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第1章
031
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突風が荒ぶ、窓のない地下室。
目に見えない軌道が人為的に生み出され、コンクリートの密閉空間を駆け巡っていく。
細い両腕をまっすぐ突き出したミントは、萌葱色の髪を靡かせた。
前方に、長棒を構えた小柄な少年の姿を認める。
彼めがけて風刃を繰り出すと、自然の風にはない重たい衝撃が、壁面を揺らした。が、巻き上がった粉塵で、一瞬まばたきを余儀なくされる。
「見てないと駄目じゃん」
真下から声。
いつの間に間合いを詰められたのか。
懐に踏み込んだ人影を、ミントのマゼンタ色が捉える。
慌てて後ずさったのがまずかった。
「……っ!」
操っていた空気が乱れた。
少女は自分が繰り出した風圧の反動に弾き返され、打ちっ放しのコンクリートへと放り出される。小さく悲鳴を漏らしながらも、懸命に立ち上がろうとした彼女だったが。
喉元に、長棒が突き付けられた。
「反応も遅いし」
頭ごなしに言いながら、見下ろしてくる少年。
ミントは冷たい床にへたり込んだまま、しょんぼりと頭を垂れた。
彼女が訓練を始めて、二日目になる。
講師を務めるのは、怪我を癒してくれている使い手の連れだと聞いていたので、そこまで攻撃的な訓練になることは予想していなかったミントだったが。
小柄な少年は、出会い頭にこう言った。
「どうせなら、俺を殺す気でどうぞ。姉ちゃんも退屈してるし」
彼は身の丈以上の六尺棒を軽々と振り回し、まるで自分の体の一部のように扱う。
素人目にも、戦闘慣れした身のこなしを見せた。
どうして怪我を治す人の関係者なのにこんなに好戦的なのかと。よくよく考えてみたミントは、治癒の〝紋章術師〟の連れだと言う説明を受けたことを思い出した。
紋章術師と言う単語は、カリバーンに来たばかりの頃にビビアンから教わっていた。
「貴方がグラールの屋上で出くわした使い手みたいな人のことを、そう呼ぶのよ」
説明はそれだけで十分だった。
いくら紋章術に馴染みのない彼女とはいえ、あの女性の纏った威圧感が、並大抵のものではないことはわかった。その上、クロノが屋上から飛び降りてでも抗戦を避けた相手と言うのが、ミントの中では強く印象付けられている。
あの女性、イコール、紋章術師。
ミントの脳内変換でそう意味付けられたせいで、紋章術師と言う単語は、完全に彼女の危機感と恐怖心を煽るものとなっている。
それで、目の前の少年は、治癒の紋章術師の連れだと言う。
普通の人じゃないんだと、ミントは素直に納得していた。
「戦闘中に他のこと考えてるんですか」
退屈そうな声音が頭上から降ってきた。
慌てて顔を上げたミントに、少年――フィズはどんぐり型の目をそっぽに向ける。
「もう良いや。ちょっと休憩しろよ」
「いえっ、まだ大丈夫です、わたし――」
「て言うか、俺が疲れたし」
この結社、お茶の一杯も出さないんですかねぇ。
なんて言いながら、全然疲れてなさそうなフィズは、二メートルはあるだろう長棒をその辺にポイとほっぽって、床に座り込む。
ミントは先程負った打撲が、もう腫れが引いて青あざになりかけているのを見つめた。
治癒の紋章術をこの部屋にもかけているとフィズから聞いてはいたが、軽傷なら難なく治療が出来るらしい。打ち身程度であれば、一日で治ってしまいそうだった。
――本当に、紋章術ってすごい。
今更ながら、彼女は人知を超えた力に、素直な感動とちょっとした畏怖を覚える。もしかしたら、じっと見ていれば怪我が治っていくところを見られるのかも、と腕の傷を無言で凝視するミント。
フィズはその様子から察したのだろうか。
もしくは、様々な結社を回るうちに、それなりの情報を掴んでいたのかもしれない。
「ナチュラルな使い手じゃないなら、武器使えよ。ネットで銃とか取り寄せれば、楽じゃん」
物騒な名詞だった。
ミントはぎょっと表情を固まらせる。
「銃……?!」
「だってあり得ないと思うよ。白兵戦も慣れてないし、術戦も慣れてないし。それで他の使い手と戦うんだろ」
あり得ない、と繰り返しながら、フィズは六尺棒を足で蹴転がして弄んでいる。
