうの屋敷だろう。門に入った先にある影壁えいへきには尾羽の長い美しい緋の鳥が彫られている。
 四合院しごういんという家屋の造りこそ向青倫の屋敷と同じだが、入った瞬間目に飛び込んできたあまりにも煌びやかな扉にいっとき呆然とする。
 広間に入っても期待を裏切らずどこもかしこも金やらその他の宝石やらで眩しいくらいに飾られた室内は趣も何もあったものではない。とにかく高価で派手で目立つものをそこかしこに飾り、自分がそれらを持つのに相応しい人間だと主張しているような屋敷だ。
 北側に豪奢な猫脚の椅子があり、椅子から南の扉に向かって毛足の長い絨毯が敷かれた広間はさながら謁見の間のようである。主上、と呼んでいた男の声が蘇る。
 椅子の正面に立っていると牢番に肩を押されて跪かせられる。そのまま槍の柄で後頭部を押され、額を床に押し付けられた。まるで罪人のようだ。
 途中から姿を消していたあの派手な男が、壮年の男の腕にを作ってまとわりつきながら二人で入ってくる。まさかこの壮年の男が火王なのだろうか。伏せた姿勢のまま信じられない思いで移動していく二人を横目に見上げる。
「面を上げよ」
 玲馨の頭の隣にあった槍が強く床を叩く。反応したくなくとも大きな音に体が小さく跳ねた。
 顔を上げるとそこにはあの派手な男。それから派手という言葉では足りないくらいゴテゴテと装飾品を身に着け、でっぷりと肥えた壮年男性がその豊満な肉体を華奢な椅子にぎゅうぎゅうに押し込めて座っていた。
「ほお……これは。なるほど、美しい顔をしている。ちょっと……臭うがな」
 椅子に座る壮年の男の肩に、娼婦のように体を柔らかくしならせ凭れかかった派手な男が困ったように笑う。誰の目から見ても親兄弟ではないそいつは愛妾だろう。
 二人揃って品も無ければ趣味も悪い装いと態度。こんな者が南の地を統治しているのかと思うと寒気がした。
 目の前の二人をどうにも見ていられず視線を逸らして玲馨はハッとする。
 玲馨から向かって右手側の扉に玲馨たちを捕らえたあの大男が控えていた。槍を構えて扉の脇に立っているだけで十分過ぎるくらいの迫力がある。
「この雲朱には無いすっきりとした面立ちをしているなぁ。ふむ……」
 何でもいいが人の顔を吟味するより先に要件を話してほしい。だが今ここで彼の機嫌を損ねれば玲馨に明日は無いだろう。
「玲馨だったかな? お主、事が済んだ後は私の屋敷で暮らさないか?」
 ──何だって?
「な、何を仰いますかグオ様!」
 愛妾が金切り声を上げるが郭と呼ばれた男は全く気にしていない。
 郭とは雲朱を治める火王一族の姓だ。やはりこの男がこの地の領主に違いなかった。
「……私は陛下にお仕えするただの宦官で御座います。『事』というのが何を示しているのか分かりませんが、私は私の君主を選ぶ権利が御座いません」
「むう……。斯様かように陛下の陽物は良いか? ん?」
 玲馨は絶句する。
 この男の頭には宝石とねやの事しかないのか。何故こんな男が領主をしているのか。他にまともな人間は一人も居なかったのだろうか。「主上がお聞きですよ。かまととぶってないで答えなさいな」うっすらと笑って馬鹿にしたように言う愛妾の催促も耳に入って来ない。
「まぁ良かろう。この先お主が生きているとも限らぬしなぁ。また生きて会うた日には今度こそ私にその体と顔を美しく飾らせてくれ」
 じっとりと油でも乗せたかのような視線が玲馨の体を下から上へと舐めあげていく。その視線に幼少から植え付けられてきた恐怖が一瞬にして玲馨の思考を奪い、体を震えさせた。
 その様子を見て愛妾はフンと鼻を鳴らす。頭でも蹴ってきそうなほど玲馨を見下しているが、そうしないのは郭が玲馨の顔を気に入ったからだろう。
「さて阿憐アーリエン、行こうか」
「はい、郭様」
 最後までべったりと腕を絡め合ったまま退室していく品性の欠片も無い二人を半ば呆然として見送る。何のために彼らは姿を見せたのだろう。まさか玲馨の顔を拝みに来ただけだったのか。
 これで雲朱が立ち行かなくならないのは、外見に反して郭が優秀なのか、或いは地方官吏たちが有能なのか。
