王命って何ですか? 虐げられ才女は理不尽な我慢をやめることにした

まるまる⭐️

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1巻

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 しかしまぁ、お父様もよくこれだけの数の訴えを起こされたものです。
 ほら、ジャックさんから説明を受けた二人が怒りに身を震わせ、こちらを睨みつけているではありませんか。

「裁判? そんな平民上がりの伯爵家の訴えを真に受けて、裁判所の調査員たるあなた方が、わざわざ我が家まで足を運んできたというのですか⁉ しかもこんな騙し討ちのような真似までして……。税の無駄遣いも甚だしいわ。兄に言いつけないと!」

 義母は私を睨みつけるだけでは飽き足らず、調査員の二人にも声を荒げ突っかかっていきました。
 先程は使用人如きと言い、今度は平民上がりの伯爵家ですか……?
 その伯爵家からの資金援助で、侯爵家の借金が返済出来たというのに……
 本当にこの人は何様のつもりなのでしょう……?
 あ! 元王女様でした。そう、義母は現国王陛下の実の妹です。
 ですが、目の前の調査員のお二人に、この義母の態度や発言はどのように映っているのか?
 まぁ、それはいずれ裁判で明らかになることでしょう。

「申し訳ありません。ですが、こうでもしないとロザリア様が嫁がれてからの三年間、この屋敷でどのように過ごされてきたのか、その実態を窺い知ることは出来ませんでしたので……。それにお二人は分かっておられますか? 侯爵様とロザリア様の婚姻は王命により結ばれたものなのですよ? もし伯爵家からの訴えが真実ならば、侯爵家は王命に逆らったことになる。これは由々しき事態です」

 ジャックさんは義母にまずそう言って釘を刺しました。
 その上で伯爵家が訴えを起こした理由をこう付け加えたのです。

「ロザリア様は伯爵家のご令嬢です。対してこちらは侯爵家。悲しいかな貴族社会では、低位の貴族は高位の貴族に対して立場が弱く、言いたいことも言えないのが実情です。こちらの家でも、その立場の違いから伯爵家からの訴えを何度も退けてこられたとお伺いしております。しかも何かにつけて、アルジール家が新興貴族だからと言い訳にして。お二人はどう思われているかは存じませんが、同じ王都にいながら、嫁いだ娘に両親が三年もの間、ただの一度も会えないなんて誰が聞いても普通ではありません。ですからアルジール伯爵は苦肉の策として、裁判所という公的機関に訴え出たのですよ。公平な判断を下して欲しいと……ね」
「で……ですが、その女は私という夫がいながら不貞ふていを働いたおろかな女なのです。だから罰として別邸べっていに移したんだ。私達は何も悪くない!」

 シグナス様は往生際悪く、まだそんなことをのたまっております。
 なるほど、私が別邸べっていに移された理由は不貞ふていを犯したからですか……?
 馬鹿ですね。裁判所がこうして調査員を、その身分を隠してまで派遣してきたのです。
 普通は、その裏に何か理由があると思いません?

「我々が調べたところ、ロザリア様に不貞ふていの事実はありませんでしたよ。では反対にこちらからお伺い致します。侯爵様はどのような証拠があって、ロザリア様が不貞ふていを犯したと言っておられるのですか? 妻であるロザリア様をあのような過酷な状況下に置いていたのです。余程確かな証拠があるのでしょうね? 我々が納得出来るような証拠を今、この場にご提示願えますか?」

 しかしジャックさんはシグナス様の言い訳などまるで相手にもせず、冷淡な口調でそう問い質しました。本当に頼もしいですわね。

「そ……それは……。ち……違う! その女は確かに不貞ふていを働いたのだ!」

 シグナス様は狼狽えながら怒鳴るのがやっとです。
 でもね、それでは質問に対する答えにはなっていませんよ。
 案の定、ジャックさんとマイケルさんは呆れたような表情を浮かべ、ため息を吐いているではありませんか。本当に今日この家に来てから、この二人は何度、ため息を吐くのでしょうね。

「証拠など何もないのですね? ですがそこまで言い張られるのならば、違う質問を致しましょう。ロザリア様はいつ不貞ふていを働き、いつからあの別邸べっていで生活されていたのですか? 嘘を吐かれてもすぐに分かりますよ? 私達は実際にあの場所を見てきたのですから……」

