檻の中のピアニスト(前編・後編)

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檻の中のピアニスト(前編)

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プロローグ

ロボトミー手術という現在は禁止されている手術がある。

 ロボトミーとは、ロブス(脳葉)とトミー(切截)の合成語であると言われるが、その手術の趣旨から人間をロボット化する手術という意味に解釈されていることも多い。

 現在でも、人間の脳の仕組みは完全には解明されていない。
 しかしながら、精神的柔軟性や自発性、我慢、抑制、会話力、危険管理、規律性、社交性、性行動など、人間の高度な知性や感情を司っているのは、脳の中で額に最も近い部分、すなわち前頭葉だと考えられている。

 ロボトミー手術とは、アイスピックなどの鋭利な刃物を前頭葉に突き刺し、これを破壊する手術である。

 一九三五年、米国イェール大学のジョン・フルトンとカーライル・ヤコブセンは、チンパンジーにおいて前頭葉切断を行い、その結果、施術されたチンパンジーの性格が穏やかになったと報告した。実際には『乱暴なサル』だったチンパンジーが、手術後に高度な思考能力を失い、一見『おとなしいサル』になっただけと推測されるが、この結果を見た医師たちは『手術によってチンパンジーの神経症(ノイローゼ)が治癒した』と考えた。

 この報告を聞いたポルトガルのリスボン医科大学神経外科医アントニオ・エガス・モニスは、精神障害が前頭葉内の神経細胞に異常なシナプス結合繊維群を生じるために起こるという仮説を立て、リスボン大学で外科医のアルメイダ・リマと組んで、初めてヒトにおいて前頭葉切裁術(前頭葉を脳のその他の部分から切り離す手術)を行った。
 その手術法とは、頭蓋骨にドリルで穴を開け、『ロボトーム』と呼ばれる棒状の器具を差し込んで、前頭葉の神経繊維を切断し、繊維群の再結合を促すことで、精神障害を克服するというものだった。

 モニスはこの方法で二十人の患者に対して手術を行い、『著しい成果をあげた』と学会に発表したのである。
そして彼は、精神症状を対象とする脳手術の分野を『精神外科』と名づけた。

 モニスはリスボン大学神経科教授にして、下院議員や外務省高官を歴任した政治家でもあり、一九一〇年のポルトガル共和国樹立に参加し、政党党首や大臣も務めている。マドリード駐在の大使だったこともあれば、ヴェルサイユ条約調印の時には自国の代表だったという。

 この人物について特記すべきことは、普通とは逆に、政治家を辞めた後で医学の分野における業績をいくつも残していることである。

 一九三六年九月十四日、ジェームズ・ワシントン大学でもウォルター・フリーマン博士の手によって米国で初めてのロボトミー手術が行われた。対象となった患者は激越性うつ病患者(六十三歳の女性)だったと言われている。

 フリーマンは、モニスが考案したロボトミー手術をさらに研究し、改良を加えた施術法を『経眼窩(けいがんか)ロボトミー』と名づけ、表皮に傷跡が残らない『画期的な治療法』と喧伝して、一躍時の人となった。

 彼は患者に局所麻酔をかけた上で、眼窩から直接アイスピックを挿入して小槌でそれを打ち込み、ほとんど『勘頼み』で神経繊維の切断を行うという手法で、患者の並ぶベッドを次から次へと移動しながら、数多くの患者の施術を行ったという(米国中で凡そ三千四百人もの患者に対して施術を行ったと言われる)。

 その後、ロボトミー手術は世界各地で追試され、そのうちには成功例もあったように言われるが、同時に死亡例も報告されている。また、死亡までに至らなくても、術後の患者には、てんかん発作、人格変化、無気力、抑制の欠如、衝動性などの重大かつ不可逆的な副作用が起こったと報じられている。しかしながら、当時、ロボトミー手術は、その効用のみが強調され、その考案者モニスの功績を認めたノーベル財団は、一九四九年、彼にノーベル医学生理学賞を授与した。

 当時の標準的なロボトミー手術は、前側頭部の頭蓋骨に小さい孔を開け、ロイコトームと呼ばれたメスを脳に差し込み、円を描くように動かして切開するというものだった。前頭前野と他の部位(辺縁系や前頭前野以外の皮質)との連絡繊維を切断していたと考えられる。

 このように医学的な表現を用いると、まるでロボトミー手術が医学的根拠に基づいて慎重に施術されていたかのように聞こえることが恐ろしい。

 実際には、こめかみのあたりにドリルで穴を開け、その中に細い刃を突き刺し、手探りでぐりぐりと動かして前頭葉の白質を切断する。切断する部位や範囲は、施術する医師によりさまざまに異なる。つまり、医者が『適当』に決めるのである。

 日本における最初のロボトミー手術は、一九四二年、新潟医科大学(後の新潟大学医学部)の中田瑞穂によって行われ、第二次大戦中および戦後しばらく、主に統合失調症(二〇〇二年に『精神分裂病』から改称された)患者を対象として、各地でごく一般的に施術された。国内でロボトミー手術を受けた患者数は、一説によると三万人~十二万人に及ぶという。

 三万~十二万というあまりにもアバウトな推計値には驚かされる。推計値があまりにもアバウトである理由について推測することは難しくない。

 本来、ロボトミー手術も電気ショック療法も精神病患者の治療を目的として考案された治療法であるが、実際には、医師や看護師に対して反抗的な患者に対する懲罰として実施されることも多かったと言われる。また、医師が興味本位で人体実験として施した例も多いと聞く。

 つまり、患者に対して腹を立てた医師が、腹たちまぎれにこれらの手術・療法を施したケースや興味本位で実験的に行ったようなケースでは、正確な施行数の報告など望む方が無理というものだろう。

 当時、日本におけるロボトミー手術の第一人者といわれた日本大学医学部の広瀬貞雄名誉教授は、一九四七年から一九七二年までの二十五年間で五百二十三例のロボトミー手術を行ったとされている。同氏の言によれば、

「我々の今日までの現実的な経験としては、ロボトミーは臨床的に有用な棄て難い利器であり、従来の療法ではどうしても病状の好転を来たすことが出来ず、社会的にも危険のあったものがロボトミーによって社会的適応性を回復し、或は看護上にも色々困難のあったものが看護し易くなるというような場合をしばしば経験している」

「精神病院内に、甚しく悩み、また狂暴な患者が入れられているということは、戦争や犯罪やアルコール中毒の惨害以上に一般社会の良心にとって大きな汚点であるとし、このような患者がロボトミーで救われることを肯定する議論もある。
一九五二年にローマ法王PiusXIIは、その個人の幸福のために他に手段のない限り肯定さるべきだという意味の声明をした」

つまり、同氏は、
「実際、上手くいくことだってあるんだし、ローマ法王だって、いいって言ってるじゃん」という趣旨にとれる言を述べた。

 実際には、一九五〇年代になり、電気ショック療法の改良や、精神治療薬の開発が進められると、ロボトミー手術により、重篤な後遺症を生じた患者の家族や医療従事者からもロボトミー手術に対する反対の声があがり始め、ロボトミー手術は急速にその評価を失いつつあったが、前述のようなロボトミー手術の『(狂?)信者』とも言える医師たちにより、この手術法は、存続し続けたのである。

 現在では、患者に対する人権意識の高まりもあり、ロボトミー手術は、多くの犠牲者だけを生んだ『悪魔の手術』とさえ呼ばれており、当時ロボトミー手術を施され、その結果、廃人状態になってしまった患者の家族を中心に、モニス医師のノーベル賞取り消しを求める運動さえ行われているのである。

 元看護婦のキャロル・ノエル・ダンカンソンも、母親がロボトミー手術によって廃人化されたという。
 彼女の母親、アンナ・ラス・チャネルスは一九四九年、妊娠に伴う偏頭痛を治療するためロボトミー手術を受けたが、それまで『活発で聡明な女性』だったアンナは、完全な廃人となって家に戻って来たのである。

 「母は、自分でものを食べることも、トイレに行くことも出来ない身体になりました。しゃべることも出来なくなり、とても怒りやすい人間になってしまったんです。彼女はロボトミー手術で全てを失ったんです。何もかもです」

 すなわちロボトミー手術とは、『人格破壊手術』、『廃人化手術』以外の何ものでもないというのが現在の考え方の主流である。いや、その考え方が主流であることを祈る。

 もともと人間の脳の仕組みがほとんど解明されていなかった一九三〇年代に、脳の一部を切除することによって精神症状を解消するなどという手術が、それもアイスピックを脳に突き刺すなどという極めて残虐かつ短絡的手法で行われてきたことも震撼に値するが、この手術は、一九七五年に日本精神医学学会において『精神外科を否定する決議』が可決されるまで国内でも盛んに行われた。

 日本においてロボトミー手術が禁止されたのが一九七五年、二〇二五年を今現在とすれば、五十年前である。このことは、若い頃にこの手術を受けた患者の多くは、今もなお生存していることを予想させる。いったい、彼らは今、どこで何をしているのだろうか? それについて筆者は一つのおそらくその通りであろう答えを持っている。しかし、その答えはあまりにも痛々しく、悲しく、また、この物語の趣旨とも異なるため、ここには記さない。

『頭痛を治すためには、頭をちょん切ってしまえば良い』

 そのような安易な発想に基づき、人間の思考にとって最も大切な脳を破壊・切除するという手術が、ほんの数十年前まで、ごくあたり前に行われてきたのである。

 なお、日本精神医学学会における『精神外科を否定する決議』は、あくまで学会内の自主規制であり、現在でもロボトミー手術は、法律では禁じられていない。したがって、精神科医に学会からの除名処分などを受ける覚悟があれば、手術自体は今もなお合法である。これについても障害者団体などから批判の声があがっているが、厚生労働省が法改正に向けて動き出したという情報はないし、ハンセン病や薬害エイズなどのように、患者団体が国を相手取って訴訟を起こしたという話も聞かない。

 本書の読者は、『悪魔の手術』、『人格破壊手術』、『廃人化手術』と呼ばれ、現在は禁止されているような手術の考案者であるモニスがノーベル賞を受賞し、いまだにその受賞を取り消されていないという事実について、どう考えるだろうか?



第一章 しらけ野郎




神々が怒りをぶちまけるような豪雨が降り注いでいる。
ワイパーがせわしく往復する。
車の天井を叩く雨音が散弾銃のようにけたたましい。

これが熱帯のリゾート地に降るスコールなら、爽やかに街を洗い清める雨だったかもしれない。
しかし、激昻のあまり神々が天から撒き散らす硫酸の雨に、凌一は、神の心臓に反旗の銃弾を撃ち込んだろう。

吐血して倒れる神の姿を想像した。神は死んだ。凌一は冷淡な笑みを浮かべた。

駅前の赤信号で停車する。
運転席の窓から改札口に視線を送る。
突然のゲリラ豪雨に晒されて、駅の構内に逃げ込んだ大勢の女子高生がたむろしている。
服を着たままプールに飛び込んだようにビショ濡れの彼女たちは、黄色い声を発しながら賑やかに騒いでいる。

 とんだ災難に遭ったにも関わらず、彼女たちの表情は嬉々とし、瞳は輝いている。

 凌一は彼女らの無邪気な笑顔を横目で見た後、どす黒い真昼の空を仰ぐ。そして、目を伏せ深いため息を吐く。
 全ての人間は、荒涼たる砂漠の中をたった一人で生きている。彼女たちは、まだその真理を知らない。いや、一生そのことに気づかないまま人生を終える人が圧倒的多数なのかもしれない。

 温かい家庭に包まれ、毎日大勢の友人や同僚と会い、一緒に遊び、学び、働き、携帯電話で会話し、メールの交換をしたところで、その真理を覆すことは出来ない。
『人間』という言葉は『人の間』と書く。人と人との間は、何兆光年という果てしない暗黒の宇宙空間で隔てられており、実はその『間』こそが人間の本質を示し、人間の全てだ。

 自分には親友がいる。自分には恋人がいる。自分には家族がいる。自分は決して一人ぼっちなんかじゃない。そう思っている人も多いだろう。問題は、自分と親友、恋人、あるいは家族との間にある果てしない暗黒の宇宙空間であり、それゆえに全ての人間は、荒涼たる砂漠の中をたった一人で生きているのだ。

 凌一がそれに気づいたのは、平成十六年に奈良市内で発生した少女誘拐殺人事件の捜査中だった。当時、まだ新米の交番警官に過ぎなかった凌一は、天に授けられたとしか考えようのない繊細で敏感な感覚を駆使し、犯人逮捕につながる有力な情報を次々と拾い集めた。そして凌一はその真理にたどり着いた。

 それを知った時、凌一は初めて人から人間になった。

 『友情』、『愛情』、『信頼』、『絆』……太古の昔から、人間はありとあらゆる言葉を作って、自分が砂漠にたった一人でいることを否定しようと試み続けてきた。そして、たった一つの『孤独』という言葉を恐れ続けてきた。

 人と人との『間』を埋めることが出来るのは、友情でも愛情でも信頼でも絆でもなく、唯一『死』である。

 『死』のみが人と人との間に存在する果てしない暗黒の宇宙空間を埋めることが出来るのだ。

 幼児の頃に母と死別した凌一は、そのことを知っていた。

 父の心の中にはいつも母がいた。父とその心の中で生き続ける母に『間』は存在しなかった。二人を隔てるものは何もなかった。

 既に、全ての人間が、砂漠の中を一人で生きていることを認識している凌一にとって、『孤独』という言葉は何ら意味を持たない。



 事件の真相が解明されたためか、いつもの生活に戻れる目途が立ったためか、妙に日差しが明るく、爽やかに感じられる一日だった。凌一は高井田署に設置された捜査本部で、畑中優子による少女誘拐殺人未遂事件の残務処理を行い、午後、警察署に戻った。

