枳殻のささやき

稲葉真乎人

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17.安堵

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秀作が本社に着くと、門脇朋美が迎えてくれた。
「こんにちわ、元気にしている?」
「お疲れさまです」
「大分慣れたようだね」
「いいえ、御客様の社名とお顔が憶えられなくて、まだまだです」
「大丈夫だよ、笑顔を忘れなければ、不快になるお客様はいないから……・」
「ありがとうございます」
秀作が管理部に行くと、部長の水原が近づいて来た。
「君原部長、丁度良かった、社長が会いたいそうですよ」
「何か、あったかなぁ?」
「個人的なことらしいですよ、社長室に居られますから行って下さい」
秀作が社長室に入ると、社長が立ち上がって迎えた。
「ご苦労様、時間はいいかい、そんなに取らせないよ」
「七時に約束がありますので、それまでで宜しければ……」
「いやいや、ほんの十分くらいでいいよ、まあ其処に掛けて……」
「社長から直々に、何でしょう、この歳になっても緊張しますよ」
「冗談を言わないでくれ、実は、プライベートなことで申し訳ないんだが、営業本部長室付きの柳井美聡が、わたしの遠縁だというのは知っているね?」
「はあ、年末に一緒に飲みに行く機会がありましたから、以前、技術部に居りました吉岡くんと一緒でしたが……」
「そう、直に会ったのは、その時が初めてかね?」
「ええ、そうですが……」
「それは、それは……。実はね、君の息子さんと同じ大学だったらしいんだが、知っていたかい?」
「いいえ、初耳ですが、それが、何か?」
「そうか、柳井美聡は、わたしの長女が嫁いだ先の親戚なんだ。息子さんは、壮太くんと言うんだろ?、その親御さんから、娘を通して聞き合わせというのかな、とにかく調べてくれと言って来てね」
「つまり、結婚相手として、息子を見ておられるということですか?」
「そうなんだよ、君には、全く心当たりが無いようだね?」
「ええ、息子から彼女が居るなんて、一度も聞いたことがありませんし、そんな気配も感じられませんから、思い当たる節がありません。何かの冗談では?」
「冗談はないよ、しかし、そうだろうなぁ、まあ言ってみれば、まだ先のことなんだから。向こうにすれば、大切なお嬢さんなんだろう、親の先走りかも知れんのだがねぇ……」
秀作には、全く思い付かない話しだった。
「君原くん、本当に知らないのか?、随分長い付き合いらしいぞ?」
「いや、全く心当たりがないものですから、息子は、まだ就職して三年目になろうと云うところですよ、そんな余裕はない筈ですが、何かの間違いではないですか?」
「おいおい、いい加減なことで君を呼ばないよ。息子さんは高校時代から合唱部で、大学でもコーラスを続けて居られたんじゃないのかい?」
「ええ、それはそうですが、今は全くやっていないと思いますが……」
「君原くん、大丈夫かい、その頃から付き合っているんだよ」
「本当ですか、信じられないですよ。息子の周りにガールフレンドは居たでしょうが、恋人となると……、いや、全く、そんな気配などは無かったように思いますが……」
「まあ、いいから、とにかく、そう云うことで頼まれたから、君のことは、我が社では一番の紳士で、役員からも社員からも信望が厚い人物だと答えておいた。それを、君に伝えておこうと思ってね。しかし、君は息子さんと話すことは無いのかい?」
「いえ、我が家は、家族がよく話す方だと思っていますが、子供達の恋人となると……。わたしにだけ隠しているのかも知れませんね」
「それはあるかも知れないな、我が家も子供達のことでは、家内だけが知っていることが多いよ。そんなものだよ、男親っていうのは……」
「社長、つまり、その柳井さんと息子が、このまま順調に付き合いが進むと……」
「そうだよ、柳井美聡の両親は、君の息子さんを、偉く気に言っておられるそうだ」
「まだまだ、一人前ではありませんがねぇ……」
「良く言うね、君と奥さんだって、息子さんより早い時期に、知り合ったのじゃなかったか?、一応、わたしは仲人だからね、きみ達だって、結婚したのは幾つだい?」
「二十七でしたが……」
「そうだろ、後二年くらい、何だかんだと言っているうちに過ぎてしまうよ。君は、その頃には役員になっているよ……」
「わたしのことはともかく、参りましたね。本当だとすれば、不覚にも、全く気付きませんでした」
「まあ、そう云うことだよ。いいじゃないか、わたしとも、遠縁になるかも知れないと言うことだ。仲人をさせて貰ったきみ達夫婦が、仲人のわたし達と縁続きになると云うのも、縁と言うものだよ……」

