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第2章
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カルナに連れられ、ミントはあの真っ白な建物を再び見ることになった。
無機質で冷たい景観も鼻をつく様々な臭いも、彼女が脱走してから何も変わっていない。けれど、この施設で働く研究員は半分以上新しく見る顔だった。
ミントは、かつて彼女が使っていた共同監視室へと入れられた。
鉄格子の窓があるその部屋は最大六人まで収容できるのだが、ここにはミントしかいない。
「……っ」
沸き上がった恐怖は、記憶によるものか、それとも自身の今後を想像してか。
ぎゅっと、ミントは手に持っている物を握りしめた。
刃が赤黒く染まったままなのは、屋敷跡地でカルナに刺さったものだからだ。もう最悪、と文句を喚き散らしながらカルナが窓から捨てようとしていたそれを、ミントは懇願して返してもらったのだ。
不意にドアの開く音が聞こえ、ミントはナイフを背に隠すことを忘れて振り返った。
「新人さんですかあ?」
「え、っと……」
開かれたドアの向こうから差し込む人工的な光に、少女が持つナイフの刃が反射した。
眩しそうな顔をした訪問者は、ミントからの返事を待たずに人当たりのいい笑顔を見せる。
「はじめまして。みなさんの体調管理を担当してるモニカです」
彼女はミントが持つナイフに怯えることも咎めることもせず、黙々とベッドにシーツやら布団やらを準備する。ついでに切れている電球の交換も始めた。
「そのナイフは大切なものなんですか?」
「え……?」
「持ち込める私物は武器を含めてお偉いさんたちに認められた物だけなんですよ」
武器も含めて、というところにミントは違和感を覚えた。
ミントがいた当時は外界からの持ち込みはすべて禁止だったはずである。あれからこの場所でなにがあったのか。触れてはいけない何かがあるような、そんな気がした。
そんな不安を払しょくするように、ミントは抜き身のナイフに視線を落とす。
「わたしのものじゃないけど、大切なものなんです」
このナイフは、不器用ながらもいつも何かを守ろうとしている少年のものだ。
少しでも彼の力になりたい。そう思ったからこそ、ミントはこの施設へと自らの意志で来た。
本当は、カルナが捨てようとしているのを見た時に返してほしいと懇願したのは、ただクロノに返さないといけないと思った義務感からだった。けれど、この施設に足を踏み入れて、ナイフを持っている意味が変わった。すでにこのナイフはミントにとって、自分の心が折れないように守ってくれるお守り代わりになっていたのだ。
「つまり、形見ってことですか?」
「形見じゃないです」
ミントは、はっきりと否定した。
形見になりそうな状況ではあったけれど、そうさせないためにここに来たのだから。
「よかったです。他の人はみんな、誰かを殺して連れて来ちゃいました、なんて状況だからミントさんもそうなのかなって心配したんですよ」
その言葉を聞いて、ミントは少しだけ、モニカにも違和感を覚えた。
ここに研究員は、揃いもそろって実験体の安否よりも自分達の利益を優先している。自分さえよければ他はどうなっても良いと、そう考えている人達ばかりなのだ。だから、実験体の体調はもちろん精神状態も気にするモニカのような存在は珍しかった。……もちろん、過去何度かあった脱走劇を受けて施設側が考えを改めたとも考えられるが。
「それじゃあ、会いたいですよね……、その人に」
ぽつりとモニカが呟いた。
それがあまりにも自然な発言だったから、思わず何も考えずに頷いてしまいそうになった。
例え彼女が実験体のことを考えていたとしても、迂闊に心を許してはいけない。
少女の中では、施設の研究員とは唯一にして絶対の敵なのだ。
「…………あの、聞きたいことがあるんですけど、良いですか?」
「どうぞどうぞ」
何でも良いですよう、とモニカはこの建物では珍しい人懐っこい笑みを浮かべた。その笑顔に触発されたミントは、少し迷った後で、一番知りたいことを素直に聞くことにした。
「リラさん、って知っていますか?」
その問いにモニカはわずかに目を見開き、戸惑ったように視線を泳がす。
そして、ややあってからどこか困ったような笑みをミントに見せた。
「知ってますよ。彼女の体調管理も担当もしてますから。……でも、リラさんとはお話しできませんよ」
「あ、えっと、その……」
「あ。言い方が悪かったですね。ミントさんの意思は関係なく、単純に、リラさんとは会話ができないんです」
「え……?」
驚くミントにモニカは声をひそめて呟く。
「実は彼女、生きたお人形さん状態なんです」
内緒ですよ、と念をおす彼女にミントは無言でこくこくと頷いた。
そのあとミントは、場を和ませようとしたモニカの雑談を聞いていた。休みをくれないくせに給料が低いんですよ、と話すモニカの言葉を聞きながらミントは、始めて会った時にクロノも給料が少ないと言っていたなぁ、と思い出していた。
室内を整え終えたモニカは部屋を出ようとドアを開けながら、ミントを振り返る。
「あ、ミントさん。今後の予定教えときますね」
今週の行事予定を言うみたいに、当たり前のようにさらりとモニカは今後の予定を告げる。
明日の昼過ぎに身体検査があり、明後日からは長らく中断していた実験の続きを再開。