別段、ミントたちの身を案じて言っているわけではなさそうだった。
確かに、ミントは紋章術の扱いにまだ慣れていない上に、白兵戦なんてもっての外だった。
そもそも「戦う」ことに不慣れである彼女は、敵に接近されたら、全力で距離をとるか、自分もろとも風の餌食にするかしか、対応が思いつかない。
「て言うか、弾丸弾かれたら意味ないか」
と独り言のように漏らすフィズ。
ミントは、紋章術がどこまで人知を飛躍した超能力なのか、わからなくなってきた。
「肋骨骨折は? その人も戦闘技術、大したことないんじゃないか?」
肋骨骨折。ひどいニックネームだった。
上階で治療に専念しているであろう彼に罪悪感を覚えながらも、ミントはフィズの方へ向き直る。
「技術と言うか……あんまり紋章術を使っているところ、見たことがないんです」
「へえ。でも結局は、使い手じゃん。武器は?」
「ナイフを使ってました」
「…………」
ちらりと意味ありげに向けられた、アーモンド型の目付き。
ミントは、はっと口を噤んだ。
そう言えば、フィズはカリバーン側の人間ではないのだ。中立の立場とはいえ、結社の中についてあれこれと喋ってしまってはいけなかったのかもしれない。
どうしよう、と言わんばかりに視線をうろうろさせたミント。
一方、フィズは興醒めしたような――と言うか最初から興味がないみたいな調子で言った。
「もうちょっと警戒心持てよ、と思っただけだよ。どこにも漏らす気ないし」
「……本当ですか?」
「だって考えてみろよ。そうじゃないと、姉ちゃんの仕事が立ち行かなくなるじゃん」
「でも、あなたたちは誰の味方でもないって聞きました」
「言い換えると、皆の味方ですかね。正義の味方は平等なもんで」
自嘲なのか、自尊なのかわからない。
ミントは複雑な心境でフィズの横顔を見つめたが、「別に俺たちって情報屋じゃないし」とわざわざ言い足した彼は、嘘を言っているようには見えなかった。
「つか。本気で対策練らないと、新人二人揃って死ぬと思うよ。肋の紋章術の属性って何?」
ミントのような色んな意味での新人に疑われて、機嫌でも損ねたのだろうか。『肋骨骨折』からさらにひどくなっていた。
――クロノさんは悪くないのに……。
「……氷、だと思います。前に使っていたところ、一度だけ見たことがあるんです」
「何で風の使い手と組まされてるんだよ。意味不明」
それを彼女に言われても仕方がない。
とはいえ、ミントは紋章術とその属性について、クロノから簡単な説明を受けていた。
属性とは、四大元素と呼ばれる四つの種類があって、火と水、地と風は相反関係。互いに対となる属性で、打ち消し合うか反発し合うか、とかく相性が悪い。そして、火と風、水と地は相乗関係。互いに隣り合う属性で、増長し合ったり、協調し合える、相性の良い関係。
ただし、それはあくまで、大前提でしかない。現代の魔法術と呼ばれる紋章術は、時代を経て、人間の個性と同等なほど様々に派生している。純粋な四大元素自体が貴重と言われるくらいだし、もはや属性は飽和状態だ。関係性なんて、実際はきちんと区分け出来るものではない。
というのが、ミントが必死にノートにまとめた、使い手の先輩クロノの紋章術講座だった。
要は使い手の工夫と実力次第だ、と言うのが彼の結論だったわけだが、肝心のミントとクロノの属性的相性については、何故かはっきり説明されなかった。
だから「実は風属性が大嫌いなんだ」なんてあの無感情な顔で言われたらどうしようと、ミントは未だに不安で仕方がないのだが。頭上の彼を思いながら、物憂げに膝を抱える彼女。
と、その思考を途絶えさせるものがあった。
「――氷とナイフ使いときましたか」
六尺棒を弄んでいたフィズの足が、ぴたりと止められた。
灰色の地下室に、長棒が転がる乾いた音が響く。
「肋の人って、年いくつ?」
「え? ……あの、十代だと思いますけど」
フィズが何も言わない。
不穏な空気だった。
今度こそ喋ってはいけないことを喋ってしまったのかもしれない、とミントは思わず息を詰めたが。
彼が切り出したのは思いも寄らない話題だった。
「ずいぶん前にグラールに抵抗した阿呆がいたって話、あるだろ」
言いながら、フィズが彼女へ視線を向ける。
拍子抜けした。
しかも、ミントは結社間の噂など知る由もないのだが。
