フルムーン・オクロック

瑠俱院 阿修羅

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19. 本当の別れ

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〈なりそこない天使〉は望楼の入口を抜け、らせん階段を慎重に降りて行った。
水槽の水鏡に映してみればわかるはずだと、そればかり考えて。
ゆがんだ石の段に足をとられて落ちそうになったら羽ばたきでそれをふせぎながら、下へ下へと降りていくと、ごおおお、という水音が聞こえた。外の雨の音もどんどん大きくなる。
〈なりそこない天使〉は、はっとして立ち止まった。
なんてバカだろう。塔が沈む。森も沈むという話を聞いていながら。
きっともう、六角音楽堂にも水があふれているはずだ。
それに、儀式の時でなければ水鏡は[旅立つ子供]の元々の姿を映しださないと、知っていたはずなのに。
〈なりそこない天使〉が階段をひきかえして望楼から屋上に出ると、思わぬ人物とはちあわせした。
イクテュースだ。
「イクテュース。どうして、ここに?」
「君こそ、どうして」
二人はあっけにとられてお互いを見た。
「私は水の中では自由に動ける。だが、飛べるというのはウソだ。胸ビレはとっくに退化してしまったし、背ビレで飛ぶことはできない」
「どうして、そんなこと」
「そう言わなければ、祈りの鳥か天海王の手の分身たちに無理やり宮殿へ連れていかれただろう」
イクテュースはそう言うとかがんで、〈なりそこない天使〉の顔をのぞきこんだ。
やがて頭の上に手を置いて、微笑んだ。
「なりそこない天使。君は宮殿へ行ったとばかり思っていたよ」
〈なりそこない天使〉は、答える代わりに歌を歌った。
 
月の砂漠をはるばると
旅のらくだがゆきました
 
か細い声は雨のザーザーいう音にほとんどかき消されてしまったが、イクテュースの唇も、自分と同じ動きをしているのがわかった。
 
金と銀との鞍おいて
二つならんでゆきました
 
なりそこない天使は、イクテュースの顔をまじまじと見た。
「天美寿」
イクテュースが澄んだ湖のような目をして名前を呼んだ。
〈なりそこない天使〉の中で何かがはじけ、目にあふれてくる涙を我慢できなくなってうつむいた。
ぽとぽとと涙の粒が床に落ちる。
イクテュースがマントの端で顔をふいてくれた。
「やっぱり、阿幌だったの」
「そうだよ」
「いつ、気がついた?」
「イシュアクアが眠った後」
「阿幌が病気で長いこと入院してたの、思い出した。手美寿がその時、いとこのハルちゃんの家に預けられてて、一番最後に会えなかったことも」
「あれがパパとママの思いやりだったんだ。私だって妹に、死んでゆくところなんか見せたくなかった」
「ずいぶん時間が経ってから、阿幌はもういないんだって教えられて、いろんなものを壊して、パパの絵をナイフで切り裂いて泣いた」
「知ってる。空から見てた。私が宇宙空間にただよう魂になった時に」
「自分のこと、『阿幌』って呼ばないんだね」
「もう阿幌じゃないからね」
〈なりそこない天使〉は新しく湧いてきた涙を、今度は天使の白いローブの袖でふいた。
「阿幌は脈が速かっただろう。きっと、ひとの二倍の速さで生きていたんだ。パパとママには悲しい思いをさせたけど、多分あれが、阿幌のために用意された一生分の時間だったんだよ。ここで儀式の手伝いをすることに、初めから運命が決まっていたのかもしれない」
なりそこない天使は、怖くて聞けずにいたことを思い切って聞いた。
「天美寿も死んだの?」
イクテュースはマントを翼のように広げて、なりそこない天使の頭に両手を乗せた。
まるで、小さなテントだ。
「天美寿は眠っているだけだ。君は元いた世界で、祈りの鳥や遠くの国にある戦火の街を見ただろう。ほかの人には見えないものが見える。霊感、というのかな。すごく精神が敏感で、特別なアンテナがあるんだよ。だから、自分は死んでいないのに、双子の兄の魂を追いかけてこんなふうに、生まれ変わりのために用意された世界に迷いこんだりする。君は元いた世界に戻れるよ。水があふれてきている。塔の屋上にも、もうすぐ周りの水が流れこんでくる。そうしたら、〈旅立つ子供〉たちが昇って行ったルートに渦ができるはずだ。それに巻きこまれさえすれば、その向こうは地球だ。滅びに向かう星だと天海王は言ったけど、天美寿やたくさんの子供たちには考える頭と感じる心がある。みんなで軌道を修正するんだ。そして、月の見たようなユートピアに変えればいい」
「阿幌」
「何?」
「一緒に帰ろう」
イクテュースはため息をついた。
「阿幌の体はなくなってしまった」
「魂の入れ物なら天美寿の体があるよ。半分こしよう。いつも一緒にいられる。昔みたいに」
「天美寿。よく聞いて。天美寿はほかの誰でもない。大人になって、恋をして、結婚する。生きがいになるような仕事を見つける。人生は誰とも半分こなんてできない。絵を描くのが大好きだろう。君にしか描けない絵を描いて。きっと、すばらしい絵描きさんになれる」
「阿幌…イクテュースはどうなるの?」
「私はここに残る。ここに残って滅びる『月のしずくの塔』と運命をともにする。私は魚のように、水中ですごすことができる。水中で、再び島が浮かび上がるまで待つ」
「わからない。なぜ、そんなことをするの?『天海王の宮殿』へ行けば、争いも憎しみもない新しい星に生まれ変われるのに」
「イシュアクアなしでは、私の存在には意味がない。だから、ほかの星に生まれ変わることなど望まない。私のことを忘れていてもかまわない。彼女の新しく住む宮殿のそばで時を過ごしたい。それだけだ」
ゴオオオ、と音がして、塔の屋上に水があふれてきた。
見る間に水球時計の台座が水没し、なりそこない天使の肩ほどの高さまで一気に水かさが増した。
「阿幌。一緒に帰ろう」
イクテュースは首を横に振った。
なりそこない天使はそれを見て、何倍もの激しさで左右に何度も首を振った。
「どうして、大好きな阿幌と二度もお別れしなくちゃいけないの?」
「また会えるよ。ムーン・ラが何十年、何百年先どうなるかは誰にもわからない。もしかしたら、また一緒に地球に生まれ変われるかもしれない」
イクテュースはそれだけ言うと、微笑んで、マントの中になりそこない天使をかばうようにして、強く抱きしめた。
水はすごい勢いでイクテュースと、天美寿に戻ったなりそこない天使を飲みこみ、荒れ狂う嵐の海のように中に引きずりこんだ。
目を開けると、もう望楼のてっぺんまで水の中だった。
波にもまれて、二人は強い力で押されたり引っぱられたりした。
渦を巻いて上昇している場所を見つけると、イクテュースは天美寿を抱えたまま泳いで行って彼女をその中へ放した。
天美寿は渦に巻きこまれながら、イクテュースの手をなんとかつかもうとする。
イクテュースも手をのばしたが、それはさよならの合図だった。
片手を振りながら、片手で水を掻いて離れていくイクテュースに、天美寿は「また会えるよね、また会えるよね」と、心でくりかえした。
天美寿は渦の中を上へ上へと流されていった。
あとからあとから、月の涙には天美寿の涙が溶けていった。
(パパ、ママ。阿幌が行っちゃった。せっかく、また会えたのに)
天美寿の心の中に、イクテュースになった阿幌の声が響いてきた。
(もしかしたら、魚に生まれ変わるかもしれない。海を見る時は、そこに阿幌がいると思っておくれ)
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