97 / 97
第2章
096
しおりを挟む
カルナに連れられ、ミントはあの真っ白な建物を再び見ることになった。
無機質で冷たい景観も鼻をつく様々な臭いも、彼女が脱走してから何も変わっていない。けれど、この施設で働く研究員は半分以上新しく見る顔だった。
ミントは、かつて彼女が使っていた共同監視室へと入れられた。
鉄格子の窓があるその部屋は最大六人まで収容できるのだが、ここにはミントしかいない。
「……っ」
沸き上がった恐怖は、記憶によるものか、それとも自身の今後を想像してか。
ぎゅっと、ミントは手に持っている物を握りしめた。
刃が赤黒く染まったままなのは、屋敷跡地でカルナに刺さったものだからだ。もう最悪、と文句を喚き散らしながらカルナが窓から捨てようとしていたそれを、ミントは懇願して返してもらったのだ。
不意にドアの開く音が聞こえ、ミントはナイフを背に隠すことを忘れて振り返った。
「新人さんですかあ?」
「え、っと……」
開かれたドアの向こうから差し込む人工的な光に、少女が持つナイフの刃が反射した。
眩しそうな顔をした訪問者は、ミントからの返事を待たずに人当たりのいい笑顔を見せる。
「はじめまして。みなさんの体調管理を担当してるモニカです」
彼女はミントが持つナイフに怯えることも咎めることもせず、黙々とベッドにシーツやら布団やらを準備する。ついでに切れている電球の交換も始めた。
「そのナイフは大切なものなんですか?」
「え……?」
「持ち込める私物は武器を含めてお偉いさんたちに認められた物だけなんですよ」
武器も含めて、というところにミントは違和感を覚えた。
ミントがいた当時は外界からの持ち込みはすべて禁止だったはずである。あれからこの場所でなにがあったのか。触れてはいけない何かがあるような、そんな気がした。
そんな不安を払しょくするように、ミントは抜き身のナイフに視線を落とす。
「わたしのものじゃないけど、大切なものなんです」
このナイフは、不器用ながらもいつも何かを守ろうとしている少年のものだ。
少しでも彼の力になりたい。そう思ったからこそ、ミントはこの施設へと自らの意志で来た。
本当は、カルナが捨てようとしているのを見た時に返してほしいと懇願したのは、ただクロノに返さないといけないと思った義務感からだった。けれど、この施設に足を踏み入れて、ナイフを持っている意味が変わった。すでにこのナイフはミントにとって、自分の心が折れないように守ってくれるお守り代わりになっていたのだ。
「つまり、形見ってことですか?」
「形見じゃないです」
ミントは、はっきりと否定した。
形見になりそうな状況ではあったけれど、そうさせないためにここに来たのだから。
「よかったです。他の人はみんな、誰かを殺して連れて来ちゃいました、なんて状況だからミントさんもそうなのかなって心配したんですよ」
その言葉を聞いて、ミントは少しだけ、モニカにも違和感を覚えた。
ここに研究員は、揃いもそろって実験体の安否よりも自分達の利益を優先している。自分さえよければ他はどうなっても良いと、そう考えている人達ばかりなのだ。だから、実験体の体調はもちろん精神状態も気にするモニカのような存在は珍しかった。……もちろん、過去何度かあった脱走劇を受けて施設側が考えを改めたとも考えられるが。
「それじゃあ、会いたいですよね……、その人に」
ぽつりとモニカが呟いた。
それがあまりにも自然な発言だったから、思わず何も考えずに頷いてしまいそうになった。
例え彼女が実験体のことを考えていたとしても、迂闊に心を許してはいけない。
少女の中では、施設の研究員とは唯一にして絶対の敵なのだ。
「…………あの、聞きたいことがあるんですけど、良いですか?」
「どうぞどうぞ」
何でも良いですよう、とモニカはこの建物では珍しい人懐っこい笑みを浮かべた。その笑顔に触発されたミントは、少し迷った後で、一番知りたいことを素直に聞くことにした。
「リラさん、って知っていますか?」
その問いにモニカはわずかに目を見開き、戸惑ったように視線を泳がす。
そして、ややあってからどこか困ったような笑みをミントに見せた。
「知ってますよ。彼女の体調管理も担当もしてますから。……でも、リラさんとはお話しできませんよ」
「あ、えっと、その……」
「あ。言い方が悪かったですね。ミントさんの意思は関係なく、単純に、リラさんとは会話ができないんです」
「え……?」
驚くミントにモニカは声をひそめて呟く。
「実は彼女、生きたお人形さん状態なんです」
内緒ですよ、と念をおす彼女にミントは無言でこくこくと頷いた。
そのあとミントは、場を和ませようとしたモニカの雑談を聞いていた。休みをくれないくせに給料が低いんですよ、と話すモニカの言葉を聞きながらミントは、始めて会った時にクロノも給料が少ないと言っていたなぁ、と思い出していた。
室内を整え終えたモニカは部屋を出ようとドアを開けながら、ミントを振り返る。
「あ、ミントさん。今後の予定教えときますね」
今週の行事予定を言うみたいに、当たり前のようにさらりとモニカは今後の予定を告げる。
明日の昼過ぎに身体検査があり、明後日からは長らく中断していた実験の続きを再開。
実験の再開と聞いて震えた体を必死に静めていたミントには、ドアが閉まるついでに鍵がかけられる音など届いていなかった。
無機質で冷たい景観も鼻をつく様々な臭いも、彼女が脱走してから何も変わっていない。けれど、この施設で働く研究員は半分以上新しく見る顔だった。
ミントは、かつて彼女が使っていた共同監視室へと入れられた。