ここに来て初めてまともに顔を合わせられた気がしたので、彼女は黙って聞くことにした。
「平の使い手が二十人以上やられて、紋章術師が三人死傷。これじゃマズイって言うんで、当時、紋章術師以上の実力派で名高かかった使い手が出張って、阿呆をとっ捕まえたって」
「そうだったんですか……」
「結構若かったらしいし、生きてても二十代いってないんじゃないか? その後どうなったかは、俺は知らないけど。とりあえず、グラールに消されたって説が有力らしい」
肩を竦めるフィズ。
都市伝説か怪談か、と言うより、もはやゴシップでも話すような懐疑的な口調。
ミントは、単純に様々な結社を回ってきたフィズなりの世間話か何かかと思い込むことにしたのだが。
次の瞬間、彼女はその認識を破り捨てた。
「その阿呆、氷の使い手だったって噂だよ」
ミントの膝を抱く両手が、かすかに震えた。
回収された使い手たちには、刃物による裂傷と、氷塊で刺突されたような痕。凍死した者もいたのだと言う。
「って言っても、そこまで大立ち回りやって、生きてるのもおかしいし。逆に、紋章術師を殺せるような人が、ボロボロになるなんてあり得ないと思うけど」
「……そう、ですか」
それならどうしてわざわざそんな話をしたの、とミントは言わない。
……言えなかったのだ。
必要なら残酷にだってなれる。
そういうクロノの一面を、彼本人の口から知らされている。
ミントに打ち明けられたことは、クロノが抱えているほんの一部分かもしれない。何が彼をそうさせたのかもわからない。
それでも、ミントはクロノ自身の言葉で話してくれたことに、意味を感じていた。
知ることに、後悔なんてものはない。
抱いてはいけないんだと、ミントは無意識に唇を噛む。
フィズは彼女の反応を窺うような、不自然な沈黙を置いた。
と思うと、突然、足元の長棒を蹴った。
壁で弾き返ってきたそれを片手で掴み、素早く立ち上がる。
「――世間話で講師代くれるなんて、おいしい結社じゃん」
ついでだしお茶くらい出せよ、と。身の丈を越える六尺棒を難なく片腕で振り回し、フィズが床面を打つ。
ミントは、いつの間にか色を失いつつある打撲を見ると、憂いを絶つように立ち上がった。
灰色の部屋に、再び暴風が吹き荒んだ。
目に見えない軌道が人為的に生み出され、コンクリートの密閉空間を駆け巡っていく。
細い両腕をまっすぐ突き出したミントは、萌葱色の髪を靡かせた。
前方に、長棒を構えた小柄な少年の姿を認める。
彼めがけて風刃を繰り出すと、自然の風にはない重たい衝撃が、壁面を揺らした。が、巻き上がった粉塵で、一瞬まばたきを余儀なくされる。
「見てないと駄目じゃん」
真下から声。
いつの間に間合いを詰められたのか。
懐に踏み込んだ人影を、ミントのマゼンタ色が捉える。
慌てて後ずさったのがまずかった。
「……っ!」
操っていた空気が乱れた。
少女は自分が繰り出した風圧の反動に弾き返され、打ちっ放しのコンクリートへと放り出される。小さく悲鳴を漏らしながらも、懸命に立ち上がろうとした彼女だったが。
喉元に、長棒が突き付けられた。
「反応も遅いし」
頭ごなしに言いながら、見下ろしてくる少年。
ミントは冷たい床にへたり込んだまま、しょんぼりと頭を垂れた。
彼女が訓練を始めて、二日目になる。
講師を務めるのは、怪我を癒してくれている使い手の連れだと聞いていたので、そこまで攻撃的な訓練になることは予想していなかったミントだったが。
小柄な少年は、出会い頭にこう言った。
「どうせなら、俺を殺す気でどうぞ。姉ちゃんも退屈してるし」
彼は身の丈以上の六尺棒を軽々と振り回し、まるで自分の体の一部のように扱う。
素人目にも、戦闘慣れした身のこなしを見せた。
どうして怪我を治す人の関係者なのにこんなに好戦的なのかと。よくよく考えてみたミントは、治癒の〝紋章術師〟の連れだと言う説明を受けたことを思い出した。
紋章術師と言う単語は、カリバーンに来たばかりの頃にビビアンから教わっていた。
「貴方がグラールの屋上で出くわした使い手みたいな人のことを、そう呼ぶのよ」
説明はそれだけで十分だった。
いくら紋章術に馴染みのない彼女とはいえ、あの女性の纏った威圧感が、並大抵のものではないことはわかった。その上、クロノが屋上から飛び降りてでも抗戦を避けた相手と言うのが、ミントの中では強く印象付けられている。
