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月曜がやってきた。
一週間が始まれば、俺も奏くんもそれぞれに忙しい。
そして、大学生ってもっと暢気な顔してなかったっけ、と思うほど、彼はいつも貪欲に何かしら活動しているように見えた。
それはむしろ、何かに追い立てられてでもいるかのように。
それでも、朝はやはり俺の方が早く家を出る。
これまでより30分ほど早く起き、ハムエッグを二つ分焼くことを自分のスケジュールに加えた。
全くセンスの感じられない、存在感の薄いハムエッグではあるが。
「ハムエッグ焼いてあるよ、行ってきます」
家を出る頃にベッドから起き出す奏くんに、声をかける。
「ありがとうございます」
寝起きのボサボサ髪でふにゃりと微笑む彼は、何気にとんでもなく可愛い。
そして、彼の帰りの早い日は、なんとも手慣れた感じの美味な料理が疲れた俺を心身共に癒してくれる。
生姜焼きも、ビーフシチューも、ポテトサラダも。口に運んで思わず言葉を失った。
「おかえりなさい。毎日遅いですね。社会人って大変だー」
彼もレポートや就活の準備などが忙しいらしいのだが、俺が帰宅すると隣室から必ず出てきて料理を温め、グラスへビールを注ぐところまで付き合ってくれた。
「いつもありがとな、奏くん。君も忙しいのに」
「いえ別に」
彼は、その度に素っ気ない顔で素っ気なく返事をする。
こうして、いつも誰かが温かく側にいてくれる。
その嬉しさを、俺は初めて知った。
まあ未婚のおっさんなのだから、それは当然と言えば当然なのだが。
回転寿司に行った日から、10日ほど過ぎた水曜日。
帰宅した俺にいつものようにビールを注ぐと、奏くんは俺を真っ直ぐに見て言った。
「彼と、会うことにしました。
今度の土曜」
「——……そうか」
「ずっと考えていました。あなたが言ってくれたこと。
彼に、何と言われるのか。これ以上、どれだけ傷つけられるのか。
これまで俺の中に積み重なった彼との記憶が、もしかしたら全部ゴミに変わるのかもしれない——そんな想像をする度に、怖くてたまらなかった。
けれど、それを怖がっていては、前に進めないんですよね。
怖くても、目を逸らさずに……しっかりとそのことに向き合わなければ、ここから先へ歩き出せない。
そのことに、やっと気づきました。
彼は、俺をずっと本気で想ってくれた。
あなたがあのフォトブックから感じたそれを信じて、彼に会いに行こうと思います。
彼の気持ちを、全部聞いて。俺の気持ちも、全部伝えてきます。
結婚後の関係を望まれたら、もちろん叩き返すつもりです」
彼は、初めて見るような爽やかに突き抜けた笑顔を浮かべた。
*
11月の初旬
土曜日。夕刻。
夕暮れの空が、熱を含んだ朱色に染まっている。
ベランダへ出て、冬の近づいた匂いのする空気を深く吸い込んだ。
身体を反らして空を仰ぎながら、先ほど玄関を出て行った奏くんの背中を思い返す。
彼は、いつも通りの穏やかな表情で、淡々と外出の身支度を整えた。
かける言葉も見つからないまま、俺はその静かな気配だけを感じていた。
「行ってきます」
振り向いて淡く微笑む彼は、例えようもなく美しかった。
夜、10時少し前。
奏くんが帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
いつものように、そう声をかける。
「ちゃんと、別れを伝えて来ました。——彼に」
着ていたジャケットをハンガーへ掛けながら、彼はさらりと呟いた。
「……」
「お見合いの話は——どうしても、断れなかったのだそうです。
彼の母親が、最近身体の具合が思わしくなくて——そうなって初めて、これまで自分は親を喜ばすことを何一つできていなかったと、彼は身に染みて感じたそうです。
今が、その最後のチャンスかもしれない、と。
自分が結婚し、やがて生まれる孫を母親に見せる。母親が心から楽しみにしているそれを、どうしても叶えたいのだと、彼は言っていました。
済まない。許してほしい。
何度も、そう謝られました。
結婚後も付き合いを続けたいなどと口にしてしまったことも——どんなに謝っても、許されないことだと。
彼は、泣いていました」
静かな背を見せながら、クローゼットの扉をかたりと開く音がする。
「仕方ないですよね。そういう事情があるんだから。
——むしろ、動かせない理由があって俺も納得した、というか」
いつもと変わらぬ、穏やかで明確な口調。
なのに——クローゼットにジャケットを戻す彼の肩は、震えている。
俺には、はっきりとそれが見えた。
思わず、その背に歩み寄った。
「——奏くん。
だから、我慢をするな。
そんなに抑え込むんじゃない」
振り返った眼差しが、深い悲しみに激しく揺れながら俺を見つめる。
「——仕方ないじゃないですか。
どうやっても俺には叶えられないことが、彼の最大の願いになってしまったのだから」
その瞬間、俺は彼の頭を胸に強く抱え込んでいた。
腕の中で、その肩が揺れ——激しい嗚咽が漏れる。
「……っ…………う……っ……」
「それでいい。
涙が全部出切るまで、ちゃんと泣け」
彼の嗚咽の波が引いていくまで、俺たちはそのままクローゼットの前に立ち尽くした。
