見つめていたい

稲葉真乎人

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18.想いの丈

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三月の一週目が過ぎた週末、秀一は鳥取に帰った。二日間だけ家に居ると、直ぐに京都に戻る。
翌週から海外旅行に出かける親友のために、ペットクリニックの留守番を買って出ていたからだ。
実家に居た二日間は、夢だった獣医師の仕事をやると決めたことを、両親と家族に報告し、理解してもらおうと努めた。
父の浩作は最初から反対はしなかった。母の美佐江は残念そうにしていたが、最後は理解した。
祖父母は、孫が帰郷して地元で働くことを素直に喜んだ
岡谷牧場を訪ねたとき、有希は留守だった、健吾には、自分の気持ちは、有希が京都に来てから伝えたいと話した。
有希と直接顔を合わせることも話す機会もなく、気にはしながら、ペットクリニックで経験を積むことの方が今は優先だと、自分を納得させてトンボ帰りで戻ったのだ。

岡谷健吾が、有希を京都に行かせると知らせてきたのは、秀一が京都に戻って二日後だった。。
健吾にしては丁寧に、携帯とパソコンの両方にメールを送って来た。

携帯の健吾からのメールを開く。
『秀ちゃん、お互いに忙しくて、ゆっくり話せんかったな。年明けから心配だった親牛も安定してきている。今年の春は五匹の仔牛が誕生する予定だ、そのときには秀ちゃんが獣医として居ってくれたらと思うよ。有希はなんとか休暇が貰えるらしい、詳しい日程は連絡させる。後は、パソコンの方にメールを入れとく。じゃあな』

健吾からパソコンに長いメールが届いていた。
『さっき仕事が終わって、手が空いた、牛舎は親父と交替だ。有希が、そっちに行く頃は、僕が牛たちの世話で忙しくなる。それまでにと思って、伝えとくわ。
聞いてくれ、僕は兄貴として、あんまり妹のことを知らずにおった。
秀ちゃんも知っとるように、有希は幼い頃から無口な方だっただろ。
今でも自分のことを進んで話すことはあんまりない。
高三のとき、京都の美大に進学するかと、親父が言ったとき。
自分の性格は都会には向かんから地元の大学を受けて、中学の美術の先生になりたいと言った。本当は秀ちゃんの居る京都に行きたかった筈なんだ。
呑気な兄貴だよな、それを知ったのは最近のことだ。僕が理恵さんと恋愛関係になって、初めて気づいた。
有希のことで記憶に残っていることがある。
特に、秀ちゃんが京都の大学に行った頃。
それから、秀ちゃんの結婚式の招待状が届いたとき。
それ以外にも、秀ちゃんが帰省して牧場を手伝ってくれて、
京都に帰った後のこともだ。
秀ちゃん、憶えているか。
牧場の納屋で校内のバンドコンテストの練習をしただろ。ポリスの、Every Breath You Take、「見つめていたい」だ。
あの曲が、そのたんびに、有希の部屋から聞こえとった。何度も何度もリピートしとった。
僕自身が恋をして、結婚をしょうと思うようになって、初めて有希の気持が分かった云うことだ。
確かに有希は、僕らが納屋で練習をするとき、何時も一緒に居った。
有希は秀ちゃんを好きだけえ、あの曲で秀ちゃんのことを思い出しとる。そう思ったけど違っとった。
あの曲を聴いとったんは、有希が秀ちゃんのことを想っとったんだのうて。
秀ちゃんに「見つめてもらいたい、想ってもらいたい」と云うことだったんだ。
ほんに僕は駄目な兄貴だよ。
それを秀ちゃんに伝えようと思って京都の下宿を訪ねたのに、有希のことだのうて、自分のことみたいに思えて言えなんだ。
秀ちゃんが、有希を、どう思っているのか分からかったし。
帰ってから、英太にも智子ちゃんにも言われた、頼りない兄貴だってな。
有希は先生にはならずに、牧場を手伝いながら絵を描くと言った。
両親は、有希を牧場に置いとったら、ずっと無口でシャイなままだと心配した。
それで、牧場は手伝わんでええから、働きに出るように言った。
そのときに、秀ちゃんの小母さんに、今の画材店を紹介してもらった。
お陰で今では初対面のひととも平気で話しとるし、店でも上手く接客もできとる。
それでも恋愛となると、兄妹はおんなじで不器用なんだ。
有希には京都に行ったら、自分の想いを、はっきり秀ちゃんに言えと話しといた。
あいつなりに胸の内を伝えると思う。どう受け取るか、あとは秀ちゃんが決めてくれ。
僕にも思うことはあるが、こればかりは言えん、親友だからこそだ。
とにかく、宜しく頼むよ。
心配な親牛が居ってなあ、親父が様子を見とるけえ、そろそろ代わったらんといけんから、此処までにしとくわ。
秀ちゃん、無理はせんでもええ、でも、宜しく頼む。
春になって、こっちに戻ってくるのを楽しみに待っとる。
じゃぁな。 -Kengo-』