 席に戻った凌一を見た課長の渡辺が、ぶっきらぼうに話しかけた。
「おい、今夜は付き合え」
タオルでズボンの裾を拭いながら凌一は渡辺に視線を送った。
「外はすごい雨ですが……」
渡辺は窓の外を見て、ややうんざりした表情を浮かべた。
「ゲリラ豪雨だろ、もうすぐ止むさ」

 刑事ドラマや推理小説で刑事課の課長というと、ニヒルでダンディな中年男性を連想してしまうが、渡辺は腰が低く愛想の良い、一見したところでは、個人商店の店主のように見える温和なおじさんだ。

「わかりました。ご一緒します」
 端正な笑みを浮かべて答えた凌一は、机の上に散乱した書類にざっと目を通していた。濡れた髪から一粒の水滴が落ちる。書類の上に波紋のようなシミが広がる。

 『今夜は付き合え』は、凌一が事件を解決するたびに発せられる渡辺の決まり文句だ。
 凌一より先に仕事を終えた渡辺は、デスクで夕刊を広げていた。口蹄疫の大規模感染やギリシャショックによる株価暴落問題などが大きく取り上げられている紙面上で、渡辺は小さな見出しの記事に見入りながら苦笑いを浮かべた。

 五月十八日、大阪府警運転免許課の職員、酒気帯び運転の疑いで現行犯逮捕。逮捕されたのは、大阪府警運転免許課の主任、寺前彰容疑者(六十一)。大阪府警によれば、寺前容疑者は、今朝七時過ぎ大阪市東淀川区で停車中のタクシーに接触する事故を起こし、警察官が調べたところ、呼気からアルコールが検出されたという。寺前容疑者は、門真市の運転免許試験場で免許の更新手続きなどを担当していた。

「運転免許試験場勤務の警官が酒気帯び運転で逮捕か……」
「えっ?」

 渡辺のつぶやきが聞き取れなかった凌一は、顔を上げて渡辺に視線を向けたが、新聞に遮られて渡辺の顔は見えない。

「どこまで腐れば気が済むんだ? 警察ってとこは……」
「はっ?」

 凌一は再び渡辺に視線を向けたが、相変わらず渡辺のつぶやきは聞き取れない。新聞に遮られて凌一からは見えない渡辺の顔に、まるでバラバラに撒き散らかされたジグゾーパズルを呆然と眺めるような失望感がにじみ出ていた。
三年前、ここに真美警察署が開設されるまで、渡辺は奈良県警警察本部の捜査一課に勤務していた。

 銀行強盗、営利誘拐、連続放火、保険金殺人等の凶悪事件が毎日のように発生し、その捜査に忙殺されていた若い頃に比べれば、閑静な新興住宅街に新設された小さな警察署の刑事課など、渡辺にとっては、のどかでのんびりした仕事だった。若い頃の眼光鋭い敏腕刑事の面影は、今の渡辺から垣間見ることは出来ない。

 白いブラインドに遮られた斜陽が次第に暗くなり、凌一は腕時計を見た。彼のプロトレックが手首をくるりと回り、文字盤が下を向いた。
(ここ二ヶ月は、まともに食事もしてなかったからな……)

腕時計のバンドを締め直している凌一に渡辺が声をかけた。
「そろそろ行くぞ」
二人は渡辺の行きつけの小料理屋に向かった。

 雨あがりの夜空は澄みわたり、空気が乾燥していて、肌寒くさえ感じられた。もともと暑がりの凌一にとっては、ちょうど良く感じるくらいの気温だったが、渡辺はスーツの上から薄いグレーのコートを羽織っていた。

 途中、街灯の蛍光灯が切れかけてチラチラと点滅していた。
 凌一はその街灯を見上げた。
「そろそろ寿命ですね」
「ああ、そろそろ寿命だ。もう個人の努力ではどうにもならんほど腐りきってる」
凌一には渡辺の言葉の意味がわからなかった。

 その小料理屋は、真美警察署が開設される前からそこにあった店で、真美署の前の名もない小道を真っ直ぐ北に五~六分歩き、国道一六五号線の横断歩道を渡ったところにある。

 駐車場も二台分しかなく、カウンター席だけの小さな店だが、店内は、いつも清潔に磨きあげられ、おかみの女性らしい細やかな心遣いが、いたるところに感じられる店だった。

 四十代後半くらいの小柄で細身なおかみが作る手料理は、やや甘口で渡辺の口に合うらしく、渡辺に誘われた時は、決まって来る店だった。

 二人が引き戸を開けて店に入ると、料理の下ごしらえをしていたおかみが顔を上げた。
「あら、お二人さん、随分お久しぶりね」

 二人は店の一番奥まで進み、渡辺はコートを脱いで、カウンターの後ろのハンガーにかけた。
席に着きながら渡辺が穏やかな笑みを浮かべた。

「そういえば結構ご無沙汰だったかな? 私は日本酒。燗でもらおう。料理は任せるよ。明日野、君はビールだったな」
「はい。私はビールしか飲みません」

 渡辺は凌一の横顔をチラッと覗き、その少し浮かない表情を見た。
「畑中優子のことが気になってるんだろう」

 凌一は、少しうつむき加減になり、首を横に振った。
「彼女の人生です。私には何もしてあげられません」

 渡辺は、一杯目を口に含んだ。
「皮肉なものだな。性格的には離島の駐在さんでもやってるのが一番お似合いなお前が、刑事課とはな……」

 それを聞いた凌一が苦笑いを浮かべた。
「離島の駐在さんですか? 確かに私にはお似合いかも知れません。ただ、残念ながら海なし県の奈良県警では、志願しても離島の駐在さんにはなれませんね」

 渡辺はフッと小さく笑った。それから少し複雑な表情を浮かべた。
「俺の時代とは随分変わった。俺の若い頃は、警察も犯罪者もイケイケの時代で、ハイ逮捕、次行こう。ハイ逮捕、次行こう。そんな感じだった。犯人や被害者の心情に思いをめぐらせてるような暇なんてなかったよ。あの頃の我々は、刑事というより、逮捕屋だったな」

 昔を懐かしむ渡辺の横顔を見つめながら、凌一は小さく首を傾げた。
「今の課長を見てると、そんなふうには見えませんが……」

 渡辺は、おかみが差し出した付出しを少しつまんだ後、杯の酒を一口飲んだ。
「年をとってわかるんだよ。みんな。そして今の俺が感じてるような、ほろ苦さを味わうのさ。自分の捜査の結果、犯罪者は更正せず、それどころか再犯を繰り返し、被害者は必要以上に不幸になる。明日野、お前が、今、苦しんでるような感情は、刑事にとって、とても大切な感情なんだ。ところが、若い間は、往々にして事件の真相を究明し、犯人逮捕の手柄をたてることに躍起になる。いいか、刑事はゴキブリホイホイじゃない。犯罪捜査は、人間の人生を大きく左右するんだ。善良な市民の人生を大きく狂わせることだってありえる。明日野、つらいだろうが、苦しめばいい。俺はお前のようなアマちゃん刑事を応援してるぞ」

「ありがとうございます」
凌一はジョッキのビールを半分ほど飲んだ。

 凌一は、料理を作るおかみの両手をじっと見つめていた。小さな白い手だった。幼児の頃に母と死別し、母の手料理を知らない凌一には、それが何とも言えず、切ないものに見えた。

 凌一はじっと自分の両手を見た。手のひらから湧き出るように次々と父との思い出が蘇った。あまりにも鮮明な思い出の走馬灯に、凌一はしばらく沈黙した。

 父はこんなゴツゴツした男の手で、あんなに温もりのある優しい手料理を僕に作ってくれてたのか? 料理って不思議だな。仕事だって、スポーツだって、趣味だって、みんな自分のために努力して上手くなろうとする。ところが料理だけは、自分がおいしいものを食べたいために、努力して上手くなる人がどれだけいるだろうか?
料理だけは、人においしく食べてもらうために努力し、工夫し、上手くなるんだ。父は、僕においしいものを食べさせるために、ゴツゴツした男の手で、一生懸命料理を作ってたんだろう。そして、今、おかみは、自分たちにおいしいものを食べさせるために、小さな白い手で料理を作ってる。人間ってやっぱり、他人のために努力できる動物なのか?
凌一は、そんなとりとめもないことに思いをめぐらせていた。

しばらくの沈黙を渡辺が破った。

「明日野、実は前からお前に訊いてみたかったんだが、お前は京大なんか卒業しながら、何で警察官僚にならずに、現場の警察官を選んだんだ?」

凌一は、苦笑いを浮かべた。
「先日、深浦にも同じ事を訊かれました」

少し考えて凌一が重い口を開いた。
「課長は、私が民間企業からの転職組なのはご存知ですね」

「一流企業を一年で退職したんだろ?」
「そうです、私はお金儲け以外のために働きたかったんです。課長は民間企業のことはあまりご存知ないかもしれませんが、民間企業は、基本的に、お金儲けのためだけに存在します。それ以外の存在理由はありえません。それが資本主義です。お金は全てに優先する。それが資本主義の基本理念です。ですから、社員はいくら会社の利益に貢献したか? それだけで評価されます。
どんなに立派なへ理屈をこねたところで、民間企業の社員は、企業の儲けの道具に過ぎません。恥ずかしいことですが、私は就職するまで、そのことに気づいてませんでした。いえ、そのこと自体は知ってたんですが、私は、金儲けに情熱を燃やすことが出来ませんでした。金儲けのために頑張ることが出来ませんでした。
私は、他のことのために頑張りたかったんです。その時、警察官募集のポスターを見たんです。そのポスターを見た時、私には市民の安全を守るために働いてる警察官の制服が輝いて見えたんです。私は今、何の因果か刑事課にいますが、私が憧れたのは、優しくて親切な交番のお巡りさんです」

「でも、民間企業の社員だって、社内で昇進したり、ヒット商品を飛ばしたり、いろいろ生きがいを持ってやってるんじゃないのか?」

渡辺の疑問に凌一が大げさにうなずいた。
「それはそうです、民間企業だって、人間関係はありますし、倫理観もあります。売り上げに貢献すること自体に生きがいを感じてる人だってたくさんいますし、たいした成績もあげていないのに、人望があるとか、マネージメントが上手いとか、そんな理由で出世する人もいます。ゴマすりだけで出世する人もいるでしょう。でも、結局会社は、それによっていくら利益が出たか、そこしか評価しません。最後は金額に換算されてしまうんです。
私は共産主義者じゃありませんが、今のような市場原理主義は好きになれません。最近、よく勝ち組とか負け組みとかいう言葉を使いますよね。私は、人生の勝ち組、負け組みは収入だけでは決まらない。もちろん、収入は多いに越したことはありませんが、他にも大切な要素がたくさんあると考えています。いやそう信じたいんです。

 原始人の時代から人間は生きるために働いてきました。生きるために仕方なく働いてきたんです。ところが、最近の仕事が生きがいとか言う人種は、働くために生きてます。企業の金儲けの道具となることに生きがいを感じてます。私には、それが本当の人間のあるべき姿とは思えないんです。

 今の私らの仕事は犯罪捜査ですが、私は交番の前に立って、通行人に道を教えたり、迷子の子供を探したり、そんな仕事をしてた交番巡査の時代が一番性に合ってたんです。

 課長は、私が片親育ちだから苦労人だと思っておられるかもしれませんが、とんでもない。私は苦労知らず、世間知らずの無菌培養で育てられたんです。父は、母親がいないことで私が寂しい思いをしないように、必死で父親と母親の二役を演じました。そして、それを見事に演じきりました。家は貧しかったですけど、父は家の貧しさを私には絶対見せませんでした。世の中の汚さも絶対見せませんでした。だから私は世の中の汚さを知らずに育ちました。私は、とんでもない温室育ちの世間知らずです」

「俺にはお前の清廉潔白さがうらやましい。明日野、いつまでも無菌培養の温室刑事でいろ。警察にはいろんな人間が必要だ」

それを聞いた凌一がはにかみがちに微笑んだ。
「ありがとうございます」

 その夜、渡辺は今まで黙っていた若い頃の経験をいろいろ聞かせてくれた。最後に渡辺がポツリと訊いた。
「お前、射撃の訓練はしてるのか?」
「はい、ある程度は……」

 突然の質問に、凌一は、戸惑いながら答えた。質問が質問だけに、凌一は周りの視線を気にした。まだ時間が早かったせいか、その時、店内には彼ら以外に客はいなかった。

 渡辺は、杯にじっと目をやりながら話を続けた。
「テレビを観てると、時代劇というのは面白いよな。勧善懲悪で善玉が悪玉をバッタバッタと切り捨てる。実に痛快だ」
「はあ……」凌一には、渡辺の話の真意がわからず、そんな、なま返事になった。
「時代劇では刀を持った悪者が主人公に襲いかかる。主人公は、それを華麗にかわしながら悪者を斬り捨てる。単純明快だ」
「そうですね」

 とりあえず相づちを打った凌一に、渡辺は、少し酔ったのか、焦点の定まらない視線を向けた。
「今はどうだ。ナイフを振り回して襲いかかる犯人はいるが、それをバッタバッタと斬り捨てる警官はいない。時代劇が痛快なのは、善玉がためらいなく悪玉を斬り捨てるシーンがあるからじゃないか?」

 凌一は、残りのビールをグイと一口飲んだ。
「今でも警官が凶悪犯を射殺することはありえますが……」
「そんなことが年に何回ある? 実際は、威嚇のために一発発砲しただけで、警官はマスコミに袋叩きにされ、上層部はその釈明に追われる」
「そうですね」凌一がポツリと答えた。

 渡辺は酒で少し眠気がさしているのか、小さなあくびをして話を続けた。
「アメリカ映画も面白いよな。犯人と警官の撃ち合いのシーンは特に面白い。日本はどうだ? 銃を持った犯人なんかほとんどいないし、警官と撃ち合いになることなんかまずないだろう。アメリカには、銃を持った悪い奴はたくさんいるし、警官も銃を持った犯人には、ためらわず発砲する。だからアメリカ映画は面白いんじゃないか?」
「アメリカ映画ですか…… 確かに発砲シーンは多いですね」
「時代劇にしてもアメリカ映画にしても、視聴者は、悪者が容赦なくぶっ殺されるシーンを見たいんじゃないか?」
「そうかもしれませんね……」凌一は、残りのビールを飲み干し、おかわりを注文した。

