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第1章
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「わざわざ結社まで乗り込んで、採血だけじゃ物足りないだろ」
レンズ越しの両目が、すいと細められる。
その表情は、口を覆うマスクで読めない。
しかし、応急処置に用いていた血染めの包帯が、彼のバッグにさり気なく回収されたことを、クロノは知っていた。恐らく、男性が局所麻酔を強く勧めたのは、注射針で研究材料を採取するためだ。医者ならば、麻酔の副作用の度合いを調べる等、それらしい理由を後付けすれば、本人の目の前で自然に採血することもできただろう。
というより、エイレンに呼ばれてほいほいやって来た時点で、初めから普通の医者とは考え難かったのだが。
じっと反応を窺うクロノの暗紅色の瞳。
背後からも、少女の探るような視線を感じたのだろうか。
白衣の肩口が竦められた。
「……これだから使い手さん方は」
邪魔臭そうにマスクが外される。
妙に落ち着き払った声音と淡白そうな目付きの所為で、年を食っているように見えたが、マスクの下の目鼻立ちは、ずいぶんと年若な印象だった。
もしかすると、エイレンとさして変わらないのではないのか。
「何度も申し上げるようですが、私はただの医者ですよ。本業はね」
じゃあ副業はなんだ、とクロノが問いただそうとした時だ。
何を思ったのか、椅子から立ち上がり、そろそろ歩み寄ってきていたミント。
クロノの隣に並ぶようにして、マスクを外した男性の前へと回り込む。
医者は、先の見えないトンネルを覗くような彼女の恐々とした表情を認めるなり、無造作に眼鏡を外した。
ミントの目が、ゆっくり見開かれた。
「確か、お話しするのは初めてでしたか。十二番」
言いながら、男性は白衣のポケットから取り出したケースを開ける。神経質に畳まれた眼鏡拭きでレンズを磨くさまは、周りのことなど見えていないと言った様子だ。
だが、少女のラズベリー色の双眸は、食い入るように男性の俯き顔を見つめていた。
「……わたしは、十二番なんて名前じゃありません」
泣きそうに震えた声。
それでいて、強い語調だった。
十二番。
少女の否定が、無機質な数字の意味をクロノに理解させた。
「失礼。あの施設では、被験者の実名は伏せられておりましたので」
「いいです。……知らなくていいです」
スカートの裾をぎゅっと握るミント。
医者は、その紛れもない拒否の姿勢をどう受け取ったのだろうか。彼女を見上げることもなく、手にしていた眼鏡をすいとかけ直した。それが僅かな動揺を隠すための仕草のように思えたのは、クロノの気のせいだろうか。
少年は、ミントのこれほどまでに強い拒絶の形を、見たことが無かった。
彼女にとって、男性の言う施設がどんな場所だったか――それだけが、ありありと伝わってくるようだ。
「副業は実験施設の職員か。で、今更、連れ戻しに来たのかな」
クロノの、感情を一切伴わない問い掛け。
医者は落ち着いた態度をそのままに、首を横に振った。
「ご安心下さい。私が研究に携わったきっかけは、家柄と友人のよしみ。それだけのことですので」
「じゃあ、何しにここに来た」
「もちろん本業を全うしに参りました、と申し上げたいところですが。せっかくなので伺いましょうか」
銀縁の視線が、ミントへと向けられる。
「その後、経過はいかがですか。貴方が魔導具の非科学的〝存在〟を投影されてから、相当に時間が経っているようですが。もうじき、頃合いなのでは?」
存在、というのは、シグドが話していた魔導具に宿る精霊のことだろうなのだろうが、クロノには医者の言う「頃合い」の意味がわからなかった。
しかし、そこへ彼の脳裏にずっと引っ掛かっていた、ある一文が浮かぶ。
期限が近い。
