見つめていたい

稲葉真乎人

文字の大きさ
上 下
18 / 21

17.人それぞれ

しおりを挟む
三月に入ると、翌年度の人事異動と昇格者の内示が出された数日後、真田純也から秀一の携帯に電話があった。
秀一は二月末までに業務の全てを引き継ぎ、三月に入ってからは、貯まっていたひと月以上の有給休暇を消化をすることにしていた。
出社はせず、時間の許す限り、友人のペットクリニックを訪れて、無報酬で診療を手伝っていた。

「ああ、真田くんか、どうだい、うまくやってるか?」
「まあ、なんとかやってます。由井さんは元気でやっておられますか?、暇を持て余しておられるんじゃないですか?」
「いや、結構忙しいんだ。友人のペットクリニックの手伝いに来ているんだよ」
「早速ですか?、さすが、段取りがいいですね?」
「決めていたことなんだ。どうなんだ、みんなと上手くやって行けそうか?」
「由井さんに教わったことを忘れないようにと思っていますから」
「そんなことは気にしないでいいよ、真田くんのスタイルでやればいい……。それより、何か僕の拙いことが出てきたかな?、それとも困ったことでも?」
「いえ、違います。無理をお願いするんですが、一度、出てきて頂けませんか?、時間外でいいんですけど?」
「いいよ、何時がいい?」
「そのクリニックの手伝いはいいんですか?」
「いいよ、無報酬で手伝いながら勉強をさせて貰っているんだ。学生時代の親友の処だからね」
「そうですか、実はプライベートなことで、アドバイスを頂ければと思いまして、ちょっと電話では話し難いので……」
「そうか、僕でいいのか?」
「はい、由井さんにしか相談できることじゃないので」
「へぇー、責任重大だな、それで?」
「それと、確か、田舎からお客さんが来られるとか言っておられましたよね?」
「それなら十三日だから、それまでなら何時でもいいよ」
「じゃあ、明日、梅田の新阪急ホテルのロビーで、六時半はどうですか?」
「いいよ、そうしよう、何かあったら僕の個人携帯は知っているな?」
「はい、じゃぁ、すみませんが宜しくお願いします、失礼します」

