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9. OH, MY GOD! 美少年天使ジョフィエルと《神》の一夜
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《神》は、以前の苦しみの原因が自制心だとようやく気がついた。
抱きよせても翼は邪魔にならないか。きつく抱きしめて、肩までの波打つあの栗色の髪を撫でたらどんな感じだろう。ジョフィエルはどんな表情をするだろう。
そんな想像を、浮かぶはしから自制心がはたき落としていたのだ。
思えば、イチかバチかの危険な賭けだった。何しろ相手は天使。
他の連中と違って声変わりもしていないし、体つきも華奢で顔は童顔。かつての人間界で言う変態の大人に悪さをされた子供のように、驚き、恐れ、叫び声をあげ、彼の腕をすり抜けて飛び立ってしまうかも知れず、そうなれば二度と会えなくなるのは必至だった。
天使の特性をすべて維持した天使への冒涜に対する、キリスト教の神の怒りも頭をかすめた。
それでも行動に踏み切ったのは、ただ欲望が限界に達し、イチとバチとかを天秤にかけている余裕がなかったからにほかならない。
《神》は、孤独に慣れっこになっていたあまり忘れかけていた尊い物を思い出した。
愛。
どこにでも転がっているようで、実際に探してみるとめったに見つからないという、あの崇高な感情が彼の心をとらえていた。アフロディテの実の息子で彼の乳兄弟にあたるクピドが、いたずらっ気を起こして彼に密かに矢を放ったのかもしれなかった。
雲のキングサイズベッドで目覚めた《神》の眼にまず飛びこんできたものは、丁寧にたたまれた天使の純白のローブと、その上に重しを兼ねて重ね置かれた一対の天使の翼であった。
彼は昨夜の出来事を思い出し、隣に横たわるジョフィエルの寝顔を見た。相変わらず美しい。眉は薄く、心もち山の形を描いている。彫りの深い顔に濃く長い睫毛が影を落とし、鼻はやや鉤鼻。なかば開いた唇は下がまっすぐで上がこころもち湾曲した、あどけなさの残る作りである。
人間たちが天使をかたどった像を創る時、モデルにしたのはジョフィエルに違いないと、彼は確信した。
《神》の視線に応えるように天使の顔がこちらを向き、瞼が開いた。
ジョフィエルが《神》の姿を認めると、その頬に涙がつたった。
それはまさに、氷の刃の一突きだった。彼は自分の宿命に今さらながら恐れおののいた。そして、昨夜の行いを悔いた。逃げもせず抵抗もしなかったのを同意ととったのは過りだったのか。
いや、しかし、ジョフィエルは一晩中もつれ合いながらずっと高らかに声をはりあげていたではないか。
”Oh ,my God! Oh, my God! ”
もしかして、あれは喜びの声ではなく、また、愛を交わしている相手の名を呼んだのでもなく、自らが仕えるキリスト教の神に救助を求める叫びだったのだろうか。
刃物代わりにいかめしい顔、というより怖い顔で脅し、《神》であるという無言の圧力によって無理強いしてしまった。無垢な天使を穢してしまった。ああ。俺はなんて罪深いんだ。
彼は、自己嫌悪にさいなまれた。
しかし、そんな彼の様子に気づいてか、ジョフィエルは一言、こう言った。
「よかった。夢じゃなかったんだ」
氷の刃は瞬時に溶け落ちた。宿命も後悔も自己嫌悪もひとまとめの忘却の川へ投げ込まれた。
なんだ。そういうことだったのか。
《神》はにっこり笑ってジョフィエルの髪を撫でた。
それから二人は、二人はしばらく「運命」とか「幸せ」とか「永遠」とか、お定まりの言葉を使って愛の言葉をささやき交わした。
《神》は、ゼウスとガニュメディスのエピソードを思い出していた。地上の美少年ガニュメディスに一目惚れしたゼウスが鷹に姿を変えてさらいに行った、という物語だ。
もっとも今回は、飛翔能力を持つ相手が自分から飛びこんできたわけだが。音楽に惹かれて来たのだから、音符で釣り上げたというべきか。
〈ニムロド・スタジオ〉には朝日が射していた。
《神》は天使の帰り支度を見守った。
(もうどこへも行かせたくない)
そう言いたい気持ちを抑える彼は、いつになく無口だった。寝ている間に翼をどこかに隠しておけばよかったと、彼は後悔した。