社長室を出た秀作は動揺していた。
泉田祥子のことを心配しながら、自分の息子のことを全く知らなかったことにショックを受けていた。
壮太も奈美も普通に育ち、反抗期も、それなりに乗り越えて来たのに、子供だと思い込んでいた自分が、間抜けのように思えた。
あれこれと考えながら、管理部の事務所に戻ってきた秀作に、水原が声を掛けた。
「君原部長、どうされました、こちらへどうぞ……」
「いやーっ、参りました。あまり使いたくない言葉ですが、この頃の若者は理解できません。もっとも、水原部長は人を扱う専門だから、問題はないんでしょうが……」
「詳しくは訊きませんが、悪い話しでは無いようですね?」
「ええ、まあ、でも、ちょっとショックを感じていますよ。又、機会があれば、飲みながらでも、お話ししますよ」
「珍しいですね、君原さんが、そんなことをおっしゃるのは」
「これも使いたくない言葉ですが、歳なんでしょうね」

退社時刻になり、秀作は会社を出ると、行きつけの本屋に向かった。
待ち合わせの七時まで、時間を潰すつもりで大型書店のフロア全部を見て回った。
流石に申し訳ないと思い、『二十一世紀の若者・恋愛事情とモラルを解き明かす』と、帯に書かれた文庫版の小冊子を購入した。
本社の前に戻る途中で、吉岡友香里と出会った。
後ろから声を掛けられ、振り向いた秀作は咄嗟に言った。
「何処の奥様かと思いました、正直、どきっとしましたよ」
「そんな、少し老けましたけど、普通の独身女性ですよ、まだ、奥様と呼ばれる状況にはありませんわ」
「参りましたね、それにしても素敵ですよ。よくお似合いです、京都のひとだと言っても大丈夫ですね」
「いいえ、京都で着物を着るのには勇気が要ります」
「分かりますが、着物の良さより中身ですよ。それに、田舎の母や祖母は、ずっと着物で生活をしているんですから、何も京都だからと言って臆することはありませんよ」
「そうですか……、こんな所で立ち話しは行儀が悪いですから、ご案内します、少し歩きますね……」
友香里が案内したのは、烏丸通から小路を入り、一般住宅街に一軒だけ、長い暖簾が目立つ、落ち着いた割烹料亭だった。
庭番の男性に案内されて玄関に導かれ、女将の丁重な出迎えを受けた。
秀作は、友香里が常用している店だと感じた。
坪庭の見える部屋に案内され、女将が挨拶をして引き下がると、二人は、ほっとして話し始めた。
「今日は無理をお願いして、ごめんなさいね」
「いえ、こちらこそ、何か不思議な感じですね、中学時代は良く知っていたのに、今は違うひとと会っているみたいですよ」
「そうですね、でも懐かしいです。君原さんは何時でも優しかったから……、何となく楽しいわ」
「わたしもそうですよ、あの頃なら、こんなデートは出来ませんでしたから」
「ねえ、もう幼馴染のように、普通に話しませんか?」
「そうですね、もう社長さんではなくて、友人の奥さんですか、いや、それだと、違う問題がありそうですね?」
「いいえ、まだ結婚はしていませんから、大丈夫ですよ。今夜はお仕事から離れることにしましょう……。その前に、お礼だけ言わせて頂きます、長い間、うちの女性を大切にして頂いて、本当にありがとうございました。立川さんと進藤さんの将来のことも考えて下さって、心から感謝しています、本当に、ありがとうございました」
「いいえ、貴女の社員に対する、躾や会社の方針が良かったのですよ。昔と変らない、貴女らしいやり方です。貴女の身の上に、予測できなかったことが過去にあったとしても、素敵に年月を過ごして来られたことを感じます、お疲れ様でした」
「ありがとうございます、この歳になって君原さんにお会い出来て、そう言って頂いて会社を閉じることができるのが、一番幸運なことです。桜井さんとのことも含めて、感謝しています……」
「お役に立てたのなら、僕も嬉しいですよ」
「僕って……、懐かしいわ」
「そうかな、ここからはそう言います、桜井夫人になられるまでです、今夜は特別です」
料理が届けられる度に、話しは中断したが、互いの胸中に、何のわだかまりも無く、穏やかで和やかな時が流れた。
「僕から訊いていいかな、西さんのことで、聞いて欲しいと言われたのは何なの?」
「ええ、ごめんなさい。わたし、君原さんに話していないことがあるのよ」
「何かな、思い当たることは無いけど……」
「随分前のことなの。西さんが、ご主人の会社に顔を出されるようになった頃のこと……。ご主人とは、それより以前から上手く行かなくなっていたの、君原さんに、西さんのことを訊かれたとき、話そうかと思ったけど、話せなかった……」
