あわいの宦官

沖弉 えぬ

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完結編

31白の影

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 大量にあった写本の半分を読み終えたところで薛石炎シュエシーイエンは頭痛のする頭を抱えて机にだらしなく寄りかかった。
 渡された本は恐らく、全て禁書の類いだ。卜占の概要を記した物から始まって、歴史、指南書、歴代卜師の名簿など、卜占に纏わる事柄を記した物ばかり。表向きには凱寧皇帝が焼き払ったとされる邪術書だった。
 今となっては卜占には興味を持つ事さえ罪となるのだから薛石炎は既に立派な罪人である。だが薛石炎が頭を抱えたのはそれが原因ではない。
「……これは、今どき流行りの小説と言われる作り話ではないのか」
『邪術師誅罰帳』と書かれた写本には、目を背けたくなるような刑罰の内容が記されてあった。
 凱寧の時代に禁止にされた卜占のせいで、当時宮廷に仕えていた卜師たちは一人残らず処罰の対象となった。悪しき者の象徴として全て焼き殺したというのが世間一般の貴族たちが聞かされて育つ表向きの歴史。
 しかし実際には半数近くが体のあちこちを切り落とされ土に埋め、あわいを取り除く実験に使われ死んでいった事がこの「邪術師誅罰帳」に事細かに記されてあったのだ。
 胃の腑から込み上がってくるものにえずきが止まらない。窓の外に身を乗り出し埃っぽくない清浄な空気で深呼吸を繰り返した。
「父が亡くなり、兄が即位した頃だ。それまでの煩い目もなくなったので兄上に断って禁書室に入らせてもらった事がある。その時にその誅罰帳なるものを見つけて私も気分が悪くなったものだよ」
 と、星昴シンマオはさらりと平気な顔で言うので何とも嘘くさい。黄雷が即位した頃というと星昴が二十歳そこそこの頃だろうが、四十だろうと二十だろうと、いっそ子供の頃だとて星昴は星昴だったに違いない。
「しかし今となっては有益な事も書いてある。罪無き卜師たちを弔う意味でも、その書物の中身を上手く使ってやらねばなるまい?」
「はぁ……はぁ!? ま、まさか、卜師を見つけたいって、そ、そういう」
「ん? 何を勘違いしておるか知らぬが、私が試したいのは桃の木の事だぞ、薛石炎」
「は……はぁぁー…………」
 よもや菜刀ツァイダオを片手に細かく刻む星昴の姿を想像したので、どっと全身の力が抜けていく。
「普通の人と卜師に違いがあるのかは分からぬが、卜師の体は地脈が豊富だったのだろう」
「と、言いますと?」
「相変わらず察しが悪いな薛石炎」
 星昴は薛石炎が机に投げ出していた邪術師誅罰帳を開いて見せてくる。
「ひぃぃっ、な、何を!?」
「ここを見ろ。地脈は全てのものに宿るが、殊に人や獣の体に宿るものを『気』と呼ぶ、とある」
「そ、それは昔からよく言いますね。気は万物のもとなりて、此れ即ち理である。でしたっけ」
「そうだ。沈では昔から食事や睡眠で『気』を養う事が健康に過ごす上で肝要であるとされている。つまり地脈豊かな土地で暮らし、よく食べよく寝ていたであろう当時の卜師は『地脈』が豊かな体だったと言える」
「ええ……ですから……ああ、同じく紫沈ズーシェンで育った桃の木ならという事ですね」
 邪術師誅罰帳によれば、卜師の体を埋めた土地はいっときあわいの妖魔を退けたとある。人体にせよ植物にせよ、要するにあわいを浄化させるためには豊富な地脈が不可欠だという事だ。それは、そもそも「あわい」が地脈の枯渇によって発生しているものだという事を考えれば、自然と辿り着く結論だろう。
「ところで桃の木を植えるまでは良いとして、不毛の土地ではやはり枯れる運命は避けられますまい。誅罰帳にも妖魔を退けたのは『いっとき』とあります」