 ジャックさんは更にシグナス様を問い質しました。

「い……一年か……二年か……?」

 流石、裁判所の調査員。シグナス様をジリジリと追い詰めていきます。
 その証拠にシグナス様はジャックさんとマイケルさんの顔色を窺いながら、しどろもどろになっています。自分のしたことだというのに、なぜ語尾が上がっているのでしょう? 
 不思議なことです。

「一年か二年ですか? これはまた、随分ずいぶんと開きがありますね? ですが私たちはロザリア様から、嫁いだその日からあそこで生活してきたとお聞きしておりましたがね。まぁ、いいでしょう。侯爵様の言い分が正しいとして話を進めましょう。妻が不貞ふていを働いたにも関わらず、貴方はなぜすぐに離縁なさらなかったのですか? 貴方のお話を聞く限り、ロザリア様の不貞ふていが発覚してから最低でも既に一年以上の年月が経過しているわけですよね? そしてなぜ、今になってその不貞ふていを理由に離縁なさったのですか? 理屈があいませんよ? 伯爵家が騒ぎ出したから、痛い腹を探られないように……とか? そう考えるのは私たちだけでしょうか? ねぇ、大奥様? 貴方はどう思われますか?」

 ジャックさんは突然、体の向きを変え今度は義母に問いかけました。

「え? 私……? そ……それは……」

 突然自分に話が振られたことに驚いたのか、義母は顔を青ざめさせながら、こちらもしどろもどろです。

「急には答えさえ思い浮かびませんか? 仰っていることが真実ならばすぐに答えられると思うのですがね……。では、仕方ありません。こちらから証拠をお見せしましょう。ロザリア様が不貞ふていなどされていないと私たちが判断する確かな証拠をね。こちらの書類をご覧下さい」

 今度はマイケルさんがそう言って二人に近付き、一枚の書類を二人の前にあるテーブルの上に広げました。

「こ……これは……?」

 シグナス様が消え入るような声で、震えながら問いかけます。
 さすがにこれが何なのか知っているようですね。
 ですが、マイケルさんはそんなシグナス様に気付かぬふりをして、その質問に答えました。

「おや? 見て分かりませんか? 教会が発行する白い結婚の証明書ですよ? 侯爵様もお聞きになったことくらいはあるでしょう? 本来、これがあれば離縁などする必要もなく、婚姻自体を白紙に戻せるんです。ですが、今大切なのはそこではありません。この書類が、ごく最近発行されたものだということが大切なのです。つまり、この証明書が発行された時点で、ロザリア様は純潔じゅんけつを保っておられたということです。おかしいですね? 貴方の話では少なくともロザリア様は一年以上前には不貞ふていを働いていたのでしたよね? だったらなぜロザリア様は今、純潔じゅんけつを保っておられるのですか?」
「は? 純潔じゅんけつ……? まさか……しかし、この女には……」

 シグナス様は呆然として呟きました。
 はい。そうです。私にはこの家に嫁ぐ前、婚約者がいました。
 そのためシグナス様は既に私が純潔じゅんけつを失っていると思っていたのでしょう。
 でもね、私は貴族令嬢なのですよ。
 式を挙げる前にそんなふしだらなことをするわけがないでしょう?
 旦那様と一緒にしないで下さい。
 ですがそれは、シグナス様にとってどうしても受け入れ難い事実だったようです。
 突然思い付いたかのように大声で怒鳴り始めました。

「そ……そんなはずはないっ……! ロザリアは別邸べっていの外には一歩も出られなかったはずだ! そんな証明書など取りに行けたはずがない! それは真っ赤な偽物だ!」

 あらあら、旦那様。ついに言ってしまいましたね。
 一歩も屋敷の外に出られなかった……
 それは即ち、私を別邸べっていの中に監禁していたことを認める発言ですよ?
 シグナス様は更に墓穴ぼけつを掘ります。