 渡辺が手酌酒をグイと飲んだ。そして吐き捨てるように言った。
「今の日本はどうだ? 警察はいつもマスコミの目を気にしながら捜査し、裁判は被告の権利ばかりに気を遣ったあげく、何年もかかってうやむやだ。書店に行って推理小説のコーナーを見てみろ。事件の真相を究明するのは、たいてい私立探偵や科学者か、それとも女弁護士だ。警察なんて間抜けなピエロ役さ……」

「……」
 凌一には適当な返事が思い浮かばなかった。ミステリーや推理小説を読まない凌一には、今、どんな本が書店に並んでいるのか想像出来なかった。

宮崎勤による幼女連続殺人事件。
週刊文春が『野獣に人権なし』として、異例の実名報道に踏み切った少年四人による女子高生コンクリート詰め殺人事件(誘拐・略取、監禁、強姦、暴行、殺人、死体遺棄)。
オウム真理教による地下鉄サリン事件。
酒鬼薔薇聖斗による神戸小学生連続殺傷事件。
佐藤宣行が当時小学四年生だった少女を拉致し、母親と同居している自宅に九年二ヶ月に亘って監禁した新潟少女監禁事件。
家族に殺し合いをさせ、児童にまで殺人や遺体の解体を行わせた松永太らによる北九州監禁殺人事件。
宅間守による附属池田小事件。
秋葉原無差別殺傷事件。
木嶋佳苗による埼玉連続結婚詐欺・殺人事件。

 今は、現実の世界で起こっていることが恐ろしすぎて、小説の世界など全くそれに追いついていない。

 そもそも本物の猟奇的な人間が犯す犯罪など、健康な良識人である作家に想像できるはずがない。
 ゴッホが残した数々の独創的名画は、彼が自分の耳たぶを切り取り、それを女友達に送り付け、精神病院に入院させられたような人物だから描けたのだ。

 推理小説の話題になって、凌一が思い出したのは、スティーヴン・キングの『シャイニング』だった。この作品では、平凡な家族の何の抑揚もない日々の繰り返しが描かれており、英語の原文を読む限り、そこには巧みな描写も奇想天外なドンデン返しも存在しないが、読み進むにつれ、読者は耐え難いような重苦しい恐怖感の蓄積を覚える。読み終えた時に感じる独特の戦慄は、生涯、忘れられないものである。

 この小説は、一読すると、フィクションのホラー小説のように思えるが、実は当時アメリカで深刻な社会問題となっていたアルコール依存症と家庭内暴力を題材としたものである。
アメリカというとレディファーストの国と思っている人もいるだろうが、現在でもアメリカにおける家庭内暴力はすさまじく、その苛烈さは日本の比ではない。

 『冬のソナタ』を観て、韓国男性に憧れる女性も多いが、旅行などで一度でも日本を訪れた韓国女性は、二度と本国に帰りたがらないことが多い。その理由は、『日本の男性は暴力を振るわないから』だと彼女らは言う。
『シャイニング』と同様の作風は松本清張の作品にも多く見られる。

 凌一がミステリーや推理小説を読まなくなったのは、現代のミステリーや推理小説が、ただ奇抜な殺人トリックとドンデン返しを競うだけのトリック・コンテストに成り下がったからである。本当の小説は、何度読み返してもそのたびに新しい感動と共感を与え、読者の笑い、歓喜、恐怖、緊迫感、そして涙を誘うものであり、その点において純文学とエンタメの区別はない。

 凌一やそれ以下の年代の若者には、『活字離れ』が進行していると言われるが、それは逆で、現代の若者は活字に飢えている。そして、彼らが漫画やブログ、ライトノベルに走るのは、書店に平積みされているメジャーな小説よりも、それらの方が、はるかに繊細に人間の機微や情感を描いているからである。

 渡辺はおかみが差し出したワカサギのてんぷらをポリポリとかじった後で、急に真剣な顔になり、鋭い視線で凌一を見つめた。

「明日野、お前は違う。お前はピエロじゃない。ただ、これだけは言っておく、警察官である以上、お前もいつか人を撃つことになるかもしれない。そして、お前は絶えずそれを意識して生きていかなければならない。その時、お前が引き金を引くことをためらえば、そのために何の罪もない市民に被害者が出るかもしれない。いいか、警官は護身のために拳銃を持っているわけじゃない。拳銃は凶悪犯から市民を守る盾なんだ。わかるか? その時が来たら、ためらわず撃て」

「はっ、わかりました」
凌一は少し体を硬直させた。

 しばらくの沈黙があった。おかみは、二人に刺身の盛り合わせを差し出した。渡辺はそれを適当につまみながら徳利のおかわりを注文した。

 実際のところ、凌一には射撃の腕など全く自信がなかったし、凌一のような私服員は、普段、拳銃を携帯していないので、自分が人を撃つ時が来るなど、真剣にイメージしたこともなかった。凌一は、空手や柔道はするが、それは父から教わったもので、特に道場に通ったわけではない。

 警察学校では、剣道も逮捕術も習った。でも、その技量は、警察官としては合格最低点レベルのものだった。
凌一には自分が警察学校を無事卒業できたことすら奇跡に近いことに感じられていた。凌一にとって警察学校は、まるで猛獣の檻のようなところだった。それでも年配の警官に聞くと、昔に比べれば随分ましになったのだそうだ。あれでましになったと言うのなら、それ以前は、いったいどんなところだったのか? 想像しただけでも凌一は背筋が寒くなる思いがした。

 多分、警察学校を経験したことがある人なら誰でも、みな口をそろえて刑務所よりも酷いところだと言うだろう。凌一にはそう思えた。

 そんな凌一でも犯罪者に怯むことなく立ち向かうことが出来たのは、凌一が彼独特の『妖術』とも言える武術を持っていたからである。

 彼の武器は、教師が使う指示棒のような伸縮式の棒の先に、十円玉程の大きさの鉄球を付けたものである。それは、伸ばせば1メートルほどの長さになるが、縮めれば、胸のポケットに収まる程度の長さになる。
 凌一は、その棒を『パールスティック』と呼んでいた。文字通り先っぽに真珠のような球がついた棒という意味である。しかし、彼の同僚は、それを凌一の『妖刀』と呼んでいた。

 凌一は犯人に抵抗された時など、ポケットからパールスティックをすばやく取り出し、それをムチのように操って犯人の痛点を一撃する。痛点は急所とは違う。急所とは、そこを攻撃されると生命に関わるような部分である。凌一が攻撃する痛点とは、向こうずねや耳の付け根のように強烈な痛みを感じる部分である。

 実際にその姿を見た者は、同僚の深浦と久保の二人ぐらいだったが、凌一がパールスティックを巧みに操り、相手の攻撃をかわしながら痛点を攻撃する姿は、まさに妖術だった。

 凌一がその妖術をいったいどこで会得したのか知る者はいなかった。凌一自身もそれだけは絶対に教えられないと思っていた。それを絶対に教えられない理由は、同僚が想像していた理由とはかけ離れたことだった。

 渡辺のためらわず撃てという言葉には深い理由があった。
その理由を渡辺は、微笑みながらクイズに置き換えて話した。

「大勢の悪者がちりぢりバラバラに逃げたとする。捕まえられるのは、その中の一人だけだ。お前なら誰を追う?」
「一番悪い奴です」凌一はそう答えて、ビールを一口飲んだ。
「違う。お前に追われるのは一番ついてない奴さ」
そう言って渡辺は笑った。そして話を続けた。
「だがな、中にはついてない刑事もいるんだ。ついてない刑事は、銃を持った奴を追うのさ」

それまで、いそいそと次の料理を作っていたおかみが手を止めて訊いた。
「村田さんのこと?」

 渡辺の親友だった村田という刑事が、犯人に撃たれて殉職した話は、凌一も聞いていた。村田は犯人に向けた銃の引き金を引くことを躊躇したのである。

凌一の妖術のことをうわさだけ聞いていた渡辺が訊いた。
「お前の妖術は、鉄砲玉まで撃ち落とせるわけじゃないんだろ?」
「ええ、まあ、確かに……」
凌一の『妖刀』が飛び道具にもなることは誰も知らなかった。

 二人は店を出た。空を見上げると、満天の星空が広がっていた。凌一は、その中でひときわ大きく輝いている星を見つめた。以前、真穂に言った『悲しい事件の後は、星の光が冷たく見えるんだ』という言葉を思い出した。
凌一の視線の先にある星は、冷たい光を放っていた。

 父に連れられて三陸海岸の星空を見たことがある凌一は、本当はこの程度の星空じゃ、とても満天の星空とは言えないことを知っていた。

 安物のプラネタリウムを満天の星空と信じて生きている自分たちを凌一が哀れんだ。
「これが私たちの星空なんですね」
「そうだ。これが我々の星空だ。でも香芝には空があるだけありがたいと思え。智恵子は東京には空がないと言ったんだぞ」
(智恵子抄の一節か。課長には僕の話の意味がわかったんだ)
凌一は、渡辺の文学的な答えを聞いてチョッピリ感動した。

 真美警察署は、大都市大阪に隣接するベッドタウンとして、近年急速に人口が増加しつつある奈良県香芝市に三年前新設された出来たてホヤホヤの警察署である。

 日本の人口は既に減少に転じ、奈良県の人口も平成十一年をピークに減少しつつある中、香芝市は突出した発展を続け、平成十七年に人口増加率日本第三位を記録して以降も、高い人口増加率を維持し続けていた。
 人口が増えれば、それに比例するようにして増加するのが犯罪である。真美警察署は、そうした状況の中で必要に迫られて設立された警察署であり、当然、署員は、他署から赴任した寄せ集め集団だった。
新築ピカピカの建物の中には、他の警察署と同じように、警務課、交通課、警備課、地域課、刑事課、生活安全課など、それらしい部署が設けられた。

 警察署というと、古い、汚い、怖いという三拍子揃ったイメージがあるが、新築ピカピカの真美警察署は、その内部も清潔で最新の設備が整えられていた。



 現在、警察や警察官の仕組みとその実態を詳細に解説した書籍が多数出版されているが、警察の仕組みや実態をを知るために分厚い本を熟読する必要はない。それを知りたければ、サルマワシとサルの一座を想像すればよい。

 元来、警察官という職種は、一流大学を卒業した優秀な人材が希望する職業ではないし、そんな人材なら警察官にはならないで、警察庁に就職して警察官僚になる。誤解している人も多いようだが、警察庁の警察官僚と警察署の警察官は、全く別の職業である。国家公務員である警察庁の警察官僚は、あくまでお役人であって警察官ではない。一方、警察署の警察官は、ごく一部のお偉いさんを除けば、地方公務員である。

 これは東京の警察である警視庁でも同じことで、本来、警視庁は、大阪府警や奈良県警と同じように東京都警と呼ぶべき組織である。国家公務員I種試験に合格して警察庁に就職した警察官僚と各都道府県の警察官採用試験を受けた警察官とは、偏差値のレベルが全く違う。このうち、偏差値が低い方である警察官など、もともとエリートが目指す職業であるはずがない。警察官とその集団である警察署は、あくまで、サルの群れとそれを扱うサルマワシである。日本ザルは、哺乳類の中でも比較的知能が高い動物かもしれないが、その程度は、イルカやオウム以下であり、同じサルでもオラウータンやチンパンジーには遠く及ばない。一方、サルの群れを操るサルマワシも決して一流大学を卒業したエリートたちが望む職業ではない。

 一般に、知的レベルの低い動物の群れは、上下関係や戒律に厳しく、これはサルの群れにも当てはまる。厳しい掟を作らなくては群れとして機能しなくなるためである。警察も同様である。警察の内部でも上司や先輩には絶対服従の掟があり、上司や先輩にはひたすら従順に従い、その前ではキビキビ行動しなければいけない。この様子は、北朝鮮の軍事パレードを想像すればよい。金正日総書記が見守る前で一糸乱れぬ行軍を見せる北朝鮮軍の様子は、警察学校の行進訓練と同じである。ここで注意すべきことは、一糸乱れぬ行進が出来るからといって、必ずしも北朝鮮が戦争に強いとは限らないということである。戦争に勝つために必要な要素は、工業生産力と情報収集力、戦略・戦術計画力や経験・状況判断力、豊富な資源と食料であり、行進の美しさではない。これらの要素を満たしていない限り、軍隊も警察も所詮、サルマワシとサルの一座に過ぎない。

 サルマワシたちは、お客様に喜んでいただける芸をサルにさせるため、サルの群れを徹底的に厳しくしつけ、自分がボスであり、自分の命令には絶対服従しなければならないことをサルに覚え込ませる。警察署のサルマワシである課長や係長も同じことをする。

 一方、イルカの調教師には、イルカを徹底的に厳しくしつける人はいない。イルカに見事な演技をさせるために必要なのは、愛情と教育であって、厳しいしつけではない。もともと知的レベルが非常に高い動物であるイルカに演技を教えるためには、自分の命令には絶対に服従しなければいけないことを覚え込ませる必要などないからである。
ところが、何の間違いか、この出来立てホヤホヤの警察署である真美警察署の刑事課の課長には、サルマワシに見立てるにはあまりにも優秀なベテラン刑事である渡辺が着任した。そして、渡辺の指揮下には、谷川、明日野、久保、深浦、島(婦人)という五人の刑事が配された。

 島は婦人警官ではあるが、私服員なので、世間でいうところの女性刑事にあたる。本来、刑事というのは、私服を着た警察官を指す俗語であり、警察には刑事という役職は存在しないので、実際には彼らは全員、私服を着た捜査員である。大ベテランの谷川を除けば、あとの四人は、刑事経験数年の若手である。

