僕を閉じ込めてしまったあなたがくれた青色の櫂

沖弉 えぬ

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 バルトロメイの屋敷を出てからというもの、数ヶ月に及ぶ軟禁生活が嘘だったかのようにレモの人生は大きな波に呑まれてどんどん流れだした。アンイェッタをその日のうちに発つ事になり現在は定員五名程の小さな船に揺られて川を下っているところだ。マルコは体を猫のように丸めて眠っている。レモはうっかり船から落ちてしまいそうで怖くて芯から眠る事は出来そうにないが、船上で生まれた稚児にとって船の揺れは母の腕(かいな)のようなものなのかも知れない。
 ヴィアーニ領の丘陵地に形成された街並みを船から遠目に眺めた。これまで訪れた町と比較すると教会の斜塔が圧倒的に多い。フレイザーが今にもクロスボウを構えそうな視線を斜塔に向けている。
「俺はフレイザーになってから二十年経つ。正直俺は俺の事なんざほとんど覚えてねぇ。最近同じ境遇の爺さんを看取ってな。死んだ爺さんの体からモンスターが生まれてくるなんて事もなくて安心したぜ」
「元の世界に戻る方法は……」
「無い」
 フレイザーはきっぱりと言い切った。それ以上も以下も、ここでそれについて議論する事さえ許さないという雰囲気のいっそ殺気じみた口ぶりは、フレイザー自身の迷いを断つためのように聞こえた。
「戻りてぇのか、レモは」
「いいえ。全く」
 即答すれば、笑ったような息が風にたなびき消えていく。
 川を下る小船にはフレイザーを船頭にレモとマルコの三人で乗っていた。船の前後には武器を積んだ木箱も括りつけられている。
 フレイザーが行動を急ぐ理由はセラフィーノから預かってきた書簡にあった。もしもフレイザーが話の分かる相手だったら渡してくれと頼まれていたものだ。そして、セラフィーノは賭けに勝ったと言える。
 レモがフレイザーを探していたのは本来ヴィアーニ伯爵の「中身」を元の世界に返す方法をフレイザーから聞き出すためだったのだが、セラフィーノはそれが叶わなかった時のために次善の策を用意していたのだ。
『北の海賊の力を見込んでフレイザー殿に相談がある。一週間、バルトロメイの総力を上げてヴィアーニに攻勢を仕掛け、奴らの注意をこちらに引きつけよう。その間に北から挟撃してほしいのだ』
「バルトロメイ伯爵ってのはとんでもない御仁だな。一週間だけヴィアーニを引き受けるってのはつまり、あんたにたった一日で俺たち海賊と交渉して二日でヴィアーニ領まで来させる計算だぜ? レオーネに海賊の伝手があると聞いただけで考える作戦じゃねぇや」
「……レオーネと親友なんです。セラフなら、レオーネの考えが手に取るように分かるのでしょう」
 父を殺し自らをも殺して秘術を使うという手は、彼にとっての切り札だったに違いないとセラフィーノは考えた。およそ二年近くかけて強硬な父を阻もうとし、、叶わかったが故の苦肉の策だったのだと。
 木剣で打ち合った時のセラフィーノの表情はしばらく忘れられそうにない。レモの剣術の向こうにレオーネを見出し、彼は嬉し泣きの様な表情で剣を握っていた。
 流れが比較的穏やかなところではフレイザーを休ませるためにレモも櫂を使った。「レモ」は櫂という意味だ。自由に漕ぎ出してくれと願ってセラフィーノがつけてくれた名だ。
 レオーネの未練によって喚び出され、元の記憶をほとんど失ったレモは、羅針盤も持たずに海に投げ出された難破船そのものだった。けれどセラフィーノがレモという名をくれて、レモの存在を認めてくれたおかけで、今ならたとえ方角は分からなくとも大海を進む事が出来る。自由とは「自分」が確立されて初めて手に出来るものだと今なら分かる。