あの女性、イコール、紋章術師。
ミントの脳内変換でそう意味付けられたせいで、紋章術師と言う単語は、完全に彼女の危機感と恐怖心を煽るものとなっている。
それで、目の前の少年は、治癒の紋章術師の連れだと言う。
普通の人じゃないんだと、ミントは素直に納得していた。
「戦闘中に他のこと考えてるんですか」
退屈そうな声音が頭上から降ってきた。
慌てて顔を上げたミントに、少年――フィズはどんぐり型の目をそっぽに向ける。
「もう良いや。ちょっと休憩しろよ」
「いえっ、まだ大丈夫です、わたし――」
「て言うか、俺が疲れたし」
この結社、お茶の一杯も出さないんですかねぇ。
なんて言いながら、全然疲れてなさそうなフィズは、二メートルはあるだろう長棒をその辺にポイとほっぽって、床に座り込む。
ミントは先程負った打撲が、もう腫れが引いて青あざになりかけているのを見つめた。
治癒の紋章術をこの部屋にもかけているとフィズから聞いてはいたが、軽傷なら難なく治療が出来るらしい。打ち身程度であれば、一日で治ってしまいそうだった。
――本当に、紋章術ってすごい。
今更ながら、彼女は人知を超えた力に、素直な感動とちょっとした畏怖を覚える。もしかしたら、じっと見ていれば怪我が治っていくところを見られるのかも、と腕の傷を無言で凝視するミント。
フィズはその様子から察したのだろうか。
もしくは、様々な結社を回るうちに、それなりの情報を掴んでいたのかもしれない。
「ナチュラルな使い手じゃないなら、武器使えよ。ネットで銃とか取り寄せれば、楽じゃん」
物騒な名詞だった。
ミントはぎょっと表情を固まらせる。
「銃……?!」
「だってあり得ないと思うよ。白兵戦も慣れてないし、術戦も慣れてないし。それで他の使い手と戦うんだろ」
あり得ない、と繰り返しながら、フィズは六尺棒を足で蹴転がして弄んでいる。
別段、ミントたちの身を案じて言っているわけではなさそうだった。
確かに、ミントは紋章術の扱いにまだ慣れていない上に、白兵戦なんてもっての外だった。
そもそも「戦う」ことに不慣れである彼女は、敵に接近されたら、全力で距離をとるか、自分もろとも風の餌食にするかしか、対応が思いつかない。
「て言うか、弾丸弾かれたら意味ないか」
と独り言のように漏らすフィズ。
ミントは、紋章術がどこまで人知を飛躍した超能力なのか、わからなくなってきた。
「肋骨骨折は? その人も戦闘技術、大したことないんじゃないか?」
肋骨骨折。ひどいニックネームだった。
上階で治療に専念しているであろう彼に罪悪感を覚えながらも、ミントはフィズの方へ向き直る。
「技術と言うか……あんまり紋章術を使っているところ、見たことがないんです」
「へえ。でも結局は、使い手じゃん。武器は?」
「ナイフを使ってました」
「…………」
ちらりと意味ありげに向けられた、アーモンド型の目付き。
ミントは、はっと口を噤んだ。
そう言えば、フィズはカリバーン側の人間ではないのだ。中立の立場とはいえ、結社の中についてあれこれと喋ってしまってはいけなかったのかもしれない。
どうしよう、と言わんばかりに視線をうろうろさせたミント。
一方、フィズは興醒めしたような――と言うか最初から興味がないみたいな調子で言った。
「もうちょっと警戒心持てよ、と思っただけだよ。どこにも漏らす気ないし」
「……本当ですか?」
「だって考えてみろよ。そうじゃないと、姉ちゃんの仕事が立ち行かなくなるじゃん」
「でも、あなたたちは誰の味方でもないって聞きました」
「言い換えると、皆の味方ですかね。正義の味方は平等なもんで」
自嘲なのか、自尊なのかわからない。
ミントは複雑な心境でフィズの横顔を見つめたが、「別に俺たちって情報屋じゃないし」とわざわざ言い足した彼は、嘘を言っているようには見えなかった。
「つか。本気で対策練らないと、新人二人揃って死ぬと思うよ。肋の紋章術の属性って何?」
ミントのような色んな意味での新人に疑われて、機嫌でも損ねたのだろうか。『肋骨骨折』からさらにひどくなっていた。
――クロノさんは悪くないのに……。
「……氷、だと思います。前に使っていたところ、一度だけ見たことがあるんです」