「それは、気にしないでいいよ。あのとき、君は知らない振りをしていたけど、何かありそうだと感じたから、僕も深く訊かないことにしたんだよ」
「そうだったの、ありがとう。西さんから離婚の相談を受けていたの、わたしは、祥子ちゃんのことがあるから我慢をしなさいと言ったわ、田舎に帰って、やり直したらとも……。何度も会っていたの、そのうち、彼女は、わたしに対して競争心のようなものを感じるようになったと思うのよ。話す態度も変って行ったわ、わたしは自分の息子が大切だったから、やむなく事業を興したのに、彼女は祥子ちゃんをご主人に手渡してもいいから、会社の経営をやりたいって、最後にそう言いきったのよ。その日から、彼女からの連絡は来なくなったの、電話で話すことも、会うことも無くなったわ……。後悔しているの、もっと積極的に聴いて上げて、相談に乗って上げれば良かったのかも知れないって……」
「そう……。僕が百貨店で西さんに再会したとき、彼女はグリーンの万年筆を持っていてね、僕には、昔のままのように思えたんだ。その後、色んなひとから彼女の話しを聞くと、随分、心の中は変っているのに気付かされた。西さんの娘さんが、うちの会社に居たのは偶然だけど、娘さんが会社を辞めるときに話す機会があってね。今思えば、娘さんも僕に嘘を話していたんだ。でも、後で実情を知って、可哀想になった。僕も君と同じで、今でも心の隅に、娘さんの真意を分かって上げられなかったことに、悔いが残っているんだ」
「変らないわね、やっぱり、君原くんだわ、優しいんだもの……」
「君も一緒だよ、でも、もう気にすることはないよ。西さんが選んだ道だと思うしかないんだ。不思議だね、娘さんもそうなんだよ、誰にも相談しないで自分で決めて、自分の意志で行動しているんだから。でも、今になると、それも可哀想な気がしているんだ……」
「君原さん、貴方は若いひと達に理解があるって、水原さんが話しておられたけど、本当ね?」
「違うな、今日も、社長から息子に恋人が居ることを知らされてね、寝耳に水の話しだったよ、西さんの娘さんもそうだけど、僕は、息子の恋愛にも気付かなかったくらいなんだよ」
「それは、わたしにも経験があるわ、つい最近のことよ」
「そう、吉岡くんと氏家さんのことだね。水原さんにも言ったけど、使いたくない言葉だけど、歳なんだなって、そう思っているんだよ。さっき、若者の恋愛事情って本を買って、鞄の中に持っているんだ」
「そこが、君原さんの偉い処だわ、いつも問題にぶつかると、何とかしようと努力する、生徒会を一緒にやっていたときも、偉いと思っていた。変らないひともいるのね……」
「西さんは特別だよ、自分の容姿を意識し過ぎていたんだ。看護婦さんからエリート銀行マンの奥さんになったのに、ご主人が銀行を辞めて、管理先の社長に就任して、追い出されて金融会社を興してから、何か不満があったんだろうね。そんなときに水沼さんに相談をした、そして、水沼さんが女性経営者として成功していることを知った、優しい女性だったのに、負けたくないと思ったんだろうね。僕と水沼さんには無い何かが、彼女の心の中で芽生えたんだと思うよ……」
「少し、気が楽になったわ、ありがとう。これから桜井さんと一緒になって、君原さんと仲良く出来ると思うと、わたしは、とても嬉しいの、感謝しているわ。奥さんの美紀さんも素敵な後輩だしね。それと、息子が慕っているのが君原さんだと知ったときには、わたしは、君原さんと縁があるんだと思ったわ、それも嬉しかった……」
「縁はあったと思うよ、息子さんのこともだけど、故郷を離れて三十数年ぶりに京都で再会できたんだから、桜井くんも黒崎くんも同じ世代だし、黒崎くんの奥さんも素敵な女性だから、今度、紹介するよ。ワイフとも仲良しだから、みんなで楽しくやろうよ」
「思い出したわ、それも同じ、生徒会のときにも、みんなで楽しくやろうよって、君原さんは、何時もそう言っていたわね……」
友香里は酔っても、理知的な顔立ちとクールな雰囲気は変わらなかった。話す言葉は昔と同じように、外見とは違い、優しくて可愛いかった。
中学時代には、誰にも話したことは無かったが、秀作は西瑞穗より水沼友香里の方が好きだった。
この日も、それを友香里に伝えることはなかった。想いは、今も同じだった。
秀作はこの歳になって、新しい友人が身近に出来たことを、心から歓迎していた。

