枳殻のささやき

稲葉真乎人

文字の大きさ
上 下
16 / 18

15.期待

しおりを挟む
年内の就業も、翌日が最後となる日だった。
秀作は主要な得意先の挨拶周りを終えて、本社に向かう途中、ついでに営業本部に顔を出した。
一階の営業部には、留守番の女性社員と二、三名の男性社員しか居なかった。
カウンター近くの席には、庶務担当の箕田早苗が付いていた、秀作は名札で確認してから言った。
「こんにちは、ご苦労様、今日は、営業部長は挨拶回りなのかな?」
「はい、四時過ぎには戻られる予定です、お約束だったのですか?」
「いや、わたしも挨拶周りの帰りで、本社に行く途中なんだ、近くを通ったものだから、ちょっと、部長に挨拶をと思ってね、誰か居るのかな?」
「はい、吉岡さんが留守番だと言っておられましたから、いらっしゃると思います」
「そう、留守番も大変だね、窓口に来られるお客さんは、多いの?」
「いいえ、今日は、そうでも在りません、昨日までは、年末の御挨拶のお客様も多く見えられましたけど」
「そう、じゃぁ二階に、お邪魔するよ」
秀作は、部下の隅田博司が、いい女性を見つけたものだと思いながら、二階の営業本部に上がって行った。
事務所のドアを開けるなり、声が掛かった。
「君原部長、珍しいですね、営業本部に来られるのは、寒かったでしょう、今日は何事ですか?、部長は出掛けておられますけど」
「特別なことじゃないんだ、竹田にある会社に挨拶に行ったからね、年末だから、顔を出しておこうと思いたって途中下車をしたんだ。もう、営業部の大掃除は済んだのかい?」
「ええ、昨日のうちに済ませました。技術部は、まだですか?」
「今日これからじゃなかったかな、今ごろ始めている筈だよ、忙しいのかい、少し時間はいいかな?」
「ええ、もう、わたしの業務は終わりです。どうぞ、柳井さん、悪いけど君原部長に……。部長、コーヒーでいいですか?」
「ああ、頂くよ」
部長室付きの柳井美聡が言った。
「君原部長は、お砂糖は?」
吉岡が変わって答えた。
「部長も僕もミルクだけで、そうでしたよね?」
「よく憶えているね、柳井さん、悪いね」
「いいえ、今日は、もう暇ですから」
秀作は周りに社員がいないのを見てから言った。
「吉岡くん、ここの忘年会は済んだのかい?」
「ええ、昨日でした、何か?」
「今日は空いているかい、わたしは本社に顔を出せば技術部には戻らないんだが、デートの約束とかがなければ、付き合わないか?、無理はしなくていいよ」
「いえ、喜んで行かせて頂きます、何時に?」
「じゃぁ、七時半くらいにスペランツァの前でいいかい?」
「ああ、黒崎シェフのレストランですね、みんなで行った?」
「そうだ、気の利いた店は、あそこしか知らないんだよ」
「最高ですよ、あのレストランは……」
柳井美聡が来て、笑顔で二人の顔を見ながらコーヒーをテーブルに置いた。
秀作が言った。
「柳井さんは、通勤は市内なの?」
「はい、君原部長の地下鉄と同じです、終点です」
「ああ、国際会館なの?」
「はい、駅から四、五分の所です」
「夜遅くは、少し物騒だね?」
「はい、でも、宝ケ池の大きな通りから直ぐですから、遅くなるときは、市内からタクシーに乗ってしまいますから……」
「今日は終業後に、何か予定はあるのかな?」
「連れて行って頂けるんですか?」
吉岡が言った。
「柳井さん、耳ざといね、聞いていたんだ?」
「だって、こんなに静かな事務所って、滅多にありませんよ。今日は自販機の所まで聞こえていますよ」
「いや、待ってくれよ、吉岡くん、君のプライベートなことにも関係があるんだ、どうするかな?、柳井さん次回でもいいかな?」
「いいですよ、残念ですけど……」
「部長、柳井さんには結構個人的なことを話しているんですよ、彼女は、人の噂をしたり、他人に色々と話したりするようなひとじゃないんで、僕も溜まってくると、彼女を甘い物に誘って聞いて貰っているんです」
「そうか、そうだろうなぁ。君は、わたしの所に居た頃から、ほとんどプライベートなことを話さなかったからなぁ。それじゃぁご招待しよう、男ふたりでディナーも変に思われるからね、黒崎シェフに何を言われるか知れないから……」
美聡が嬉しそうに言った。
「ありがとうございます、留守当番に手を上げて良かった……」
「柳井さん、ご家族には連絡をしなさいね、心配されると困るから……」
「はい」
秀作は、ふたりに見送られて階下に下りた。
箕田早苗に、手を上げて帰ることを告げ、薄暗く曇って来た空を見上げてから、地下鉄十条駅に向かった。

