漆黒の万能メイド

第２６話

『幻影の檻』とは……

　一般的な魔法使いが使う幻影は、相手の目を見て、何らかの術式を使う事でその相手に幻覚を見せる術だ。一度に複数の人間に術を掛ける事は可能だが、その一人一人に対して個別に術を掛けねばならなかった。

　しかし、『幻影の檻』と言うほとんど都市伝説化したその術は、個人に対して術を施すのではない。それは、一つの場フィールドをまるまる幻影の空間として設定する術だった。一種の結界と言う方が理解しやすい。個別に術を掛ける必要はなく、その場に一歩でも踏み込めば何人であろうと一瞬にしてその幻影に取り込まれてしまう。そして、その場に踏み込ん物は術に取り込まれた事にはまったく無自覚で、それがあたかも現実の事の様に五感をすべて操られてしまう。

　ただ、その場に入らず影響を受けない者からは、今の町長の様に取り込まれた人間の異様な状況が見えてしまう。それによって警戒される事を防ぐ為、この術を使用する場合は今のこの状況の様に外部からは見えない閉鎖された部屋などの空間を場として形成する事がもっぱらだった。

　この剣士の場合、過去にこの『幻影の檻』を経験していた為に、その場に踏み込んだ時の微かな違和感を覚えていたのだ。それとて、この剣士の感覚が常識外れに研ぎ澄まされていた為に分かった事で、普通の人間、いやかなりの手練れの騎士クラスの人間ですらその感覚を得る事はまず無理だった。


　剣士は、もう一つの目が捉えた真実の姿をそのまま自身の二つの眼で捉えた物をして自覚する様に自身の視覚を一瞬にして構築し直した。

　いや、正確には二つの眼自体は最初から正しい視覚情報を捉えている。ただ、それを『幻影の檻』がねじ曲げ、脳に間違った現状を認識させているのだ。故に、その事を正しく理解し、脳が『幻影の檻』による一種の催眠に陥らなければ良いのだ。これを剣士は『もう一つの目』と言う物を仮想し、分かりやすい形で『幻影の檻』の催眠に対して上書きする形で自己暗示を掛けて自身を正常な状態に保っていた。

　もっとも言葉で言えば簡単だが、実際には『幻影の檻』は桁違いに強力な催眠である。その為に、そのメカニズムが分かってもそこから逃れる事は桁外れに精神力の強い人間でなければまず無理だった。


　その『幻影の檻』を操り、そしてその術が破られる事は絶対にないと言う自信に満ちた態度で玉座に座っていた黒髪のメイドが今、自分の前にいる。

　この女、こちらが一部のミスも気のゆるみもなく放った一撃を片手で持った短剣でいともたやすく受け止めた。

　しかも、その口元に薄ら笑いすら浮かべている。

　ありえないのだ。

　剣士は思った。

　ふつうの女なら仮にこの一撃を受け流す事は出来てもその体は、反対側の壁まで吹き飛んでいるはず。そしてその体の骨のいくつかは砕け二度と立ち上がる事は出来なくなっているはずなのだ。

　見た目は俊敏で軽るそうに見えるこの一撃、実際には巨漢の騎士が好んで使う巨大な斧トールハンマーの一撃にも匹敵する重さがあるのだ。

　それを女性にしてはやや長身ではあるが、明らかに細く華奢なあの体で受け止められるなどとは、剣士の長年の経験から言っても到底あり得る事ではなかった。

　いや、それどころではない。

　その場に居てしっかり身構えて受けたとしてもそうなのだ。この女はあれだけの距離離れている玉座に全身の力を抜いてまったく無防備の状態から、ここまで駆けぬけこの若い商人風の男を守る為この剣を受けたのだ。

　こちらが撃ち込みに入る時にはまだあの女は玉座にそれまでと同じ様に座っていた。

　こちらが抜刀し、撃ち込みに入った後で動き出したとしか考えられない。駆け抜けた後の不安定な姿勢でこの一撃を受けたなら、こんなに綺麗に受け止める事などありえない。

　それにだ。

　あの女はこちらをまったく警戒している気配はなかった。こちらは『神速の抜刀術』と呼ばれた異次元の速さを持つ一撃なのだ。あの玉座からここまでの距離を考えれば、こちらの速さからすれば絶対に間に合うはずはないのだ。あの女がこちらへ向かって来るのを確認してから抜刀しても十分にあの若い男を斬る殺す自信はあった。

　いや、そんな事より、『幻影の檻』を使っている以上、あの女は魔法使いヴィザードだ。魔法に関しては神域に達する者もあろうが、それならなおさら体を使った剣術は並の騎士以下の護身程度と言うのが常識なのだ。