トパースのバレッタ

稲葉真乎人

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携帯電話

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高守那美の掛かり付けの老医師は、那美と、付き添いの母親の清美を前にして言った。
「睡眠不足と過労だな。体力が低下していたところにもって、ここ数日の酷暑日が影響したようだ。軽い熱中症で済んで良かったね。吉永先生の処置が的確だったから幸いだった。那美ちゃんは普段から少し貧血気味なんだから、夏場は気をつけないと駄目だよ。しばらく休養を取った方がいいな。それと、レバーのように鉄分の多い食品を意識して摂るように。根を詰めて頑張るのも、適当にしないと駄目だよ……」
「先生、那美はレバーが、あまり好きじゃないんですよ」
「そうか。じゃぁ、肉なら大丈夫かな?、牛ヒレか牛モモ、豚モモ肉なんかを料理に使えばいい。他には、ひじきとか小松菜なんかも。知っているね?、後で貧血対応の食品一覧表を窓口で渡すから、参考にしなさい」
「そうですね。少し勉強をし直して工夫してみます。お店が忙しくて、義母に任せていることが多いものですから、あまりお肉料理はしませんのでね」
「いやいや、お年寄りは結構バランスの良いものを食べているものですよ。この、ご近所のお年寄りが長生きをしているのは、そのお蔭だと思いますよ。そう言う私も、年寄りの仲間ですがね。那美ちゃん、要はきちっと三食、規則正しく食べること、いいね?」

目眩は治まっていた。一見すると普通に生活はできそうだが、顔色に血の気が感じられない。
ラッシュ時の満員電車に乗って通勤することを憂慮した母親の清美も、那美に数日間は休養を取るように勧めた。
那美は、取りかかっている資料の翻訳が遅れるのが気がかりだった。
会社に電話を入れて、明日には出勤できると思うと伝えた。
不在時に連絡を受けていた勤務先のマネージャー、スティーブ.ササハラは、自らが直接那美に電話を入れた。
「宮守さん、お加減はいかが?、仕事の心配は無用です。一週間の休暇を取って、体調を整えてから出社して貰えばいいですから……」
「ありがとうございます。軽い熱中症なので大丈夫です。ご心配をお掛けししました。本社からの特約店向け通報の翻訳が途中ですから……」
「それは、営業の田中くんがカバーしてくれています。安心して静養することです。パーフェクトなコンディションになってから出社してください。あなたの笑顔を待っていますよ……」
好意を持っていた上司のスティーブから掛けられた優しい言葉に、那美は素直に指示に従うことにした。
那美は、スティーブの秘書のような仕事と、アメリカ本社から届く書簡やメール、各種資料の翻訳を主な仕事としてやっていた。

修也の妹、早紀から聞いた修也の就業時刻になっても暑さは和らぐことはなかった。那美は自分の部屋のベッドに腰かけ、携帯電話を手にしては、またサイドテーブルの上に置く。
家に居ても、それぞれの会社で何が行われているのかは想像できる。
那美は修也に迷惑をかけたくなかった。
どんな会社でも午前中の事務所は忙しい。仕事の途中に私用の電話など論外だ。
せっかくの昼休みや、退社後に同僚と飲みに出かけるのを、邪魔したくない。
帰宅したら、のんびりとさせて上げたい。
修也の携帯番号を画面に出しては切る・・・メールアドレスを選択しては切る。
何度繰り返したか分からない・・・。
メールを打ったのは、休暇を取ってから四日目の日曜日、午後の9時を過ぎていた。
那美は修也が自宅にいることを予測していながら、電話ではなくメールを選択する。
牧野修也宛のmail
『こんばんわ。妹さんから携帯番号を教えて頂いたのに、お仕事の邪魔をしてはと思い、遅れてしまいました、ごめんなさい。先日は本当にお世話になりました。とても感謝しています。会社の上司から一週間の休暇を頂き、家で静かに過ごしております。もっと早くお礼をと思っていましたが、私用でのことなので、何時、連絡をすればいいのか迷い、今日になってしまいました。
お陰様で、体調も元に戻りました。本当にありがとうございました。それでは。』

