トパースのバレッタ

稲葉真乎人

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エピローグ

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雪野のマイカーに同乗して帰る那美を駅前で見送り、修也は地下街に下りると地下鉄の改札に向かう。
修也は、雪野と自分が、あまりにも違うタイプであることに、何か釈然としない思いが残っていた。
那美との付き合いが、あのまま続いていても、結果的には恋人同士にはなれなかったのではないか……。
弓子が自分に好意を抱いてくれた想いを北丘夫人に伝えたことから、弓子との婚約まで辿り着いた今だから、そう思えるのだ。
今となれば、最初に那美と付き合うチャンスがありながら、積極的に踏み込むことができなかったのは、自分の意識の中に、弓子が入ってくるのを待つと云う意味があったのではないか……。
那美もまた、自分の想いを正直に修也に話すことで、親密な関係になることに間を置いた。結果として、雪野の気持ちを知ることができた。それを伝える立場に修也が居たことで、修也も那美への気持ちをふっ切ることができたのだ。
修也も那美も、川添シェフの言う、自らの想いに素直に従ったとも言えるのだ。
弓子の家族は、修也の正式な結婚申し込みを快く受け入れてくれた。
西城美紀の結婚式に、修也と弓子は揃って招待され、披露宴ではカップルとして西野夫妻と同じテーブルに付いた。
美紀からのリクエストに応えて、河野と修也と弓子、北丘に代わって西野、美紀に代わって昌子が加わり、混声コーラスで「ハワイアン.ウェディング.ソング」を歌った。
西野の結婚式の二次会で歌った修也と弓子の声を気に入った美紀は、二人に披露宴で歌ってほしいと頼んでいた。
披露宴会場にはグンドピアノが設置されていることを事前に知らされていた。
修也は“IT MIGH BE YOU”(君に想いを)を歌おうと思い、河野に楽譜を手に入れられないかと頼むと、快く準備をしてくれた。
ピアノが弾ける昌子が、修也に、「カラオケでなくても伴奏をしますよ」と、買って出た。修也は昌子が通っていた音楽教室に出向き、昌子と一緒に練習を重ねた。
“IT MIGHT BE YOU”を選曲したのには、美紀のためでもあったが、修也の弓子に対する気持ちも込められていた。
歌詞の最後のフレーズが気に入っていた。
Maybe it's you, maybe it's you
I've been waiting for
all of my life.
Maybe it's you, maybe it's you
I've been waiting for
~待っていたのは弓子、君だったのだ
那美に惹かれて行くことなく
ずっと待ち続けていたのは弓子、君なんだ~

修也は、そんな思いを込めて歌った。
英語のできる河野も西野も那美も、修也の胸の内を察していた。
三人はそれぞれの想いを胸に、ピアノの横に立って歌う修也を、じっと見詰めていた。
弓子は好きな高橋真梨子の「素足のボレロ」をカラオケで歌う。
弓子も修也と同じように、歌に自分の思いを込めていた。

~私は貴方と生きていく せつないボレロのように
私は貴方と歩く 漂うボレロのように
貴方はビロードのシンフォニー 私はずっとそばにいる
貴方は待ちわびたオーロラ 私はずっとここにいる~

弓子は、ソフトな声で静かに歌い始める。曲が進むにつれて、弓子の想いが籠められた歌声が響き、ホールのひと達の胸を打つ……。
やがてソフトな声に力強さが加わり、愛することに確信を得た女性の姿が浮かび上がる……。
綺麗で伸びやかな声はホールに響き渡る……。
修也の隣に立つ那美は何を思うのか……。弓子から視線を逸らすことなく、聞き入っていた。
修也は西野と那美の間に立って、弓子が歌に込めた思いを重く受け止めていた。

修也の家族は、弓子とのことを修也が話すと、一度だけ家に呼びなさいと言っただけで反対はしなかった。
弓子は週に一、二度は訪ねて来るようになっていた。
弓子が家に来たとき、台所を手伝ってくれる姿を、母の百合が気に入り、自分が開く料理教室の助手として働くように勧めた。
それ以来、結婚前にも関わらず、百合は次から次へと弓子を気遣うような態度をとった。
百合は、修也と弓子に、新婚当初はふたりで料理教室の3階に住むようにと言った。
料理教室のあるビルは、元は、紙問屋を商っていた百合の実家で、亡父から遺産として百合が引き継いでいた。
3階建てのビルの1階を改造して料理教室に使い、2階は事務所と冷蔵室兼倉庫で、3階は住居になっており、現在は誰も使っていなかった。
百合は、次第に、弓子にべったりの状況になりつつある。

結納まで何事もなく進み、修也が弓子に伝えていたように、11月に式を挙げることになった。
那美と雪野は、翌年の春に挙式が決まり。那美からは、西野夫婦と共に、修也と弓子にも、揃って出席してほしいと連絡が来ていた。