 星昴は「ん」と鼻を鳴らすようないつもの返事をして、今度はユエ川に関する報告書を持ち出してくる。
「これを調べた者は優秀だな。岳川の変化がわかりやすく書き込まれている」
 机に広げたのは報告書のうち地図の部分だ。山芒の工事によって岳川がどの程度拡大したのかが図で書いてある。下流になるにつれて扇状に広がって、北玄海ペイシュエンハイの岳川は周辺に住まう浮民が妖魔に襲われることがなくなった。
「しかし、沈を全て川にしてしまう訳にはいかないと仰ったのは星昴様で御座います」
「川とは流れるものだろう、薛石炎。流すのだ、桃の木の傍に堀を作ってな」
「はぁ……ハッ! なるほど、それなら……!」
 街道を行くたびに妖魔に襲われる心配をする必要がなくなるばかりか、いずれは民の暮らす土地そのものを広げていく事も出来るかもしれない。
 何て事だ。これを妙案と呼ばずして何をそう呼ぶだろう。あわいが発生しておよそ七十年余り、四方は皇帝の手を離れ、閉ざしていくばかりの沈の未来にも一筋の光明が見えてくる。
「……私の祖父凱寧は、稀にみる暗君であった。実兄を害し皇帝となると世は乱れ、皇帝を退いても上皇となって息子を影から操った。凱寧上皇の言われるがままだった父の御世みよは無いも同然。あの方は、是が非でも沈の全てを掌握せねば気が済まない人だった。己が死した後に沈が滅ぶ事など一切考えておられない。お膝元である紫沈の民が、『凱寧』を畏れ崇める。城下に万の民が跪く景色だけを望んでおられた」
 薛石炎も、凱寧の生きた時代を知る官吏だ。凱寧の暴政は紫沈の民を酷く苦しめ、多くの浮民を出すばかりか死者の増大すらも対策を講じなかった。やがて国民のうち五分の一が死に、後にあわいが発生した時代の皇帝が凱寧でなければ被害は半分に抑えられたとも言われている。
 はて、と薛石炎に疑問が過る。凱寧が実兄を害したとは初めて聞いたが、どういう事たろうか。果たしてそれを口にするより早く星昴が言葉を続けたので、疑問はすぐに忘れていった。
「邪術師誅罰帳などという名にしたのは、後の皇帝から興味を逸らすためか、或いはほんの戯れか。どちらにせよ、凱寧の指示であわいを消す重大な情報は秘匿されたのだ。斯様な行いを良しとする凱寧が卜占を禁じた。そこに、どんな意味があると思う? 薛石炎」
 残虐で他の利益を決して許さぬ性格。そして支配欲に冒された憐れな皇帝。
「力の独占、でしょうか。卜占には何か、この沈を支配してしまえるだけのものがあったのかも知れませぬな」
 星昴は答えなかった。彼にしては珍しく感傷的になっているようなので、薛石炎も何も言わず自分の仕事に集中する。やがて椅子に深く座った星昴から寝息が聞こえてくると、薛石炎は大袈裟な咳をして星昴を起こすのであった。




 間もなく日も傾き始めようかという頃である。太常寺の庁舎に息せき切って駆け込んでくる若い官吏の姿があった。
「失礼! 薛次官はおられますか!」
 雨季が訪れると巻子という巻子が湿気を吸うので蔵書で溢れる太常寺の庁舎はそれはもう空気が淀むのであるが、何もそれは雨季ばかりが原因ではない。
 嘗ては明確に職務が分けられていた礼部と太常寺であるが、いつの間にか礼部に主要な仕事を取られて久しい。閑職として他の官吏からそしられる事に慣れた者ばかりが詰めている庁舎など、たとえ外がカンカン照りの晴天であっても空気が活気づく事はないのである。
 そんな中に威勢の良い声と共に前途有望な若者が走りこんでくれば、庁舎の中は水を打ったように白けて誰も取り合おうとしないのは必然だった。そのうち薛石炎本人に青年の声が聞こえてきてやむなく薛石炎は自ら顔を出した。
「はぁ、これは山芒の……!」