修也の個人携帯には、滅多に電話もメールも入ることはない。ほとんどが会社用の携帯電話に連絡がくるからだ。
個人携帯をチェックしたのは、月曜日の出勤前だった。
充電器に嵌め込んでいた携帯を取り外して、バッグに入れようとしたときにメール受信を知った。

修也は、JR京都駅のホームで電車を待つ間に、個人用の携帯電話を取り出してメールを打つ。
高守那美宛のmail
『おはようございます。順調に回復の様子。良かったですね。今、京都駅のホームにいます。以前なら、近くの列に貴女の姿を見ていたのですが、数日、見かけなかったので心配をしていました。今朝も見ることができず、寂しく思っています。今週中には出社されるのですね。今日も暑くなりそうです。久しぶりの出勤となると大変だと思います。気を付けてください。それでは。』

修也がフラーゴのカウンター席で、電車内で那美と知り合った顛末をシェフの川添伸一郎に話したのは、那美にメールを打った日の夜だった。
「これって、これからどうすればいいんですかね?」
そばで聞いていた新庄久子が言う。
「牧野さんは、どうしたいと思っているの?」
「いや、これでいいのかなって・・・」
伸一郎がチーズを切りながら言った。
「どうかしたいんだろ?、よかったら、その彼女からのメールの内容を聞かしてくれるかな?」
「いいですよ」
修也は近くの椅子に置いていたバッグの傍に行き、自分の携帯電話を取り出すと、ボタンを操作しながら席に戻り、そのまま伸一郎に渡す。
「これが彼女からの受信で、発信履歴の一番上が僕の打ったメールです。見てもらってもいいですから……」
久子がカウンターの中に入って、伸一郎の肩越しにメールを読む。
「これは、似合いだな。しかし、何てメールなんだろうね。これじゃあ発展させようがないじゃないの?、なあ、チャコ……」
「そうね、彼女が牧野さんに気を遣っているのは良く分かるけど、問いかけとか、またね、とかってないのよね?」
「牧野くん。きみも同じだよね。言い切りじゃないか?、出社できるようになればとか、何か書きようがあっただろうに……」
「でも、先輩、いやシェフ。あんな出会い方ですよ、それまでに何もないんですから、しかも、彼女は最悪の姿を僕に見せているんですよ?」
「そんなことは、関係ないと思うよ」
「そうよ、牧野さん、わたしがシェフと出会ったのだってね。駅の近くで……、こんなこと大きな声では言えないけどね。酷く酔っぱらって、しかも、吐いていたのよ」
「えーっ、想像できないですね?」
「大きな声で言わないでよ。綺麗なことじゃないんだから。その上に、携帯電話が見当たらなくてね。周りは暗いでしょ、わたしは酔っているから探すどころじゃなかったのよ」
「わあっ、大変だったんですね。いつ頃のことですか?」
「牧野くん、忘れもしないよ。もう八年になるかな・・・。こっちは働いていたレストランの仕事を終えて帰るところだった。午前二時を回っていたんじゃなかったかなあ・・・」
「久子さんがですか?、信じられないなあ……僕ぐらいの歳ですよね?」
「そうなのよ。思いだしたくないわね」
「でも、それが縁で、この店を出すとき、手伝って貰うことにまでなったんだからね。縁と言えば縁だね」
「久子さんは、その頃、何をしておられたんですか?」
「大阪駅の近くのホテルだよ。此処を手伝ってもらうようになったのは、ある意味、引き抜きかな。僕の知り合いが、ホテルのレストランでフロアマネージャーをやっていてね……」
「牧野さん、わたしの方が、その彼女より最悪な状態だったことは確かでしょ?」
「確かに、そうですけど……。ふーん、そんな出会いだったんですか?」
「そうだよ、君と彼女の場合は、別に気にするようなことじゃないだろ?」
「今の話を聞けば、そうなりますけどね」
「それで、どうにかしたいと思っているのかい?」