 さっきの小料理屋での会話を聞けば、渡辺も明日野も決して、サルマワシとサルと呼ばれるようなタイプではないということがわかる。

 明日野凌一は、もともと制服警官を希望して奈良県警の採用試験を受けた。
 その彼が今、刑事課にいるというのは、悪い偶然が重なった結果という他になく、彼にとっては、ひどく迷惑な話だった。学生時代から秀才だった凌一は、今までに受験した昇任試験は、全てトップの成績で合格していたし、筆記試験が得意だった凌一にとって、警察の筆記試験などは、わざわざ勉強する必要もないようなくだらない常識問題に思えていた。

 また、天性の非凡な洞察力・観察力の持ち主だった凌一は、交番巡査の時代から、着々と犯罪検挙実績をあげていた。

 その中でも際立ったものは、平成十六年に奈良市内で発生した少女誘拐殺人事件の初動捜査段階において、凌一が収集したさまざまな情報であり、これらはいずれも犯人逮捕につながる極めて貴重な証拠となった。捜査本部が置かれるような重大事件で、当時、新米の交番巡査に過ぎなかった凌一が、次から次へと有力な捜査情報を拾いあげて来たのであるから、(こいつは犯罪捜査のセンスがあるな……)とお偉いさんに見初められてしまったとしても致し方ないことだった。

 凌一が次々と犯罪検挙の実績をあげてきたのは、別に昇進したかったからでも刑事になりたかったからでもない。そもそも地方の所轄署では、刑事課を希望する者は少ない。その理由は、仕事がきつい割には見返りが少ないからである。

 所轄署の刑事課は、都道府県警察本部の捜査一課とは異なり、重大事件だけを扱っているわけではない。スリ、置き引き、引ったくり、覗き、コソドロ、恐喝、痴漢など、凡そ刑事犯に該当する犯罪は何でも扱わないといけない警察署内の雑用係である。

 民間企業の世界と同じで、警察官の世界でも、今は、昔と違って、出世命で昼夜を問わず働いているような者は少ない。

 今は、『仕事と趣味の両立』だとか、『家事や子育ての分担』だとか、そんなことを実現している男のほうが『かっこいい男』と呼ばれる時代なのだ。

 凌一の場合は、特に趣味に時間を割きたいわけでも、家事や子育てに協力的だったわけでもなかったが、ただ、交番のお巡りさんという仕事に不満があったわけではないので、ずっとそれを続けていたかったのである。

 彼にとっては、血なまぐさい事件の捜査をしている今よりも、交番で道案内をしたり、迷子の子供を探したりしている方が性に合っていた。凌一は、悪を憎む正義感も犯人逮捕に執念を燃やすような情熱も持ち合わせていない『サラリーマン刑事』だった。ただ、悲しいかな才能があるために、別に探してもいない犯人を捕まえてしまうのである。

 同僚の中にはそんな凌一を『しらけ野郎』と呼んで蔑む者もいたが、彼のずば抜けた犯罪検挙実績は、そんな妬みによって足を引っ張ることが出来るようなものではなかった。



 真美署に隣接する高井田署に設置された少女誘拐殺人未遂事件の捜査本部。そこに派遣されていた凌一が逮捕した畑中優子は、現場検証の後、取調べに素直に応じ、容疑を全面的に認めた。これにより、既に送検され、身柄を拘置所に移されていた義父の畑中幸一は釈放された。優子は、少年法により、家庭裁判所の審判を仰ぐことになるか、それとも凶悪犯として検察に逆送されるか、裁判所の判断を待つことになった。

 取調べ中の優子は、同じ言葉を繰り返した。
「死んでも償えないことは承知しています。でも他に償いようがないので死刑にして下さい。八つ裂きにして下さい。ただ、もし許されるなら、死刑になる前に、ひと言、少女のご両親にお詫びする機会を与えて下さい」

 鑑別所の中で、優子は、ただひたすら窓の外を向いて、時折うつむきながら大粒の涙をこぼしていた。優子には自殺の恐れありとして、特別な保護司がつけられていた。

 ある日、凌一は、優子の両親である畑中夫妻を連れて、被害者の少女が入院している病院を訪れた。どうしても少女の両親に会って、娘の罪を詫びたいという畑中夫妻の希望を被害者の両親である藤井夫妻が受け入れたのである。
畑中優子により誘拐され、首を絞められたことにより、昏睡状態が続いていた少女は、既に意識を回復し、病院内を走り回るぐらい元気になっていた。PTSDなど、精神的な後遺症も、ほとんどないとのことだった。少女の両親は、当初、畑中夫妻の謝罪を拒絶する意向を示していたが、捜査中の凌一の誠実な対応には、感謝していたため、凌一に頭を下げて頼まれると、態度を軟化せざるをえなかった。

 病院の面会スペースで、少女の両親と畑中夫妻が向き合った。殺人未遂犯の両親と被害者の両親が向き合う姿に直面した凌一は、四つの蒼ざめた唇から発せられる言葉に身を切られる覚悟を固めた。

 凌一が両者を紹介した。
「畑中さん、こちらが藤井ゆいちゃんのご両親です」

 畑中夫妻は、いきなりその場に土下座した。幸一が、床に額をこすりつけて謝罪した。
「今回、私どもの娘が、しでかしましたこと、親として、死んでも償えないほどのことだとは存じております。死ねと言われれば死にます。娘にも一生かけて償いをさせます。ですから、どうかお怒りを静められ、私どものお詫びをお受け入れ下さい」

 藤井夫人が凌一の方をチラチラ見ながら、困惑した表情を覗かせる。
「どうかもう、手をお上げ下さい。明日野さんから事情はお聞きしました。私たちはもう、今回のことは、交通事故に遭ったようなものだと考えております。娘さんが罪の償いを終えて戻られたら、どうぞ三人でお幸せになって下さい」

 藤井夫人は、畑中夫妻の手をとって、一通の封筒を手渡した。凌一が見ると、そこには減刑嘆願書と書かれていた。畑中夫妻は病院のフロアにポタポタと涙を落とした。
「ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」

 穏やかな凌一の笑みに安堵の色が滲み出る。
「藤井さん……ありがとうございます。畑中さん、よかったですね……」

 藤井夫人の声は明るい。
「さあ、もう私たちのことは結構ですから、娘さんを励ましてあげて下さい」

 畑中夫妻は何度も深々と頭を下げ、藤井夫妻のもとを離れた。
 帰りの車中、凌一が畑中夫妻に真剣なまなざしを向けた。
「畑中さん、さっき、あなた方は死んでも償えない罪だとおっしゃいましたね。獄中で優子さんも同じことを言っているそうです。でも、死んでしまったら償えないんです。優子さんも両親であるあなた方も、一生、罪の重さをひしひしと感じながら、強く、正しく生きていくこと、それが何よりの償いなんです。いいですか、優子さんの刑期が終えても、決してそれで罪の償いが済んだなどと思わないで下さい」

 神妙な表情を浮かべて答える幸一の瞳に、これから歩むべきイバラの道が映っている。
「重々承知しております。そのお言葉、肝に銘じて忘れません」
「だからといって、いつまでもメソメソしてたらいけませんよ。さあ、元気出して! 三人で再出発して下さい。私で力になれることがありましたら、いつでも連絡下さいね」

 声を震わせる幸一の唇が真実の感謝を発する。
「ありがとうございます。明日野さん、私たちは、あなたのご恩も一生忘れません」

 凌一は、畑中夫妻と別れた後、鑑別所を訪れ、優子に面会した。二人は、アクリル板を挟んで向き合った。
「やあ、優子ちゃん、少しは落ち着いたかい?」
「はい」
優子は視線を下に落としたままだった。

凌一の声は弾んでいた。
「今日はいいニュースがある」

優子が少し視線を上げた。
「私にいいニュースなんかあるんですか?」
「ああ、今日、君のご両親と少女の両親に会いに行ったんだ。少女の両親は、君の減刑嘆願書をくれたよ」

優子は、嬉しそうにはせず、再び視線を下に落とした。
「私には罪を減じられる資格はありません」

凌一が一瞬の沈黙を破った。
「そうだ。今の君には罪を軽くしてもらう資格はない。資格はこれから作るのさ。これから一生懸命反省して、立派な大人になることで、罪を減じられる資格を得るのさ」

優子の声は震えていた。
「私は死んでお詫びをしたいんです」

凌一が首を横に振った。
「死んだらお詫びは出来ない。君は、自分が犯した罪の重さを一生背負って、強く、正しく生きていくんだ。それが償いというものさ」

優子の声は消え入りそうだった。瞳が涙で潤んでいた。
「もし、私に生きることが許されるなら、一生かけて罪を償います」

優しく諭す凌一の顔から彼の繊細さが滲み出ていた。
「そうだね。でも、一生かけて罪を償うということは、幸せになっちゃいけないということじゃないんだ。将来、どんなに恵まれた生活を出来るようになっても、自分の過去を忘れ去っちゃいけない。君は一生それを背負って生きていかないといけない。犯した罪は刑期を終えてもチャラにはならない。僕の言うこと、わかってくれるね」

「はい、よくわかります。どんなに辛くても、苦しくても、一生、自分の犯した罪の重さを噛みしめながら強く、正しく、生きていくこと。その上で、幸せになれるよう努力すること。明日野さんのおっしゃること、死ぬまで守って生きていきます」

「そうだね。でも、今回のことで、君は本当のお父さんという宝物を得たんだ。悪いことばかりじゃない。しばらくはアクリル越しかも知れないけど、お父さんに思いっきり甘えるといい」

優子は初めて小さく微笑んだ。凌一が話を続けた。
「優子ちゃん、君にもうひとつ言っておきたいことがある。

 優秀という字は『やさしく秀でる』と書くんだ。つまり、優しさがなければ、秀でた人とは言えない。逆にも言える。秀でた人間にしか人に優しくすることは出来ないんだ。君の優子は『やさしい子』でもあり、『すぐれた子』でもあるんだ。君に優子という名前をつけたご両親の願いを忘れちゃいけないよ」

優子が凛と背筋を伸ばした。
「はい、決して忘れません」
「それじゃ、僕はこれで、また来るね」
優子が深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
凌一が軽く手を上げて立ち去ろうとした時、優子が呼び止めた。
「あの、明日野さん」
「えっ、まだ何か?」
「いえ、なんでもないんです……」



 畑中優子による少女誘拐殺人未遂事件は、凌一の心にも深い爪跡を残した。

 凌一は、栄橋の欄干に両手を添えて、川面を眺めていた。

 栄橋は凌一の自宅と最寄りの近鉄四位堂駅の間にあり、真美川の南北を結ぶ橋長約三十メートル、幅約十メートルの橋である。鉄筋コンクリート製だが、その表面は、石橋風に仕上げられており、なんとなくモダンで風情のある橋だった。

 真美川は幅約十メートル、大人なら中央でも背が立つ深さの清流であり、川の両側には、幅約十メートルの河川敷が広がっている。河川敷の上には、細い遊歩道がある。凌一は、考え事をする時、無意識に栄橋に来てしまう癖があった。

 両側の河川敷を群生した菜の花が幸せ色に染めていた。河原に咲くタンポポも幸せ色だった。
心地よいそよ風が凌一のほほを撫でた。

 沈みかけた夕陽がオレンジ色に染めた景色の中に凌一の姿が埋没して、まるで日に焼けた古い風景写真のようだった。

 春夏秋冬に明確な区切りはなく、自然の営みに始まりも終わりもない。なのに何故、人は春に特別なものを感じるのか? 春を起点に一年を考えるのか? 恋することを『春が来た』などと例えるのか?
(ひょっとしたら、立ち直るのに一番時間がかかるのは、藤井一家でも畑中一家でもなく、僕だったりして……)

 そんなことを考えながら振り返った時、目の前にフリーライターの真由美がいた。警察官とフリーライターという立場の違いはあるが、同じ事件を追うことが多かった二人は既に親しい友人になっていた。

 真由美が人懐っこそうな笑みを見せた。
「凌ちゃん、こんにちは、約束覚えてる? 事件が解決したら、取材させてくれるって言ったこと」
「やあ、真由美さん、こんにちは。でも、そんな約束しましたっけ?」

凌一のとぼけた答えを聞いて、真由美が少しむくれた表情 を見せた。
「確かに約束はしてないけど、ダメだとも言わなかったわよ。前にも言ったでしょ、最近売れる記事が書けないの。私を餓死させるつもり?」
「わかりました。近くにいい店があるんです。そこで一杯やりながらお話ししましょう」
「えっ本当? それ最高! 早く行きましょ」

 二人は、近くの洋風居酒屋に向かった。この店は四位堂駅前では一番の人気店で、まだ時間が早かったので、空席がたくさんあったが、八時頃には満席になる。

 何せ刑事とフリーライターの二人連れである。どんなヤバイ話題が出るかわからない。そう思った二人は、出来るだけ目立たないような奥の席に着いた。

 凌一はビールを、真由美はカルピスサワーを注文した。
「ここは、香芝で一番の人気店です。料理も結構いけますよ」

 真由美が大げさに嬉しそうな声を上げた。
「本当? 嬉しい、お腹ぺこぺこだし、このカルボナーラきしめん頼んじゃおうかしら」
「いいですね。それは、この店の人気メニューです」

 ウエイトレスが付出しとドリンクを運んで来た。
 真由美がカルピスサワーを一口含んた。
「前にも言ったけど、私が週刊誌で取り上げたいのは、単なる事件のことじゃなく、あなたという刑事のことよ、タイトルは、『悲しき狩人 ―真珠の剣―』」

 凌一が胸ポケットに手をあてた。
「真珠の剣ってパールスティックのことですか? 真由美さんの前でこれを使ったことなんかありましたっけ?」
「いいえ、でも、あなたのパールスティックは、ライターの中でも伝説の妖術よ。まるで木枯らし紋次郎の楊枝ね。だって、あれは飛び道具にもなるんでしょ?」