 じめっとした空気の重さもまるで感じていないような溌剌とした声の主は、山芒は木王もくおうが長子、向亗シャンスイその人である。実務機関とはいえ工部の次官という花形に配属された若者がこんな寂れた場所に訪れたものだから、太常寺の官吏たちは節目がちに向亗を睨んでは嫉妬を露わにしている。
「お騒がせして申し訳御座いません薛次官。私は工部の向亗と申します。歳は薛次官よりも下ですので、どうかそう畏まらず」
 確かに歳下に違いない。だがそれを除けば木王の息子で次期工部の尚書長官が約束されている現侍郎次官の高官を相手に威張れる人間はごく僅かだ。常日頃、臆病風に吹きっ晒しの薛石炎など天地がひっくり返っても向亗を相手に偉ぶれる日は来ないだろう。
「どうしても今すぐにお伝えせねばならぬ事があって参りました。急ぎの場合には是非とも薛石炎を頼れと仰せつかっております故」
 含みを持たせた言い方で、薛石炎の勘が働く。面倒事がやってきた、と。




 向亗が目配せをするので、今しがた星昴が出ていった彼の執務室に向亗を連れて入るとそのまま鍵を閉める。鍵の閉まる音は他者を拒む意味よりも、薛石炎自身を捕らえた音のように聞こえていた。
「太常寺には今更野望を抱くような愚かな者はおりませなんだ。どうぞ気兼ねなくお話し下さい、向亗殿」
 とは言え、向亗は初めて訪れる場所に緊張しているように見える。当然薛石炎とも顔を合わせるのはこれが初めてになるので、本当に信用して良いのか迷っているようだ。
 年の頃は三十路にも満たない青年を相手に脅しをきかせて胸がすくほど、薛石炎はもう若くはない。
「陛下が即位なされてから二年と少し。太常寺の官吏となってからは何年が過ぎたか分かりませぬが、皇帝の玉座にお座りあそばすお方とは一度もお目通りが叶っておりません。そんな愚生の老人ですが、戊陽陛下にはほとほと困らせられました。何せ顔も知らぬ相手に半ば死ねと言っているような重要なお役目を与えられたのですから。この薛石炎、老骨に鞭打って戊陽陛下の大儀のお手伝いをしてあの世に行けるのなら本望と、最近漸く自身の気持ちに整理をつけたところで御座います」
 土砂降りの雨が唐突に上がったかのように静寂が下りる。
 随分と気負ったような顔をするものだから似合わない冗談なんかを飛ばしてみたのだが、かえって逆効果だったろうか。
 しかし向亗はひとつ大きく呼吸をすると、意を決したように話し始めた。
「薛次官のご出身をお聞きしても良いでしょうか」
「出身は雲朱ですな。紫沈の伯父を頼って貴族となったものですから、特に四王とのご縁はありませぬが」
 どこの勢力にも与していないと暗に告げると向亗は分かりやすくほっとしたような顔になる。感情が素直に顔に出る辺りまだまだ若い。
「……単刀直入にお話し致しますと、宮廷はもはや蘇氏配下の巣窟で御座います」
 一体どこで何を見聞きしてきたのか、向亗はこの世の終わりのような言い方で重々しく言い放った。
 薛石炎ははて、と顎を擦る。
「いくらなんでも巣窟とは些か大仰ですぞ。九寺きゅうじだけを見ても四方入り乱れて日々実務をこなしております。六部りくぶ以上ともなればますます四方の均衡を崩さぬよう平等に人が選ばれているものでは?」
「ええ……私も父よりそう聞いて、紫沈に上りました。しかし内実は、先帝黄昌陛下がご即位の頃には既に蘇氏の威光に抗えず……。ましてや当時は四方の力が強まる一方でしたので有能な者は中央へはやらずに、四王が召し抱えるのが通例となって久しくなっておりました」
 日々衰えていくばかりの皇族のもとへ優秀な人材をやってしまっては、他三方に対抗出来ないとどの王も考えているというのである。嘗てはその舞台が宮廷だった。今や政争は宮廷を──中央を離れて東西南北で相争っている。