気持ち良く帰宅した秀作は、社長から聞いた柳井美聡の事を、美紀にも壮太にも話さなかった。いつの日か、壮太の口から聞けるのを、楽しみに待つことにした。

毎年春になると、会社の周りを取り囲んでいる、枳殻の垣根に花が付き始める。
秀作が開花に気付いた日、守衛室の警備員に「今年も咲き始めましたね」と言うと、「はい、今年は例年より早いんですよ、去年の日誌に書いていましてね、五日早く開きましたね」と、得意げに答えた。
部長室で、端末機のパソコンを立ち上げているときに、氏家沙智子が、お茶を持って入ってきた。
技術部には給茶器が設置されており、自分のお茶は自分で淹れることになっていたが、沙智子は、朝のお茶だけは淹れさせて下さいと言って、朝のいっぱいだけは、淹れてくれていた。
「おはようございます、部長、垣根の花が咲いたのに気付かれましたか?」
「おはよう、気付いたよ。守衛さんが、去年より五日早いと教えてくれたよ」
沙智子は、秀作の肩越しに窓の外を見ながら言った。
「部長、どうして、枳殻には棘があるんでしょうね、あんな、少し情けないような花を、守ることは無いと思うんですけど、そう思われませんか?」
秀作は湯呑を持ったまま席を立って、窓の外の枳殻の垣根を見ながら答えた。
「おや、朝から哲学的な問いかけだね、そうだねぇ、どんな花でも実を付ける訳だから、やっぱり花を守っているんだと思うよ」
「でも部長、バラの木や枝が綺麗な花を守っているとしても、小さな棘ですよ、枳殻の花は、白くて可憐にも見えますけど、あの細くて白い五枚だけの花びらは、何か、情けないような気がします。あんなに尖った棘は必要ないように思えるんですけど……」
「情けない花だからこそ、しっかりと守って、実が付く最後まで守ってやっているのかも知れないよ、バラには、あんな可愛い実はつかないからね……」
「そう言われれば、そうですね、部長は、やっぱり優しいですね」

技術部の、年度始めの朝礼を終えた秀作は、本社で行われる入社式に出席するために、チラホラと花を付け始めた枳殻の垣根を見ながら、駅に向かって歩いた。
四月の年度始めに入社して来る者もあれば、三月の末に去って行った者もあることを思い、ときの流れと共に、ひとを取り巻く環境も変われば、ひとの心も又、変化して行くのだと言うことを、改めて実感していた。