鉄格子の窓があるその部屋は最大六人まで収容できるのだが、ここにはミントしかいない。
「……っ」
沸き上がった恐怖は、記憶によるものか、それとも自身の今後を想像してか。
ぎゅっと、ミントは手に持っている物を握りしめた。
刃が赤黒く染まったままなのは、屋敷跡地でカルナに刺さったものだからだ。もう最悪、と文句を喚き散らしながらカルナが窓から捨てようとしていたそれを、ミントは懇願して返してもらったのだ。
不意にドアの開く音が聞こえ、ミントはナイフを背に隠すことを忘れて振り返った。
「新人さんですかあ?」
「え、っと……」
開かれたドアの向こうから差し込む人工的な光に、少女が持つナイフの刃が反射した。
眩しそうな顔をした訪問者は、ミントからの返事を待たずに人当たりのいい笑顔を見せる。
「はじめまして。みなさんの体調管理を担当してるモニカです」
彼女はミントが持つナイフに怯えることも咎めることもせず、黙々とベッドにシーツやら布団やらを準備する。ついでに切れている電球の交換も始めた。
「そのナイフは大切なものなんですか?」
「え……?」
「持ち込める私物は武器を含めてお偉いさんたちに認められた物だけなんですよ」
武器も含めて、というところにミントは違和感を覚えた。
ミントがいた当時は外界からの持ち込みはすべて禁止だったはずである。あれからこの場所でなにがあったのか。触れてはいけない何かがあるような、そんな気がした。
そんな不安を払しょくするように、ミントは抜き身のナイフに視線を落とす。
「わたしのものじゃないけど、大切なものなんです」
このナイフは、不器用ながらもいつも何かを守ろうとしている少年のものだ。
少しでも彼の力になりたい。そう思ったからこそ、ミントはこの施設へと自らの意志で来た。
本当は、カルナが捨てようとしているのを見た時に返してほしいと懇願したのは、ただクロノに返さないといけないと思った義務感からだった。けれど、この施設に足を踏み入れて、ナイフを持っている意味が変わった。すでにこのナイフはミントにとって、自分の心が折れないように守ってくれるお守り代わりになっていたのだ。
「つまり、形見ってことですか?」
「形見じゃないです」
ミントは、はっきりと否定した。
形見になりそうな状況ではあったけれど、そうさせないためにここに来たのだから。
「よかったです。他の人はみんな、誰かを殺して連れて来ちゃいました、なんて状況だからミントさんもそうなのかなって心配したんですよ」
その言葉を聞いて、ミントは少しだけ、モニカにも違和感を覚えた。
ここに研究員は、揃いもそろって実験体の安否よりも自分達の利益を優先している。自分さえよければ他はどうなっても良いと、そう考えている人達ばかりなのだ。だから、実験体の体調はもちろん精神状態も気にするモニカのような存在は珍しかった。……もちろん、過去何度かあった脱走劇を受けて施設側が考えを改めたとも考えられるが。
「それじゃあ、会いたいですよね……、その人に」
ぽつりとモニカが呟いた。
それがあまりにも自然な発言だったから、思わず何も考えずに頷いてしまいそうになった。
例え彼女が実験体のことを考えていたとしても、迂闊に心を許してはいけない。
少女の中では、施設の研究員とは唯一にして絶対の敵なのだ。
「…………あの、聞きたいことがあるんですけど、良いですか?」
「どうぞどうぞ」
何でも良いですよう、とモニカはこの建物では珍しい人懐っこい笑みを浮かべた。その笑顔に触発されたミントは、少し迷った後で、一番知りたいことを素直に聞くことにした。
「リラさん、って知っていますか?」
その問いにモニカはわずかに目を見開き、戸惑ったように視線を泳がす。
そして、ややあってからどこか困ったような笑みをミントに見せた。
「知ってますよ。彼女の体調管理も担当もしてますから。……でも、リラさんとはお話しできませんよ」
「あ、えっと、その……」
「あ。言い方が悪かったですね。ミントさんの意思は関係なく、単純に、リラさんとは会話ができないんです」
「え……?」
驚くミントにモニカは声をひそめて呟く。
「実は彼女、生きたお人形さん状態なんです」
内緒ですよ、と念をおす彼女にミントは無言でこくこくと頷いた。
そのあとミントは、場を和ませようとしたモニカの雑談を聞いていた。休みをくれないくせに給料が低いんですよ、と話すモニカの言葉を聞きながらミントは、始めて会った時にクロノも給料が少ないと言っていたなぁ、と思い出していた。
室内を整え終えたモニカは部屋を出ようとドアを開けながら、ミントを振り返る。
「あ、ミントさん。今後の予定教えときますね」
今週の行事予定を言うみたいに、当たり前のようにさらりとモニカは今後の予定を告げる。
明日の昼過ぎに身体検査があり、明後日からは長らく中断していた実験の続きを再開。
実験の再開と聞いて震えた体を必死に静めていたミントには、ドアが閉まるついでに鍵がかけられる音など届いていなかった。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
竹井ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
【完結】異世界で魔道具チートでのんびり商売生活
シマセイ
ファンタジー
大学生・誠也は工事現場の穴に落ちて異世界へ。 物体に魔力を付与できるチートスキルを見つけ、 能力を隠しつつ魔道具を作って商業ギルドで商売開始。 のんびりスローライフを目指す毎日が幕を開ける!