 向亗は自身の言が真実である事を証明するために、彼が知る限りの官吏の名を挙げていく。それらは軒並み蘇の息がかかっており、中でもフーの一族は要職をことごとく蘇氏側の勢力に就かせ、上層部の大半が水面下では蘇家を支持しているという。恐ろしいのは蘇勢力と言いつつ北や南出身の貴族も多く名を連ねている事だった。
 政争などといったものからは遠く離れた場所に身を置いていた薛石炎だが、誰にどんなご機嫌を取れば自分の身が安泰でいられるかをつぶさに観察していたからこそ、向亗の言葉を嘘とは断言できなかった。
 或いは、無意識下で薛石炎は気付いていたのかも知れない。宮廷はもはや一つの勢力に丸呑みにされつつある、と。その事に気付かないフリをして、薛石炎は渦中から遠く逃れて生きようとした。
「宮廷内の要職に就いている者は誰も彼も蘇の息がかかった者ばかりです。たとえ出身が北だろうと南だろうと、甘い汁を吸わせて逆らわないようにしている。そしてどうやら山芒は、我が向家は、蘇氏のかたき役に選ばれたようなのです……」
 星昴を通して薛石炎に皇帝から密書が届いたという事実が、急速に現実味を帯びていく。
 皇帝は気付いていたのかも知れない。最早宮廷内に味方となる者は向家とその縁者ばかりだと。それに気付いたのが山芒への遠征の前後どちらかまでは分からない。ともあれいつ頃からか六部に機能を奪われて久しい九寺の中になら、未だ手付かずの白票があるのではと踏んで星昴を頼ったのだ。
 薛石炎が予想していた通り、戊陽皇帝には頼れるだけの勢力が無いという事がとうとう明らかになってしまった。
 ──乗った船は、泥船だったか。
 それは最初から分かっていた事のような気もする。廷臣たちに有無を言わさず表向きに堂々と法を改正出来ない事が、戊陽の皇帝としての力の弱さを証明していた。
「であれば、向亗殿。いち早く陛下を呼び戻さねばなりますまい」
「はい、その通りで御座います。リエン族の挙兵は、ただの偶然にしては出来過ぎています。今陛下が城を空けられるのは非常にまずいのです」
「しかし、早馬を飛ばそうにも誰に指示したものか……」
「残念だが少々遅かったようだぞ、薛石炎」
 扉に耳でもつけて盗み聞きしていたのか、鍵のかかった扉の向こうから聞こえて来た星昴の声に二人して仰天する。慌てて鍵を開けると途中で引き返してきたようで、出ていった時そのままの格好の星昴が立っていた。
「これは星昴様。てっきりご帰宅なさったのだと思っていました」
 言いながら素早く拱手しようとする向亗を星昴が片手を上げて止める。
「物見が西の街道側に軍旗を見たそうだ。蘇の分家側の軍旗のようだ」
「何と行動の早い事か……!」
 驚く薛石炎の隣で、向亗は不安げな表情をしている。
 物見の報告は本来禁軍の上官に行い、事の重要性を判断してより上へ上へと報告が上がって最後は将軍が皇帝へと伝えるものだ。しかし現在禁軍は将軍をはじめとした精鋭が皇帝の護衛として出払い、軍旗を見た物見は急を要すると判断して直接皇帝代理である星昴のもとへと急いだのだろう。
 向亗の話を聞いて宮廷の状況を知った今となっては物見の兵士に金一封包んでやりたいくらいだ。
「しかし東江の軍が紫沈へ侵攻してきたのは何故でしょう……?」
「目的は小杰だろうな」
「はて、小杰殿下と言いますと、先代金王様のご息女がお母上で御座いましょう?」
「私は攻めて来たのはと言ったではないか。思い出すのだ、薛石炎よ。戊陽の母賢妃と、小杰の母東妃の関係を」
 先に気付いた向亗は顔を真っ青にして星昴の前にも関わらず素早く退室していった。早足に出た向亗と太常寺の官吏がぶつかりそうになって悲鳴が上がると、薛石炎の顔色も向亗に負けず劣らず色を失っていた。