入社式の後、昼食を兼ねた立食パーティーが、社内の大会議室で催された。
進藤里絵は西城里絵として、入社式に臨んだ。
門脇朋美は、受付業務に従事していて参加していなかったが、パーティーには、管理部の女性も、手伝いを兼ねて参加していた。
秀作と一緒に食事に行ったことのある谷川早希子と本田弘恵、以前、技術部に在籍していたことのある西丘絢子の三人が、里絵と一緒にいる秀作の周りに集まっていた。
身長の高い秀作の傍に、女性としては背の高い早希子が立つと、周りの女性が子供のように見えた。背の低い弘恵から見れば、秀作と早希子が、頭上で話しているように感じられた。
早希子が言った。
「君原部長、笹原さんが、大学の同窓会を三人でやりたいと話しておられましたから、また、ご一緒させて下さい」
「そうだね、谷川さんが受付に座らなくなったから、顔を見る機会が無くなったね」
「門脇さんも、部長の処から移ってこられたんですから、たまには声を掛けて上げて下さい。その時に、わたしにも声を掛けて頂いて、ついでに、お願いします」
「そうだね、分かったよ。でも、受付にじっと座っているのは辛いんだろうね?」
「そうなんです、門脇さんは真面目にやっておられますから、メンバーチェンジが無いんですよ」
「メンバーチェンジね、バスケットじゃないんだから、でも、それはいいことじゃないの、谷川さんも総務の仕事に専念できるし」
総務の仕事では、オールマイティの西丘絢子が言った。
「君原部長、谷川さんは、今では総務の若手エースですから、わたしが居なくなっても大丈夫です」
「西丘さん、居なくなったらとは聞き捨てならないね、そんなに歳ではないのに、今は、西丘さんの居ない総務は考えられないって、笹原くんが話していたよ」
「そうでした、君原部長には、お話ししていませんでしたけど、田舎の綾部の方で、再婚することになりましたので……」
「そう、それは良かったね、それで、辞めてしまうの?」
「相手にも、女の子供さんがあるんです、わたしが、前のお母さんに似ているらしくて、懐いてくれているんです」
「大変じゃないの、男の子に、女の子が増える訳だね?」
「はい、もう生まないかも知れませんから、三歳の女の子が、凄く可愛いんですよ。男の子とは違いますから、楽しみなんです」
「凄いね、バイタリティーを感じるよ、そうか、それで谷川さんの登場なんだね、それじゃぁ、谷川さんは総務の中でメンバーチェンジと言うことだね?」
「そうなんですけど、やれるかどうか、西丘さんは凄いですから」
「確かにね。西丘さん、賑やかな京都から綾部に帰るのには、決心がいった筈なのに、素敵な彼に巡り会えて良かった……」
「いいえ、結婚して明るい家庭を創るのが夢でしたから、再チャレンジです。親子で楽しく過ごせるチャンスが与えられたんです、土いじりも好きですし、広い庭がありますから、花を一杯咲かせて……、やる気満々なんです」

その日、秀作が帰宅すると、玄関で美紀が顔を見るなり「貴方、意外な方から、お手紙が届いていますよ」と言った。
部屋に入ると、机の上に、ピンクとブルーの縁取りのエアメールが置いてあった。
秀作は着替えるのを後にして、封を開けた。
丁寧な小ぶりの文字が、万年筆で書かれていた。
秀作は、ふとグリーンの万年筆を愛用していた西瑞穗のことを思い浮かべた。
読み進むうちに、秀作は胸が詰まった。祥子の父親はタイのバンコク病院ジャパン.メディカルサービスで病死していた。
現地で荼毘に付し、遺骨は広島の父親の実家の墓地に葬る、とあった。
父親の実家は長男が亡くなっており、父親の弟が継いでいた。其処に身を寄せて再出発をすると記されていた。
母親が逮捕されたことは、門脇朋美が報せていた。
秀作には会いたいし、朋美や谷川沙智子にも会いたいが、二度と京都に立ち寄るつもりは無いとあった。
書き綴っている姿を想像し、その心中を察すると、秀作は遣る瀬ない気持ちになった。
最後に記されていたのは、最初の夢が叶わないときには、その夢の質を落とさずに、新たな夢を追うことも必要だと秀作に言われたとおり、広島で介護の資格を取得して、新しい人生を歩む覚悟だと云うことだった。
その文面は、秀作の心の隅にあった暗い塊を、静かに溶かしてくれるものだった。
秀作の閉じた瞼の裏に、長身でスタイルの良い泉田祥子が、明るく笑顔で老人を介護する姿が映っていた。
その横顔は、目尻に黒子の無い、中学生の頃の西瑞穗のようだった……。  (了)
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