「それにこの女は私がアレックスに……」
「ほう。アレックス? 息子がどうかしましたかな?」」

 シグナス様の言葉をそう言って遮ったのは、先程私達をこの部屋に案内してくれた家令かれい、ニコラスでした。
 実はいつも私に食事を届けてくれていた青年。
 彼の名はアレックスといい、ニコラスの息子でした。
 そして、シグナス様が彼に私を暴行するよう命じたことを教えてくれたのも、このニコラスだったのです。

「息子に、奥様に狼藉ろうぜきを働けとでも命じられましたかな? そして、それは上手くいったはずだと? だが私が大切な息子に、そんな非道なまねをさせるはずがないでしょう⁉ これ以上あなた方の悪巧みに息子を巻き込まないで頂きたい!!」

 ニコラスが険しい表情をシグナス様に向け、怒声をあげました。
 彼は普段はとても温厚な男性です。今までよほど腹に据えかねていたのでしょう。

「…………っ! 悪巧みとはなんだ! お前、主人に向かってそんな口を利いて、ただで済むと思っているのか⁉」

 ニコラスの放つ怒気に一瞬言葉を失ったシグナス様は、すぐに怒りを露わにすると今度は彼に向かって声を荒らげました。
 それを聞いたニコラスはいびつな……それでいてどこかとても寂しそうな笑みを浮かべると、シグナス様に向かって語りかけたのです。

「まだそんなことを言っているのですか? 安心して下さい。私にはもう、貴方達なんかにお仕えする気持ちは毛頭なくなりましたよ。私も奥様と共に、今日でこの屋敷をおいとま致します。やっと奥様をお救いすることが出来たのです……。もう私にこの屋敷に残る意味もありませんのでね……」
「この女を救うだと……⁉ もしやお前がこの女に手を貸したのか⁉ この裏切り者め!!」

 シグナス様は怒りで顔を真っ赤に染め、ニコラスを指差しながら更に罵声ばせいを浴びせかけました。
 調査員のお二人が見ておられるというのに、なんという醜態しゅうたいでしょう。
 こんな男が侯爵だなんて……
 裏切ったとかなんだとか、問題はそこではないでしょうに……
 ですがニコラスは、さっきから怒鳴りっぱなしのシグナス様に対し、ひるむ素振りも見せず言い返しました。そう……先程と同じ、とても寂しそうな表情を浮かべながら……

「裏切り者ですか……。随分ずいぶんな言われようですね。ですが、旦那様。どこの世界に、息子が犯罪に手を染めるのを黙って見ている親がいますか? しかもそれを命じたのが、主家の主人だなんて……。聞いて呆れます。しかしこれではっきりと分かりましたよ。貴方達は何も気付かない……。人の気持ちも、それ以外も……。分かっておられますか? 肝心の息子は既に、おいとまを頂いておりますよ。思い出してみてください。久しくアレックスを見ていないでしょう? 貴方にとって息子は、自分の言うことを聞く便利な道具。それ以上でも以下でもない。だから息子が屋敷から去っても、貴方は今日まで気付きもしなかった……」

 ニコラスに教えられ、ようやく二人はそのことに気付いたのでしょう。そういえば……と顔を真っ青にしておりますが、何もかももう遅すぎたのです。
 彼は大切な証人ですからね。きちんと我が家で保護させて頂いておりますよ。

「ですがね、息子も人の心を持った人間です。貴方に奥様を襲えと命じられた息子は、思い悩んで私に相談してくれました。息子の口からその話を聞いた時の私の気持ちが分かりますか? 私も息子も、これまでこの侯爵家のためにと必死に尽くして参りました。しかしその結果、貴方達は私達親子を便利扱いし、挙げ句、息子に罪を犯せと命じたのです。その時点で私達は貴方がたを見限りましたよ。当たり前でしょう。尽くす価値が貴方達にありますか? ですが、思い返したのです。このまま放っておけば、なんの罪もない奥様が、今度こそ貴方達にどんな目に遭わされるか分からないと。ですから私は奥様に声をお掛けしたのですよ」
「ええ、ニコラスは私を屋敷の外に出してくれました。そのお陰で私は両親に全てを話し、今後の対策を相談することが出来たのです。そして、教会に行ってあの証明書を頂くことを思い付きました。ですから旦那様には残念ですが、その証明書は間違いなく本物ですわ」