【超速爆速レベルアップ】~俺だけ入れるダンジョンはゴールドメタルスライムの狩り場でした~
シオヤマ琴@『最強最速』発売中
ファンタジー
ダンジョンが出現し20年。
木崎賢吾、22歳は子どもの頃からダンジョンに憧れていた。
しかし、ダンジョンは最初に足を踏み入れた者の所有物となるため、もうこの世界にはどこを探しても未発見のダンジョンなどないと思われていた。
そんな矢先、バイト帰りに彼が目にしたものは――。
【自分だけのダンジョンを夢見ていた青年のレベリング冒険譚が今幕を開ける!】
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
白き魔女と黄金の林檎
みみぞう
ファンタジー
【カクヨム・エブリスタで特集していただきました。カクヨムで先行完結】
https://kakuyomu.jp/works/16816927860645480806
「”火の魔女”を一週間以内に駆逐せよ」
それが審問官見習いアルヴィンに下された、最初の使命だった。
人の世に災いをもたらす魔女と、駆逐する使命を帯びた審問官。
連続殺焼事件を解決できなきれば、破門である。
先輩審問官達が、半年かかって解決できなかった事件を、果たして駆け出しの彼が解決できるのか――
悪しき魔女との戦いの中で、彼はやがて教会に蠢く闇と対峙する……!
不死をめぐる、ダークファンタジー!
※カクヨム・エブリスタ・なろうにも投稿しております。
【魔女ローゼマリー伝説】~5歳で存在を忘れられた元王女の私だけど、自称美少女天才魔女として世界を救うために冒険したいと思います!~
ハムえっぐ
ファンタジー
かつて魔族が降臨し、7人の英雄によって平和がもたらされた大陸。その一国、ベルガー王国で物語は始まる。
王国の第一王女ローゼマリーは、5歳の誕生日の夜、幸せな時間のさなかに王宮を襲撃され、目の前で両親である国王夫妻を「漆黒の剣を持つ謎の黒髪の女」に殺害される。母が最後の力で放った転移魔法と「魔女ディルを頼れ」という遺言によりローゼマリーは辛くも死地を脱した。
15歳になったローゼは師ディルと別れ、両親の仇である黒髪の女を探し出すため、そして悪政により荒廃しつつある祖国の現状を確かめるため旅立つ。
国境の街ビオレールで冒険者として活動を始めたローゼは、運命的な出会いを果たす。因縁の仇と同じ黒髪と漆黒の剣を持つ少年傭兵リョウ。自由奔放で可愛いが、何か秘密を抱えていそうなエルフの美少女ベレニス。クセの強い仲間たちと共にローゼの新たな人生が動き出す。
これは王女の身分を失った最強天才魔女ローゼが、復讐の誓いを胸に仲間たちとの絆を育みながら、王国の闇や自らの運命に立ち向かう物語。友情、復讐、恋愛、魔法、剣戟、謀略が織りなす、ダークファンタジー英雄譚が、今、幕を開ける。
アラフォーおっさんの週末ダンジョン探検記
ぽっちゃりおっさん
ファンタジー
ある日、全世界の至る所にダンジョンと呼ばれる異空間が出現した。
そこには人外異形の生命体【魔物】が存在していた。
【魔物】を倒すと魔石を落とす。
魔石には膨大なエネルギーが秘められており、第五次産業革命が起こるほどの衝撃であった。
世は埋蔵金ならぬ、魔石を求めて日々各地のダンジョンを開発していった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる