ピアニストは恋を奏でる

沖弉 えぬ

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1話ー②

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「うち来るの初めて?」
「ここは?」
「明るいうちはカフェで、夜はバーのお店。でも食事が美味いって言われてて、お客さんがコーヒーでも酒でもなく飯を食いに来る店」
 コーヒーも酒もそれぞれカフェやバーの看板メニューのはずが、そうではないものが売りになってしまっているというこの店定番のネタのつもりなのだろうが、飲食店の普通を知らないので笑いどころが分からなかった。「そうか」と一言素気なく返すと逆に男の方が可笑しそうに唇を歪める。
 カフェバー「Jazzy」と書かれたメニュー表を見つけてこの店の名前を知る。
 店内はかなり手狭な印象を受ける。その理由を探っていると、やけに飾り付けが多い事に気が付いた。壁一面に張られた昭和の古いポスターに、万国旗のガーランドが天井を縦横無尽に横切っている。椅子同士の感覚が狭い事も原因の一つだろう。古い音楽雑誌もマガジンラックにこれでもかと詰めてある。
 店を狭く見せる最たる要因は、言わずもがな男が鳴らしていたグランドピアノだ。店内スペースの実に三分の一ほどを占めているそれが他の調度とは比べ物にならないほどの存在感を放っているのである。駄目押しと言わんばかりにピアノの横には動くのか怪しいジュークボックスと、レコードらしきものが大量に収められた棚があった。
 内装を観察していた夜空に男が苦笑交じりに言う。
「俺もこの店の店主も好きな物を諦められない性分なんだ」
 そうは言うが、男は自分のそういうところを嫌っていない様子だ。そもそも店の狭さを問題に感じているならとっくに改善しているだろう。
「オムライス、好き?」
カウンターの中に入った男がエプロンを着けて話し掛けてきた。
「好きでも嫌いでもない」
「そう? じゃあ好きな料理は? 作れるか分かんないけど」
「無い」
「え、無いの? ふーん。じゃあやっぱオムライスでいい?」
 頷くと男は微笑んでキッチンに引っ込んだ。驚かないのか、と夜空の方が驚く事になった。
 大抵は好きな料理も食べ物も無いと答えると驚かれるし、それどころか嫌いなものも無いと言うと気味悪がられるのだが、男は軽く受け流してしまった。
「メロンソーダは好き?」
 奥からひょこっと体の上半分を覗かせて男が訊ねてくる。茶目っ気のある仕草だ。
「好きでも――」
「嫌いでもないならメロンソーダでいいよね。バニラアイスが乗ってるやつ」
 指をOKの形にして勝手に決めてすぐに引っ込んだ。勝手に決めるなら訊かなければいいのに。嫌な気はしないが二度手間だと分かっていて敢えてその手間を取る理由が分からない。まるでこちらの気を引きたい子供のようだ。
 何故そんなに熱心に夜空に向かって微笑みかけるのか。動機が不明だし、男に微笑まれると体に力が入って自分の動きがぎこちなる気がして戸惑った。
「はい、お待ちどうさま」
 悶々としているうちにドレープがかかった薄焼き卵が載ったオムライスが、シンプルな白いプレートに盛り付けられて出てきた。腹の虫が鳴った。男が微笑む。男の態度は気になるが、今は空腹の方が勝った。
「お口に合うといいなぁ」
 男はカウンターに頬杖を突いて、じっとこちらを見ている。スプーンでオムライスを掬う。そのまま口に運ぼうとしたが、そう見つめられると何だか食べにくい。俯き、動物がそうするように皿を自分の方に引き寄せ、隠すようにして漸く口に運んだ。
「……美味しい」
 中身は所謂ケチャップライスで、ゴロゴロとした大きいベーコンの塩気が空腹に沁みた。
「そ? 良かった」
 弾んだ声。もう男の顔を見なくともどんな表情をしているかが手に取るように分かる。彼は今、笑顔に違いない。
 男のその笑った顔を見ると胸のところがもやもやし始めるので、あんまり見たくないと思うと結局俯きがちのままオムライスを完食した。