「何で風の使い手と組まされてるんだよ。意味不明」
それを彼女に言われても仕方がない。
とはいえ、ミントは紋章術とその属性について、クロノから簡単な説明を受けていた。
属性とは、四大元素と呼ばれる四つの種類があって、火と水、地と風は相反関係。互いに対となる属性で、打ち消し合うか反発し合うか、とかく相性が悪い。そして、火と風、水と地は相乗関係。互いに隣り合う属性で、増長し合ったり、協調し合える、相性の良い関係。
ただし、それはあくまで、大前提でしかない。現代の魔法術と呼ばれる紋章術は、時代を経て、人間の個性と同等なほど様々に派生している。純粋な四大元素自体が貴重と言われるくらいだし、もはや属性は飽和状態だ。関係性なんて、実際はきちんと区分け出来るものではない。
というのが、ミントが必死にノートにまとめた、使い手の先輩クロノの紋章術講座だった。
要は使い手の工夫と実力次第だ、と言うのが彼の結論だったわけだが、肝心のミントとクロノの属性的相性については、何故かはっきり説明されなかった。
だから「実は風属性が大嫌いなんだ」なんてあの無感情な顔で言われたらどうしようと、ミントは未だに不安で仕方がないのだが。頭上の彼を思いながら、物憂げに膝を抱える彼女。
と、その思考を途絶えさせるものがあった。
「――氷とナイフ使いときましたか」
六尺棒を弄んでいたフィズの足が、ぴたりと止められた。
灰色の地下室に、長棒が転がる乾いた音が響く。
「肋の人って、年いくつ?」
「え? ……あの、十代だと思いますけど」
フィズが何も言わない。
不穏な空気だった。
今度こそ喋ってはいけないことを喋ってしまったのかもしれない、とミントは思わず息を詰めたが。
彼が切り出したのは思いも寄らない話題だった。
「ずいぶん前にグラールに抵抗した阿呆がいたって話、あるだろ」
言いながら、フィズが彼女へ視線を向ける。
拍子抜けした。
しかも、ミントは結社間の噂など知る由もないのだが。
ここに来て初めてまともに顔を合わせられた気がしたので、彼女は黙って聞くことにした。
「平の使い手が二十人以上やられて、紋章術師が三人死傷。これじゃマズイって言うんで、当時、紋章術師以上の実力派で名高かかった使い手が出張って、阿呆をとっ捕まえたって」
「そうだったんですか……」
「結構若かったらしいし、生きてても二十代いってないんじゃないか? その後どうなったかは、俺は知らないけど。とりあえず、グラールに消されたって説が有力らしい」
肩を竦めるフィズ。
都市伝説か怪談か、と言うより、もはやゴシップでも話すような懐疑的な口調。
ミントは、単純に様々な結社を回ってきたフィズなりの世間話か何かかと思い込むことにしたのだが。
次の瞬間、彼女はその認識を破り捨てた。
「その阿呆、氷の使い手だったって噂だよ」
ミントの膝を抱く両手が、かすかに震えた。
回収された使い手たちには、刃物による裂傷と、氷塊で刺突されたような痕。凍死した者もいたのだと言う。
「って言っても、そこまで大立ち回りやって、生きてるのもおかしいし。逆に、紋章術師を殺せるような人が、ボロボロになるなんてあり得ないと思うけど」
「……そう、ですか」
それならどうしてわざわざそんな話をしたの、とミントは言わない。
……言えなかったのだ。
必要なら残酷にだってなれる。
そういうクロノの一面を、彼本人の口から知らされている。
ミントに打ち明けられたことは、クロノが抱えているほんの一部分かもしれない。何が彼をそうさせたのかもわからない。
それでも、ミントはクロノ自身の言葉で話してくれたことに、意味を感じていた。
知ることに、後悔なんてものはない。
抱いてはいけないんだと、ミントは無意識に唇を噛む。
フィズは彼女の反応を窺うような、不自然な沈黙を置いた。
と思うと、突然、足元の長棒を蹴った。
壁で弾き返ってきたそれを片手で掴み、素早く立ち上がる。
「――世間話で講師代くれるなんて、おいしい結社じゃん」
ついでだしお茶くらい出せよ、と。身の丈を越える六尺棒を難なく片腕で振り回し、フィズが床面を打つ。
ミントは、いつの間にか色を失いつつある打撲を見ると、憂いを絶つように立ち上がった。
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