 凌一は、付出しを一口つまみ、ジョッキを片手に取った。
「真由美さん、随分古い時代劇を知ってるんですね。でも、木枯らし紋次郎は、楊枝を武器に使うことはありませんよ」

 真由美は、カルボナーラきしめんを一口含み、それを飲み込んだ。
「知ってるわよそんなこと。でも、なんとなくイメージが合うのよ。読者受けしそうだし…… 凌ちゃん、もっと料理を頼みましょうよ! 私、北海道産ホタテとタコの和風カルパッチョでしょ、それと国産牛のタタキでしょ、あと、たっぷりあさりのトマトソース焼きでしょ、それと生ハムとモッツァレラのカプレーゼでしょ、あと、ゴルゴンハニーチップスでしょ、あと…… 凌ちゃん、何か欲しいものないの?」

 凌一が首をかしげてクスクス笑った。
「僕が欲しいのは枝豆だけです。他の料理は真由美さんにまかせますよ。しかし、僕のパールスティックが木枯らし紋次郎の楊枝に見えますかねぇ……」

 真由美がまっすぐ前に視線を向けた。勇んだ口調だった。
「私は、本当の刑事のあるべき姿を書きたいの。警視庁捜査一課の頭脳明晰な『敏腕刑事』も犯人逮捕に情熱を燃やす『熱血刑事』もイヤ! もううんざりよ! だいたい大阪に住んでる私や奈良に住んでる凌ちゃんが、どうして一生関わることのないただの東京都警である警視庁の本を読まされ続けないといけないのよ! 日本には四十七も都道府県があるのに、彼らが管轄するのはそのうちのたった一つ、東京だけよ。

 神戸の酒鬼薔薇も、池田小の宅間守も秋田の畠山鈴香も和歌山の林真須美もそうだけど、マスコミが大騒ぎするような猟奇的な犯罪が起こるのは、そのほとんどが他の道府県よ。警視庁なんかに用はないのよ。

 都道府県警察本部の捜査一課もイヤ、あいつらに興味があるのは自分の犯罪検挙点数だけじゃない? 警官が点数制で評価されてるぐらい私だって知ってるわ。殺人犯逮捕の点数が一番高いことも。

 でも、あいつらが家族も省みず、人生の全てを捧げて高得点をあげたところで所詮は警視どまりじゃない。警視なんて民間企業の課長ほどの値打ちもないわ。所詮、警察庁や検察庁の高級官僚の小間使いよ。

 もちろん子供向けの刑事ドラマに出てくるようなやたらと拳銃を撃ちまくる刑事も、刑事コロンボみたいな、ねちこい親父刑事もダメ、若くて、繊細で、純真で、泥臭さのない、そんな刑事を書きたいの。私、あなた以外にそんな刑事を知らないわ。いえ、そんな刑事が本当にいるとは思ってなかった。犯罪者の悲しさや被害者の痛みがわかる刑事がいるなんて思ってなかった」

 凌一が少し照れくさそうにした。
「真由美さん。それは僕を美化しすぎですよ。僕は、しらけたサラリーマン刑事です」
「私の目は節穴じゃないのよ。あなたは、清廉潔白で心優しい、それでいて爪を隠したタカのように鋭い、そんな刑事だわ」

 凌一があきらめ顔をした。
「真由美さんには負けました。実名を出さないのなら、取材に協力しましょう」
「やったーッ。それじゃ早速、質問するわよ」
「いいですよ」

 真由美はカルピスサワーを一気に飲み干し、今度はライムサワーを注文した後、質問を始めた。
「凌ちゃん、最初に今回の少女誘拐殺人未遂事件の真相を教えて」

 凌一が苦笑いを浮かべた。
「そんなことは、もう真由美さんは知ってるでしょう」
「ええ、だいたいね。でも、捜査本部から孤立してまで畑中幸一の無実を信じて、真犯人の畑中優子をつきとめたのは、凌ちゃん、あなたでしょ。その本人の口から聞きたいのよ」

 凌一はしばらく沈黙した後、うつむきぎみに話を始めた。
「今、急増しつつある凶悪犯罪には二種類あります。

 一つは、宮崎勤による幼女連続殺人事件、酒鬼薔薇聖斗による神戸小学生連続殺傷事件に代表される児童を標的とした連続殺傷事件、もう一つは、宅間守による附属池田小事件、秋葉原無差別殺傷事件のような『誰でも良かった』、『死刑になりたかった』という目的の無差別殺傷事件です。どちらも幸せの階段から転がり落ちた、弱者の犯罪という面では共通しています。

 昔の日本は、一億総中流社会と言われ、福祉が充実した弱者に優しい国でした。働く意欲さえあれば、家庭を持って食べていくぐらいは何とかなる国でした。でも、小泉・竹中改革以降、貧富の差は拡大し、弱者は切り捨てられる社会になりました。一旦、幸せになる階段から転がり落ちた弱者は、もうネットカフェで暮らす日雇い派遣ぐらいしか生きるすべがなくなりました。

 今、急増しているのは、そうした社会的弱者が自分よりもさらに弱いものを襲う、いわば自爆テロです。
今回の事件は、当初、宮崎勤による幼女連続殺人事件と同種の変質者による連続犯となる可能性があるとみなされて、奈良県警が捜査本部を設置し、大がかりな捜査が行われた事件です。
僕も最初、少女を誘拐し、首を絞めた挙句に山林に放置するという手口から、犯人は変質者だろうと思ってました。

 そして、現場に残されていた遺留品から犯人と断定された畑中幸一が逮捕されました。本人も犯行を自白したんですから、逮捕されたのはやむをえないことです。

 でも、畑中幸一は裕福な自営業者だし、生活を調べても変な性癖も出てきませんでした。それに、少女が誘拐された現場、つまりあの特別養護老人ホームに祖母の面会に来るのは水曜日の午後だけです。

 畑中幸一はそれを知っているはずがありませんでした。あの特養ホームは偶然通りかかるような場所にはありませんから、僕は、犯人は少女が祖母と面会する曜日と時間帯を知ってた人物だと確信したんです」

 そこで凌一は一旦話を止め、タバコに火をつけた。
 真由美がグビグビとライムサワーを飲んだ。
「他の捜査員は、畑中幸一が犯人だと断定した。でも凌ちゃんには犯人は別人だという確信があった。だから凌ちゃんは捜査本部から孤立したのね」

 凌一が話を続けた。
「捜査本部というのは、ある特定の事件を解決するために編成される特別な組織です。私がいる所轄の刑事課などとは全く異種の恐ろしい軍隊のような組織です。一旦、捜査本部に配属されれば、その事件が終結するまで、三食もろくに取れず、遠方から配属された捜査員は、ろくに帰宅することも許されません。

 刑事だって人間ですから、早く捜査を片付けて家族のもとに帰りたい。普段の生活に戻りたいと願います。
有力な証拠が見つかって被疑者が特定できれば、その被疑者が犯人であって欲しいと願うんです。これは人間として仕方ない感情です。そうでなければ、捜査は一からやりなおしですから…… そうした理由で、本来、犯罪捜査に最も大切な客観性が失われていくんです。

 だから、警察は今まで多くの冤罪事件を生み出して来たんです」

「でも、凌ちゃんは畑中幸一を犯人だと断定しなかった。証拠もあり、本人も自白してるのに、真犯人は別にいると思った」
「そうです。真犯人は、少女が毎週水曜日の午後に祖母の面会に来ることを知ってた人物だと確信してたからです。
畑中幸一は、あの特養ホームとも被害者の少女とも関わりがなく、それを知ってるはずがありませんでした。
そして、少女が祖母と面会する曜日と時間帯を知ってた人物をピックアップしてるうちに、佐野明子というネットカフェ難民が浮かんで来たんです。

 佐野明子は、あの特養ホームで日雇いバイトをしてましたし、犯行現場から見つかった犯人の遺留品であるレシートが発行されたコンビニでもバイトしてました。

 畑中夫妻が三年前に提出した家出人捜査願に添付されてた写真を見た僕は愕然としました。それが佐野明子そっくりだったからです」

 ウエイトレスが次々と料理を運んで来た。二人はそれをつまみながら話を続けた。
「それで、凌ちゃんは、佐野明子が本当は、家出した畑中幸一の養女、畑中優子じゃないかと思うようになったのね」
「そうです。でも写真は三年前のものだったので、僕にも確信はありませんでした。年頃の女性は三年も経つと、かなり容姿が変わりますから…… でも、捜査を進めるうちに佐野明子と畑中優子は同一人物だと確信するようになりました」
「凌ちゃんは、養女の畑中優子が、義父の畑中幸一に少女誘拐殺人未遂の罪を被せようとした理由をどう考えたの?」

「ここからが事件の全貌です。
母親の恵子は、幸一と結婚する前、まだ本田恵子だった頃、女手ひとつで昼も夜も働いて優子を育てました。
そして優子は家事を手伝い、アルバイトまでして家計を助けてきました。
二人は貧しいながら、それなりに幸せに暮らしてたんです。
そこへ畑中幸一は、無一文で転がり込んで来ました。
そして、優子のたった一人の家族である恵子と結婚しました。
畑中幸一は優子から母を奪った。少なくとも優子はそう思いました。
優子はお母さんが死んだお父さんを裏切ったと思いました。

 優子には、幸一に尽く幸一と亡くなったお父さんを裏切ったお母さんのいる家に戻る気にはなりませんでした。

 そして、優子はコンビニでバイトをしてる時、偶然、客として店に来た幸一を見つけました。幸一は優子に気づきませんでした。優子は幸一の後をつけて、彼とお母さんが今のマンションで幸せに暮らしてることを知りました。
優子にはそれが許せませんでした。何とかあの二人を不幸にしてやろうと思いました。そして、幸一に少女誘拐殺人犯の罪を被せることを思いつきました。そうすれば、幸一もお母さんも不幸になる。優子はそう考えました。
優子は綿密に犯行計画を立てました。少女を誘拐し、殺害し、その現場に犯人が畑中幸一だと示す証拠を残す計画です。

 幸一には、普通の人ならその場で捨てるような小額のレシートでもスーツのポケットに入れる習慣がありました。優子はその習慣を利用しました。

 コンビニのレジは防犯カメラで撮影されてることを知ってた優子は、幸一が缶コーヒーとマイルドセブンを買っているレジの他のレジで、同じ商品のバーコードナンバーを打ち込み、偽のレシートを作りました。少女殺害現場に犯人の遺留品として残すためです。優子は、あのレジに缶コーヒーとマイルドセブンのバーコードナンバーを打ち込み、レシートを印刷した後、レジに取り消し伝票を打ち込んでいます。取り消し伝票を打ち込んだのは、店の収支を合わせるためです。

 そして、優子は、あの特別養護老人ホームへ行きました。

 以前から何度もあそこで日雇いバイトをしてた優子は、水曜日の午後に、いつもあの少女が祖母の面会に来ることを知ってました。犯行計画であの少女を誘拐することを決めてた優子は、以前からあの少女に優しくして少女とは親しくなってました。だから優子は簡単に少女をホームの外へ誘い出すことが出来たんです。車を運転できない優子には、少女を力ずくで誘拐することは出来ないからです。

 優子はホームの庭でタンポポを摘んでいる少女に、もっと綺麗なお花がたくさん咲いてるところがあると言って、ホームの外へ連れ出しました。ホームから現場までは、前の道路を歩くと一時間近くかかりますが、ホームの裏手の散策道を登って沢沿いに歩けば、ほんの十分程度です。

 上手い具合に、沢沿いにはタンポポや菜の花がたくさん咲いてたので、少女は喜んで優子について来ました。
そして優子は、あの茂みの前で、背後から、いきなり少女に土嚢袋を被せ、ロープで縛り上げました。
優子は少女を押し倒し、首を絞めました。もちろん殺害するためです。

 少女がぐったりしたのを見た優子は、少女が死んだと思い込みました。

 それから、優子は少女が性的悪戯を受けたことを装うため、少女の下半身を裸にし、局部を爪で引っかきました。
そして優子は、犯人が幸一だという証拠を残すために、わざわざ目立つところにあのレシートを捨てました。
それから優子は携帯で幸一に電話し、彼を現場におびき寄せました。

 長い間、優子を探し続けてた幸一は、優子からの電話を受けて、急いで林道の入り口までやって来ました。でも、いくら探しても優子がいないので、幸一はあきらめて帰って行きました。

 幸一は自営業で、留守中に会社にかかった電話は、自分の携帯に転送してました。幸一の会社の電話番号は、彼の会社のホームページに出てるので、優子は簡単に彼の携帯に電話できたんです。

 優子の計画通り、警察はあのレシートから幸一を割り出し、彼を被疑者として連行しました。優子の計画は成功しました。

 優子は例え警察が事件の真相を解明して真犯人の自分が逮捕されてもかまわないと思ってました。優子は例え義理でも幸一の娘です。そして、恵子の実の娘です。その娘が猟奇的な犯罪を起こして捕まったとしたら、その両親がどうなるか? どっちに転んでも両親はマスコミの餌食になる。自分か幸一、どっちが捕まっても計画は成功だ。優子はそう思ってたんです」

 真由美がポツリと言った。
「でも、優子が少女誘拐殺人事件の罪を被せようと思うほど憎んだ畑中幸一は、優子の義父じゃなかった……」

「そうです。
畑中恵子は、独身でまだ本田恵子だった頃、ある男性を好きになり、優子を身ごもりました。その相手の男性が幸一です。
でも、幸一には妻がいました。幸一は、恵子が身ごもったのを知って、なんとか前の奥さんと別れようとしました。でも、前の奥さんは離婚届にハンをついてくれませんでした。

 恵子は自分から身を引きました。そして女手ひとつで優子を育てました。でも幸一は決して恵子を忘れませんでした。財産をすべて前の奥さんに譲って離婚してもらい、懸命に恵子と優子を探しました。