本社のビルに入ると、門脇朋美が受付に座っていた。秀作の姿を見ると、立ち上がって迎えた。
「お疲れ様です」
「ご苦労様、明日で終りだね、今日の来客はどう?」
「もう、少ないです。昨日までは多く見えましたけど、今日は社内の方ばかりが多くて、少し暇なんです」
「そう、幹部は、みんな揃っているのかな?」
「いえ、今日は関係先の忘年会なので、社長と専務は、挨拶回りから直接会場へ行かれますから戻られません、管理部長と経理部長は在席です」
「ありがとう、暇なのなら訊くんだけど、その後、泉田さんから何か連絡は入っていないかな?」
「はい、それなんですけど、部長にお話ししようと思っていたんです、泉田さん、日本には居ないみたいです、携帯がある筈なのにエアメールが届いたんです、泉田さん、台湾に居られるみたいなんです」
「そう⁉……、門脇さん、明日は午前中で終わりだけど、就業後に少し時間いいかな、聞かせて欲しいんだ?」
「はい、何も予定はありませんから」
「そう、じゃぁ、わたしから連絡を入れよう?」
「はい、お待ちしています」
秀作が管理部に入ると、部長の水原義久が声を掛けて来た。
「ご苦労様です、社長と専務は出掛けられましたが……」
「そうらしいですね、受付で聞きました、別に何も無いんですが、明日は社長も専務も予定が詰まっておられたから、今日のうちに顔だけ出しておこうと思っただけですから……」
「君原さん、それなら、ちょっと、いいですか?」
「ええ、何か?」
「応接コーナーで……」
秀作は水原に続いて、応接コーナーの一室に入って座った。
「君原さん、人材派遣会社のカズホですが、来年三月で閉鎖すると申し入れがありましてね、専務から指示がありまして、管理部としては、カズホからの派遣を止める方向なんですよ」
「そうですか……」
「そこで、専務と相談をしたんですが、技術部の派遣社員は契約を解除しようと云う話しになりましてね」
「それはまた、突然ですね?」
「まあ、聞いて下さい、そこで、進藤理絵なんですが、立川美南と同様に、正式社員に採用したらどうかという提言を専務から頂いたんですよ」
「そうですか、それで、カズホの吉岡社長にそのことは……」
「いえ、進藤里絵については、君原部長にお任せしようということになりまして、最初に、君原さんから派遣の両名が優秀だと聞いていましたから……、ですので、立川美南のときと同様に、君原技術部長の推薦を付けて、申請をして頂くと言う形で……」
「ありがたいですね、流石に水原部長は記憶がいいですね、わたしなんか、話したことを、よく忘れるんですよ」
「また、ご冗談を、分かっていますよ。君原さんがそんなに迂闊なひとではないことは、でも、良かったじゃないですか?」
「まあ、良かったと言えば良かったのですが……、少し時間を頂けますか?」
「ええ結構ですが、来年度の定期採用と同じ時期に入社をして貰えばいいですから、定期採用者は既に試験も終わって、内定を出していますので、面接試験という形だけで対応しますから……」
「そうですか、分かりました」
「いつもは、明快で分かり易いのが君原さんですのに、何か問題でも?」
「いえ、ありがたいのと目出度いのが、ちょっとねぇ……」
「目出度い?」
「実は、うちの西城主任と進藤さんが、いい仲でしてね、西城くんは三十までに結婚すると公言していたものだから、急いでいるようなんですよ」
「あら、そうですか、三十って、彼は間もなく三十二になるんじゃないかなぁ……」
「そうなんですよ、二月に結婚式をする予定で進めているようですが、神前とか式場ではなく、友人達の前でやるらしいんです。問題は、彼女が結婚をしても仕事を続けるかどうかですね……。早速、明日にでも訊いてみますよ、本採用のことは伏せて・・・」
「そうですね、進藤里絵は技術部の戦力なんでしょ、いいじゃないですか、結婚後も続けるように、君原さんがおっしゃれば、恐らく受けてくれると思いますよ」
「そうですね、管理部長から、そう言われれば、話してみましょう」
「すいませんね、押し迫ってから……」
「いえ、好い話には違いないですから、苦にはなりませんよ」