西城美紀の結婚式が終わって、2週間ほどが過ぎた頃だった。
週末の金曜日。フラーゴラは「貸し切り」で、表の行燈看板に灯りはなかった。
修也と弓子、西野と妻の桜子、松森と昌子の三組のカップルがフラーゴラに居た。
シェフの川添と妻の久子は、久子の実家のある鹿児島で、内輪だけの結婚式を挙げて戻って来ていた。
祝儀をもらいながら、結婚式に呼べなかった六人にお礼をするため、川添夫妻がフラーゴラに招待したのだ。
新婚の川添シェフ夫婦と西野夫婦。婚約中の修也と弓子に刺激されたのか、恋愛関係を深めつつある松森と昌子は、いつもより大っぴらに身を寄せ合っている。
準備された料理を前に、全員のワイングラスは、空けられると直ぐに注がれ、その度に、明るい声でサルーテ(乾杯)が繰り返された。
シェフが修也に語り掛ける。
「牧野くん、君らしい結論の出し方だったね?」
「僕らしい……そうですか……。確かに、慎重と言うよりは、臆病だったように思いますけど……」
「いや、自分の気持ちに正直だったし、それを良く保ち続けた、感心しているんだよ」
「那美さんや弓子さんに助けられたと言うのが、本当の処のように思えます」
「いいや、君は行くべきときには躊躇しないで進んだ。わたしには、その若さがなかったから……。スタートは早かったが、行き着く処には、なかなか辿り着かなかった。チャコには我慢をさせ過ぎてしまったと反省しているんだよ」
「僕はシェフを見習ったと思っています。久子さんも待ちくたびれたとは言われないと思いますし、シェフも久子さんとの時が熟すのを自然な形で待っておられました……。僕には、そう思えました。僕も弓子さんも那美さんも、誰かが自分に素直でなく、想いと異なる方向に進めていたら、おかしなことになっていたような気がします。ボタンの掛け違いのような……」
「それは言えるかもしれないね。若さに任せて突き進むのを、情熱的と肯定もできるが、君は、その年齢は過ぎていたのかも知れない……。若さを持っている松森くんと昌子ちゃんには、君たちを見習ってほしいと思っているんだがね……」
「ふたりは、僕より世代が違っているように思います……」
「それはないだろ?、弓子さんも那美さんも二十歳半ばだ、可哀想だよ。君だけが三十歳に近いと言うことだろ?」
「そうでした。でも、昌子ちゃんに此処に連れて来てもらって、先輩に出会ったことが良かったと思っているんです。僕が自分だけの考えで那美さんとのことを進めていたら、お互いに、今のような結果にはなっていなかったと思いますから……」
「ボタンの掛け違いも、些細なことでのすれ違いも、恋愛には付き物だよ。言ってみれば、君と那美さんは、掛け違えそうになっていたボタンに、早い段階で気づいたと言うことじゃないのかな。まあ、仮に、気づくのが遅くても、ドタバタはするが、やはり元のボタン穴に戻すことになったんじゃないのかな……」
「そうかも知れませんけど、この歳になって、会社での立場を考えたりすると、ドタバタは避けたいと思いますから……。シェフのアドバイスがなかったらと思うと、間違いなくドタバタしていた姿が目が見えます……」
「だから、その辺りが牧野くんらしいと言っているんだよ。周りの声をよく聴いて行動をする。昌子ちゃんが、何時も此処で、君のことを、そう話しているよ……。
ウォームなハートで意外にクールな面もある。好い管理者になれるだろう……。君を慕っている松森くんが、此処で飲んで、酔うと何時も話しているよ……」

修也と弓子が結婚すると、弓子は本格的に百合の料理教室を手伝うようになる。
弓子は日本料理も得意だが、フランス料理やイタリア料理にも精通していたのには、修也も百合も驚いた。
背が高く、少しはっきりした目鼻立ちの弓子は、外国人のような雰囲気もあるが、話し方は丁寧で優しく、割烹着もよく似合っていた。
料理教室の生徒には評判が良かった。年齢も近いとあって、口伝で生徒の数が増えた。
プライベートの時には、那美からプレゼントされた「Yukino」ブランドのマスキュリン.ルックのパンツスーツを装うこともある。
修也は、日本的な面立ちの那美より、間違いなく弓子に良く似合うデザインだと思いながら見ていた。
那美は、好きな雪野の作ったスーツだと言うだけで、彼のデザインしたスーツを身に着け、自分の想いを彼に伝えようとしていたことを思い、可愛い女性なんだと改めて思っていた……。
雪野と結婚した那美は、その後は和服姿で過ごすことが多くなり、同期会で久し振りに会った西野は、「今までの那美ちゃんとは、全く雰囲気が違っていましたよ・・・」と修也に伝えた。  (了) 
(固有名称など、全てフィクションです。)


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