 そして三年前にやっと二人を見つけました。恵子は無一文で転がり込んで来た幸一を受け入れました。
恵子は優子に、優子が私生児だと知られないため、お父さんは生まれる前に亡くなったと言ってました。そして、無一文で転がり込んで来た幸一が職に就き、立派な男性であることをわかってもらえるようになったら、本当のことを、幸一が優子の実の父親であることを話そうと考えてました。でも、その前に優子は家出しました。

 幸一は、優子を探しながらも必死で働きました。そして事業に成功し、裕福になりました。何のためか? 優子のためです。優子が帰って来たら、きっと幸せにしようと、彼は必死で働きました。幸一がやってもいない少女誘拐殺人未遂を自白したのも、娘の優子をかばうためです」

 真由美が心配そうに凌一を見つめた。
「事件の真相を知った時、凌ちゃんショックだったでしょう」

 凌一が苦笑いを浮かべた。
「警察を辞めようかと思いました。

 真由美さんが言うように、僕は『敏腕刑事』でも『熱血刑事』でもない、しらけた『サラリーマン刑事』です。
だから、県警本部の捜査オタクたちのような犯人逮捕に対する情熱も執念も持ち合わせてません。

 でも、善良な市民の安全で快適な生活を守りたい、いつも市民の笑顔に接してたい、彼らを悲しませる犯罪から守りたい。そう望む気持ちでは他の警官に負けてるつもりはありません。

 警察がそれすら守れない、ただの逮捕屋なら、僕はそんなところに興味はありません。

 本部の捜査一課の連中は、捜査本部では、いわば将校で僕たちのような所轄の刑事は、一兵卒に過ぎません。
 でも、捜査一課の連中は、ただ犯人逮捕の手柄が欲しいだけで、犯罪者の情状にも被害者の心情にも興味はありません。

 僕には、それが本当の警官のあるべき姿だとは思えない。思いたくない。僕は断じて『逮捕屋』にはなりたくない。そう、思ってます」

「凌ちゃんらしい考え方ね。でも、血のつながった本当の父である畑中幸一を義父だと思い込んで、両親を憎しみながらネットカフェで暮らしてた優子と、今の優子と、どっちが幸せだと思う? 何が良くて、何が悪いかは月日が経たないとわからないものよ」

凌一がうなずいた。
「そうです。何が良くて、何が悪いかは月日が経たないとわからないものです」



 しばらくの沈黙の後、真由美は話題を変えた。

「ところで、例の姉妹はどうなの? 二人とも凌ちゃんのことが好きなんでしょ。凌ちゃんは、どっちの娘が好きなの? 二人とも好きだなんて答えはなしよ」

 凌一が少し照れくさそうな表情を覗かせた。
「僕が、中井姉妹のところに通ってるのは、お姉さんの自閉症の治療に協力するための市民サービスです。何故か、僕と一緒にいると、お姉さんの症状が改善されるんです。あの姉妹は二人ともまだ子供です。僕は彼女らに異性感情は持ってません」

 それを聞いて、真由美は皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「かわいそうだは惚れたってことよ。少なくともあの姉妹は、あなたのことを慕ってるじゃない。私も女の端くれよ。とぼけたってダメなんだから……」

 凌一は、既に自分の心に、あの姉妹に対して、兄や友人としての感情ではない、異性としての感情が芽生えていることに気づいていた。凌一は返答に詰まった。
 
 真由美があきらめ顔でつぶやいた。
「まあいいわ、この質問だけは勘弁してあげる」

二人はしばらく無言で飲み続けた。
 
別れ際に真由美が訊いた。
「まだ、取材は終わりじゃないわよ。今度はいつ会ってくれるの?」
「まだ、捜査本部の残務処理が少し残ってるんで、手が空いたら、こちらから連絡します」
「わかったわ。早めにお願い」

凌一は黙ってうなずいた。
二人は別れを告げ、それぞれの家路についた。




第二章 真っ黒け事件




 明日野凌一は、二十九歳独身、真美警察刑事課の刑事だが、ここ二ヶ月は少女誘拐殺人未遂事件の捜査のために設けられた高井田警察の捜査本部に派遣されていた。
(あのくそったれ本部ともお別れだな…… もう県警本部の連中と仕事をするのはマッピラごめんだ。明日は絶対に真子と真穂に会いに行くぞ)
真由美と別れた凌一は、そんなことを考えながら帰宅を急いでいた。

 栄橋のたもとにさしかかった凌一が河原を見下ろすと、昼間、のどかな春の風情をかもし出していた菜の花やタンポポ、ノースポールやクローバーは、皆既に眠りについていた。

 花好きな人は皆知ることだが、野花は夜眠る。夜眠らないのは人工的に栽培され、改良された観賞用の品種である。
 野花の先を流れる真美川は、さざ波が街灯に照らされてゆらゆらときらめき、白黒の幻想的なコントラストを描いていた。
 凌一はほろ酔い加減で頭上を眺めた。星たちが、恥らうように薄雲の向こうからほのかな光を放っていた。
 視線を前に戻すと、前方の黒い塊が凌一の目にとまった。
(自転車か…… 無灯火だな)

「ん?」

 次の瞬間、凌一は何か不自然さを感じた。遠くのものが近づくに連れて、大きく見えるのは当然だが、そのスピードが自転車にしては速いのだ。

 瞬く間にその自転車は凌一の目の前に来た。凌一は自転車をよけようとしたが、運悪く自転車も同じ方向によけようとしたため、凌一とその自転車は接触した。

 「キキー」というブレーキ音と「バタン」という自転車の転倒する音がした。「キャッ」という女性の小さな悲鳴も聞こえた。凌一はあわてて転倒した自転車に駆け寄り、運転していた女性に声をかけた。ちょうど街灯の真下だったので、夜でもハッキリと女性の顔が見えた。お下げ髪が街灯の明りに照らされて艶めき、透けるように肌が白く、

 クリッとした小鹿のような瞳の愛くるしい女性だった。年齢は二十四~五歳に見えた。
(自転車でぶつかったのが縁で、若手刑事と可憐な美女の間に恋が芽生えたりしないかな……)

 男というのはどうしようもない動物だ。凌一の頭には、一瞬そんな不貞な妄想が浮かんだ。その途端、凌一は、とさかを立てて怒っている真子と真穂の顔を思い浮かべ、慌ててその妄想を打ち消した。
「大丈夫ですか?」

 凌一が声をかけると、女性は慌てて自転車を起こそうとした。歩道の手すりにハンドルが引っかかって、ハンドルは女性の手をすべり、自転車はもう一度倒れた。ハンドルがグニャリと変な方向を向いた。

 その女性はどこか打撲したのか、少し動作がぎこちなかった。凌一は黙って左手で自転車のハンドルを握り、右手で自転車のサドルをつかんで、一気に自転車を起こした。

 その女性は、その様子を黙って見守っていた。凌一が自転車のスタンドを立てると、女性が口を開いた。
「私は平気です」

 おとなしそうな女性だったが、その瞬間、凌一は、何か灯油のような匂いを嗅ぎ取った。その匂いが女性の衣服から出ているのか、自転車から出ているのかはわからなかった。

「平気なことはないでしょう。どこか痛いのなら、我慢せずに医師に診せたほうがいいと思います。自転車の転倒事故というのは案外、大怪我をすることが多いんです。近くに外科の救急外来があります。タクシーでお連れしましょう」
 
 その女性は、大きく首を横に振りながら、
「私は本当になんともありません。そちらこそ大丈夫ですか?」
「私は大丈夫ですけど、何をそんなに急いでるんですか?」
「そうですか、すいませんでした」

 女性は、凌一の問いには答えず、自転車にまたがり、ペダルを漕ぎ出した。やっぱり、どこか打撲したのか、ペダルの漕ぎ方がぎこちない。
「ちょっと待ちなさい」

 凌一の呼びかけに振り向きもせず、女性は去って行った。
 凌一はそれ以上追うことはせず、夜の帳に消えて行く女性の姿を見つめていた。

 凌一はしばらく栄橋の歩道に呆然と立ち尽くしていたが、我に返って身の回りを見回した。怪我はしていない。スーツが破れたりもしていなかった。

 凌一は振り返って再び帰路についた。凌一が住む単身者向けのハイツは、近鉄四位堂から歩いて十分程度のところにあり、栄橋はちょうど駅とハイツの中間あたりにある。ハイツから四位堂駅への通勤経路は、栄橋を渡る人通りの少ないルートと商店街の中を通るにぎやかなルートの二つがあるが、商店街を通るルートはかなり遠回りになるので、普段、凌一は栄橋を渡るルートを使っていた。

 駅から栄橋を渡ってかなり急な坂を上ると、中井姉妹の住む新興住宅街があり、閑静な邸宅が建ち並んでいる。一方、駅裏は宅地開発が始められる前から存在したと思われる古い町並みになっている。駅から栄橋付近までは繁華街である。

 凌一の住むハイツは、この繁華街と坂の上の新興住宅街の境界辺りに位置していた。



 凌一が栄橋を渡り切った交差点を左折して、自分が住むハイツが見えるぐらいのところまで来た時、付近の月極駐車場に駐車してある車から、パチパチと閃光のような光が発せられているのが目にとまった。タイヤを燃やすような焦げ臭い匂いがした。他の車に隠れてよく見えないので、凌一は駐車場に入り、奥を見わたせるところまで歩を進めた。一番奥の車から黒煙が上がっていた。

(火事だ!)
 
 そう思った凌一は、とっさに水を探して周囲を見回した。駐車場の入り口付近に水道の蛇口を見つけたが、ホースがない。凌一は、そばにあったバケツに水を汲みながら携帯を取り出し、119番して消防に状況を伝えた。バケツに汲んだ水をかけようと車に近づいた凌一は、本能的に危険を察知して慌てて身を伏せた。車の燃料タンクに火がついたのだ。

 最初、焚き火のようだった黒煙は、突然、爆発的な火災となった。
 凌一の顔はすすで真っ黒になった。犯罪者の逮捕には慣れている凌一も、火災に対しては無力だった。正直なところ、どうしていいかわからなかった。幸い、燃え盛る車の裏手は、小さな公園になっており、隣家が延焼する恐れはなかった。凌一には消防の到着を待つしかなかった。

 消防が到着した頃には、凌一の周りには近所の住民の人だかりが出来ていた。消防が到着し、油火災専用の消化剤を散布すると、火災はあっけなく鎮火した。消火の様子を最後まで見守っていた凌一は、消防とともに到着した明和署の署員により有無を言わさず取り押さえられ、あえなく御用となった。

 連行されるパトカーの中で、凌一は警察手帳を見せて身分を告げようかとも思ったが、あえて黙っていた。明和署には凌一の知り合いは大勢いる。明和署に着けば容疑は晴れる。こんなところでグチャクチャもめる必要はない。凌一はそう考えた。

 凌一が連行された明和署の当直には、凌一の顔見知りの警察官が何人かいた。凌一を連行した新米の警官たちは一躍英雄?となった。
「おう、新米さん、どえらい大物をしょっ引いたな! 奈良県警に明日野を知らない奴がいるとは驚きだ!」

 ベテラン署員たちがからかうのも無理はなかった。凌一は、平成十六年の少女誘拐殺人事件以降、佐藤巡査による傷害致死事件、足立美佐子によるひき逃げ偽装事件、畑中優子による少女誘拐殺人未遂事件など、数々の難事件を解決した伝説の刑事である。

「明日野さんって、この人が明日野さんですか?」
 凌一を連行した新米警官たちがそう言いながら振り返ると、明和署のベテラン署員が、
「そうだ。火事の状況をお訊きしたら、丁重にご自宅までお送りするんだぞ。明日野に手錠をかけたことが県警本部の刑事部長に知れたら、お前さんたちは一生、山奥の駐在所勤務だな…… 刑事部長は明日野を息子のようにかわいがってるんだぞ、県警の宝とまで言ってるんだぞ」

 新米警官が消え入りそうな小さな声で尋ねた。
「どうして、明日野さんだと教えてくれなかったんですか?」

 凌一は苦笑いを浮かべた。
「君たち僕の名前を訊いたかい? 『どこの誰べえ』かわからないまま逮捕するのが、君らの捜査手法なんだろ? もういいからこの手錠をはずしてくれ」

 ようやく手錠をはずされた凌一は、以前から親しかった地域安全課の市橋課長のところに歩みより、ニッコリと微笑んだ。
「こんばんは、というか、もうすぐおはようの時間ですね」

 市橋が申し訳なさそうに頭をかいた。
「いや、まことにもって申し訳ない…… しかし、明日野、その真っ黒けの顔では、どこの誰かわからんよ」
「まあ、いいでしょう。犯行現場にいた者の身柄をとりあえず確保するのは、あながち間違った捜査手法とは言えませんから…… それに、最近は警官の不祥事も多いですしね。私が被疑者扱いされても不思議はありません。いや、しかし、明和署の若い人はやりかたが荒っぽいですね……」
「だからこうして謝ってるだろ、本当にすまないことをした」

 凌一が、急に真剣な表情になった。
「あの火災は放火です。犯人に心当たりがあります」
「心当たり?」
「そうです。火災を発見する直前に猛スピードで現場の方向から走ってきた自転車と接触したんです。ちょうど栄橋の真ん中あたりです。自転車が転倒したので大丈夫かと声をかけた時、灯油のような匂いがしたんです。
自転車に乗っていたのは二十四~五歳の女性で、顔もハッキリ覚えています。上着は水色の薄いジャンパー、下は紺のジーンズ姿でした。自転車の防犯登録番号を控えたかったんですが、その女性は逃げるように急いで立ち去りました。

 その時は特に何か容疑があったわけではなかったんで、後を追ったりはしなかったんですが、状況から見て、あの女性による放火と思われます」

 それを聞いた市橋の顔が明るくなった。
「それなら話は早い。火災現場から自宅まで自転車で往復できる範囲に住んでる二十四~五歳の女性なんて、たかが知れた数だ。犯人はすぐに検挙して見せるよ…… ただ、犯人の顔を見たのはお前だけだ。悪いが面照合には付き合ってくれ」
「わかりました。明日から捜査に立ち会いますので、今夜は少し寝させて下さい」
「わかった。署員に送らせよう」
「ありがとうございます」