「いや、そんな状況で会っただけですから・・・」
「ほんとか?、何かありそうな気がするんだけどな?」
「そうねえ、何か隠しているんじゃないの?、ねえ、シェフ?・・・。それで、牧野さんの発信メールは?」
「そうだ、もう一度、見せてもらうよ」
「参ったな、ふたりに責められるとは。でも、いい勘をしていますね」
「おっ、あるのかい、伏線が?」
伸一郎と久子が発信メールを読み終わる前に修也が言った。
「そこに書いたように、実は京都駅のホームで、毎朝、姿だけは見て知っていたんですよ。同じ車両ですが、乗るドアは違うんですけどね」
「そうだろうね。初対面じゃないと思っていたよ。それで何処に勤めているの?」
「それが、新大阪で降りるんですけど、何処の出口か、分からないんです。駅の北側でないことは確かなんですけどね」
「それじゃあ、向こうも君の存在は知っている筈だろう?、でも、そのことは書いてないね。どうしてかな?」
「シェフ、そこが女心じゃないのかしら……。分かって上げないと?」
「チャコに言われるとはな。そうか、チャコは、彼女は牧野くんに気があると見ているんだね?」
「だと思いますけど、牧野さんは、どうかしら?」
「いやー、こんな出会いが始まりでいいんですかね?」
「君は、どんな出会いの始まりを夢見ているんだい?、昌子ちゃんでも、もっと現実的だと思うよ?」
「そうですか?」
「そうだよ。それよりさ、携帯がこんなに普及しているんだよ。もっと昔の恋文のように……何て言うかな……。心の奥にある想いを、含みを持たせて打つって訳には行かないのかい?」
「先輩、シェフ。携帯はあまり得意じゃないんですよ」
「牧野さん、携帯と云っても、お手紙で、文章でしょ?、ふたりのメールじゃ余韻も何もないし、返信する余地が見つけ難いわよ。そう思わない?」
「牧野くん。携帯を馬鹿にしちゃ駄目だよ。なあ、チャコ?」
「そうよ。大昔の恋人はハンカチを落として、きっかけを掴んだなんて話を聞いたことがあるけど、現代は携帯電話かもしれないわよ」
「そう言えは、さっきの失くした久子さんの携帯電話は、そのとき見つかったんですか?」
「勿論だよ。僕が見つけたから、チャコの電話番号を知ったんだよ」
「えっ、どう言うことですか?」
「当時はチャコじゃないよな、新庄久子さんだね。酔っぱらって、チンジョウヒィーサコって聞こえたよ。酔っぱらったヒィーサコさんから、苦労して携帯番号を訊き出して、僕の携帯から掛けたんだよ。後は分かるだろ?、三メートルくらい先の側溝の下で鳴っていたよ」
「それがね、牧野さん。溝の蓋がコンクリートでね。引っ剥がすのに苦労したのよね、シェフ?」
「牧野くん、チャコは、本当は、そのときのことを知らないんだよ。ビルの壁に凭れて眠っていたからね」
「もう、それ以上話さないでほしいわ。今思い出しても恥ずかしいもの・・・」
「でも、どうして、そんなに飲んだんですか?」
「おい、牧野くん、野暮なことを訊いてやらないでくれるかな……。三十過ぎの女性が、どんなときに、やけっぱちになって、酔っぱらうまで飲むと思う?」
「もしかして失恋ですか?」
「本当のことは知らないよ。まあ、見つけたのが私で良かったよ、変なのに見つけられていたら、人生は変わっていたと思うよ」
「久子さんが……失恋?」
「そうだよ。でも、分かっただろ?、携帯電話が、知り合ったきっかけなんだよ」
「こんなことを訊いていいですかね?」
「分かっているよ。どうして知りあってから八年も経っているのに、川添と新庄なのかって、そう言いたいんだろ?」
「牧野さん、それは、又にしましょうよ……。貴方もそろそろの歳なのよ、そっちの方が大切なんじゃないかしら?」
修也は、返してもらった自分の携帯をじっと見つめていた。
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