そんな《神》とは対照的に、ジョフィエルはすっかり饒舌になっていた。昨夜の《神》がどんなにすばらしかったか、自分がどれほど、天にも昇る気持ちになれたかを、この天使は語彙をフル活用して臆面もなく語り尽くした。
吉報をもたらす使者のような活き活きとした顔で相手の眼を一瞬もそらすことなく見つめながら話すので、かえって《神》のほうが顔を赤らめた。
愛を語っているはずなのに、明け方愛の囁きを交わした時にはなかった難解な言葉や耳慣れない理屈っぽい表現が随所に混じる。これはかつて、《神》が地上からの歌声の中で何度も聞いたことのあるジョフィエルの小難しい詩句とも共通していた。
しかし、詩作やディベートならいざしらず、こんな場面でわざわざ小難しい言葉を口にするものだろうか。これが行為の直後なら、舞い上がってあらぬことを口走っているととることもできるが。
(もしや、下界に降りてまでこの調子でべらべら吹聴して回るつもりでは…)
不安になった《神》は、ほかならぬ《神》との交わりだから他の天使や亡霊たちにはショックが強すぎるに違いないと、遠まわしに口止めした。すると、ジョフィエルは、自分が何かを相手に伝えようとすると、その気持ちが強ければ強いほど相手に伝わらないので大丈夫だと請け合った。
それで《神》はますます不安になった。
たとえ、世界中に知られたとしても、最高神の生まれ変わりが本当なら自分を罰する者はいないだろう。しかし、そのことがよけいに彼を自己批判に駆り立てていた。《神》は実に内省的な、言い換えれば見かけと前世によらず肝の小さい神なのである。
ジョフィエルは装着した翼を合わせてズレをみると、“See you later”と言ってオリンポスを去っていった。《神》はまたすぐに会えると思い直し、笑って見送った。
一人になった《神》は、この奇蹟を誰かに感謝したかったが、自分が神なので対象がいない。それで、とりあえず太陽に向かって照れ笑いしてみた。
アフロディテがオリンポスを去って以来、初めて《神》の彼女を慕う気持ちがうとましさに変わった。彼はこの育ての母に、オリンポスに帰ってきてほしくないとも願った。神話に記された数々の前例があり、美少年を見せるのは危険といえた。
抱きよせても翼は邪魔にならないか。きつく抱きしめて、肩までの波打つあの栗色の髪を撫でたらどんな感じだろう。ジョフィエルはどんな表情をするだろう。
そんな想像を、浮かぶはしから自制心がはたき落としていたのだ。
思えば、イチかバチかの危険な賭けだった。何しろ相手は天使。
他の連中と違って声変わりもしていないし、体つきも華奢で顔は童顔。かつての人間界で言う変態の大人に悪さをされた子供のように、驚き、恐れ、叫び声をあげ、彼の腕をすり抜けて飛び立ってしまうかも知れず、そうなれば二度と会えなくなるのは必至だった。
天使の特性をすべて維持した天使への冒涜に対する、キリスト教の神の怒りも頭をかすめた。
それでも行動に踏み切ったのは、ただ欲望が限界に達し、イチとバチとかを天秤にかけている余裕がなかったからにほかならない。
《神》は、孤独に慣れっこになっていたあまり忘れかけていた尊い物を思い出した。
愛。
どこにでも転がっているようで、実際に探してみるとめったに見つからないという、あの崇高な感情が彼の心をとらえていた。アフロディテの実の息子で彼の乳兄弟にあたるクピドが、いたずらっ気を起こして彼に密かに矢を放ったのかもしれなかった。
雲のキングサイズベッドで目覚めた《神》の眼にまず飛びこんできたものは、丁寧にたたまれた天使の純白のローブと、その上に重しを兼ねて重ね置かれた一対の天使の翼であった。
彼は昨夜の出来事を思い出し、隣に横たわるジョフィエルの寝顔を見た。相変わらず美しい。眉は薄く、心もち山の形を描いている。彫りの深い顔に濃く長い睫毛が影を落とし、鼻はやや鉤鼻。なかば開いた唇は下がまっすぐで上がこころもち湾曲した、あどけなさの残る作りである。
人間たちが天使をかたどった像を創る時、モデルにしたのはジョフィエルに違いないと、彼は確信した。
《神》の視線に応えるように天使の顔がこちらを向き、瞼が開いた。
ジョフィエルが《神》の姿を認めると、その頬に涙がつたった。