一週間が始まれば、俺も奏くんもそれぞれに忙しい。
そして、大学生ってもっと暢気な顔してなかったっけ、と思うほど、彼はいつも貪欲に何かしら活動しているように見えた。
それはむしろ、何かに追い立てられてでもいるかのように。
それでも、朝はやはり俺の方が早く家を出る。
これまでより30分ほど早く起き、ハムエッグを二つ分焼くことを自分のスケジュールに加えた。
全くセンスの感じられない、存在感の薄いハムエッグではあるが。
「ハムエッグ焼いてあるよ、行ってきます」
家を出る頃にベッドから起き出す奏くんに、声をかける。
「ありがとうございます」
寝起きのボサボサ髪でふにゃりと微笑む彼は、何気にとんでもなく可愛い。
そして、彼の帰りの早い日は、なんとも手慣れた感じの美味な料理が疲れた俺を心身共に癒してくれる。
生姜焼きも、ビーフシチューも、ポテトサラダも。口に運んで思わず言葉を失った。
「おかえりなさい。毎日遅いですね。社会人って大変だー」
彼もレポートや就活の準備などが忙しいらしいのだが、俺が帰宅すると隣室から必ず出てきて料理を温め、グラスへビールを注ぐところまで付き合ってくれた。
「いつもありがとな、奏くん。君も忙しいのに」
「いえ別に」
彼は、その度に素っ気ない顔で素っ気なく返事をする。
こうして、いつも誰かが温かく側にいてくれる。
その嬉しさを、俺は初めて知った。
まあ未婚のおっさんなのだから、それは当然と言えば当然なのだが。
回転寿司に行った日から、10日ほど過ぎた水曜日。
帰宅した俺にいつものようにビールを注ぐと、奏くんは俺を真っ直ぐに見て言った。
「彼と、会うことにしました。
今度の土曜」
「——……そうか」
「ずっと考えていました。あなたが言ってくれたこと。
彼に、何と言われるのか。これ以上、どれだけ傷つけられるのか。
これまで俺の中に積み重なった彼との記憶が、もしかしたら全部ゴミに変わるのかもしれない——そんな想像をする度に、怖くてたまらなかった。
けれど、それを怖がっていては、前に進めないんですよね。
怖くても、目を逸らさずに……しっかりとそのことに向き合わなければ、ここから先へ歩き出せない。
そのことに、やっと気づきました。
彼は、俺をずっと本気で想ってくれた。
あなたがあのフォトブックから感じたそれを信じて、彼に会いに行こうと思います。
彼の気持ちを、全部聞いて。俺の気持ちも、全部伝えてきます。
結婚後の関係を望まれたら、もちろん叩き返すつもりです」
彼は、初めて見るような爽やかに突き抜けた笑顔を浮かべた。
*
11月の初旬
土曜日。夕刻。
夕暮れの空が、熱を含んだ朱色に染まっている。
ベランダへ出て、冬の近づいた匂いのする空気を深く吸い込んだ。
身体を反らして空を仰ぎながら、先ほど玄関を出て行った奏くんの背中を思い返す。
彼は、いつも通りの穏やかな表情で、淡々と外出の身支度を整えた。
かける言葉も見つからないまま、俺はその静かな気配だけを感じていた。
「行ってきます」
振り向いて淡く微笑む彼は、例えようもなく美しかった。
夜、10時少し前。
奏くんが帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
いつものように、そう声をかける。
「ちゃんと、別れを伝えて来ました。——彼に」
着ていたジャケットをハンガーへ掛けながら、彼はさらりと呟いた。
「……」
「お見合いの話は——どうしても、断れなかったのだそうです。
彼の母親が、最近身体の具合が思わしくなくて——そうなって初めて、これまで自分は親を喜ばすことを何一つできていなかったと、彼は身に染みて感じたそうです。
今が、その最後のチャンスかもしれない、と。
自分が結婚し、やがて生まれる孫を母親に見せる。母親が心から楽しみにしているそれを、どうしても叶えたいのだと、彼は言っていました。
済まない。許してほしい。
何度も、そう謝られました。
結婚後も付き合いを続けたいなどと口にしてしまったことも——どんなに謝っても、許されないことだと。
彼は、泣いていました」
静かな背を見せながら、クローゼットの扉をかたりと開く音がする。
「仕方ないですよね。そういう事情があるんだから。
——むしろ、動かせない理由があって俺も納得した、というか」
いつもと変わらぬ、穏やかで明確な口調。
なのに——クローゼットにジャケットを戻す彼の肩は、震えている。
俺には、はっきりとそれが見えた。
思わず、その背に歩み寄った。
「——奏くん。
だから、我慢をするな。
そんなに抑え込むんじゃない」
振り返った眼差しが、深い悲しみに激しく揺れながら俺を見つめる。
「——仕方ないじゃないですか。
どうやっても俺には叶えられないことが、彼の最大の願いになってしまったのだから」
その瞬間、俺は彼の頭を胸に強く抱え込んでいた。
腕の中で、その肩が揺れ——激しい嗚咽が漏れる。
「……っ…………う……っ……」
「それでいい。
涙が全部出切るまで、ちゃんと泣け」
彼の嗚咽の波が引いていくまで、俺たちはそのままクローゼットの前に立ち尽くした。
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