 きっと後者だろうと思いつつ立たされない事を不思議に感じていると、郭と愛妾と入れ違う形で一人の男が入ってくる。廊下で「好きにせよ」という郭の声だけが聞こえて郭たちは完全に去ってしまう。
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 僅かにくすんだ金糸のような髪と透き通るような白い肌。ちょうど熔岩鉱山で採れる緑柱石のような鮮やかな碧眼。それはクンという国の人間が持つ色彩で、沈国では西の東江を治め昆の公主を迎え入れたスー一族の証である。
 蘇の男が扉を通る時、大男は彼に向かって抱拳礼をしているのに気付く。さっき郭と愛妾が出入りする時には恐らく何もしていなかったと思うのだが。まさかあの大男は東江の軍人だろうか。
 男は先ほどまで郭が座っていた椅子を一瞥しただけで腰掛けなかった。
 状況が何も掴めない中で必死に考え続ける。思考を止めたら、後はなすがままに流されそうだという漠然とした不安があった。
「突然の事で混乱しているだろう。──そこの兵士よ、縄を解いておやりなさい」
「はっ、しかし……」
関虎グワンフーがいる限り滅多な事は起きぬ」
 玲馨をここまで連れてきた牢番がおどおどしながら縄を解く。それから目線で下がれと示されると、今度こそ冷や汗を流しながら死地に赴くような顔付きで壁際まで下がった。見るからに牢番が怯えている。対象は蘇ではなく郭だろう。
 関虎と呼ばれたのは恐らく扉前で控えている大男の事だ。室内を見渡した時、彼以上に迫力のある武人は見当たらない。彼は雲朱の人間ではなかったらしい。
 縄が解かれると自由になったは良かったが、手首の傷がじくじくと痛んだ。腕も肩も痺れが強すぎて、まるで自分のものではないみたいだ。
「玲馨とはそなたの名で間違いないな?」
 男が放つ冴冴さえざえとした空気は、怜悧なまでの知謀が窺えた。髪も目も肌の色も薄いのに彫りの深い面立ちはまさに異国人といった風貌で、彼には母方の血筋が色濃く受け継がれたのだろう。東妃や小杰とよく似ているが、西の長として立つ男の表情の裏はまるで読めない。
「私は蘇智望スージーワン。西を統治する金王ごんのうだと言えば分かるかな」
 蘇智望は対面した相手に自然とこうべを垂れさせるような威厳が備わっていた。言葉で抑圧するまでもなく、姿勢や細かい所作から格の高さが滲むのだ。先の郭とは比べるべくもない。
 一介の宦官でしかない玲馨は、男の醸す空気に気圧され改まるように拱手する。すぐに直れと言われて拱手を解き立ち上がったが、目を合わせるのはどこか恐ろしいような気がして僅かに視線を下げた。
「私の面貌がよほど気になるようだね」
「面差しが東妃様によく似ておいでです」
「ふむ、慧姐フイジエか。姉は息災か?」
「はい。近くご子息の小杰シャオジエ殿下が半元服を迎えるので張り切っておられました」
「そうか」
 この当たり障り無い会話に何の意味があるのだろうか。何かを探られているという雰囲気でもない。
 歳は三十半ばくらいか。後宮で最年少だった東妃の弟なので当然といえばそうだが、思っていた以上に若い。
 玲馨にとっては苦手な年代だ。年上の男というだけで意識せずとも体が勝手に警戒する。
「突然の事で驚いたろうと思うが、そなたを捕らえよと命じたのはこの私だ。慧姐が息子の教育係に望んだ宦官がどんなものか興味が湧いたのだ。その上今は正式に小杰付きとなったのだろう?」
 思わず声を上げそうになる。どうやら玲馨が紫沈を発った後でそういう事になったらしい。そしてやはり、東江へ情報が届くのが早すぎる。
 宦官の配属を決めるのは内侍省の長官である内侍宦だが、実態はほとんど皇族がその権利を握っている。内侍監は言われるがまま判を捺すだけだ。だが、形だけとは言え必ず内侍監の許可は必要なので、今回の決定を真っ先に知る事が出来るのは内侍監という事になる。蘇智望の耳に入る早さを考えると戊陽が打診した時点で西の手の者に知らせたとするのが妥当か。