 私はニコラスの言葉の後を継ぎ、そう付け加えました。

「貴様ら、許さん! 許さんぞ!!」

 シグナス様は尚も真っ赤な顔をして叫び続けております。
 といっても、別に今更貴方に許して貰わなくても、私は痛くも痒くもありませんけどね。
 ですがニコラスは違います。彼は最後まで根気よくシグナス様に話しかけていました。
 彼はシグナス様が生まれる以前から侯爵家に仕えているのです。彼らには……特にシグナス様には深い思い入れがあるのでしょう。
 それでもやはり、ニコラスの想いがシグナス様に届くことはありませんでしたが。

「分かりませんか? 旦那様は負けたのですよ。既に教会によって奥様の純潔じゅんけつは証明されているのです。貴方がなんと言い繕おうと、奥様は不貞ふていなど犯してはおられない……。それを教会が証明しているのです。ではなぜ、奥様は別邸べっていであんな生活をされていたのですか? なぜ、離縁が奥様有責だと仰られるのですか? 理由がありません。奥様に離縁されるような過誤かごはないのです。ですが旦那様は違う。この屋敷には既に使用人達が皆、奥様と呼ぶ別の女性が住んでいるのですよ? 本当に不貞ふていを犯していたのがどちらかは、火を見るより明らかだ。まぁ、いずれ裁判になれば、その全てが明らかにされるでしょう。ああ、そうだ。それからご心配なく。私は真実のみを証言致しますから……」
「……ま……まさか……お前……。証言台に立つつもりか……?」

 ニコラスの言葉を聞いたシグナス様は、先程までの威勢はどこへやら。声を震わせながらそう尋ねると、後は黙り込んでしまいました。

「そうしなければ貴方達の目は永遠に醒めないでしょう? 私はね、裁判を通じて真実が明らかになり、罪を犯した者達が正しく裁かれることを望んでいる。ただそれだけです」

 長年自分達に仕えてくれたニコラスが証言台に立つと聞いて、流石にシグナス様も義母も動揺しているようです。
 おそらく私が次にこの二人に合うのは裁判所。
 もうこうして面と向かって話す機会は、二度と訪れることはないでしょう。折角です。私はずっと言いたくても言えなかった、三年間の思いを吐き出そうと思いました。
 私は二人を見据えながら、ゆっくりと語り始めました。

「旦那様、お義母様、私は王命によって意に沿わぬ結婚を強いられました。それでも私は貴族の娘です。これは自分の運命なのだと受け入れ、この侯爵家のために尽くそう……そう決意してこの家に嫁いで来たのです。でも貴方たちは、体裁ていさいを整えるために式だけを挙げると、その夜からすぐに私を別邸べっていに閉じ込めました。そのせいで私がこの三年間、どんな暮らしをしてきたか貴方達は知っていますか? きっと私のことなんて貴方達は興味すらなかったでしょう。貴方達が興味を持っていたのは、私の実家から支払われる生活費という名の支援金だけだったのですから」 

 ようやく自分達が今、置かれている状況が理解出来たのか、シグナス様と義母は言葉もなく、ただ俯いて私の話を聞いていました。
 私は更に二人に現実を突き付けます。
 愛する人と引き離され、その後三年もの間、ずっと苦しめられ続けてきたのです。
 最後くらい思いを吐き出してもバチは当たらないでしょう?
 私は怒りに拳を握り締め、更に思いのたけをぶつけました。

「貴方達のその態度のせいで、私はこの侯爵家で虐げられ、死にかけたことさえあったのです。これから貴方達が私にしてきた扱いが、裁判を通して白日はくじつのもとに晒されることになります。それに私が純潔じゅんけつであるということがどんな意味を持つのか、既に分かっていますよね? そして、貴方達にはこの裁判を示談にする道さえない。本来、白い結婚の証明書があれば婚姻自体を無効に出来ます。そうすれば私の戸籍にも傷は付きません。でも、あえて私は旦那様と離縁という形を取り、アルジール家は裁判に訴え出た。その理由をゆっくりと考えてみて下さい。ではまた、裁判所でお会いしましょう」