ミラノに渡された手紙に、そんな走り書きがあったことを思い出した。あれは確か、ミントを指して書き添えられた言葉じゃなかっただろうか。
脇に立つ彼女を見やると、スカートの裾を握ったまま、立ち尽くしていた。
「確かに、貴方は被験者の中でも取り分け魔導具との適性が高く、我々研究員の期待の器でしたよ。事実上の鍵と言っても相違なかったほどに」
「でも、わたし、鍵になんて……」
「なりたくなかった、ですか」
「…………」
「では幸いでした。実験の最終段階で、ご友人が妨害して下さって。――とはいえ、魔導具の存在との同調を強制的に中断させられた所為で、貴方は昏睡状態の後、紋章術を暴発、失踪。……被害は甚大なものでしたが」
クロノは、初めて出会ったときのミントを思い起こす。
今の彼女からはとても考えられない、破壊衝動の塊と化したような我を忘れた暴走だった。
男性の言葉通りならば、彼女が錯乱状態に陥ったのは、一度は人体に宿らせた精霊を引き剥がそうとしたことによる、ある種のショック状態だったというわけだ。
それなら、あれ以来、彼女が紋章術を用いても暴走に至っていないのにも説明が付く。
しかし、ミントはあくまでも鍵ではない。
鍵に近付けるほどの素質を持っていたことは確かだが、その試みは、彼女の施設での友人によって阻まれた。
友人はミントを庇ったのだろうか。鍵として争奪戦の最中に放り込まれることと、鍵のなり損ないとして巻き込まれること。どちらを選ぼうと、彼女は結局、不幸になるというのに。
萌葱色の髪に瞳を隠し、床板を見つめるミント。
彼は患者に余命の宣告でもするように、静々と続ける。
「ご自分が一番おわかりでしょうが、人工の使い手は、本来縁のない異物を強引に人体へ取り込んでいる状態です。常に不完全でアンバランスな均衡を保っていると言えます」
「でも、彼女は元々魔導具に適性があったんだろ。それなら紋章術にも順応出来ると思うけど」
「お思いになるのは結構ですが。残念ながら、粗悪品は粗悪品です。くれぐれも見誤らないようにして頂きたい」
異物は、宿主を殺しますよ。
古びた時計の針の音に、いやに中身の無い言葉が重なった。
レンズ越しの両目が、すいと細められる。
その表情は、口を覆うマスクで読めない。
しかし、応急処置に用いていた血染めの包帯が、彼のバッグにさり気なく回収されたことを、クロノは知っていた。恐らく、男性が局所麻酔を強く勧めたのは、注射針で研究材料を採取するためだ。医者ならば、麻酔の副作用の度合いを調べる等、それらしい理由を後付けすれば、本人の目の前で自然に採血することもできただろう。
というより、エイレンに呼ばれてほいほいやって来た時点で、初めから普通の医者とは考え難かったのだが。
じっと反応を窺うクロノの暗紅色の瞳。
背後からも、少女の探るような視線を感じたのだろうか。
白衣の肩口が竦められた。
「……これだから使い手さん方は」
邪魔臭そうにマスクが外される。
妙に落ち着き払った声音と淡白そうな目付きの所為で、年を食っているように見えたが、マスクの下の目鼻立ちは、ずいぶんと年若な印象だった。
もしかすると、エイレンとさして変わらないのではないのか。
「何度も申し上げるようですが、私はただの医者ですよ。本業はね」
じゃあ副業はなんだ、とクロノが問いただそうとした時だ。
何を思ったのか、椅子から立ち上がり、そろそろ歩み寄ってきていたミント。
クロノの隣に並ぶようにして、マスクを外した男性の前へと回り込む。
医者は、先の見えないトンネルを覗くような彼女の恐々とした表情を認めるなり、無造作に眼鏡を外した。
ミントの目が、ゆっくり見開かれた。
「確か、お話しするのは初めてでしたか。十二番」
言いながら、男性は白衣のポケットから取り出したケースを開ける。神経質に畳まれた眼鏡拭きでレンズを磨くさまは、周りのことなど見えていないと言った様子だ。
だが、少女のラズベリー色の双眸は、食い入るように男性の俯き顔を見つめていた。
