ピアニストは恋を奏でる

沖弉 えぬ

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3話ー②

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 目が覚めると朝焼けが窓を照らしていた。一瞬夕焼けかと思ったが、隣で寝息を立てる男の姿を認めて昨晩の事が瞬時に蘇った。ぽぽぽと頬に熱がのぼってくる。夜空の母がこの状況を見たら何を思うだろう。出会ってせいぜい十日程度の男と酒を言い訳に抱き合って、素っ裸のままベッドで眠って、時間の感覚もおかしくなるような朝を迎えている。
 夜空は案外、自分の貞操観念が緩い事を知った。何せ一晩が経ち、酔いという魔法が解けても特に後悔は無いのだからそうに違いない。それどころか夜空一人では出来ない夢のような逢瀬を過ごせた事に、ある種の達成感すら覚えているほど。小舟夜空と恋愛事とは生涯無縁のまま、ピアノを抱き締めながら墓に入るのだろうなんて思っていたけれど、実は心の底のところに丸めてクシャクシャにした孤独が眠っていたらしい。寂しさを感じていたのだ。今はそのスースーする穴に蓋がされている感覚がある。
 でもこれもまた麗の掛けてくれた魔法の一つなのだと夜空はちゃんと理解している。
 彼とはキスをして体を繋げたけれど、麗は夜空に睦み言は一つも言わなかった。喜怒哀楽のはっきりした男なのだから、愛を語る表情だってきっと饒舌に違いない。
 麗から感じたのは、小舟夜空への関心。それを責めるつもりはない。夜空もまた自分と全く違う生き物のような麗に対して強い興味を持っていたからだ。
 寝こけている麗の、自分の肌より色の濃い頬をそっと撫でる。
もう少し早く麗と出会っていたら、母とピアノと夜空だけの世界から抜け出して、夜空は指の骨を折る怪我はしなかったかも知れない。でも、指の骨を折るような目に遭ったからこそ、こんな自由な男の言うことを真に受けてピアノを教えようとしたり酒を飲んだり出来たのだろうとも思う。
 結局、夜空と母があの箱庭から飛び立つために「事故」は必要だったのだ。
「ん……」
 麗が唸ってうっすらと目を開けた。布団の下でもぞもぞ体を動かして、頬に当たっていた夜空の手に気付くと指先へ小鳥のようにちゅっとキスをする。
「夜は鳶で朝は雀だな」
 思った事がそのまま口から出ていって、ややあってから麗が「俺の事?」と訊ねてくる。
 どうしてそんな風に感じたのか説明しようとすると昨晩の行為を思い出してボンッと頭から煙が吹き出しそうになる。なので「目の色」と湾曲に答えた。別に嘘じゃない。赤茶けた感じの麗の瞳の色が、日中だと可愛げがあって、夜は鋭く見えたのだ。
「じゃあ夜空は鵠?」
「くぐい?」
「白鳥の別名だよ」
「僕はそんなに綺麗な鳥じゃない」
「言い得て妙だと思うけどなぁ」
 それを自分で言うのかと思った矢先、続く麗の言葉に夜空は身を固くした。
「いつも真っ白な服着てくるし。白いシャツに白いチノ。あ、でもカーディガンは生成りかぁ」
 真っ白なワンピースを着ていた母の姿が脳裏を過る。母は白が好きだった。箱庭の中にあるもののほとんどが白か白っぽいもので揃えられ、身に着ける服も当然、白。その中で真っ黒なアップライトピアノだけが浮いていて、異質な存在感を放っていた。あのピアノだけが、世間と親子を繋ぐよすがだった。
 今の夜空が着ている物は全て母が買ったものだ。自由な麗は、いやもしかすると自分と同じ年頃の大人は普通、自分で服を買うものかも知れない事に思い至り、夜空は床に落ちていた真っ白なシャツとチノパンを見下ろし恥ずかしくなった。
「服、洗濯してく? 乾燥機無いけど。俺の服貸すよ」
「麗の服?」
「夜空には大きいかも」
 ――色は白がいいわ。清潔で清廉でシミがよく目立つから、汚れていたらすぐに分かるのよ。
 母はそう言っていた。少しでも汚すと母は躊躇わず服も靴も簡単に捨ててしまった。母は多分、潔癖のきらいがあった。その傾向は物理的にも精神的にも表れていて、彼女は「瑕疵」を徹底して避けた。
 床に落ちた服なんてとんでもないだろう。母ならダストボックスに入れてしまうそれを拾って「洗濯したい」と麗に伝えた。
 麗はにかっと歯を見せて笑ってそそくさとベッドから降りていく。何だか楽しそうだ。さっきまで眠たそうに瞼を半開きにしていたのに、寝癖で出来たトサカを揺らして服を拾い上げ、部屋の奥に行ってしまう。
 ついていってみようと思って夜空もベッドから降りると全裸だった事を今更思い出しぎゃっと悲鳴を上げた。しかもこれは、何だ。何かが尻の奥から流れ出してくる。それが腿まで伝ってきた時、漸く正体を悟って全身がカッと熱くなった。そこから動けなくなって、尻を両手で押さえて煩悶していると、戻ってきた麗が噴き出した。
「尻隠してちんこ隠さず?」
 違うのに! 前を晒すしかなかった状況に無言で反論の視線を送ると、麗はごめんごめんと軽い調子で謝ってから、自分も全裸なのに全く恥じる様子も無く夜空に近寄ってくる。それからひょいっと夜空を抱き上げた。夜空が隠していた尻に腕を回し、子供みたいに正面から抱きかかえられてあたふたしてしまう。
「も、麗、垂れるから」
「俺の出したやつでしょ? 夜空がすごくえっちだったから、夢中になってコントロール出来なかった」
 すごい事を言われた気がするが、床を汚してしまうかも知れない不安の方がいくらか勝っていて羞恥を覚える余裕が無い。
「お腹、痛くない?」
「お腹は、別に何とも」
 お腹、という子供っぽい言い回しをついそのまま真似てしまって、何故だか少し面映ゆい。
「そう? 良かった。中に出すとお腹壊す事あるんだよ。だから掻き出さなきゃいけない。お風呂、一緒に入ろうか」
「何で一緒に」
「自分で出来るの? お尻に指入れるんだよ?」
 子供の時に座薬を自分で入れた事はある。あの時のとてもいけない事をしているような恐怖を思い出して頬が引きつった。
「ほらね。俺に任せなさい」
 あやすように頤にキスされる。本当に子供になってしまったみたいだ。こんな風に抱っこされた記憶なんてほとんど無いせいなのか、恥ずかしいのに嫌じゃない。それにやっぱり自分で指を入れるのは怖いので、麗の厚意に甘える事にした。
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