 凌一は市橋に一礼して、明和署のパトカーの後部座席に乗り込んだ。運転したのは、凌一に手錠をかけた明和署員だった。途中、その明和署員がすまなそうに凌一に話しかけた。

「あの~ 本当にすいませんでした。警察学校にいた頃から、奈良県警に明日野さんという数々の難事件を解決した伝説の刑事がいるとは聞いてたんです。本部の捜査一課への栄転を断固として拒否していらっしゃることまで…… でも、もっとのベテラン刑事だと思い込んでました。尊敬する先輩に手錠を掛けてしまうなんて……」

 凌一が皮肉たっぷりに、
「僕、放火魔に見えたかい?」

「いえ、そんなことは…… ただ、火事の想定訓練は受けてませんでしたので、テキパキと作業を進める消防を見てると、自分たちも何かしないといけないような気がして……」

 凌一が明和署員を諭した。
「放火魔がいつまでも放火現場に突っ立ってるわけがないだろ? それもバケツに水を汲んで…… 少しは考えろ。あういう場面では、とりあえず『事件の目撃者』として僕の住所氏名を確認して、一旦引き取ってもらうのが正攻法だ。僕だって被害者なわけだし…… この真っ黒けのスーツを見ればわかるだろ? 問答無用でしょっ引くなんてのはもってのほかだ。それともう一つ言っておく。悪い奴らは、何とか警察の想定をはずそうと綿密に計画を練って犯罪を犯すんだ。想定訓練なんかクソの役にもたたないさ…… 犯罪捜査だけじゃなく、世の中、何もかも想定どおりにいかない。女性を好きになればわかるさ……」

 明和署員がハンドルを握りながらチラッと凌一の方を見る。
「自分にはもう好きな女性がいます。ただ、明日野さんがおっしゃるとおり、想定どおりにはいきません」

「女性の行動や心情を推理することに比べたら、犯罪の推理なんてチョロイものさ…… ただし、これだけは肝に銘じておいて欲しい。僕らは金田一耕助でも刑事コロンボでもない。
警官の本業は犯罪推理でも犯人逮捕でもない。僕らの仕事は、市民の安全で快適な生活を守ることだ。そのために犯罪推理や犯人逮捕が必要になる場合があるというだけのことさ」

 明和署員が首を傾げた。
「おっしゃる意味がわかるような、わからないような…… ところで明日野さんには好きな女性はいるんですか?」

「いると言えばいる。いないと言えばいない。困ったもんだ……」
そう言いながら凌一は深いため息を吐いた。

 ハイツの前でパトカーを降りた凌一は、運転手の警官に軽く敬礼した。
「ご苦労様。先に休ませてもらうよ」

 重い足どりで部屋に入った凌一は、スーツを脱ぎ捨て、ベッドに潜り込み、明かりを消した。そしてつぶやいた。
「陽はまた昇る。別に昇ってくれなくてもいいんだが……」

 瞬く間に凌一は深い眠りの世界に入った。



 翌朝というか翌日、凌一は真穂からの電話で目を覚ました。
「やあ真穂ちゃん、おはよう」

 電話の向こうで真穂が不思議そうに尋ねた。
「おはようって、凌一さん、今、起きたの?」
「うん」
「きのうは夜勤だったの?」
「いや」
「えっ、それじゃ凌一さん、今何時だと思ってるの!?」
真穂に言われて凌一は壁の時計を見た。十一時五分だった。
「うっ、うそだろ!?」
真穂が驚いた。
「うそだろって、今、十一時五分よ!」
「なんで? 僕の携帯の目覚ましは毎朝六時三十分に鳴るんだ! ひょっとして僕、目覚ましを無視して寝てたの!?」
真穂が困ったように答えた。
「そんなこと、私にわかるわけないでしょ!」
「寝坊だ! 真穂ちゃん、悪いけど後で電話するから」
世紀の大寝坊をかました凌一は、そう言って電話を切り、取るものもとりあえず、転がるようにハイツを飛び出した。
「すいません! 遅くなりました!」

 部屋に飛び込んだ凌一をチラッと見た渡辺は、口に含んでいたコーヒーをいきなり周りに噴き散らしながら大声で笑った。
「ガハハハハハハ」

 渡辺は凌一を指差し、さらに笑う。
「ゥアハハハハハハ」

 何があったのか不思議そうに振り返った島婦警もいきなり「プッ」っと噴き出し、「キャハハハハハハ」と大声で笑った。
「ガハハハハハハハハハ」、「キャハハハハハハハ」

 異様な笑い声が刑事課の部屋中に響き渡った。島は笑い過ぎて苦しそうにおなかを押さえて「ヒィー」とうめいた。
「?」

 ポカンとしている凌一に、渡辺が必死で笑いをこらえながら苦しそうに問いかけた。
「ファッ、ファ日野……。お前……、クックックッ、ここまで、ケタケタ、何で来た? プッ」
「電車です」

 凌一が真顔で答えると、横から「ヒィー、クックックッ」という島の笑い声がした。渡辺が苦しそうにおなかを押さえる。
「ファッ、ファ日野…… 途中、プッ、人にジロジロ見られたろ?」

 中途半端な時間だったので、出勤途中、そんなに大勢の人に出くわしたわけではなかったが、確かに、ギョッとした視線を向ける人やハッとして視線をそらす人がいたような気はする。
「そう言われれば、確かに…… それがどうかしたんですか?」

 渡辺があまりのおかしさに顔をゆがめた。
「お前……、フッ、きのうの火災現場で……、クックッ、放火魔と間違えられて、ヒヒヒッ、明和署に連行されたんだろ? 今朝、ファッファッファッ、市橋から詫びの電話が、ガハハ、あったよ……」
「はい」それがそんなにおかしいんだろうか?
「きのう、お前、帰宅してから風呂に入ったか?」
「い、いえ、もう明け方だったので、すぐに着替えて就寝しました」
「今朝、起きてから、ここに来るまでに、お前、鏡を見たか?」
そう言われれば、大寝坊して慌てて着替えて来たので、鏡を見た覚えはない。

 苦しそうにおなかを抱えながらケタケタ笑い続けていた島が横から口をはさんだ。悲痛な声だった。
「もういいから、ヒヒヒッ、ファ日野さん、顔を洗ってきて、お願い。これ以上笑わせないで……」

「うん、わかった」島が言うことの意味がわからないまま、とりあえず凌一は洗面所に向かった。洗面台の鏡を見た凌一は絶句した。すすで真っ黒けの顔がそこにあった。

「しまった! きのう、あれから顔を洗ってない……」

 凌一は慌ててそばにあったハンドソープを顔に塗りたくり、顔を洗った。後の祭りだった。
 きれいに顔を洗って部屋に戻った凌一を横目で見ながら、島がクスクスと笑いをこらえていた。せめてもの救いは、刑事課の他の者がちょうどその時食事に出ていたことだった。

 警察官は勤務中あまり外食はせず、出前や買い食いで食事を済ませるのが普通だが、新興住宅街に出来たばかりの真美警察の周りには出前をしてくれるような丼屋や中華屋はなかった。

 ただ、最近、署の真裏に全国チェーンのファミリーレストラン『ザ・めしや』が開店したので、署員は好んでその店を利用していた。裏にあるめしやなので、署員はその店を『うらめしや』と呼んでいた。

 席について小さくなっていた凌一に、明和署の市橋から電話があった。
「明日野か、きのうは失礼したな。例の放火の件、こちらの担当が決まった。刑事課の中村と藤田が担当する。ふたりとも顔見知りだろ、協力してやってくれ。被疑者の絞込みはこちらで進めてる。放火現場から自宅まで帰るのに栄橋を通る二十四~五歳の女性は二十一人だ。出勤や帰宅の時間を狙って任意で話を聞こうと思ってる。悪いが付き合ってくれ。犯人の顔を見たのはお前だけだからな……」

「わかりました。これから明和署に向かいます」
凌一は電話を切り、渡辺に事情を話した。

「わかった。行ってこい」

 凌一は、渡辺の了解を得て明和署に向かった。
それ以来、凌一の『真っ黒け事件』は、今もなお真美警察署に語り継がれている。

 明和署に向かう途中、凌一は、明和駅前のファミリーレストランで昼食をとることにした。店に入り注文を済ませた凌一は、携帯を取り出し、真穂に電話した。
「真穂ちゃん、さっきは失礼したね。もう仕事に戻ったから安心して」
 電話の向こうで真穂がクスクス笑った。
「渡辺さん、怒ってたんじゃないの?」
「いや、実はきのうは事情があって、深夜まで明和署にいたんで、叱られはしなかったけど、笑われたよ」
これ以上のことは、口が裂けても言えない。

 凌一の答えを聞いて、真穂が尋ねた。
「きのうの事情って、駐車場の放火のこと?」

 凌一が逆に問いかけた。
「真穂ちゃん、車両放火事件のこと、知ってたの?」
「ええ、新聞の地域欄に出てたし、奈良テレビのニュースでもやってたわよ。ひょっとして犯人と間違えられて逮捕された警察官って凌一さんのこと?」
「うん、しょっ引かれた」

 電話の向こうで真穂がふき出した。
「プッ、どこまで間抜けなのよ! 警察手帳を見せて説明すればいいじゃない」
「それが、問答無用で……」

 真穂が呆れたように、
「もういいわ、今夜は来てくれるんでしょ?」
「ああ、行くつもりだけど、ちょっと遅くなるかもしれないから、また電話するね」

 真穂がからかい気味に、
「遅くなってもいいわよ。でも、うちに放火しないでね」
真穂は電話を切った。

「やれやれ……」凌一はそうつぶやきながら、ウエイトレスが運んできたランチを食べ始めた。

 刑事の悲しき習性か、あっという間にランチを食べ終えた凌一は、タバコに火をつけた。なんとなくタバコの包みに目をやると『喫煙は、あなたにとって心筋梗塞の危険を高めます』と書いてある。
(どうせ一度は死ぬんだ。心筋梗塞でも肺がんでもいい)

 凌一は半ばやけ気味に心の中でつぶやいた。
(最近、真穂にはかっこ悪いところばかり見られるな……。ゴミ御殿のような部屋も見られたし、寝坊しているところを起こされたり、放火魔と間違われて逮捕されたのを知られたり、いいとこなしだな……)
凌一は「ふう」とため息をついた。不幸中の幸いか、さっきの真っ黒け事件だけは真穂に悟られていない。



 中井姉妹は姉の真子が大学一回生、妹の真穂は高校三年生で、ひとつ違いの姉妹である。父の真治は近くで内科の開業医をしている。姉の真子が物静かで穏やかな性格なのに対し、妹の真穂はにぎやかで騒々しい女子高生だった。当初、凌一にとっては二人ともかわいい妹のような存在だったが、年頃の男女がいつまでも兄と妹のような関係を続けることは難しい。姉妹は明らかに二人とも凌一に好意を寄せていたし、凌一も姉妹に対して芽生えそうになる異性感情を必死で抑えていた。
(相手はまだ子供だし、自分は警察官だ。変な感情を持つんじゃない)
そう自分を戒めることが、今では凌一の心の日課になっていた。

 結局、凌一はコーヒーをすすりながら、小一時間、ぼんやりと取りとめのないことに想いをめぐらせていた。
 畑中優子による少女誘拐殺人未遂事件を解決した凌一は、その後、これといって担当案件を抱えていなかった。もともと希望して刑事課に配属されたわけでもなく、血なまぐさい犯罪捜査が好きではない凌一にとって、それは、つかの間の穏やかで幸せな日々だった。

 ファミリーレストランを出て明和署へ向かう途中、凌一は通りすがりのコンビニにタバコを買いに入った。レジで精算をしている時、ふと振り返ると、女性店員が陳列棚の前にしゃがんで商品を並べていた。その横顔を見た凌一はハッとした。
(間違いない! きのうの自転車の女性だ!)