 交代で休みながら一日と半かけてヴィアーニ領まで続く森に辿り着く。手付かずの自然はぞっとしないが季節が冬である事が助けて虫や蛇の心配はいらないという。野生の獣も半分くらいは冬眠に入っている。
 レモたちが着岸してから数分後、八人ずつ乗った二艘の船が続けて到着する。それから続々と船がやってくるので事故が起きないよう人が降りた後は船を茂みに隠していく。帰りは南の海岸まで出て海賊船に拾ってもらうのだそうだ。
 ざっと武装した五十名ほどの男たちが枯れた冬の森に集合したところで移動を開始した。フレイザーが最初に提示した百のうち残りの五十は遅れて合流し、マルコのおかげで増えた追加の戦力は後詰としてセラフィーノの手紙にあった戦場の情報を頼りに別のポイントから合流する手筈になっている。
「レモよ、その体の元の持ち主があんまりあんたに対して不親切だから俺から一つ忠告しとくぜ」
 森を慎重に移動し、間もなく林立していた冬木の切れ目が迫っていた。
「秘教に伝わってる秘術は不死鳥のように蘇ってくるわけじゃねぇ。自分の命と引き換えに最後の無念を叶える術だって言われてる。俺は『フレイザー』の奴の無念なんざ知ったこっちゃねぇって自分の人生を生きた。レモ、あんただってその道を選んだっていいんだぜ?」
「はい。覚悟は決めています」
 セラフィーノが苦しい戦いを強いられている中で、自分だけそこから逃げて自由になろうとはとても思えない。
 雨の日のキスの意味をずっと考えていた。セラフィーノは別れを告げるような話をしたくせに、どうして唇を重ねたりするのかと。それは好きだからこそではないかとレモは結論づけた。セラフィーノの中で「親友ではなくなった守るべき誰か」ではなく「レモ」という個人が漸く形を取って対等になったのだ。そうして彼はレモを尊重しようとしてくれている。相手を認め好意を寄せるとは、きっとそういう事なのだ。
 レモもセラフィーノが好きだ。そして彼に認めてもらい、自己がはっきりした今だからこそ、自分の選択を実現させるためにはレオーネのやり残した事を代わりに清算しなければならないと分かっていた。それが覚悟だ。
「本当に大丈夫か? あんたは戦争を止めるために自死した領主の息子って事だぞ。実家に戻ったって全員敵だ。仮に戦が収まっても今後のヴィアーニ領の統治権はあんたにゃ回ってこない。それでもいいんだな?」
「はい。僕はレモですから。レオーネの持っていた物に未練はありません」
「――よく言った!」
 レモの意思を確認したフレイザーは自分の膝を強く叩いて景気の良い音を鳴らすと、首から掛けていた小瓶を外してレモに握らせる。
「こいつをあんたにやる。どう使うかはあんたが決めていい」
 口の部分には丸めた紙で栓がしてあり、瓶の中には一見すると何も入っていないかのように見えたが、よく観察するとうっすらと透明なリングの輪郭が浮かび上がってきた。
「これは?」
「神様の血で作った『渡り世の指環(アネッロ・ディ・リトールノ)』つって、爺さんから譲り受けた品だ。これを指に嵌めるだけでこっちに喚ばれた人間が元の世界に戻れるっつー眉唾もんよ」
「でも、戻る方法はないって」
「皆まで言うない。虚勢張ってたってこった。こいつは俺の未練だ。あんたの迷いの無い目を見て、俺もいい加減腹ぁ決めないとって思ったのさ。どう使ったっていいが、間違っても俺に返すなよ?」
 小瓶を受け取りながら、フレイザーの言った事を反芻する。「眉唾物」だというからにはフレイザーは一度もこれに指を通さなかったのだ。偽物である事を確かめていたら今この場で指輪を渡そうとはしなかっただろう。
「虚勢なんかじゃありませんよ。ニ十年もの間、この世界にどんなに嫌気が差しても元の世界に戻らなかった証左です」
 慰めのつもりなんてなかったが、フレイザーは皮肉げに唇を伸ばし、若い水夫と一緒に馬に乗ったマルコを振り仰ぐ。レモも受け取った小瓶を首にかけてフレイザーに倣った。
「バルトロメイと足並みが揃うかどうかはマルコにかかってる。馬から振り落とされんなよ」
「うん……!」
 マルコと馬に乗れる水夫は伝令だ。彼らの到着が遅すぎれば単独でヴィアーニの背後を衝くだけになり、千からなる敵戦力を圧倒するのは一気に難しくなる。正面のバルトロメイと協同して初めて挟撃は成るのだ。
 マルコたちが走り去るのを見送って、フレイザーは森から街道へと一歩踏み出した。
「野郎ども、覚悟はいいかー!!」
 元海賊たちの上げる雄々しい怒号を聞きながら、レモも剣の柄に手を掛ける。
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