健吾のメールから二日経った頃、有希からのメールがパソコンに届く。
「三月の中頃なら休暇を貰えることになりました。何時、京都に行けばいいですか、ご連絡を待っています」そんな内容だった。
文面から有希の想いを窺うことはできず、秀一は気抜けしたような気持ちで読んだ。

このとき、既に有希は次のことを考えて決心していたと知ったのは、妹の智子からの電話だった。
智子は一歳年上の有希のことを、以前から気に入っていた。
智子は幼い頃から有希と同じで、口数の少ない子供だった。
中学に入り、ピアノが弾けると知った音楽の先生に誘われ、コーラス部でピアノを弾くようになって、次第に快活で友達とも普通に話せる明るい少女に変って行った。
銀行に勤めるようになり、周りのひとに気配りの出来る大人の女性になっていた。
有希の勤める画材店の取引銀行窓口が、智子の居る銀行の支店だったこともあるが、ふたりはよく顔を合わせるようになり、お茶を飲んで話したり、映画を観に行ったりする機会を重ねるようになっていた。
そんな間柄にも関わらず、有希は、秀一に恋する想いを智子に悟られることはなかった……。智子が個展の絵画を見るまでは……。

真田純也から相談を受けてアドバイスをした二週間後、有希が京都にやってくる日が近づいていた。
ペットクリニックから下宿に戻り、『山海や』の店の隅で夕食を済ませると、峰子に頼んで、瓶ビールとグラスを受け取り、自分の部屋に帰った。
CDデッキに入れたままの『アラン.パーソンズ.プロジェクト』のCDを抜き取ると、『ザ.ポリス』のCDを入れ、選曲をすると一曲リピートにセットした。

先妻の内田聖子との離婚から得た教訓は、地方育ちの自分と都会育ちの女性とは、人生観も生活感覚も合わない。
同時に自分自身も、都会には馴染まないと気づいたことだった。
吉永みずきや飯田友美が、真田純也と付き合おうとしていることに、何の感想も浮かばない、二人のどちらでも、真田なら上手く付き合えるだろうと思っていた。
峰子に紹介された杉峰千里も、秀一から見れば都会の女性に変わりはない。

秀一はビアグラスを手にしたまま机に向かうと、パソコンを起動してメールを開く。
メール保管庫の、健吾からのメールを読むのは、もう数回目だろうか。
健吾のメールは、故郷の情景と岡谷牧場の風景を思い出させる。
牧草を刈り入れた冬仕度、牧場の柵の修理、農機具置き場の納屋でのバンド練習、牧場に獣医が来たときには、傍を離れずにじっと観察したこと……。
柵の周りに咲き乱れていたコスモスやススキの穂の波……。
何時も傍で有希が手伝ったり遊んだりしていた。
京都の大学に進み、秀一が帰省する度に大人になっていた有希。
牧場での作業や、食事を御馳走になるとき、手伝いながら何時も秀一の周りに居た有希。
牧場に行っても、ほとんどの時間を牛の傍で過ごしていた秀一に、有希の存在は特別なものではなく、岡谷牧場の風景の中にあった。
健吾の妹として普通に話し、笑い、遊んだ有希だった……。

