トパースのバレッタ

稲葉真乎人

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修也は何時もと変わりなく、同じ時刻に家を出ると、地下鉄で京都駅に向かう。
JR京都駅のホームに上がると、那美が電車を待つひとの列に並んでいる姿が、直ぐに目に入る。
那美は修也の姿を見ると、腰の辺りで軽く手を振る。修也は近づきながら声に出さずに「おはようと」言う。那美も倣って「おはようございます」と応えた。
修也は那美の三人後ろに並んで立つ。二人は視線を外し、無言のままで電車の入線を待つ。
週明けは何時も乗降客の数が多い、降りる客が途切れると、競って車内に乗り込む。
修也は連結ドアの前に立つ那美の傍に寄る。
「おはよう」、「おはようございます」。そう言っただけで、後は無言で居た。
高槻駅で客が乗り込んでくると、身動きできなくなった。
那美は修也の胸に左肩を当てたまま、列車の揺れに身を任せていた。
新大阪駅に到着すると同時に、ひとを押し分けてドアに近づかなければ下りることはできない。
修也は先に立ち、那美を庇いながらドアに近づくと、後は押し出されるようにしてホームに降りた。
修也と那美は、人の流れに乗って、並んで階段を上る。
広い在来線コンコースに上がると、那美を連れて人の流れから逸れた。
修也はバッグから京都のタウン誌を取り出して那美に差し出す。
「那美さん、これを?」
怪訝な表情の那美が受け取る。
「この雑誌、見たことがある?」
「はい、何度か……」
「ポストイットを貼ったページ、後で読んでみて?、じゃあ……」
修也は、東改札出口を使う那美を残して西改札出口に向かった。
那美は、混乱したまま、修也を見送り、手渡されたタウン誌をバッグに入れて改札口に向かった。

年度末を迎えると、社内から落ち着いた雰囲気が失われて、慌ただしくなる。
午後4時に近かった。修也は北丘と共に、課長の河野からミーティングルームに来るように言われる。
「ご苦労さん。今年度も何とか予定通りで納められそうだな……。内示が出たから伝えておく。北丘くん、本社海外事業部EU担当の課長代理だ。着任日は五月の連休明けと言うことになる。正式には四月一日付の社内報になる……。北丘くん、昇格人事だ、おめでとう。しっかりな……」
「ありがとうございます」
「奥さんは大変だろうが、着任はひと月先だ。疲れが出ないように、気を遣って上げろよ……」
「はい、分かりました、ありがとうございます」
「牧野くん、そう云うことだから、君が、うちの課の後任の主任に昇格だ。北丘くんを引き継いで、課内を纏めてくれ……」
「はい」
「ところで、西野くんの結婚式には、うちの課から誰が行くのか知っているか?」
北丘が答える。
「はい、課長とわたし、牧野くん、西城さん、それから川西さんだったと思います」
「そうか、あと、支店長と営業部長だったな……」
「何か?」
「いや、披露宴なんだが、そのメンバーならコーラスはできるな?」
修也が訊く。
「はぁ⁉、そのメンバーでコーラスですか?」
「ああ、課を代表して挨拶をと言われているんだが、ありきたりの祝辞でもないだろ、君らの歌は聞いたことがあるから、やれると思っているんだが?」
北丘が言う。
「課長はグリークラブ出身ですから、いいですけど、僕はハモったりできませんよ」
「君はメロディーを歌えばいいよ。牧野くんと西城さんは大丈夫だろ?」
修也が言う。
「課長、曲によりますよ。西城さんは学生時代に合唱部だったそうですから、いいとして、川西さんは、どうなんですかね?」
「知らないのか?、彼女のポップスは聞きものだよ、一度だけ、カラオケで聞いたけど、素晴らしいよ……」
北丘も言う。
「あれは、高橋真梨子のフォー.ユーでしたよね?」
「そうなんですか?、知らなかったな……」
「牧野くんが、プライベートと仕事にけじめをつけているのは分かるが、たまには部下のカラオケにも付き合ってやった方がいいよ」
「はい、今後は、できるだけそうするように……」
「よし、選曲は退社するまでに西城さんにやってもらって、楽譜はわたしが揃えよう。ぶっつけでもやれるだろ?」
「えーっ!、大丈夫なんですか?」
「牧野くん、上手いに越したことはないが、危うい方が受けるものだよ」
「そう云う狙いですか……、危うい役で注目を浴びないようにしないと……」
「まあ、そう言う狙いもある。北丘くんは転勤準備で大変だか、二人とも、西野くんのためにも、仕事とコーラス、両方頑張ってくれ?」
ふたりは、河野の勢いに圧されて「はい」と返事をした。