店の前で落ちあった秀作と吉岡と柳井は、揃って店に入った。
電話を入れていたので、黒崎が出迎えた。
「いらっしゃいませ、どうぞ好きな席へ」
「どうしたんだ?」
「君原、よく見てくれよ、今夜は、がら空きなんだよ、六人が八時から入っているけど」
「なんか寂しくて、盛り上がらないなぁ」
「嘘だよ、冗談だ。もうすぐ二十人ほど、ご来店なんだよ。そう言う事で、またビップ.ルームを使ってくれ」
「驚かすなよ、心配したよ、この店が潰れたら、行く所が無いんだからな……」
「分かった、分かった……。すいませんね、さあどうぞ、二階に上がって下さい、二階はお三人だけですから」
二階の部屋に入ると、コートを脱ぎながら吉岡賢一が言った。
「いいひとですね黒崎さん、それに、いい友人をお持ちですね君原さんは……。そうだ、柳井さん、会社を出たら、君原部長は居ないんだ、君原さんでいいから」
「ほんとなんですね、今夜は無理に誘って頂くようにしたみたいで、すみません」
「いや、いいんだよ柳井さん、実は、わたしのワイフも旧姓が柳井なんだ、他人のようには思えない、遠慮はいらないよ。黒崎くんは腕のいいシェフだから、料理を楽しみにしていたらいい、楽しんで食べよう、お酒は?」
「君原さん、彼女は結構強いですからね、逆にあまり勧めない方が……」
「そんなに頂きませんよ、嘘ですよ」
「いいよ、上手に飲めば、女性のお酒も魅力があるよ、遠慮しないで。過ぎたら止めるから」
「ありがとうございます」
黒崎の選んだワインと料理を楽しみながら、話すことにした。
「君原さんの方から訊いて下さい、僕からも、話したいことが少しありますから」
「そう、それじゃぁ、最初に、知っていたら教えてくれないか、西城くんの結婚式の幹事を引き受けたんだろ、進藤さんにも会ったのかい?」
「ええ、一緒に色々と打ち合わせや、食事にも行っていますから、西城さんは酒が駄目ですから、いつも真面目に話していますけど」
「進藤さんは、結婚したら仕事はどうするか、聞いてるかい?、この前わたしが聞いたのは、西城くんが結婚を急いでいるから、立川さんも自分も落ち着く先が決まって、カズホの廃業に何とか間に合ったと云うことだったけど……」
「それでしたら、彼女は仕事を続けたいのが本心ですよ。ふたりは、お互いの仕事の能力を認め合っていますから、できれば続けたいと思っている筈です」
「そう、それならいいな、次に、それとも関連することなんだ、社長でもある、君のお母さんのことだ、派遣会社は、三月一杯で廃業する申し出を受けたと、管理部で聞いた。そのことについて、話せることがあったら、聞かせてくれないかと思ってね」
「それなら、わたしが君原さんに話したいことと関係がありますから、実は、君原さんには話しましたが、氏家さんのことを母に話していなかったんです。それで、先日話したんです、母も色々と話してくれました。君原さんは、母に何も話しておられなかったんですよね、話されないだろうとは思っていましたけど……」
「それで、お母さんは、何を話されたのかな、よければ……」
「現実に自分自身の中で起こっていることを、そのまま話してくれました、ですから、わたしも同じように話しました」
「そう、いいよ、分かった。もう、わたしも何もすることはないね、お母さんの想いと桜井さんの想いを大切にして上げる、それでいいかい?」
「はい、ありがとうございました。もっと、君原さんとプライベートなことも、話しておけば良かったと思いました。母には苦労を掛けて来ましたから、幸せになれるのなら、なって欲しいと願っています。相手の方は、君原さんの家族と深いお付き合いをされていると聞きましたから、全く、わたしは心配をしていません。それを、君原さんに伝えようと思っていました」
「いや、わたしは会ってもらっただけだよ、どちらの家族も素敵なひと達だ、わたしは、君もお母さんも知っているし、桜井くんと娘さんも、よく知っているよ。ここの黒崎シェフも、最初に、お母さんと桜井くんの遣り取りを見て、上手く行くと言ってくれた。黒崎シェフも、五歳年上の奥さんとは再婚なんだ。今まで色々なひとを見てきた彼が、そう言ってくれたのだから、間違いないと思いたいね」
「母は、この何日かで明るくなりました。会社を廃業しょうというときなのに、変ですよね。でも、それだけ、これからのことに自信があるんだと思うんです」
「そうだね、お母さんは、君のことを気にしておられたそうだ、君に恋人が居て、そのひとと将来結婚をしてくれるのなら、自分も新しい人生を歩みたいと思っておられたんだ。桜井くんも、娘さんのことを気遣っていた、お母さんは、娘さんの母親役をしてもいいと話されたそうだよ、上手く行くときは、こんなものなんだな」
「そうかも知れませんね……。あの、進藤さんと関連があるというのは?」
「ああ、専務は、派遣を中止して、立川さんと同じ本採用にする方向で進めるようにと、管理部に言われたらしい、管理部長から話しがあってね、彼女は、うちの大切な戦力だから、わたしも、彼女には続けて働いて欲しいんだよ。来春の定期採用者と同じ入社ということで進めたい。もし、休みの間に会う事があれば、内々で本人に伝えてくれてもいいよ。お母さんにも、君から伝えてくれるかい?」
「はい、肩の荷が軽くなると思います。今は、そのことで走り回っていますから」
「よーし、終わりだ。柳井さん、待たせてごめんね、ここからは、三人で忘年会だ……」
真剣に聴いていた美聡が言った。
「いいえ、凄く勉強になりました。吉岡さんが、君原さんを尊敬されているのが良く分かりました。隅田さんからも、よく聞きますけど、部長は珍しい方ですよね?」
「珍しいか……、へそ曲がりなのかも知れないよ。でも、若いひと達に期待をしているのは確かだね、持てる力を精一杯出してくれたらいい、そう思っているんだよ」
秀作は、美聡の口から隅田のことが出たのを微笑ましく感じた。このふたりも充実した日々を送っているのだろうと思いながら、ふと、泉田祥子のことが頭を過ぎった。
しおりを挟む

処理中です...