 私はそう言い残すと、ニコラスとジャックさん、マイケルさんと共に部屋を後にしました。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 部屋から出ると、エントランスに向かう廊下には、ベアトリス様と数人の侍女たちが私を待ち構えるようにして立っていました。
 あら、最後くらいお見送りでもして下さるのかしら。
 ベアトリス様は、屋敷の中だというのに髪を綺麗に結い上げ、豪華なドレスに身を包み、高そうな宝石をこれでもかという程ジャラジャラ付けておられます。
 別邸べっていに閉じ込められ、擦り切れた部屋着やお仕着せを着て生活してきた私とは大違いです。
 私と同じことを思ったのでしょう。ベアトリス様を目にしたジャックさんとマイケルさんは、私と彼女、両方に目をやり見比べています。

「貴方、散々わずらわせておいて、奥様には挨拶の一つもないの?」

 ベアトリス様の後ろに控える侍女の一人が、威圧的に私に問いかけました。
 彼女がこの屋敷の侍女達を纏める侍女長ニーナです。
 わずらわせた? 私が? ベアトリス様を? いつ?
 反対に私が、彼女の命を受けた使用人たちから嫌がらせを受けていましたけど? 
 頭の中に大量の?マークが飛び交う中、ニコラスがその侍女をいさめました。

「ニーナ、奥様とは一体誰のことを言っている? この家の奥様だったのはお前達の目の前にいらっしゃるロザリア様だ。その女は旦那様のただの愛人に過ぎない。侍女たちを束ねる侍女長の立場にありながら、お前にはそんなことも分からないのか!」
「…………っ!」

 ニコラスが言い放った愛人という言葉に、誰よりも強く反応したのは他ならぬベアトリス様でした。彼女は顔を赤く染め、怒りを露わにしたのです。

「この方が噂の……?」

 私達の後ろに控え、彼女との一連のやり取りを見ていたジャックさんは、私に確認するように尋ねました。

「ええ、ベアトリス様ですわ」

 私が頷きながら答えると、ジャックさんとマイケルさんは互いに目配せをして顔を歪めました。
 まぁ、そうですよね?
 たとえどれ程シグナス様に愛され、屋敷の中では奥様と呼ばれ侍女達にかしずかれていても、所詮それはこの屋敷の中だけでの話。世間から見れば彼女はシグナス様のただの愛人に過ぎません。
 ですから当たり前のことですが、彼女には夜会や舞踏会の招待状が届くこともありません。
 それが一体何を意味するのか。彼女を奥様と呼ぶ侍女達には分からないのでしょうか?
 ベアトリス様は偉くご立腹の様子でニコラスを怒鳴りつけました。

「あなた! 使用人の分際でこの私に大層な口を聞くじゃない⁉ シグナスにお願いして貴方なんてクビにするわよ!」

 そういえばニコラスが怖気付くとでも思ったのでしょうか?
 残念ですね。ニコラスは反対に笑みを浮かべておりますよ。

「その必要はありません。私も奥様と共に、今日限りでこのお屋敷をおいとま致しますので……」
「えっ⁉」

 ニコラスがベアトリス様に返したこの言葉にそう驚きの声を上げたのは、ニーナでした。
 おそらく彼女は分かっているのでしょう。
 ニコラスがこの屋敷を去ることが、侯爵邸にどんな影響を及ぼすのかを……

「……あら、まぁ、そんな女に付いて行くなんて貴方ももの好きね」

 反対に何も分かっておられないベアトリス様は、そんな悠長なことをのたまっておられます。
 いえむしろ、自分の存在に否定的なニコラスが、私と共に屋敷を出て行くことを単純に喜んでいる……そんな様子です。
 まぁ、私が今日この屋敷を出て行くことで、彼女はようやくその後釜あとがまに座れるのです。
 そりゃあ、嬉しくもなるでしょうね。
 でも、私も彼女には感謝しているのですよ。だって、ベアトリス様は自分の立場を守るため、シグナス様が私の元へ来るのを止めてくれていたのです。
 ベアトリス様からしてみれば、一番避けたいのは正妻の私とシグナス様との間に子が出来ること。
 もし万が一にでも子が出来れば、侯爵家の後継は間違いなくその子になります。そうなれば自分が子供を産んでも、その子は侯爵にはなれませんもの。
 いえ、それどころか私の産んだ子が侯爵家の跡を継げば、自分は間違いなく侯爵家を追い出される……そう考えたのでしょう。
 有り難いことです。そのお陰で私は清い体のままでいられたのですから。もし一度でもシグナス様とねやを共にし純潔じゅんけつを失っていたら、今回のこの計画は上手くいかなかったのです。
 まぁ! そう考えれば彼女にはお世話になりっぱなしではありませんか。
 これは最後にお礼くらい言わないといけませんわね?
 彼女にお会いすることは当分ないでしょうから、それならば彼女の望みを叶えて、こちらから挨拶してみようかしら。
 そんなことを考えていると……

