ピアニストは恋を奏でる

沖弉 えぬ

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3話ー③

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 浴室に湯を張り溜めている間に体を流した。壁のタイルに手を突き麗に背を向けて、腹に残っていた麗の出した精液を掻き出すと、必然的に中を擦られる事になって夜空は腰を折り曲げる。否応なく前が反応してしまっていた。
「夜空はもっと俺を疑わないと」
「何、で?」
「思わなかった? わざとイイところ擦られてるなぁって」
「あっ」
 わざと、と聞こえて振り返り、濡れた鳶色を睨んだ。しかし自分の目にさほど力がこもっていないのが自分でも分かり、麗が口角を吊り上げるのを見てもそんなに怒りは湧かないのである。
「えっち、好きにさせちゃったかも」
 陰茎を握り込まれる。かと思えば軽く開いて立っていた腿の間に麗の凶器を挟まれた。麗は自分のものと纏めて夜空を包んで腰を振り始める。入ってないのに入れられているみたいで、出しっぱなしのシャワーのお湯も相俟ってどんどん頭がのぼせていく。
 気持ち良さに目を閉じ瞼を震わせていると、すぐに吐精した。夜空も麗も量は少なかった。
 再度体に泡を付けて洗ってから狭い湯船に麗に後ろから抱きかかえられる姿勢で浸かった。浅いので肩と膝が湯から出てしまっている。
「ちょっと歳感じちゃった」
 理由を問うと「濃さと勢い」と答えが返ってきて肘で胸を突く。
「んもう、恥ずかしがり屋さんめ。夜空はいくつ?」
「二十六」
「二歳差だ。俺は二十八。中学から作曲の真似事をしだして、大学生になる頃には作曲でお金を貰える事もあったけど、鳴かず飛ばず。二年アメリカを放浪して、帰ってきてからは大学の先輩のヒモになって曲を書いてた。あ、大学も一応卒業してるよ? それで、アメリカで聞いたジャズが忘れられなくて叔父さんの店に行く事にして今」
 急につらつらと経歴を喋り出した麗が「はい」と言って水面に浮かんでいた夜空の手を下から叩いた。夜空の番らしい。
「僕は――」
 小舟夜空の人生は、ピアノだ。
「ピアニスト。コンクールで五回、賞を取った」
「五回も! 有名になる訳だ」
 麗の声は少しわざとらしいような気がした。
 調べれば「小舟夜空」の経歴は出てくるはずだ。パルムグレンの「粉雪」を弾いたチャリティーの時の動画を見たと言っていたくらいなので、麗はもう知っているだろう。「事故」の事も。
 小舟夜空に何があったのか。それでも夜空の口から聞こうとしてくれている。興味本位か作曲の肥やしにでもするつもりか。別に好きにしたらいいと思った。投げやりになっているのではなくて、麗にならいいと思った。
「最高でも銀賞しか取れなかった。でも、母にとって銀賞は『汚れ』だった」
 正確には「一等」以外が無価値なのだ。
「汚れって……?」
「金賞を取らなくてはいけなかったんだ。母は自分が一度だけ受賞した銀賞を何よりも悔やんでいて、自分の出来なかった事を子供に、僕に託した。母は厳しくて、起床から就寝までのスケジュールを細かく立ててそれを徹底して守らせた」
 母の中に何らかの基準のようなものがあるらしかった。一日のこの時間にこの練習をして、何歳までにこの曲を弾けて、この音大に通えば必ず金賞を取れる、世界的有名なピアニストになれる。
 高校生の頃までは概ね波乱もなく順調と呼べる範囲に収まっていた。しかし大学生になって三回目の「一番ではない賞」を取った頃から母はおかしくなっていった。母が自分を責め始めたのだ。
「私の指導法が間違っているから」
「やっぱり私の子だから」
「私が駄目だから」
 同じくらい夜空を責めた。
「あなたが練習をサボるから」
「夜空は耳がおかしいのかしら?」
「大学で悪いお友達が出来たのね? 教えなさい、相手は誰?」
 全部にそれは違うと答えても母は聞き入れなかった。