ヤン〉と名付けられた集団に所属する者の潜伏先は実に多岐に渡った。宦官をはじめとして後宮の厨の料理人に妃に仕える宮女。市井の自警団や座商の奉公人など、平民が潜みやすい場所ならどこにでも〈羊〉の手の者が潜んでいた。
 彼らの唯一の共通点は役人ではないという事。宦官は昔こそ官職の一つとされたが、宦官が力を持つ事を嫌った凱寧が宦官を皇帝の私的な所有物であるとし、人ではないものにしてしまった。故、宦官にも多くの〈羊〉が潜り込んでいる。
〈羊〉が得た情報は全て共有されて、いついかなる時にもを第一に行動した。
 時は少し遡り戊陽が紫沈を発つ前、四郎スーランは戊陽にこの度の派兵に同道しないという許しを得た。戊陽は山芒に向けて出立する直前になっても理由を問わず、終ぞ四郎は紫沈に留まる目的を話さないまま初めて戊陽の側仕えから外れる事になった。
 四郎が紫沈に残った理由は言わずもがな主命である。ここでいう主とはもちろん戊陽の事ではない。
 主命はこうだ。
 近々に山芒へと向けてリエン族が挙兵する。然る後に紫沈へ留まり東江軍と合流せよ──。
 一体の軍勢を寄越すつもりなのかは伝えてこなかった。いずれにせよ東江軍に加われというのであればそれらしき姿が見えた辺りで四郎はどうにか後宮を抜け出さなくてはならなかった。
「石を全て置きました、四郎先輩。………四郎先輩?」
 上の空の様子の四郎を于雨が三度呼んで漸く我に返る。何も知らない無垢な瞳に見つめられて、四郎の胸中に微かなさざ波が生まれる。
「……石の位置が中央と西で逆になっている」
「あっ」
 于雨には現在、基本的な脈読の術を手解きしていた。覚えは決して悪くないが並だ。そして于雨には脈読よりもこの世で唯一彼しか持たない力の扱い方を教えなくてはならないが、既に東江の軍が向かっているというのであればこのまま于雨の事も軍に渡してしまう他ないだろう。
 不慣れながらもいつか四郎が玲馨にしてみせたように、于雨は地図の上で脈読を始める。それぞれの石が光ったり点滅したりする中で、東から北にかけて一筋の地脈の流れが浮かび上がる。ユエ川だ。
 岳川は山芒の領地を出たあたりからあわいの影響で不毛になっていると思われているが、実際には不毛に見えたのは川の浅い所だけで、水底の辺りには生きた水が流れていたというのが四郎の見立てだ。そのため、川底の生気を吸うべく川に沿って妖魔が跋扈していたのだ。
 そこに、向青倫シャンチンルンの行った岳川上流の工事によって川面に地脈豊かな水が流れた事で、地脈の活動に変化が生じた。これが北で起きた「あわいが縮む」という現象の正体だ。
 地脈は生きている。だから人の手で地脈の流れに変化を与えると、それに合わせて馴染もうと活動が乱れるのだ。嘗ては卜師にとっては当たり前の知識だった。
「集中が乱れている」
「は、はい、すみません」
「何か気掛かりがあるのか?」
「いえっ! 大丈夫です、続けます」
 とは言うものの、地図の上に乗ったさまざまな色の石はうんともすんとも言わなくなる。
「あ……」
「脈読を繰り返し、気を整える事を覚えなさい」
「はい……」
 脈読は毎日続ければ成果が出るというものでもない。これは天賦の才で、恵まれた者ならその日のうちに正確に地脈を読んでしまう。ただし于雨の本来の力は脈読などではない以上、この子が卜師の真似事が出来ずとも悲観する必要はなかった。
 しばらくは于雨の手元を見ていたが、そのうち四郎の視線が自然と窓の外へと向かう。
 黄麟宮からでは到底見えないがここより西には紫沈と東江を繋ぐ街道がある。紫沈があわいの中に閉じ込められてからというもの難所が少なく比較的安全な道の一つだが、途中森の中を抜ける事になる。大昔の落雷で一部が燃えてしまった森はそこだけぽっかりと穴が空いたようにして木がなくなるのが特徴だった。しかし現在、〈羊〉の情報によれば街道は封鎖されているという話だ。