「ふふん。でもまぁ、やっと出て行くのね。お飾りでさえない侯爵夫人様!」

 私をあざけるような声が聞こえてきました。
 あらあら、私ったら。挨拶するかどうか迷っているうちに、ベアトリス様の方から先に話しかけられてしまったではありませんか。
 お飾りでさえない侯爵夫人……。なるほど。上手いことを言いますね。
 でもそうすると、彼女達にも私が侯爵夫人だという認識はあったわけですね? 

「やっと? 何を仰っているのです? 私は嫁いだその日からずっと旦那様とは離縁して、こんな家さっさと出て行きたかったのですが? でも、旦那様の方が私を手放さなかったのですよ。ですから私は、今日やっとこの侯爵家から解放されて清々しておりますわ」

 ええ、私は本当の気持ちを正直に言ったまで。
 それなのにベアトリス様は、私が痩せ我慢しているとでも思ったのでしょうか?
 いきなり怒鳴り始めました。

「嘘おっしゃい! 貴方、強がりも大概にしなさいな! シグナスはいつも言っていたわ。貴方との結婚は王命で決められたものだから逆らえない……。だから自分がどれだけ嫌でも仕方がないんだ。どれほど貴方を追い出したくても、貴方が自分から出て行かない限りこちらから追い出すことは出来ないんだって……。君をいつまでも侯爵夫人にしてあげられなくて申し訳ないって、彼はいつも私に謝っていたのよ!」

 ベアトリス様のこの言葉を聞いた私はようやく気付きました。シグナス様は彼女に、自分の都合の悪い真実は何一つ教えていないのだ……と。
 きっとシグナス様は私を悪者に仕立て上げることで、彼女の機嫌を取っていたのでしょう。
 まぁ、それならそれでこちらにとっては好都合。少し揺さぶりを掛けてみることにします。
 侯爵家の実情と真実を彼女達に教えて差し上げましょう。
 それに父は根っからの商人です。知らなかったとはいえ、温情なんて掛けてはくれません。
 彼女達、特にベアトリス様には覚悟しておいて貰わないと……。父にとってベアトリス様は、使用人達に命じ可愛い娘をいじめぬいた単なる不貞ふていおんなに過ぎないのです。

「あら、本当のことですわよ。私達の婚姻も、侯爵家の方から陛下にお願いされたのですわ。そういえば、その頃にはもうベアトリス様は旦那様とお付き合いされていたはずですのに……おかしいわね。旦那様はベアトリス様より私を妻に選ばれた……そういうことなのかしら?」

 私はたった今、その事実に気付いたかのように首をコテンと傾げました。

「……っ! そんな話、誰が信じるものですか!」

 私に馬鹿にされたと思ったのでしょう。
 屋敷を出て行く私を嘲笑あざわらおうと態々待ち構えていたベアトリス様は、私に反論されたことが余程お気に召さなかったらしく、目を釣り上げて怒っておられます。

「まぁ、信じるか信じないかはベアトリス様の自由です。でも、先程も申しましたが、これは全て本当のことですよ。旦那様もお義母様も口では私をざまののしっておられたようですが、本当は離縁なんて望んでいなかったでしょう。もしそんなことになれば、我が家からの支援金が入ってこなくなりますものね。明日からは大変ですわよ。確実に貴方達の中の何人かは職を失うでしょうね。だってお給金が払えなくなりますもの。まぁ、貴方達がただ働きで良いと言うのなら話は別ですけれど」

 私はそう言ってベアトリス様の後ろに居並ぶ侍女達を見渡しました。

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