 林隆宸、桂昭、内侍監、それから恐らく常義も東江勢力と結託しており、極めつけに火王の前で自由に振る舞う蘇智望自らが姿を現した事で、中央勢力の脆弱さをこれでもかというほど見せつけられた。以前までとは違う意味で、やはり早くに戊陽をあの玉座から取り返さなくてはという気持ちが強くなる。
「東妃様からは小杰殿下の半元服の儀を終えて間もなく、宮を移し替える時に私も随伴致せと仰せつかっております」
「しかし、既にそなたは小杰付きだ」
 玲馨より七寸約二〇センチ近く高い所にある冴えた碧眼が玲馨を見下ろして言う。
 ──何だ、何が言いたい。
「陛下が申されたのは小杰付きとなる前に使いをせよという事だったのではないかな?」
 狙いを定めた一点を的確に衝くようなその鋭い一言で、玲馨の中で何かが冷めていくような感覚が起こる。
 東江への使いは確かに戊陽から命じられた最後の仕事だった。
「……陛下からのご命令を、放棄せよと……そう、仰るのですか、金王様」
 獲物に狙いを定めるように蘇智望の目が眇められる。そこで初めて姉弟である東妃との印象が。姉の東妃は自身が負けていく象棋シャンチーの盤上をただ眺める事しか出来ず、最後の一手で相手を仕留める術を知らない。だから彼女は小杰付きになるかどうかという最後の判断を玲馨に委ねてしまったが、弟の方はそうはいかない。蘇智望はそんな甘さや隙のある男ではなかった。後宮で常に下の立場で息子を守り続けてきた母と、一つの地域を治める領主として上に立つ支配者の、その差異が明確にあった。
「こちらの権利を主張しているだけだよ、玲馨。そなたはこれより私と共に東江へ向かう。慧姐や小杰とも話はついているから、安心致せ」
「それから」と茫然自失としかけた玲馨に、蘇智望は追い打ちをかける。
「そなたの旅の仲間も私が預かろう。そなたらの再会は今しばらく先になるだろうがな」
 一瞬にして血の気が引いていき、目の前が暗くなっていく。受け身を取る事も出来ずに、自分の体が倒れていくのをどこか遠いところで感じる事しか出来なかった。





 決して敵わないと知っている敵を目の前にしても、背を丸めて爪を立てて懸命に威嚇する猫のようだった。抵抗虚しく無理をした体は想定外の事態に耐え切れず、敢え無く陥落した。
 膝から崩れ落ちるようにして倒れていく玲馨の体を受け止めたのは蘇智望だった。牢番の報告では六日間ろくに物を口にせず、睡眠も最低限しかとっていなかったようだ。無理もないが、無理をされてここで死なれてはわざわざ雲朱まで出向いた意味がなくなる。
 雲朱を治める郭隕グオインという男は己の欲望に非常に忠実である。蘇智望は玲馨の顔を見て、やはり自ら直接雲朱へ赴くという判断が間違っていなかったと確信する。郭隕は玲馨を自分の手元に置きたがっただろう。現に関虎の報告にも郭隕が玲馨を気に入ったようだとあった。
 年の頃は二十代前半、まだどこか青さの残る知性的な宦官は、手籠めにするのにさしたる苦労はなかろう。だが、頑なでいてその実中はさほど頑強ではない柔らかさを持った宦官を、どうしてか惑わせたいという欲求に駆られる。
 玲馨には相対した者に嗜虐心を芽生えさせるような何かがあるのだろう。美しく整った冷たい美貌を突き崩したい。漆黒の瞳が濡れて許しを請う様を見たい──。
 蘇智望は自身の寝台で昏々と眠る姿を見下ろして自嘲する。これではあの豚火王と何も変わらないではないか。
 玲馨の体は六日も牢に閉じ込められていたので、汗や垢でえた臭いがしていた。雲朱まで伴っていた侍従に体を清めさせ、衣も旅装から着替えさせて船の私室に運ばせた。
 それから数時辰が経つがいっこうに目覚める気配はない。雲朱まで帯同させていた侍医によると疲労だろうという事だったが、東江に到着するまでに目覚める保証は出来ないという。
 彼にはまだいくらか話をしなくてはならなかった。早く目覚めておくれと願いながら疲れきった麗人の寝顔を見つめた。
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