 そこに、恐らく東江の軍が待機しているのだろう。開戦を告げる号令を今か今かと待ちわびながら。
 果たしてその号令を出すのは、一体誰になるのか。蘇智望か、そうでなければ──。
「あ、あのっ、子珠ズージューはどうしていますか?」
 ずっと彼女の事が気になっていたのだろう。四郎の気が脈読から逸れてしまった隙に于雨は思い切って四郎へと訊ねてくる。
 子珠はあの後月のものになっていよいよ彼女の正体が危うくなったので、傷の療養のためという建前で四郎の私室で休ませていた。
「子珠なら問題ない。もう二日もしないうちに起き上がれる」
「そうですか、良かったです」
 実は自分で血のついた下着を洗いに行ったりするくらいの事はしているのだが、四郎は于雨にその事を教えなかった。
 子珠が女であった事を隠す理由はひとつ。于雨の持つ力が「とある血筋」にのみ宿る力だと言われているからだ。浄身を終えた于雨にはもはや生殖機能が備わっていないはずだが、万に一つの可能性も潰しておかなくてはならない。そのためには子珠を宦官の宿舎に戻してしまうのが手っ取り早いが、于雨の様子を見る限り子珠を宿舎に返せば于雨もまたそれについていこうとするだろう。今ここで于雨の機嫌を損ねてしまうのは得策ではなかった。
 于雨の持つ力は危うい。于雨に大人のような判断力が無い間は誰それの奸計に好きに利用されるとも限らない。否、例え大人になろうと拷問でもされれば助かりたい一心で力を使ってしまうだろう。嘗て、凱寧によって自害に追いやられた凱寧の兄がそうだったように──。
 部屋の扉を叩く音がする。その特徴的な叩き方で〈羊〉の同胞が訪れたのだと分かる。
「四郎、合図だ」
 四郎の衣と同じ物を着た宦官だ。黄麟宮には他に宮女として〈羊〉が二人紛れている。
 仲間はちらりと于雨の顔を見たが事情を知る彼は于雨なら問題無いと判断して〈羊〉としての連絡を告げる。
「俺はこのまま後宮中に報せてくる。お前は西門に向かえ」
「待て」
 急ぎ出ていこうとした仲間を引き止める。訝るように眉が潜められたのは一瞬だった。
だ?」
「当主様だ」
「分かった」
 今度こそ部屋を後にした仲間はこれから後宮の中を走り回って全ての〈羊〉に状況を報せて回るのだろう。
 于雨が何の事だか分からずポカンと四郎を見上げている。
「于雨、石と地図を片付けろ」
 恬淡とした四郎から常にはないものを感じ取ったか、于雨がやや緊張しながらも手早く石と地図を巾着の中に入れていく。
「ついてこい」
 片付け終えるとさっさと部屋を出ていこうとする四郎を今度は于雨が引き止めた。
「子珠もっ、つ、連れて行ってはいけませんか?」




 宮城内で城壁や門の物見台などを除いて最も高い場所は蔵書楼になる。これからこの紫沈に起こる事を確かめようとした時、四郎の向かう場所は西門ではなく蔵書楼の他にはなかった。四郎は産まれて初めて「当主」の命令に背いた。
 禁書室がある二階には灯り取りの窓が天井に沿って並び、屋外には欄干のついた露台が張り出している。四郎は欄干に手を掛けて遠くを見はるかした。
 高さがあるとはいえ午門まで続く景色の下半分をびっしりと瑠璃瓦が埋めており、とてもではないが紫沈の外まで見通す事は出来ない。
 何か見えてこないかと尚も目を細めていると、物見の兵士が鐘楼を打ち鳴らす姿が見え、やがて全ての鐘楼が連動するようにカンカンとけたたましい音を鳴らし非常時を告げた。
「四郎先輩、一体何が……!」
「間もなく白地に白虎の軍旗がこの紫沈の都を覆う事になる。見ていろ。そしてお前は──」
 ──私が合図を出したら、お前だけが持つその特別な力を行使しろ。
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