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1巻
1-1
しおりを挟む第一章
マーカス大陸の東の海に面する海洋国家シュバイツァー王国。
その王都マルナスは、海がもたらす温暖な気候と豊かな海産物資源、そして周辺国に先駆け、港湾整備に着手したことにより貿易の中継拠点として繁栄し、いたるところで活気と賑わいを見せていた。
本日そのマルナスで、後の世で『王命裁判』と呼ばれることになる、この国の行く末を左右するとでもいうべき、注目の裁判の幕が切って落とされようとしていた。
そのため、朝から貴族裁判所前には、裁判を一目見ようと多くの貴族達が詰めかけ、数少ない傍聴券を求め長い行列を作っている。
さて、ではなぜこの裁判が、これ程までに貴族たちの注目を集めるのか?
それは被告側、原告側、それぞれが持つ特異性にあった。
まず、被告側――訴えられたのは、現国王陛下の妹王女の嫁ぎ先でもある、建国以来から続く由緒正しき名門貴族ウィンダリア侯爵家。
そして原告側――訴えたのは、他国との貿易を生業にしてのし上がり、国への貢献度の高さから叙爵された、平民上がりの新興貴族であるアルジール伯爵家。
余談だが、このアルジール家の経営する商会は、今では国一番の売上を誇り、まさしく国の経済を牛耳る存在と言っても過言ではないだろう。
名門貴族対新興貴族。同じ貴族とはいえ全く正反対の立場を持つこの二家による諍いが、貴族達の関心を集めないはずがない。
おそらく明日の貴族新聞の一面を飾るであろう、この裁判。
裁判冒頭、証言台に立ったのは原告側であるアルジール伯爵家の長女ロザリアだった。
彼女は裁判長に向かい涙ながらに訴えた。
「元夫シグナス様に嫁ぐ前、私には婚約者がいました」
……と。そして、こうも続けた。
「私は彼を心から愛していました。でも……私とその方との婚約は破棄され、私はシグナス様の下へと嫁ぎ侯爵夫人となったのです。そう……。王命という誰も覆すことの出来ない理不尽な制度によって……」
裁判開始早々、王命を理不尽だと公衆の面前で公言した彼女。
裁判での証言でなければ不敬罪に問われ、罰せられてもおかしくはない発言だ。
貴族にとって、この王命という言葉はそれほどまでに重い。
だが彼女はそれを全て承知の上で、あえてこの言葉を選んだのだ。理不尽だと……
実はロザリアはこれより少し前、侯爵家から彼女の有責で離縁されている。原因は彼女の不貞行為だ。
今回の裁判はそれを否定し、彼女の身の潔白を証明するために起こされたものだった。
「ですが、理不尽な結婚には理不尽な扱いが待っていました。王命は私を守ってはくれませんでした。侯爵夫人なんて名ばかり。私は嫁いだその日から、別邸と呼ばれる建物に閉じ込められ、家族に会いに行くことさえ許されませんでした。嫁いでからの三年間、ただの一度もです」
ロザリアの言葉を聞いた傍聴人たちは息をのんだ。
「……三年間、ただの一度も?」
彼らは顔を見合わせながら、彼女の発したその言葉にさざめきあう。
「それだけではありません。いざ侯爵家に嫁いでみれば、本宅には使用人達から奥様と呼ばれている女性が既にいらっしゃったのです。不貞を働いていたのは私ではありません。元夫シグナス様の方です。お相手はビアリー伯爵家の令嬢ベアトリス様。ビアリー家は侯爵家同様、建国時から続く名家です。調べて頂ければすぐに分かるかと思います」
彼女は証言台で、他家の家名と令嬢の名を、元夫の不貞相手として実名で告げた。
当然のことながら、この発言も虚偽ならば立派な名誉毀損行為だ。
だが、彼女はそのリスクを犯してまで、あえて裁判で告発したのだ。
だからこそ、彼女の言葉には真実味があった。
これに傍聴席はざわめいた。
ちょっと待て。なんだ、それは……? どういうことだ?