実験の再開と聞いて震えた体を必死に静めていたミントには、ドアが閉まるついでに鍵がかけられる音など届いていなかった。
無機質で冷たい景観も鼻をつく様々な臭いも、彼女が脱走してから何も変わっていない。けれど、この施設で働く研究員は半分以上新しく見る顔だった。
ミントは、かつて彼女が使っていた共同監視室へと入れられた。
鉄格子の窓があるその部屋は最大六人まで収容できるのだが、ここにはミントしかいない。
「……っ」
沸き上がった恐怖は、記憶によるものか、それとも自身の今後を想像してか。
ぎゅっと、ミントは手に持っている物を握りしめた。
刃が赤黒く染まったままなのは、屋敷跡地でカルナに刺さったものだからだ。もう最悪、と文句を喚き散らしながらカルナが窓から捨てようとしていたそれを、ミントは懇願して返してもらったのだ。
不意にドアの開く音が聞こえ、ミントはナイフを背に隠すことを忘れて振り返った。
「新人さんですかあ?」
「え、っと……」
開かれたドアの向こうから差し込む人工的な光に、少女が持つナイフの刃が反射した。
眩しそうな顔をした訪問者は、ミントからの返事を待たずに人当たりのいい笑顔を見せる。
「はじめまして。みなさんの体調管理を担当してるモニカです」
彼女はミントが持つナイフに怯えることも咎めることもせず、黙々とベッドにシーツやら布団やらを準備する。ついでに切れている電球の交換も始めた。
「そのナイフは大切なものなんですか?」
「え……?」
「持ち込める私物は武器を含めてお偉いさんたちに認められた物だけなんですよ」
武器も含めて、というところにミントは違和感を覚えた。
ミントがいた当時は外界からの持ち込みはすべて禁止だったはずである。あれからこの場所でなにがあったのか。触れてはいけない何かがあるような、そんな気がした。
そんな不安を払しょくするように、ミントは抜き身のナイフに視線を落とす。
「わたしのものじゃないけど、大切なものなんです」
このナイフは、不器用ながらもいつも何かを守ろうとしている少年のものだ。
少しでも彼の力になりたい。そう思ったからこそ、ミントはこの施設へと自らの意志で来た。
本当は、カルナが捨てようとしているのを見た時に返してほしいと懇願したのは、ただクロノに返さないといけないと思った義務感からだった。けれど、この施設に足を踏み入れて、ナイフを持っている意味が変わった。すでにこのナイフはミントにとって、自分の心が折れないように守ってくれるお守り代わりになっていたのだ。
「つまり、形見ってことですか?」
「形見じゃないです」
ミントは、はっきりと否定した。
形見になりそうな状況ではあったけれど、そうさせないためにここに来たのだから。
「よかったです。他の人はみんな、誰かを殺して連れて来ちゃいました、なんて状況だからミントさんもそうなのかなって心配したんですよ」
その言葉を聞いて、ミントは少しだけ、モニカにも違和感を覚えた。
ここに研究員は、揃いもそろって実験体の安否よりも自分達の利益を優先している。自分さえよければ他はどうなっても良いと、そう考えている人達ばかりなのだ。だから、実験体の体調はもちろん精神状態も気にするモニカのような存在は珍しかった。……もちろん、過去何度かあった脱走劇を受けて施設側が考えを改めたとも考えられるが。
「それじゃあ、会いたいですよね……、その人に」
ぽつりとモニカが呟いた。
それがあまりにも自然な発言だったから、思わず何も考えずに頷いてしまいそうになった。
例え彼女が実験体のことを考えていたとしても、迂闊に心を許してはいけない。
少女の中では、施設の研究員とは唯一にして絶対の敵なのだ。
「…………あの、聞きたいことがあるんですけど、良いですか?」
「どうぞどうぞ」
何でも良いですよう、とモニカはこの建物では珍しい人懐っこい笑みを浮かべた。その笑顔に触発されたミントは、少し迷った後で、一番知りたいことを素直に聞くことにした。
「リラさん、って知っていますか?」
その問いにモニカはわずかに目を見開き、戸惑ったように視線を泳がす。
そして、ややあってからどこか困ったような笑みをミントに見せた。
「知ってますよ。彼女の体調管理も担当もしてますから。……でも、リラさんとはお話しできませんよ」
「あ、えっと、その……」
「あ。言い方が悪かったですね。ミントさんの意思は関係なく、単純に、リラさんとは会話ができないんです」
「え……?」
驚くミントにモニカは声をひそめて呟く。
「実は彼女、生きたお人形さん状態なんです」
内緒ですよ、と念をおす彼女にミントは無言でこくこくと頷いた。
そのあとミントは、場を和ませようとしたモニカの雑談を聞いていた。休みをくれないくせに給料が低いんですよ、と話すモニカの言葉を聞きながらミントは、始めて会った時にクロノも給料が少ないと言っていたなぁ、と思い出していた。
室内を整え終えたモニカは部屋を出ようとドアを開けながら、ミントを振り返る。
「あ、ミントさん。今後の予定教えときますね」
今週の行事予定を言うみたいに、当たり前のようにさらりとモニカは今後の予定を告げる。
明日の昼過ぎに身体検査があり、明後日からは長らく中断していた実験の続きを再開。
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