待ち合わせて行ったレストランに落ち着くと、何時もの陽気な雰囲気の真田純也ではなかった。
秀一は急かすことはないと思い、真田が話し始めるのを待つ。
グラスビールを二杯飲んだ処で、真田が話し始めた。
「実は、由井さんが辞められたからと云う訳じゃないんですが……」
「どうした?、何時もの君らしくないな?」
「訊くんですけど、由井さんは、吉永さんも飯田さんも、親しくしておられましたよね?」
「親しくって?、まあ、社員どうしの付き合いだと思うけど、どう云う意味かな?、補充人事に関わることか?」
「それはないですよ、総務から営業には来ないでしょ。それとペット薬品課も彼女は出さないと思いますし……」
「はーっ、そうか、女性として、と云うことなんだな?」
「はい、会社では分からない部分があると話しておられましたよね?」
「そのことか、それは僕個人の感想だ。気にしないでいいよ、何かあるのかな?」
「実は、飯田さんからアプローチがあったんです。由井さんを諦めたからだと思うんですが……」
「ほぅ……、それでどうした?。何か引っ掛かるのか?、君も知っているとおり僕とは何もないぞ……」
「それは知っています。でも、片桐専務は彼女と姻戚関係があるひとでしょ?、由井さんには出世のチャンスだと言いましたけど、やっぱり僕も気になるんです」
「自分の生き方に照らしてみればいいんじゃないのか?。他人の言うことは気にしないでいいよ。しっかりと考えて行動すればいいと思う、結果がどう出ようと自分自身は納得できる筈だから……」
「そうですよね……」
「それだけのことか?。常に前向きがモットーの君らしくないな、大したことじゃないよ」
「いえ、迷っているんです」
「何をだい?」
「もうひとりの方が、大変なんですよ」
「もったいぶらずに話せよ?、その為に僕を呼んだんだろ?」
「吉永さんなんです。彼女が入社してきた頃から、少しは仲良くしていたんです」
「そうか、それでうちの食事会に誘っていたんだな?」
「まぁ、それもありますが、彼女、由井さんに惹かれていたみたいでしたから」
「それは悪かったな、ディナーショーの誘いには、君が行くべきだったかも知れないな……」
「それはいいんです。彼女、飯田さんと同じで、由井さんが辞められることで吹っ切れたみたいなんです」
「じゃぁ問題はないんだ?」
「あるんです、彼女は箱入り娘で有名なんですよ?」
「そんなの関係あるか。本当の箱入り娘を、うちの会社に入れるか?、気にするな。彼女は、意外と親にはっきり物が言えるぞ。会社での彼女はそんなには見えないだろ?」
「そうなんですか?」
「だから、表面や会社での態度では分からないと言ったんだよ。彼女は物静かで、総務の仕事では何時も柔和な態度で接してくれる、強く言ったり、言い返したり、そう云うのを見たことはないだろ?」
「確かにそうですが……」
「じゃぁ、彼女次第ということだろ?」
「ですよね。でも、僕で大丈夫ですかね?」
「大丈夫だよ。飯田さんからも吉永さんからも声が掛かると言うこととは、できる女性達から評価してもらっている証拠じゃないか……。第一関門はクリアしてるってことだ……」
「もしもですよ、どちらの両親にしても、僕と会って、不釣り合いだと断られないですか?」
「真田くん、自信を持てよ。人間性も男としても、君は他の若い人と比べればワンランク上だ、少しも見劣りはしない。もし、家柄のことを気にしているのなら、君の家だって代々続いている名の通った料亭じゃないか?……。お兄さんが継いでおられても、何代目かのお父さんの息子だろ、それに、君は大学の薬学科を出ながら、調理師の資格も持っているんだろ?。いざとなればどうにでも食って行けるんだ、強みじゃないのか?」
「そうですかね……」
「そうだよ、君が彼女たちのことを知らないように、彼女たちも、君が薬剤師で一人前の料理人だと云うことは知らないんだ。料亭の名前は聞いて知っていてもだ。そこの息子だとは知らないはずだ」
「そうですけど、家族と親戚のひとだけでやっている店ですからね」
「何を言っているんだ。僕は良い店だと思ったよ、規模の問題じゃないだろ?。優れた料理人と、上質の接待があるからこそ、古くからのお客さんが付いているんだ。
その結果として何代も続いていると云うことだろ……。自信を持て、そんなことを言っていたら先代に叱られるぞ?」
「そうですか、なんとなく自信が持てなくて……。ふたりとも由井さんを好きになるような女性ですからね?」
「あほなこと言うなよ。バツイチとは云え、独身の課長だったからじゃないのかな、来期には君も課長になるんだ……。僕よりは若いし、ハンデなんて全くないんだよ」
「はい……。あのー」
「何だ、まだ何かあるのか?」
「由井さんは飯田さんと吉永さんと、どちらが僕に合うと思われますか?、しょうもない質問だとは分かっているんですが、迷っているんです」
「おいおい、持てるんだなぁ?。飯田さんが専務の姪だということに引っ掛かっているんだろ?。確かに、親族や幹部の縁故で入社している社員が多い会社だ。経理の大谷くんも気にしていた。色々と問題を起こしても対応に公正さを欠いているってな……。でもなぁ、片桐専務はクールなひとだよ、飯田さんが姪であっても優遇はされないだろ、家柄とか血筋を気にはされないよ。だから、自分も飯田家を出て片桐家に養子に出られた。そう営業本部長から聞いたことがあるよ」
「佐伯部長からですか?」
「ああ、佐伯部長は大学の漕艇部で片桐専務の二年後輩なんだ。片桐専務はクールだが、補欠にも気配りをするハートのあるキャプテンだったらしいよ。片桐専務のことを、飯田さんのハンデにしては可哀想だな?。吉永さんと飯田さんの、どこが君のハートに響くかだろ?。本人以外の周辺の条件は排除して考えた方がいいんじゃないか?。僕の失敗経験から、そう言える……」
「そうですよね……」
「僕が結婚に失敗をしたのはな、自分の気持ち以外の要因に左右されたからなんだ。自分が心から愛したひとなら、すっきり別れたりはできなかったと思っているんだ。
一生を共にする相手を選ぶんだろ?、相手をじっくり見極めて、自分だけで考えて決めるべきだと思うけどな」
「由井さんは、ほんとの処、どちらの女性が好きでしたか?」
「結婚を前提にしてと云うことなら、どちらとも合わない。タイプじゃないと思っているよ。君には悪いけど、率直に言わせてもらうと、僕にアプローチしていたのに、退社して居なくなると、直ぐに切り替えたとすれば意外だ、僕には無理だな……。都会の女性は僕に合わない、最近そう思うようになってる……」
「そうですか、僕はあまり気にはなりませんけど」
「それでいいんじゃないか、ひとはそれぞれだ、大谷くんも君も、これから中堅の管理者としてやって行くんだ。ストレスはきついぞ、落ち着いて安らげる家庭が必要だ。しっかり考えて決めるといいよ……。失敗した僕が言うのは真実味がないか……」
「いえ、とても参考になります。ありがとうございます。相談したくても社内のひとじゃ嫌ですし、彼女たちを知っていて事情の分かるひとは、由井さんしか居られないと思って、すみません」
「僕も相談されて感謝しているよ。こうして話していながら、自分は何も考えずに結婚をしたんだなって反省しているんだ。真田くん、自分が誰かから、じっと見つめられていることに気付かないって、お互いに不幸なことだぞ。お互いがそれなりに歳をとって、独身だった場合は哀しいよな……。飯田さんや吉永さんのように、自己表現を素直に出来る女性なら問題ないけど、シャイな女性だと、申し訳ないと思ってしまう……」
「由井さん、そんな女性がおられたんですか?」
「ああ、馬鹿だよな、三十も半ばを過ぎて気づくなんて……」
「相手のひとは、今でも独身なんですか?」
「ああ、そうなんだ……」
秀一の表情に真剣な気配を読み取った真田純也は、それ以上は訊くのを止めた。
ふと、吉永みずきのことが頭に浮かんだ……。
しおりを挟む

処理中です...