そこで皆がハッと気付く。金のためか……と。
国一番の商会を経営する伯爵家は、国一番の資産家でもあった。
そういえば、侯爵家に嫁いだ陛下の妹王女ミランダ様は、いまだに王女気分が抜けず散財を繰り返していると聞く。そして彼女の息子であり、ロザリアの元夫の現侯爵シグナス様もまた、母によく似て浪費家だとか。
傍聴席の貴族たちは皆、侯爵家が金に困っているらしいという噂は耳にしていた。
だがその噂はいつの頃からかなりを潜めた。
彼らは思い出す。ああ、そうか……。噂を聞かなくなったのは彼女が侯爵家に嫁いだあたりからだったなと……
つまり彼女は困窮する侯爵家を救うため、王命によって婚約者との仲を無理やり引き割かれたのだ。それは、ここまでの話を聞けば誰もが容易に想像が付くことだった。
その上でいざ嫁いでみれば、屋敷には夫の愛人が居座っていた。なるほど。それならば彼女が理不尽と言ったのも頷ける。
裁判を見守る貴族達は口々に言葉を発し、傍聴席はざわめきを増していく。
だが、彼女は更に驚くべき事実を告げた。
「それなのに…………私に一切会えないことに家族が騒ぎ始めると、今度は私の有責で離縁を成立させようと、事もあろうに元夫は私を暴行するようにと使用人に命じたのです。そうです。私と使用人との不貞をでっち上げ、離縁を有利に進めるためです。侯爵家の敷地内で、当主自らが自分の妻を暴行せよと使用人に命じる。こんな恐ろしいことがありますか?」
「夫が妻を暴行させる……?」
その時、裁判に訪れていた傍聴人達は皆、この証言に耳を疑った。
先程とは打って変わって傍聴席は静寂に包まれる。
もしこれが事実だとすれば由々しき事態だ。いや、それどころの騒ぎではない。これは立派な犯罪行為だ。傍聴人達の鋭い視線が侯爵家側に降り注がれた。
当然、侯爵家も黙ってはいない。
「異議あり! 彼女の言っていることは全て事実無根です!」
侯爵家側の弁護人が叫ぶ。
「ほう。争いますか? こちらは出来れば穏便に済ませたかったのですがね。ですが、そちら側がそうおっしゃるのなら仕方がない。徹底的にやりましょう」
伯爵家側の弁護人はあくまでも強気だ。
だが侯爵家側の弁護人も負けてはいない。
「当たり前です! こんなこと、認められるはずがないでしょう? 彼女は侯爵家の名誉を著しく毀損しています」
とはいえ、何やら旗色の悪い侯爵家。それはこの裁判に至るまでの経緯から見ても明らかだった。それにも関わらず、侯爵家の弁護人もまた、あくまでも強気だ。
そこにはもちろん理由がある。
この国の裁判は王家の意向に強く左右される、いわば出来レース。
ウィンダリア侯爵シグナスは、陛下の妹王女ミランダが産んだ息子。つまり陛下の甥にあたる。
王家が身内を庇うことなく、自らの手で罰するとは考えにくい。
しかし伯爵家もまた、この国の経済を支える大富豪。国にとってなくてはならない存在だ。
はてさて、陛下はどちらを選ぶのか? 貴族たちの関心はその一点に注がれていた。
だがそうは言ってもそこはあくまでも身内。おそらく国王は、自分の妹と甥を守るだろう。
それが傍聴席に座る貴族達、大方の予想だった。
実を言うと、伯爵家にとってもそれは最初から想定済みのことである。
その上で、あえてアルジール伯爵はこの裁判を起こしたのだ。
「さて、この先陛下はどうされるかな」
証言台で奮闘する愛娘を見上げながら、アルジール伯爵はほくそ笑んだ。
話はこの裁判の一月前に遡る。
第二章
「お荷物はこれだけですか? 随分、少ないのですね。それにドレスにしても、どれもこれも全て手を通した形跡すらない新品ばかりではないですか。これは一体どういうことなのですか?」
そう呆れながら私――ロザリア・ウィンダリア、いえ、ロザリア・アルジールに話しかけてくるのは、この日のために実家であるアルジール伯爵家に連絡して来て頂いた二人の男性です。
彼らは『荷物を迎えの馬車に積み込むためには男手が必要だ』と、父が元夫シグナスに掛け合って、最後だからとようやくこの屋敷に入ることが許可された者達です。
と、言いますのも、私がこの家に嫁いで来てからの三年。ただの一度として、私が実家に帰ることも、私の実家の人間がこの侯爵邸に足を踏み入れることも許されておりませんでしたの。
私はせっせと荷造りをしながら、二人からの質問に答えます。