 二十五の時に受けた最後のコンクールで母はとうとう壊れてしまう。年齢と共に周りのレベルも上がっていくのは当然で、その時のコンクールでは入賞すら出来なかった。それだけなら母も落胆こそすれ心が完全に壊れてしまうほどには至らなかっただろう。「事故」の原因には、ある参加者の存在がある。
 夜空が入賞出来なかったコンクールで、ある男性がグランプリを受賞する。夜空と同い年で六歳からピアノを始めたが、長らく芽が出ず大学を卒業してから漸く初入賞となった。名を田村(たむら)裕太(ゆうた)といった。嘗て夜空と共にあの箱庭で三ヶ月だけレッスンを受けていた男の子だった。
 夜空は顔も名前も覚えていなかったのに、母はよく覚えていた。グランプリの発表を聞いて真っ青になり、夜空の手を引き会場を去った。
箱庭に帰り着くと、母はピアノの前に夜空を座らせて「弾きなさい。あなたにも出来るわよね」と言う。その目はカラスの目のように黒々としていて、夜空の事もましてやピアノの事も見えていなかった。
 母は見抜いていたのだ。六歳だった田村裕太の才能を。だから辞めさせた。息子の邪魔をする芽は早いうちに摘んでおくべきだから。
 指が疲労で痙攣しそうになるほど母は夜空にピアノを弾かせた。食事も水分も取らせず、自身もピアノの傍に立ったまま何時間も。あまり記憶が定かではないが、少なくとも半日は越えていたように思う。夜空も母も疲れて当然の時間が過ぎていた。弾けば弾くほど夜空のコンディションは悪くなり、母の顔から血の気が引いていく。「私のせいで」とぶつぶつ繰り返し、ある時それは弦が切れるようにしてはじけた。
 絶望と怒りに囚われた母がピアノを殴りつける。殴ったのは重たい鍵盤蓋だった。疲れた夜空の目に、黒光りする蓋が自分の手の上に落ちてくるところがスローモーションのように見えていた。
 悲鳴。母のこの世の終わりのような慟哭を聞きながら、夜空は自分で救急車を呼んだ。
 あの時の事を思い出そうとすると心に鉛がぶら下がる。それが今もピアノが弾けない原因だ。
「それから、母とは会っていない」
 お湯の温度がぬるくなっていた。麗が後ろから抱きしめてくれていなければ、とっくに湯から上がっていただろう。麗は黙って夜空の話を聞き、夜空の手を取り指をさすった。労るように、慈しむように。
「父が今のマンションを契約してくれて、母は入院してる」
「夜空の家にピアノはあるの?」
「ある」
 父はもう辞めろと言ったが逆らった。初めて父に口答えし、グランドピアノを自分の金で購入した。音楽事務所はそのままにしてくれているので、父も本気でピアノを辞めてほしいとは考えていないはずなのだ。
 ピアノが好きだ。恐ろしいとも思うしあの日味わった心と体の痛みは一年程度では忘れられないけれど、その気持ちは変わらない。だから母の作った「ピアノが上手くなる生活」に縋ってリハビリが終わってから数ヶ月間、規則正しい生活を続けた。また一からピアノを練習するつもりでやっていけば、また同じところまでは弾けるようになるという考えからだった。
「ピアノ、俺も好き」
「……僕は、好きと言ってもいいのかな」
 ピアノには嫌われてしまったかも知れない。顔を合わせるたびに真っ青な顔をして汗をダラダラ掻いて、仕舞いには目眩を起こすような失礼な奴なのに、ピアノはまだ夜空に鍵盤を叩かせてくれるだろうか。
「好きな事を我慢するの、苦しいから俺は嫌い。だから好きでいいんだよ」
 チェロの音がする。麗の深くて低い声が、浴室に乱反射して、夜空の全身を包み込む。
「ピアノが好き」
「うん、俺も」
「また弾きたい」
「うんうん俺も」
「でも……怖い」
 少し考えるような間があった。麗は湯から上がりながら、空気を切り替えるように明るい声で、思いついた事を夜空に話す。
「電子ピアノは? あ、ダメ? そう。じゃあさ――」
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