それはまさに、氷の刃の一突きだった。彼は自分の宿命に今さらながら恐れおののいた。そして、昨夜の行いを悔いた。逃げもせず抵抗もしなかったのを同意ととったのは過りだったのか。
いや、しかし、ジョフィエルは一晩中もつれ合いながらずっと高らかに声をはりあげていたではないか。
”Oh ,my God! Oh, my God! ”
もしかして、あれは喜びの声ではなく、また、愛を交わしている相手の名を呼んだのでもなく、自らが仕えるキリスト教の神に救助を求める叫びだったのだろうか。
刃物代わりにいかめしい顔、というより怖い顔で脅し、《神》であるという無言の圧力によって無理強いしてしまった。無垢な天使を穢してしまった。ああ。俺はなんて罪深いんだ。
彼は、自己嫌悪にさいなまれた。
しかし、そんな彼の様子に気づいてか、ジョフィエルは一言、こう言った。
「よかった。夢じゃなかったんだ」
氷の刃は瞬時に溶け落ちた。宿命も後悔も自己嫌悪もひとまとめの忘却の川へ投げ込まれた。
なんだ。そういうことだったのか。
《神》はにっこり笑ってジョフィエルの髪を撫でた。
それから二人は、二人はしばらく「運命」とか「幸せ」とか「永遠」とか、お定まりの言葉を使って愛の言葉をささやき交わした。
《神》は、ゼウスとガニュメディスのエピソードを思い出していた。地上の美少年ガニュメディスに一目惚れしたゼウスが鷹に姿を変えてさらいに行った、という物語だ。
もっとも今回は、飛翔能力を持つ相手が自分から飛びこんできたわけだが。音楽に惹かれて来たのだから、音符で釣り上げたというべきか。
〈ニムロド・スタジオ〉には朝日が射していた。
《神》は天使の帰り支度を見守った。
(もうどこへも行かせたくない)
そう言いたい気持ちを抑える彼は、いつになく無口だった。寝ている間に翼をどこかに隠しておけばよかったと、彼は後悔した。
そんな《神》とは対照的に、ジョフィエルはすっかり饒舌になっていた。昨夜の《神》がどんなにすばらしかったか、自分がどれほど、天にも昇る気持ちになれたかを、この天使は語彙をフル活用して臆面もなく語り尽くした。
吉報をもたらす使者のような活き活きとした顔で相手の眼を一瞬もそらすことなく見つめながら話すので、かえって《神》のほうが顔を赤らめた。
愛を語っているはずなのに、明け方愛の囁きを交わした時にはなかった難解な言葉や耳慣れない理屈っぽい表現が随所に混じる。これはかつて、《神》が地上からの歌声の中で何度も聞いたことのあるジョフィエルの小難しい詩句とも共通していた。
しかし、詩作やディベートならいざしらず、こんな場面でわざわざ小難しい言葉を口にするものだろうか。これが行為の直後なら、舞い上がってあらぬことを口走っているととることもできるが。
(もしや、下界に降りてまでこの調子でべらべら吹聴して回るつもりでは…)
不安になった《神》は、ほかならぬ《神》との交わりだから他の天使や亡霊たちにはショックが強すぎるに違いないと、遠まわしに口止めした。すると、ジョフィエルは、自分が何かを相手に伝えようとすると、その気持ちが強ければ強いほど相手に伝わらないので大丈夫だと請け合った。
それで《神》はますます不安になった。
たとえ、世界中に知られたとしても、最高神の生まれ変わりが本当なら自分を罰する者はいないだろう。しかし、そのことがよけいに彼を自己批判に駆り立てていた。《神》は実に内省的な、言い換えれば見かけと前世によらず肝の小さい神なのである。
ジョフィエルは装着した翼を合わせてズレをみると、“See you later”と言ってオリンポスを去っていった。《神》はまたすぐに会えると思い直し、笑って見送った。
一人になった《神》は、この奇蹟を誰かに感謝したかったが、自分が神なので対象がいない。それで、とりあえず太陽に向かって照れ笑いしてみた。
アフロディテがオリンポスを去って以来、初めて《神》の彼女を慕う気持ちがうとましさに変わった。彼はこの育ての母に、オリンポスに帰ってきてほしくないとも願った。神話に記された数々の前例があり、美少年を見せるのは危険といえた。
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