「ええ、そのドレスは私が嫁ぐ時、侯爵夫人として恥ずかしくないようにと両親が誂えてくれた物なのですが、ご覧の通り全て手付かずですわ。だって侍女がいなければドレスを着ることも、髪を結い上げることも出来ませんもの」
「はぁ……。本当に侍女の一人も付けては貰ってはいなかったのですね……。ここにいるとそれが良く分かる……」
彼らは呆れたようにため息を吐きました。
「ですから私はこの三年間、掃除、洗濯、身の回りのことは全て自分一人でこなして参りました。侯爵家がしてくれたことは一日に一度、この別邸にその日の分の食事を運んで来る。ただそれだけでしたわ。今でこそもう慣れましたが、嫁いだ当初は何がなんだか分からなくて……。そもそもアルジール伯爵家は元平民とはいえ、叙爵されたのは私が生まれる前です。ですから私自身は生まれた時から伯爵家の娘として暮らしてまいりました。まして私は、王命でこの家に嫁いできたのです。ですから、なぜこんな扱いを受けなければならないのかと悔しくて……。随分泣きましたわ」
私の頬を涙が伝います。
それを見た彼らは本日二度目のため息を吐きながら、まるで信じられないものを見るような目で部屋の中を見渡しました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そう……。あれは今から三年前のこと。
私は王命によりこのウィンダリア侯爵家へと嫁いできました。
ですが、シグナス様との結婚式が終わり、侯爵家へと向かった私を乗せた馬車が、本宅の前に止まることはなく。私はそのまま真っ直ぐにこの別邸へと連れてこられたのです。
「お前は今日からここで一人で生活することになる。安心しろ、食うものは毎日届けてやる。だが出来るだけ外へは出るな。目障りだ。お前のような元平民が名前だけでも私の妻だなんて、考えただけでも虫唾が走る」
突然のことに何がなんやら分からずただ呆然と立ち尽くす私に、シグナス様はそう冷たく言い放つと本宅へと帰っていきました。
もう夜も更けていました。仕方なく別邸の中に入るとそこにあったのは、硬いベッドと粗末なテーブルだけ。そして父と母が用意してくれた私の嫁入りのための荷物は、手つかずのまま部屋の中に積み上げられていました。
なぜ私がこんな目に遭うの……? これから私はどうなるの……?
訳が分かりませんでした。
言い知れぬ不安が私を襲います。その夜は一晩中泣きました。
翌日、朝になっても侍女の一人さえ来ませんでした。
そうか……。昨夜シグナス様が言ったことは、全て本当だったのだ。私はこれからここで一人で生きていかなければならないんだ……
私の中にほんの少しだけ残っていた期待さえ打ち砕かれたのでした。
ですが、泣いていても何も始まりません……
私は仕方なく荷物を自分で片付け始めました。なにしろ時間はたっぷりあるのです。
なぜなら私は別邸に一人きり。他に何もする事がなかったのですから……
シグナス様の言った通り、一日に一度だけ私の食事を持って若い男性が別邸を訪れました。
男性はいつもテーブルの上にその日の食事を置いてすぐに出ていきます。
別邸で暮らすようになってからしばらくして、私は勇気を出してその男性に尋ねました。
「あの、汚れ物が溜まってしまって……。洗濯がしたいのです」
すると男性は黙って頷きました。
そして翌日。
「洗濯をする時だけここを出て、外の洗い場に行ってもいいそうです。洗い場は外に出て右に歩いていけば辿り着きます」と、そう返事をくれました。
その時、彼の口ぶりで分かりました。
彼はシグナス様に聞かなければ、私からの問いに答えることさえ許されていないのだと……
許しを貰った私は洗濯物を持って、洗濯場へと向かいました。
ですが侯爵邸は広く。洗濯場が分からずうろうろしていると、どこからか女性たちの話し声が聞こえてきました。
「あの女、ずっと別邸に一人で閉じ込められているんでしょう? 哀れよね」
「仕方がないわよ。伯爵令嬢とはいえ元は平民。あんな人が旦那様の妻だなんて、あのプライドの高い大奥様がお認めになるわけがないもの」
「それに旦那様にしたってそうよ。奥様はもう既にいらっしゃるのよ。あんな人を受け入れられるはずがないわ」
その話を聞いた私は、足がすくんで動けませんでした。
奥様は既にいる……?