 オムライス終わりに宣言どおりメロンクリームソーダも出てくる。考えてみたら砂糖のたっぷり入った炭酸飲料を飲むのは初めてだ。
 シュワシュワと弾ける炭酸をストローで飲んでみる。一瞬目眩がするほどの甘さに衝撃を覚え、夜空は目を瞬かせた。爽やかな緑の水面に浮かぶバニラアイスも鼻に抜けていく香りがたまらなく甘い。メロンクリームソーダの炭酸の刺激と、スパイスの効いたバニラの甘味は目の前の男を連想させた。
「名前、教えてよ。俺はれい
「下の名前が麗?」
「意外って思った? こんなガタイの良い男に麗って似合わないよねー」
 そんな風には思わなかったので首を振ると麗は不思議そうに首を傾げた。
「『麗らか』という言葉の意味を考えれば、よく合っていると思う」
 秋晴れした爽やかな空を背負って笑う男の姿を想像する。背後には鮮やかに色付いた紅葉が風に揺れるのだ。ショパンのバラード第三番が夜空の頭の中で流れ出す。短く速いスケールがアクセントになっている曲の始めから、終盤にかけて壮大になっていくところも麗によく似合っていた。
「嬉しいよ。俺、自分の名前好きなんだ」
 そう言って彼ははにかんだ。麗をイメージする楽曲を今ここで奏でられない事が少しだけ悔しい。
「それで?」
「小舟夜空」
「夜空かぁ。いいね似合ってる」
 似合ってる、とこの男のように自分の名前をそう評価する人は少なくなかった。冴え冴えとした冷たい天の夜空とお前の素っ気ない性格はよくよく合っている。そう言われてきた。夜空は純日本人だが髪も目も肌の色も全体的に色素が薄い。目の形はいつでも寝ぼけ眼に見えるとも言われた。そしてにこりともしない薄い口元。それらの要素が合わさって小舟夜空は冷たい奴だと誰もが口にする。
 だからどうせこの男もまた自分を冷たい奴だと揶揄しているのだろうと半分ほど聞き流していたのだが、次に麗が放った台詞で彼がこれまで夜空が出会ってきた人間とは違う事を知った。
「満点の星空みたいな名前、かっこいいな」
「星空? そんな事は初めて言われた」
「嘘だぁ? あんたのそのギラギラしてる目、猛禽類っぽくて夜の王者って感じするけど」
「ギラギラ……」
 呆気にとられ、音の響きを確かめるようにして麗の言葉を繰り返す。
 ギラギラ。冷たさとは無縁のように思える。情熱的と言い換える事も出来るのかも知れない。そんなものはとっくに失ったのに、おかしな奴だ。だから「お前は見る目が無いんだな」と返すと、麗は納得いかない様子で「そうかなぁ」と首を捻っていた。
「いくらだ? 食事の代金を支払う」
「ん? いいよ。さっきのお礼だから。気になるならまた食べに来て。ついでに俺にピアノ教えてくれてもいいよ」
 パチッと片目を閉じて麗はきゅっと口角をつり上げる。今気付いた事だが、麗は笑っていなくとも笑っているみたいに口の端が上がった形をしていた。対して夜空は閉じていると見事なへの字口だ。生まれ持った自分の容姿を疎ましいと思った事はないが、麗のように笑っていなくとも笑顔に見える顔は便利だろう。
 発表会、演奏会、コンクールと何かにつけて写真を撮られる機会はよくあった。その都度笑って下さい、表情硬いですよと言われてきた事は数知れず。そのうち夜空はこういう人間なんだと周りが認識し始めると笑顔を強要される機会は減ったが、生まれついて口元が笑顔の形をしていたら周りも苦労しなかったろう。
「夜空は何してる人? ピアノ上手いの?」
「僕は……」
「何か弾いてみてよ」
 しまったなと思う。食事を終えた時点でさっさとお金を置いて店を出るべきだったのだ。
 夜空の事情を知らない麗はきっと良かれと思って言っている。夜空が無償で食事を提供された事を気にしていると思っている。別に夜空はそれについてさほど気後れしていなかったのだが、レッスン代で納得出来ないなら演奏代でという口実を用意してくれている。
 こういうのを、夜空は出来ない。「斟酌する」と言うのだそうだ。
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