トパースのバレッタ

稲葉真乎人

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自問自答

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日が陰り、少し涼しくなり始めた鴨川土手の遊歩道を、三条大橋の袂まで歩き、三条大橋を渡る。
木屋町通の、町家を利用したイタリア料理の店に修也、が那美を連れて行く。
コース料理を楽しむふたりは、お互いが疑問に思っていたことを話し合ったこともあり、恋人になる前のような緊張感は薄れていた。
旧知の仲のように、趣味やファッションのこと、外国語での失敗談などを話して過ごした。

タクシーに乗る那美を見送った修也は、今日のファッションを那美に褒められたことで、妹の早紀に感謝していた。
早紀の好きなロールケーキを買う為に、店まで歩いて行くことにした。
ワインで少し酔っているのが分かる。脈略のない思いが次々と頭に浮かぶ。
那美と出会ったことは楽しい出来事だったのか、それとも、どちらかが辛い思いをする原因になっているのではないか……。修也自身には、辛い思いの自覚はない。
ディナータイムは、楽しく語らいながら過ごした筈なのに、楽しさだけではない何かが胸につかえて、鈍った思考力が憂鬱な思いへと誘う。
仕事以外の事では、滅多に頭を悩ますことのない修也が、女性のことで考え込むなど、今までには経験のないことだ。
通を楽しそうに話しながら歩くカップルとすれ違いながら、ふと、自分の倫理観から外れることをしているのでないかと、疑心暗鬼にも襲われる。
弓子に対する今までの自分の態度は、間違ってはいない……、そうであってほしい。
駅のホームに立っていた那美に惹かれ、勝手な夢を描いて見るのも、犯罪ではない……、そうであってほしい。
酔いの中で、なんとか自分を支えようとする思考が奮闘して結論に導く。
どちらも倫理観を問われるようなことではない筈だ、そう自らに言い聞かせて、擬人暗鬼から逃れる。
偶然、同じような時期に、ふたりの女性と親密になるチャンスが訪れた。それだけのことなのに、性急に結論を出そうとしている自分はどうかしている……。

修也は大通の喧噪を避けて、河原町通を少し南に下ると、六角通から裏寺町通にコースをとる。
南に下がれば四条通に出る手前の路地に、目的のケーキ店はある。
何も考えず、酔いを楽しみながら、のんびり歩こうとしても、弓子と那美のことが思い浮ぶ……。こんなのも恋煩いって言うのだろうか、この歳で……、修也は自嘲する。

入社して七年が来ようとしている。仕事に専念した年月の間で、女性のことで気を逸らす時間はなかった。主任昇格を前に上司も先輩達も結婚を勧めてくる。
成約間近の仕事は、今までで一番大きな取引契約になる。
社内での立場を考えても、現状では、全てが順調で満足できる状況にあると、修也は思っている。
そんな状況の中に、突然、ふたりの女性に接近する機会が訪れたのだ。
従来の修也なら、おそらく見向きもしないか、避けて通っていた筈だ。