話の主はどうやらこの屋敷の使用人たちのようです。
彼女たちの話を聞いて私は、なぜ自分がこんな境遇に身を置かなければならないのか、その理由がようやく分かった気がしました。
つまりアルジール家は、今は伯爵家といえど元は平民。義母はそれが気に入らないのです。
そしてシグナス様には私のほかに愛する人がいる。
しかもその女性は使用人たちから奥様と呼ばれ、既に本宅で暮らしているのだと。
私は夫と義母、両方にとって望まれぬ妻……
それはいいでしょう。でも、だったらなぜ、王命まで使って私を娶ったの……?
そのせいで私は愛する人と無理やり引き割かれたというのに……
考えなくても理由なんてすぐに分かります。全てはお金のためでしょう。
余りにも身勝手な仕打ちに私は怒りで身を震わせました。
「あら、こんな所で立ち聞きなんて随分と恥知らずなことをするのね」
その時、後ろから声がしました。気が付けば私は、使用人であろう女性たちに周りを取り囲まれていたのです。私が抱える洗濯物に気付いたのでしょう。
「あら、あんた洗濯に来たの? だったらこっちよ」
その後、私は彼女たちに腕を掴まれ無理やり洗濯場に連れて行かれると、いきなり頭から水をかけられました。
「ごめんなさいね。洗濯の仕方を教えてあげようとしたら手が滑ったわ」
「でも、まるで濡れ鼠ね」
「酷ーい」
そう言って笑い合いながら……。信じられませんでした。
「私は侯爵様の妻よ? 貴方たち、こんなことをして許されると思っているの⁉」
叫んだ私を彼女たちが嘲笑います。
「あんた馬鹿なの? 旦那様があんたのことを妻だと思っているのなら、なぜあんたは自分で洗濯なんてしているの?」
「さっき聞いたでしょう? 旦那様には本宅にちゃんとした奥様がいるの。ベアトリス様って言ってね。ビアリー伯爵家のご令嬢よ。あんたとは違ってビアリー家は建国以来の名門。旦那様にとって、あんたなんてただの金蔓よ!」
私はその言葉に息をのみました。
それからというもの、私は洗濯場にいく度、彼女たちから嫌がらせを受けました。
それだけではなく。干していた洗濯物は、取り入れる時にはいつも私の分だけが地面に落とされ泥だらけ。これではなんのために洗濯しているか分かりません。
やむを得ず私は出来るだけ洗濯の回数を減らし、部屋に干すようにしました。
すると今度は、部屋に風を通すために開けた窓からゴミが投げ入れられるように。
仕方なく窓を閉じましたが、すると部屋の中はあっと言う間にカビだらけに。
それを必死にぬぐい取る。その度に涙が出ました。
なぜ私はこんなことをしているのだろう……。私が一体、貴方たちに何をしたというの……
結局、私にとってこの別邸での生活は、やむを得ない……仕方がない……毎日が諦めの連続でした。
ですが、そうなると外に出る機会も少なくなります。それからは孤独との戦いでした。
別邸は侯爵家の一番奥にあります。私は誰の声さえも届かないこの別邸でたった一人、なんの音もしない部屋でただ窓の外だけを見て暮らすようになりました。
一日がとても長く感じて、孤独で、寂しくて……。時々ふと叫びだしたくなりました。
この時私は初めて知ったのです。
人にとって一番辛く苦しいのは孤独なのだと……
そんな私を唯一支えていたのは、ただもう一度家族に会いたい……その思いだけ。
ですが、それも今日でようやく終わりを迎えます。
二人に話しながらあの辛かった日々を思い出し、私の頬を再び涙が伝いました。
「それにしても、本当に侯爵家からは誰一人として手伝いには来られないのですね? 侯爵家は体裁を整えることさえしない。今日、奥様が屋敷を出ていかれることは分かっているでしょうに……」
私の話を聞いて愕然としていた二人ですが、改めてこの家のおかしさに気がついたようです。