「……わたしは、十二番なんて名前じゃありません」
泣きそうに震えた声。
それでいて、強い語調だった。
十二番。
少女の否定が、無機質な数字の意味をクロノに理解させた。
「失礼。あの施設では、被験者の実名は伏せられておりましたので」
「いいです。……知らなくていいです」
スカートの裾をぎゅっと握るミント。
医者は、その紛れもない拒否の姿勢をどう受け取ったのだろうか。彼女を見上げることもなく、手にしていた眼鏡をすいとかけ直した。それが僅かな動揺を隠すための仕草のように思えたのは、クロノの気のせいだろうか。
少年は、ミントのこれほどまでに強い拒絶の形を、見たことが無かった。
彼女にとって、男性の言う施設がどんな場所だったか――それだけが、ありありと伝わってくるようだ。
「副業は実験施設の職員か。で、今更、連れ戻しに来たのかな」
クロノの、感情を一切伴わない問い掛け。
医者は落ち着いた態度をそのままに、首を横に振った。
「ご安心下さい。私が研究に携わったきっかけは、家柄と友人のよしみ。それだけのことですので」
「じゃあ、何しにここに来た」
「もちろん本業を全うしに参りました、と申し上げたいところですが。せっかくなので伺いましょうか」
銀縁の視線が、ミントへと向けられる。
「その後、経過はいかがですか。貴方が魔導具の非科学的〝存在〟を投影されてから、相当に時間が経っているようですが。もうじき、頃合いなのでは?」
存在、というのは、シグドが話していた魔導具に宿る精霊のことだろうなのだろうが、クロノには医者の言う「頃合い」の意味がわからなかった。
しかし、そこへ彼の脳裏にずっと引っ掛かっていた、ある一文が浮かぶ。
期限が近い。
ミラノに渡された手紙に、そんな走り書きがあったことを思い出した。あれは確か、ミントを指して書き添えられた言葉じゃなかっただろうか。
脇に立つ彼女を見やると、スカートの裾を握ったまま、立ち尽くしていた。
「確かに、貴方は被験者の中でも取り分け魔導具との適性が高く、我々研究員の期待の器でしたよ。事実上の鍵と言っても相違なかったほどに」
「でも、わたし、鍵になんて……」
「なりたくなかった、ですか」
「…………」
「では幸いでした。実験の最終段階で、ご友人が妨害して下さって。――とはいえ、魔導具の存在との同調を強制的に中断させられた所為で、貴方は昏睡状態の後、紋章術を暴発、失踪。……被害は甚大なものでしたが」
クロノは、初めて出会ったときのミントを思い起こす。
今の彼女からはとても考えられない、破壊衝動の塊と化したような我を忘れた暴走だった。
男性の言葉通りならば、彼女が錯乱状態に陥ったのは、一度は人体に宿らせた精霊を引き剥がそうとしたことによる、ある種のショック状態だったというわけだ。
それなら、あれ以来、彼女が紋章術を用いても暴走に至っていないのにも説明が付く。
しかし、ミントはあくまでも鍵ではない。
鍵に近付けるほどの素質を持っていたことは確かだが、その試みは、彼女の施設での友人によって阻まれた。
友人はミントを庇ったのだろうか。鍵として争奪戦の最中に放り込まれることと、鍵のなり損ないとして巻き込まれること。どちらを選ぼうと、彼女は結局、不幸になるというのに。
萌葱色の髪に瞳を隠し、床板を見つめるミント。
彼は患者に余命の宣告でもするように、静々と続ける。
「ご自分が一番おわかりでしょうが、人工の使い手は、本来縁のない異物を強引に人体へ取り込んでいる状態です。常に不完全でアンバランスな均衡を保っていると言えます」
「でも、彼女は元々魔導具に適性があったんだろ。それなら紋章術にも順応出来ると思うけど」
「お思いになるのは結構ですが。残念ながら、粗悪品は粗悪品です。くれぐれも見誤らないようにして頂きたい」
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