聴き慣れ、弾き慣れ、スティングになりきって、何度も歌い慣れた曲が、新鮮な感じに聞こえてきた。
秀一は改めて、インターネット上で、『Every Breath You Take』の訳詞を探索して、幾つかの訳詞に目を通す。
淡々と刻むベースのリズムに乗せて歌われる歌詞は、去って行った、恋する女性に対する執拗な恋情が込められている……。
有希は秀一に背いたわけではない、冷たい女性でもない……、そもそも付き合ってもいなかった。
健吾の言うとおり、有希は秀一に見つめられたかった、見つめていて欲しかったのだ……。
秀一は初めて有希の胸奥に秘められた、自分への想いを感じることができた。
有希のことを思うと、切ない気持になり、胸が締め付けられた。ビールを一気に飲み干して天井を見上げる。
涙が滲んだ、悪いことをした……。鈍くさい自分を怒鳴りつけたかった。
スティングは歌い続けている……。高校時代、歌詞の深い意味も理解しないまま、どんな気持ちで歌っていたのかと思い返す……。
有希は秀一が想像もできないような想いで聴いていたのだ。
何時からなのだろう……。トラクターのシートに座っていた頃の有希には、歌詞の意味は分からなかった筈だ。
一度だけ京都に来たとき、どんな気持ちだったのだろう……。

健吾はメールに書いていた、有希は想いをどんな形で秀一に伝えるのだろう?。
秀一は有希の告白を黙って聴くだけでいいのだろうか?
秀一から言葉を掛けるべきではないか?
有希の想いに何と応えればいいのか?
数日後には、荷づくりの済んだダンボールケースに囲まれた、この部屋にも姿を見せる……。
受け入れてくれるのなら、スティングが歌うように、これから先、ずっと有希を見つめ続けてあげよう……。秀一の気持は決まった。

部屋の外で峰子の声がした。
「秀一さん、おつまみ、足りひんのと違う?。お父さんがみつくろってくれはったさかい、持ってきましたえ?」
秀一はグラスを置くと、アンプのボリュームを絞ってから障子を開けた。
「すみません」
峰子は部屋の中を見ながら言った。
「かましまへん、だいぶ片付きましたなあ……」
「はい、小物と本だけは」
「ずっと、おんなじ曲を聴いてはったみたいやけど、何か、あんの?」
「高校時代にバンドで演奏した曲なんです。大学に入ってからは止めましたけど、荷物を整理していたら出てきたんで、ちょっと……」
「何か、気持よぉなる曲やなぁ?」
「でも、去っていった女性を思い続けているって、内容なんですよ」
「あら、何やら寂しいやおへんか?、独りでビール飲みながら聞く曲やありまへんがな、もう少ししたら店も空くさかい、下りてきて一緒に飲みまひょ?」
「そうですね。じゃあ、少ししたら風呂の準備をしますから、下ります」
「そないし、何や寂しいですがな。今月いっぱいで居てへんようになるんやし、ちいとでも、一緒に居たいんやから……」
「ありがとうございます」
「そうや、有希さんが来はったら、お布団はどないする?」
「はい、良ければ、下の離れを使わせてもらえれば」
「それで、ええのんか?」
「いいですよ、ゆっくりしたいと思いますから、お願いします」
「そうか、ほんなら、そんな風にしときますわな、ほな、これはどないしょ?」
「せっかくですから頂きます、もう少しビールも残っていますから」
「ほな、温ったかいうちに食べてや、旬のものやさかい、美味しいえ」
皿には、少し焦げ目のついた筍が乗っていた。
「初物ですね、いいのかなぁ、高いんでしょ?」
「気ぃにせんかてよろしいがな、早よぉ食べなはれ」
峰子は障子を自分で閉めて、階下へ戻って行った。
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