「この屋敷の者はたった一人を除いては、誰も私を奥様だなんて思ってはいませんわ。私がこの屋敷で世話になったと思うのは、唯一私を認めてくれたその人と、食事を運んでくれた青年の二人だけです。そしてシグナス様が言うには、その青年が私の不貞相手なのだそうです」
食事を運んでくれた彼にはシグナス様に用がある時だけ話しかける。
そんな関係……
「それなのに旦那様は、私に彼との不貞の濡れ衣を着せ、離縁を告げました。後で知ったことですが、シグナス様は本当に私を暴行するよう、彼に命じていたそうです」
その話に二人は驚きを隠せず、目を見開きます。
「……本当に酷い話だ」
「それでも、生きてこうしてここから出て行けるだけ良かったのだと思っておりますの。実家の両親が騒いでくれていなければ、私はおそらくあの人達に都合のいい金蔓として、死ぬまでここに閉じ込められていたことでしょう」
彼らは私のその言葉に息をのみました。
痩せた体……。髪は傷み放題、手は荒れて血が滲んでいました。この姿を見ただけで、私がこの侯爵家で今までどのような扱いを受けてきたか、容易に窺い知ることが出来るでしょう。
彼らは、もう一度別邸の中を見まわしました。
「よくこんな所に三年間もお一人で……」
彼らは、そう言って私を労ってくれました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「さあ、ではそろそろ参りましょうか。あの人達が待っていますわ」
私が声を掛けると、二人は私の荷物を別邸から運び出し、アルジール伯爵家が用意した馬車に積み込んでくれました。
そして全ての荷物が積み終わると、私は二人を連れて本宅に向かいます。
この家に嫁いで来て三年。離縁が成立し屋敷を出ることになった時、せめて最後の挨拶くらいはしていけと、シグナス様と義母に呼ばれていたのです。
エントランスで家令のニコラスに声を掛けそのことを告げると、「大奥様より伺っております。こちらにどうぞ」と、案内してくれました。
私達はニコラスの後を付いて廊下を歩きます。
シグナス様と結婚してからこの本宅に入れて頂くのは初めてのことでした。
初めて入った本宅は別邸とは比べものにならない程美しく、色とりどりの調度品や絵画が飾られ、チリひとつなく綺麗に掃除されておりました。
そんな中、廊下を歩く私には、侍女やメイド達から心無い暴言が浴びせられます。
「あの女やっと出て行くらしいわよ。本当、不貞だなんて恥ずかしくないのかしら? 穢らわしい」
「そうよ。旦那様の優しさに付け込んでいつまでも屋敷に居座るなんて、なんて厚かましいんでしょう」
「あんな女がこの本宅に入るなんて、いくら最後だからって奥様もきっと嫌な思いをされているわ。後で掃除しとかなくちゃ」
「消毒よ、消毒」
そしてキャハハハと皆で笑い合っています。侯爵家の使用人ともあろう者達が品のないこと。
それにしても随分な言われようです。私に聞こえるようにわざと言っているのでしょうけれど、残念ですね。そんな言葉、もうどれだけ言われても、もはや腹も立ちません。
ええ、この三年間で言われ慣れておりますので……
でも、私の後ろに続く二人はそうではないようです。
彼らは使用人たちの話を聞いて顔を歪め、互いに目配せをしました。
それもそうでしょう。本来なら、本妻である私がこの侯爵家の奥様と呼ばれる女主人のはず。
それなのに、この屋敷で彼女達が奥様と呼ぶのは、シグナス様の寵愛を受ける、彼の愛人ベアトリス様なのですから。
「旦那様、奥様をお連れしました」
ようやく辿り着いた部屋の前でニコラスが扉を叩き、中に声を掛けました。
そうです。使用人達の中で唯一、彼だけが私のことを『あの女』でも『あんた』でもなく『奥様』と呼んでくれていたのです。
「入れ」
部屋の中から不機嫌そうな声が返ってきました。
その答えを聞いて、ニコラスが扉を開けました。
部屋の中では、シグナス様と義母がソファーに腰掛けて優雅にお茶を飲んでいました。