5時過ぎに、引き継ぎで得意先を訪問していた、大谷と植田が社内に戻り、終業時刻前に西野が戻ってきた。
西野はまっすぐに修也の席に近づいて、小声で言う。
「ちょっと、いいですか?」
「ああ、お帰り。どうした?」
「ちょっと」
そう言うと、先に立って部屋の外に向かう。修也は立ち上がって付いて行く。
パーティションの外に出ると西野が言った。
「牧野さん、個人の携帯を見ましたか?」
「いや、見てないな。会社の携帯じゃ駄目だったのか?」
「違いますよ、僕じゃないですよ、宮守さんからメールが入っていると思うんですが……。彼女から、電話では邪魔になるからメールを打ったけど連絡がないって、さっき僕の携帯に……」
「そうか、それは悪いことをしたな。じゃ、鞄の中だ、直ぐに見てみるよ。ありがとう」
「牧野さん、何かあったんですか?、彼女、珍しくハイテンションだったから……」
「君は内容を聞いていないのか?」
「ええ、とにかく、牧野さんにメールを見てもらうようにと…….」

修也と西野が席に戻ると、終業のチャイムが鳴った。
修也は自分の携帯電話を手にすると、エレベーターホールの隣にある自販機コーナーに向かう。
空腹感を凌ぐために、ホット.ココアを選び、カップを持って窓際の椅子に掛ける。
携帯を開き、メールを読む。
那美からのmail
『お忙しいのに、すみません。ひと言だけ、お礼を言いたくて。今朝は、ありがとうございました。彼は、あの記事のインタビューの直後からヨーロッパに出張中です。今夜、電話をするつもりです。彼は派手なお仕事をしていますが、わたしの前ではシャイなひとなのです。修也さんから、彼の気持ちを知らされるなんて、複雑な気持ちです。ありがとうございました。今度は、わたしから報告できるといいなと、思っています。宜しくお願いします。那美』
修也は携帯を閉じると、ゆっくりココアを一口飲んだ。
「牧野さん、此処でしたか?」
「ああ、西野くん、那美さんのメール読んだよ」
「どうでした?」
「僕から君に話していいのかな?」
「悪い話でなければ、いいでしょ?」
「那美さんが片思いだと言っていたデザイナーのひとが居ただろ、彼が那美さんと結婚を考えていると公言したんだ。それも、タウン誌のインタビュー記事の中で……」
「それを、牧野さんに?」
「那美さんは知らなかったんだ。今朝、僕の妹が持って帰って来ていたタウン誌を渡してあげたんだよ。その中にインタビューの記事が載っているんだ」
「それで知ったってことですか……。うーん、それもプロポーズのサプライズとしてはありかな?」
「考えようだな、相手に伝える前に、周りに公言する。でも、具体的な名前は言っていないんだ、外資系の会社に勤めるバイリンガルのひとで、実家は五条坂で陶器店を経営、だったかな……」
「分かりますよね、そんなに居ないでしょ?」
「間違いないよ……」
「牧野さんの気持ちとしては、すっきりしているんですか?」
「ああ、もの凄くすっきりしているよ。まぁ、また話すよ」
「僕は月が明けたら、直ぐに結婚式と新婚旅行で暫く休暇をもらいますから。日本にはいないので、それまでに教えてくださいよ?」
「うん、近日中に話す機会はあるだろ……」

修也は会社を出て新大阪駅に着くと、京都には帰らず、地下鉄で梅田に向かう。
梅田の地下街で用事を済ますと、直ぐにJR大阪駅に向かい京都に帰った。
那美から携帯に電話があったのは、午後十時過ぎだった。
「こんばんは、那美です」
「こんばんは」
「今、いいですか?」
「いですよ、嬉しそうだね?」
「ほんとうにありがとうございました。あのタウン誌は、あまり読んだことがなかったので、助かりました」
「間違いなかったんだね?」
「はい、電話をしたんです。番号は教えてもらっていたんですけど、初めてかけました。帰国したら話すつもりだったと……」
「良かったね、おめでとう」
「はい。でも・・・」
「いいよ、心から良かったと祝福できる状況にいると思ってくれればいい……」
「もしかして……」
「うん、こうして那美さんから直接聞けたから、僕も決めようと思っている……」
「そうですか、上手く行くようにお祈りしています」
「ありがとう。お祝いをしないといけないね?、雪野さんは、何時、帰国されるの?」
「今月末だそうです」
「じゃぁ、今月中に声を掛けようか?」
「はい、待っています」
「オーケー、じゃ、僕からメールしょう」
「お願いします。本当にありがとうございました。それじゃ、おやすみなさい……」
「おやすみ。いい夢が見られそうだね……」
「はい……」
修也はウイスキーの水割りを作ろうと、台所に行く。
台所の隣の部屋で、母の百合が卓袱台にノートや雑誌を広げて考えていた。
「まだやっていたの?」
「今月が最終版の提出期限なのよ……。貴方はどうしたの?」
「ちょっと、良い電話があってね、独りで祝杯をと思って……」
「電話って、何なの?」
「電車の中で気分が悪くなって、僕が吉永の伯父さんの処に連れて行った女の人が居たでしょ、僕の職場の西野くんの友達でもあったんだけど。そのひとの結婚が決まったんだよ」
「そう、宮守那美さんと云うひとだったわね、それで、祝杯なの?」
「色々と僕の人生にも影響する部分があってね。また話すよ」
「あら、そう。楽しみにしているわ……」
百合は近いうちに、修也から、好い報せがありそうな気がした。

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