路地に在る、カフェを兼ねるケーキの店で、人気のロールケーキを二本購入すると、そのまま四条通に出てタクシーを拾った。
家に帰り、居間のテレビをつけたまま、料理のレシピ本を出す為に資料の整理をしていた母の百合に、修也がケーキを渡しながら言う。
「ただいま、お父さんと早紀は?」
「おかえり。お父さんは寝室だけど、早紀は、もう直ぐ帰るって、電話があったわよ」
「これ、早紀が好きなロールケーキだよ。じゃあ、風呂場を使っていいね?」
「そうね、使って頂戴。小腹が空いていたところなの、お母さんも頂くわ、貴方も食べる?」
「止めとく、ちょっと今夜は美食をしたからね。早紀は何処に行ったの?」
「仕事みたいなことを言っていたけど……」
「日曜日なのに?」
「あの子、転職を考えているみたいよ……」
修也は廊下で足を止めて振り返る。
「何処に?」
「まだ、詳しくは話してくれないけど、室内や店舗のデザインらしいわよ……、食器やキッチン周りの小物のデザインじゃ、食べて行けないとか言ってたわ……」
「でも、今の会社は優良企業だよ……」
「本人がやる気にならないのなら、居たって仕方ないでしょ?」
「お母さん、結構進んでいるんだな。普通の親なら止めるよ」
「親が言って聞くひとだと思う?」
「まあね、思わないな……」
「そうでしょ。三十歳になるまでは、自分が本当にやりたいことを探せばいいと思うのよ。お母さんの処に来る娘さん達の中にもね、本当に必要だと思って料理を習いに来ているひとと、とりあえず基本だけでも身に付けておこうと云うひとでは違うのよ。料理はね、感情も感性も必要なのよ。誰かのために作る訳でしょ、そのひとに喜んでもらう、そのひとの健康を支えている……。嫌々作る料理が美味しい筈がないわ。喜んで食べてもらいたい、嫌いなものでも、身体のために食べてもらいたい、そのためには工夫が必要なの、それには感性が必要でしょ。あら、ごめんね、今、資料に加筆したりしているものだから。お風呂、入りなさい。早紀が戻ってくるわよ」
「そうか、お母さんが仕事に取り組んでいる姿を見ているから、早紀も焦っているのかもしれないな。あいつ、負けん気が強いから……」
玄関で音がした。
「ただいま。お兄ちゃんは帰っているの?、鍵を掛けていい?」
「帰っているぞ、お帰り。先に風呂を使うぞ……」
「どうぞー」
そう言いながら居間に入って来る早紀と、入れ替わりに修也が出て行く。
「お兄ちゃん、買って来てくれたのね、ありがとう。お母さん、食べない?」
「ええ、頂こうと思っていたの。お湯を沸かすわ。着替えてらっしゃい」
「遅いから、後で着替えるわ。それより、お母さん、お兄ちゃん、何か言ってた?」
「いいえ、何も……、どうして?」
「日曜なのに、わざわざ服装に気を遣って出ていったのよ、たぶんデートだと思うのよね……」
「ほんとに?、そんな洒落たことができるのかしら。忙しい忙しいって言っているだけのひとに……」
「それは別でしょ。どんなに忙しい人だって恋人はできるし、結婚だってするのよ……」
「そうね。貴女、うがいをして、手を洗ってからケーキを切ってくれる?」

百合と早紀が、紅茶とロールケーキを前にして話していた。
「お母さん、出版の準備は進んでいるの?」
「今までの資料を順序良く整理しておけばいいからって、そう言われているから、大した手間じゃないのよ」
「そう。今日ね、先輩の会社から呼ばれて、行って来たのよ。店舗設計と施工をしている会社の若社長なんだけどね、大学の講師だった木崎先生の友達らしくて、女性でデザインと図面の引けるスタッフを探しているって木崎先生に相談したらしいの、そこで、わたしの名前が出たから来てもらったって……」
「大学や会社に迷惑を掛けることはないの?」
「今の会社は大学の紹介で入った訳じゃないし、途中入社だからね。でも、色々とあってね、考えているの……」
「どんな話しになったの?」
「社長は、わたしの今の会社に迷惑はかけたくないし、無理は言わないけど、それがクリアできるのなら、是非って……。具体的な設計の話もあるのよ、どうかしら?」
「どうかしらって……、お母さんは貴女次第だと思っているし、お父さんも反対はされないと思うわ」
「どうしてお父さんのことが分かるの?」
「あら、分からない?、百貨店の従業員って、どんなひと達?」
「そうか、女性が多いんだ」
「お父さんもね、部下の女性の中には管理職として伸びる人材も居るのに、何となく勤めていて、遣り甲斐を見つけていない女性が多いって、残念がっているのよ。お仕事をするのなら、女性でも男性でも、遣り甲斐を持てないのなら意味がないし、良い仕事はできないわ。お母さんも、そう思うけど……」
「ふーん、流石ね、うちの両親は……。これ、美味しいでしょ。お兄ちゃん、この店のが良いって言ってないのに、ちゃんと買って来てくれるなんて、割と良い感性をしているわね」
修也が姿を見せる。
「お先に。感性がなんだって?」
「わざわざ、この店に行ってくれたんでしょ?、だから……」
「まあな、僕も、その店のは好きだからな。やっぱり少し食べようかな……」
「紅茶、淹れてあげるわ、座って……」
「早紀、転職を考えているんだって?」
「うん、今の仕事じゃ、大学で勉強したことが活かせてないし……」
「そうか。どんな仕事なんだ?」
「待って、そっちで話すから」
ティーカップを持って早紀が戻る。
「待ってね」
早紀は傍に置いていたトートバッグから雑誌を取り出す。
「ファッション雑誌じゃないか?」
「えーっと、此処、このお店の新店舗を設計してくれないかって……」
「へぇーっ、できるのか?、この『Yukino』って店は有名だって言ってただろ?、ファッションは良く分からないけど……」
「オーナーは京都のひとなのよ、ヨーロッパと京都の融合って言うのかな、そんなテーマでデザインをしているひとなの。そう言えば、今週のタウン誌に載っていたわね。インタビュー記事の中に、結婚を意識しているひとが居るって。外資系の商社に勤めるバイリンガルで、京都の陶器店のひとらしいわ。本人も良く外国に行くらしいから、外国語のできる相手を選んだのでしょうね。わたしは、まだ、その社長さんには会ってないんだけど」
「なあ、そんなことはいいけど、ユキノって商品ブランドなのか?、ただの店名か?」
「お店の名前でブランド名でもあるのよ、オーナーでデザイナーのひとの名前なの」
「女性?」
「違うわよ、苗字よ」
「そうか、女性の名前じゃないんだ?。それじゃあ結婚相手は女性ってこと?」
「ユキノだから勘違いしたのね。降る雪に、野原の野、雪野潤。ここに載っているでしょ、ジュン.ユキノって……」
「かたかなで書かれたら、男でも女とでも、とれるな?」
「まあね。欧米のキャリアウーマンのファッションをベースに、日本的なテイストを加えたデザインをしている新進のデザイナーなのよ。働く女性のファッションが専門。最近は男性用のデザインもしているみたい。わたしも好きだけど、値段がね、高いから無理だわ」
「それって、分かりやすく言うと、どんな傾向のデザインと云うこと?」
「お兄ちゃんに教えてあげたでしょ、女性向けのマスキュラン.ルックが主体で、男性のスーツ生地を使って、裏地なんかに和の織布を部分的に使うのが特徴かな……。着物の素材とか帯とか、襦袢の素材なんか……」
興味深そうに聴いていた百合が口を挿む。
「分かるわ。この前、お祖母ちゃんが、額を入れて運ぶ手提げ袋を、デニムで作って、裏地に古布を使っておられたわ。実用的で小粋で、凝った感じ。クラシックとコンテンポラリーの融合って感じかしら……。とても素敵なのよ」
「そう、そんな感じ。でも、お母さん、洒落た表現をするのね」
百合は、首を少し傾げておどけた表情をする。
「ふーん。其処の新店舗の設計を早紀がやるのか……。大丈夫なのか?」
「今度の会社の社長さんはね、女性の感性が必要だと思うからって……」
「それは分かるな……。で、今の会社はいいのか?」
「それが、ちょっとね。でも、人員削減の計画があるみたいなのよ。景気が悪いしね。男性社員は生活がかかっているひとが多いから。話せば大丈夫だと思うの……」
「そうか、上手く行けばいいな?」
「多分、三月末で退社して、四月から行こうかと思っているの」
「僕は、反対じゃないな。何事も挑戦だ。しっかりやれよ」
「うん、ありがとう。このケーキも……」
「うん。さあ、歯を磨かなきゃ。おやすみ」

部屋に戻った修也は、ベッドに寝転ぶ前、枕元の棚に置いたCDラジカセでFM放送を選曲すると、スリープタイマーをセットして、ベッドに仰向けになる。
弓子に会って自分がとった行動が、少し悔やまれるような気がしてきた。
弓子の気持ちを歓迎する思いが、自分ではコントロールできない行動に走らせたのだと、言い聞かせるが、落ち着かない。
本当に心の底から喜び、行動に出たのだろうか……。修也の眠気は遠のいていく。
やがて、弓子の嬉しそうな笑顔が、その迷いを消し去ってくれる。
ホッとすると、今度は着物を着た那美が、嬉しさと悲しさの入り混じったような、戸惑いを窺わせる表情で、話し掛けてくる。
修也は虚ろな頭で考えようとする……。
那美の言葉を真に受けてもいいのだろうか……。那美が弓子のことを西野から聞き、自分から身を引こうとしているのなら……。
修也は、常に、他人に辛い思いをさせたくないと考えて、行動しているつもりでいた。
弓子とも那美とも、自分が勝手にストーリーを作り上げ、勝手に思い詰めているだけではないのか……。
このまま、じっと何もしないでいたら、弓子と那美と自分の関係は、どうなって行くのだろう……。
那美に言った「宜しくお願いします」は、恋人への進展を期待していた筈だ。
なのに、弓子に対して自分がとった態度は、それと同じ意味を持っていた……。
俗に言う、二股ではないか……。
まだ、暫くは同じ職場で顔を合わす弓子に対して、どう対応して行けばいいのか……。
思うだけで進展しない妄想を、考え過ぎで自分勝手な自惚れだと、自分に言い聞かせる。
那美の言ったことを信じよう……。弓子に対する自分の思いを信じよう……。
修也は、ラジオから流れる曲を途切れ途切れに聞きながら、虚ろな思考を闇に溶け込ませた……。
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