「奥様が最後のご挨拶にと参られました」
部屋に入ると、ニコラスがもう一度二人に声を掛けました。
すると、シグナス様と義母はこちらを一瞥し、顔に怒りを滲ませました。
「なぜ、この本宅に部外者を入れた⁉ 私はそんな許可を出した覚えはないぞ! 主人の許可もなく勝手に屋敷の中に使用人達を招き入れるとは……常識がないにもほどがある‼」
シグナス様が声を荒らげます。
そうですよね。最後にわざわざ私を本宅に呼び寄せ、ここでの暮らしぶりについて実家で話さないようにと口止めするつもりだったのに、当の実家の人間たちをこの本宅まで連れて来たのでは本末転倒。意味がありませんもの。
だからこそ、ここではあえて知らないふりをします。
「あら? 何をそんなに怒っておられるのですか? 我が家の使用人がいて何か問題でも?」
「…………っ!」
反論すると、普段従順な私が逆らったことがよほど気に食わなかったのでしょう。シグナス様は言葉を失ったあと、急にわなわなと怒りに震えながら顔を紅潮させ、声を荒らげました。
「なんだ、その口の利き方は! だいたいお前、分かっているだろうが離縁して屋敷を出たからと言って余計なことを一言でも喋ってみろ。お前も、お前の両親も、二度とこの王都には住めないようにしてやるからな! うちは侯爵家だぞ! 甘く見るなよ!!」
シグナス様の言葉に更に私は言い返します。
もし何かされても、今日なら後ろの二人が必ずどうにかしてくれるでしょうからね。
「シグナス様、今のお言葉は恫喝と捉えてよろしいのでしょうか?」
「恫喝? 貴方、口の利き方に気を付けなさい! いつものように一人ではないからと、何をそんなに偉そうにしているの? うちは侯爵家よ? そんな使用人如き、何人いようとどうとでも出来るんですからね?」
「あらあら、お義母様まで……。そのお言葉も捉えようによっては、恫喝と受け取られても仕方のないものですよ? そんなお言葉、仰ってよろしかったのですか?」
少し煽っただけで、簡単にいつもの様子を曝け出してくれて助かります。
私は後ろの二人に向かってにっこりと微笑みました。彼らも頷き返してくれます。
では、そろそろネタばらしといきましょうか。
「……それにごめんなさい、お義母様。実はこのお二人、私の実家から手伝いに来てくれた使用人などではございませんの。彼らは父からの訴えを聞いて貴族裁判所から遣わされた、調査員の方達なんですのよ。シグナス様とお義母様に大切なお話があるんですって」
「えっ⁉ 貴族裁判所? 訴えた⁉」
訴えられたと聞いた二人は、余程驚いたのか大きく目を見開きました。
すると、調査員のうちの一人が一歩前に進み出て二人に告げます。
「はい。たった今ロザリア様が仰った通り、アルジール伯爵家はウィンダリア侯爵家を相手取り、貴族裁判所に訴えを起こされました。私はその事実確認のため、貴族裁判所から派遣された調査員のジャックと申します。そしてもう一人がマイケル」
彼はそう言って自分の名を名乗ったあと一礼し、更にもう一人の調査員を手で示しながら紹介しました。
マイケルさんもまた二人に丁寧に頭を下げます。
「さて本題ですが、このウィンダリア侯爵家には現在、ロザリア様のこの屋敷での不当な扱いに対する慰謝料の請求。また、伯爵家より毎月支払われていたロザリア様の生活支援金の返還請求。それに加え、ロザリア様有責の離縁理由への不同意。それに伴い、婚姻時に伯爵家より支払われたロザリア様の持参金の返還請求及び、不貞の汚名を着せられたことに関する名誉毀損。また、それに対する慰謝料の請求。以上の訴えがご実家であるアルジール伯爵家より提出されております。私達二人は今日、その調査のため、裁判所から派遣されこちらにお伺い致しました」
ジャックさんはシグナス様と義母にそう説明しました。
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