 凌一は、静かにその女性に歩み寄り、声をかけた。
「やあ、きのうは大変失礼しました。栄橋であなたとぶつかったのは私です。明日野と言います」

 その女性店員は凌一の方を見上げ、表情を変えずに、
「ああ、あの時の方ですか…… きちんとお詫びもせずにすいませんでした。慌てていたものですから…… お怪我はありませんでしたか?」

 飾り気はないが艶めく栗毛色のショートヘアと透けるように白い肌、そして両側のほほに出来たまるでエクボのようなニキビが愛くるしい女性だった。

 凌一は人懐っこい笑顔を見せ、
「大丈夫です。それより、あの後、付近で放火事件があったのはご存知ですか? 実は、私は警察官で、直接の担当ではないんですが、たまたま事件を目撃した関係で捜査に協力させられることになったものですから、少しお話を伺いたいんです」

 凌一は警察手帳を出し、身分証明のページを見せた。それを見た女性店員の表情が変わった。
「警察の方だったんですか…… 自転車でぶつかったことも罪に問われるんですか?」

 凌一は首を横に振りながら否定した。
「厳密に言うと、業務上過失傷害の疑いがありますが、私はこのとおりピンピンしてるので立件するつもりはありません。私がお尋ねしたいのは、あくまで駐車場で発生した車両放火事件のことです。お忙しいところ恐縮ですが、署まで同行いただけないでしょうか?」
「あいにく仕事中なんで…… それに私は放火事件のことは何も知りません。事情聴取は任意なんですよね」
「あくまで任意です。だからこうしてお願いしてるんです。お仕事が終わってからでも結構ですから、お話を伺いたいんです」

 凌一と女性店員の間でこうした問答が何度か繰り返された。不審に思った店長が二人に歩み寄り、凌一の後ろから声をかけた。
「私はここの店長です。お客様、何か?」

 凌一は振り返って店長に事情を説明した。店長は女性店員の方を振り向いた。
「可奈ちゃん。店のことはいいから、この刑事さんと一緒に明和署に行って、知ってることを話してあげなさい。何も知らなければ知らないでかまわないから、とにかく行って事情を説明してあげなさい。放火魔は捕まるまで同じことを繰り返すし、この辺りの住民の安全にとっても、犯人を早く捕まえてもらわないと……」

 女性店員は、黙ってうなずき、凌一の方を見た。
「わかりました。ご一緒します。奥で着替えて来ます。少しお待ち下さい」
凌一は、黙ってうなずいた。

 奥で女性店員が着替えをしている間に、凌一は、店長からその女性店員の履歴書のコピーをもらった。
氏名は、谷口可奈子、二十四歳、フリーター、父親は既に他界し、彼女は高校卒業後、定職に着かず、母親と同居しているようである。凌一は店先で、その履歴書を見ながら携帯を取り出し、明和署の市橋に電話した。
「明日野です。きのうの放火の件ですが、犯人と思われる女性をたまたま近くのコンビニで見つけました。これから任意で明和署に引っ張ります。住所は香芝市西明和六三九‐一一です。母親と同居しているようですが、証拠隠滅の可能性があるんで、家宅捜索の令状をお願いします」

 女性店員が店から出て来た。凌一は慌てて電話を切り、話しかけた。
「谷口可奈子さんと仰るんですね。今日は自転車じゃないんですか?」

 女性店員が落ち着きのない表情を見せた。
「自転車は四位堂駅前の駐輪場に駐めてあります。明和駅からここまでは歩いて来てます」
「そうですか……」

 凌一がそう答えた時、サイレンの音をけたたましく鳴らしながら、一台の捜査車両がコンビニの駐車場に停車した。中から、中村と藤田の二人が飛び出して来て凌一に声をかけた。
「明日野、この女か?」

 凌一は、うんざりした表情を浮かべながら「やれやれ……」と愚痴をこぼし、中村と藤田を諌めた。
「早とちりしないで下さい。この女性には、事件について何かご存知かも知れないので、任意の事情聴取をお願いしただけです。谷口可奈子さんと言う方です。失礼のないようにお願いします」

 中村が慌てて語調を変えた。
「あっ、そうでしたか…… 失礼しました。明和署の中村と藤田です。谷口さん、署までお送りしますので、車にお乗り下さい」

 凌一がやや疲れた表情を見せた。
「その前に、パトランプを止めて下さい。目が回ります」

 藤田が慌ててパトランプを止めた。四人は車に乗り、明和署に向かった。車中、凌一が可奈子に言った。
「びっくりさせてすいませんでした。署では無礼なことはさせませんので、怖がらないで下さいね」

 可奈子は黙ってうなずいた。凌一は続けて中村と藤田に言った。
「二人とも、それでなくても警察や検察に対する世間の目が厳しい時です。言行には十分注意して下さい」

 中村と藤田が口を揃えて、
「いや、申し訳ない……」

 四人は明和署に着き、凌一が婦警を連れて可奈子と取調室に入った。凌一が所属する新築ピカピカの真美署とは正反対に、明和署は、老朽化したオンボロの、さながらお化け屋敷のような建物である。その奥の一画に設けられた取調室もお世辞にも小綺麗な部屋とは言えず、壁は黒ずみ、窓の鉄格子からは赤錆びがしみ出し、天井は煙草の煙で黄ばみ、長くいることさえつらいような、狭く、小汚ない空間だった。

 その取調室の中で、凌一が可奈子に任意の事情聴取について説明しようとした時、可奈子がポツリと言った。

「あの、きのうの放火は私がやりました……」



 何も始まらないうちに全てを終わらせてしまった可奈子の一言に、取調室の時間が止まった。凌一も婦警も次の動作に移ることが出来ず、その場に凍りついた。

 かなり長い沈黙の後、凌一が焦点の定まらない視線を可奈子に向けた。目と目を合わす気にはなれなかった。
「そうですか…… 谷口可奈子さん、放火容疑であなたの逮捕状を請求します。逮捕状が降りて以降は、あなたは、この明和署に留置され、取調べを受けます。その後、あなたの身柄は検察に送致され、今度は検察による取調べを受けます。わかりましたか?」

 可奈子は、うつろで輝きのない視線を凌一に向け、小さな声で「はい」と答えた。

 可奈子は視線をテーブルの上に移し、身じろぎひとつせずにいた。その華奢な体からは、微塵の不安も戸惑いも感じられなかった。放火が可奈子によるものであることは、凌一にはわかっていた。しかし、犯行を自白した後の可奈子の様子は、凌一が想像していた姿とはかけ離れていた。

 悪戯やうさ晴らしが目的の放火の場合、逮捕された犯人は泣きながら謝罪の弁を繰り返し、罪の重さに震撼して、両親を呼ぶように懇願したりするのが普通である。しかし、可奈子には狼狽した様子は全く見られず、むしろ堂々とした落ち着きさえ感じられた。

 可奈子の態度を不審に思った凌一は、可奈子の横顔をじっと見た。透けるような白い肌に、ビー玉のような澄んだ大きな瞳、憂いを含んだ長いまつげ、天使の輪がくっきりと表れた美しく光沢のある髪、とても放火などするような女性には見えない。

 凌一は言葉を選びながら問いかけた。
「君が放火したのが建造物でなくて良かった。建造物放火は非常に罪が重いし、死者が出る可能性だってある。車両放火だって、車は爆発物だ。ひとつ間違えば、巻き添えになる人が出たかもしれない。僕には、君がそんなことをする人には思えないんだが……」

 凌一の言葉を聞いた可奈子は、しばらくの沈黙の後、クスクスと笑いをこらえながら吐き捨てるように答えた。その冷酷で残忍な表情に凌一は戦慄を覚えた。

「フフッ 物が燃える姿って綺麗じゃない。華々しくて、活気があって、情熱的で…… 人間だってどうせ最後は燃やされて灰になるのよ。私は放火魔よ。でもその罪は自分が負うんだからいいじゃない。誰のせいにもしてないわ。好きなことをして、自分が罰せられるんだから、私の勝手じゃない。何十人も何百人も死ぬような大火事になればよかったのよ!」

 それは、耳を塞ぎたくなるような言葉だった。凌一は、次の言葉を発することが出来ずに、その場にたたずんでいた。

 この娘をここまでゆがめたものは何なのか? 凌一は考えていた。犯罪の動機を解明することも犯罪捜査では重要な項目のひとつである。しかし……。

 無言の時が流れ、ただ壁の時計だけが確実に時を刻んだ。傾きかけた日差しを浴びて床に描かれた窓枠の影が、凌一には十字架に見えた。

(取調室に神はいない……)
凌一には、そう感じられた。

 小さなノックの音がして、取調室のドアが開いた。中村が顔を覗かせ、凌一に目配せした。凌一は黙って部屋を出た。

 中村は無表情だった。
「今、鑑識が谷口可奈子の部屋を捜索してるが、覚せい剤らしき粉末と吸引器具が発見された模様だ」

 それを聞いた凌一は、一瞬言葉を失ったが、すぐに気をとりなおし、能面のように無表情に答えた。
「そうですか……」

 凌一は心の中で自分に言い聞かした。
(自分は刑事だ。今は被疑者の取調べ中だ、何を聞かされてもうろたえてはいけない)

 凌一は、再び取調室に入り、婦警に何か指図した。婦警は可奈子のそばに歩み寄り、無表情に言った。
「尿検査をしますので、一旦、部屋を出て下さい」

 可奈子を連れて取調室を出ようとした婦警を凌一が呼びとめ、小声でささやいた。
「逃亡の恐れがある。目を離すな」

 婦警は無言でうなずき、可奈子を連れて女子トイレに向かった。取調室に一人残った凌一は、鉄格子ごしに窓の外を見ながら考えた。
(覚せい剤のなせる業か? 人をあそこまで悪魔に出来るのか?)

 振り返ると、さっきまで可奈子が腰掛けていた椅子が無造作に置かれていた。その椅子を見た時、何故か凌一は無性に切ない気持ちになった。

(彼女はどこで覚せい剤を入手したのか?)
 凌一のところには、香芝に麻薬の密売人がいるという情報は入っていなかったし、大掛かりな密売組織があるとも思えない。ここのところ香芝市で発生した禁止薬物関係の事案といえば、中学生の睡眠薬遊びぐらいである。

(まっ、いいか、あとは明和署の仕事だ。広域の密売組織が絡んでいたとすれば、今度は県警本部の仕事になる。どちらにしても、僕の仕事じゃない。どうせ僕はしらけたサラリーマン刑事だからな……)

 凌一は取調室を出て、中村と藤田に声をかけた。
「放火の件は一件落着ですね。目撃者としての私の仕事は終わりました。これで失礼します」
中村が答えた。
「わかった。何か特別なことがあれば、こちらから連絡する」

 凌一は明和署を出て電車で真美署に戻ろうとした。車中、凌一は、(一件落着、一件落着)と繰り返し念仏のように唱えていた。可奈子の輝きのない、うつろな瞳が目に焼き付いて離れなかった。彼女が凌一に吐いた暴言は、たとえ覚せい剤のなせる業だと考えても、可奈子の幼い顔立ちには、あまりにも不釣り合いなものだった。

 凌一は、一件落着どころか、これから全てが始まるのだという嫌な予感を懸命に打ち消していた。電車の窓を通り過ぎる見慣れた景色が、曇天の空に埋没して、殺風景な情景を醸し出していた。

 自分は『敏腕刑事』でも『熱血刑事』でもない、ただのサラリーマン警官だ。刑事だってやりたくてやっているわけじゃない。少なくとも自分ではそう思っていた凌一にとって、犯罪者の逮捕など、嬉しいことでも何でもなかった。

 犯罪者を逮捕する度に凌一の心に残るのは、やり場のない荒涼とした脱力感だけだった。その脱力感が、今、凌一を襲っていた。

 その時、凌一の後ろから小さな声が聞こえた。
「凌一さん」

 驚いて凌一が振り返ると、真子が穏やかに微笑んでいた。
「やあ、真子ちゃん、大学の帰りかい? でもそれなら電車が反対方向だよね」
「ええ、少し友達の家に行ってたので……」

 凌一が少し皮肉った。
「友達って、ひょっとしてボーイフレンドかな?」

 真子がむくれた表情を見せた。
「まあ、凌一さん、ひどいこと言うのね……」

 自分にとって、愛しい人は凌一だけだ。そのことは凌一も察している。真子はそう思っていた。
「凌一さん、今、お仕事中? きのうはひどい目に遭ったのね……」
「ああ、その件を今、片づけて来た。今日の夕刊を読めばわかるよ」
「犯人、もう捕まえたの?」
「ああ、おかげさまで僕の放火容疑は晴れたよ」

 真子は口元に手を寄せながら、クスクスと笑った。
「フフッ、放火容疑って、凌一さん笑わせないで下さい」

 四位堂駅に着いた。真子の自宅である中井邸は、ここで下車して駅前の小さな繁華街を抜け、栄橋を渡って坂を上った小高い丘の上の新興住宅街にある。

「凌一さん、今夜は来てくれるの? お母さん、料理はいつも五人分作ってるのよ」
「うん、一旦、署に戻って課長に事の顛末を報告した後、すぐに行くよ」

 凌一と真子の間を電車の自動ドアがさえぎった。凌一は、真美署の最寄り駅である三上まで、そのまま電車で向かった。
 署に戻ると、凌一は渡辺のデスクに歩み寄った。既に、明和署から連絡があったのか、渡辺は一部始終を知っていた。

 渡辺が、
「明和署の話では、谷口可奈子の薬物反応は陽性だったらしい。したがって、彼女は放火と覚せい剤の両方で起訴されることになるだろう。ただし、現状では、放火については本人の供述とお前の目撃証言以外に物的証拠は、ほとんどない。
 明日野、お前さん気の毒だが、公判で検察側の証人として出廷させられることになるな……」

 凌一は苦虫を噛み潰したような顔をしながらうなずいた。
「覚せい剤の入手ルートはわかったんですか?」
「大阪ミナミの繁華街で外人から入手してたらしい。この密売ルートは大阪府警の薬物取締課がかねてから目をつけてるが、組織の全容を突き止めるため、あえて泳がせてたらしい」
「彼女の覚せい剤歴はどれくらいなんですか?」
「本人の供述では五~六年らしい」
「それではかなりの金額になります。コンビニの店員の給料で賄えるとは思えません」
「彼女の父親は六年前に他界し、同じ頃から母は認知症を患ってる。彼女は現在、母の後見人として、家の財産を自由に出来る立場になってる。明和署の調べによれば、彼女の家は地元の旧家で、父親の生前、かなりの不動産を所有してたが、彼女が後見人となって以来、そのかなりの部分を売却してる。恐らく親の財産を切り売りして薬代にしてたんだろう」
「コンビニで入手した彼女の履歴書には、実家は楽器販売店と書いてありましたが……」
「店は開店休業状態さ」
「覚せい剤を始めたきっかけは?」
「それは話そうとしないらしいが、ちょっとした遊び心じゃないのかな? 悪い男友達にでも誘われたんだろう」

 凌一は少し首を傾げた。しかし、それ以上何も言わなかった。渡辺が尋ねた。
「何か不審なことでもあるのか?」
「いえ、特に……。すいません、今夜は中井邸に行くのでこれで失礼します」
凌一がそう言って一礼すると、渡辺はニッコリと微笑んで言った。
「わかった。早く行ってやれ」



 四位堂駅に着くと、改札口で大きく両手を振っている女性がいた。真子だ。真子はいまどきの女子大生には珍しく、あまりラフな服装で大学に行かない。いかにも良家のお嬢さんらしい清楚なワンピースが真子の普段着だ。凌一は小走りに改札を出て真子に声をかけた。

「真子ちゃん、待っててくれたの?」
「ううん、本屋さんで少し立ち読みしてたらこんな時間になって……」
「そう、それじゃ行こうか」
「はい」

 二人はピッタリと寄り添って商店街を歩いた。この辺りなら近所の人に見られても不思議ではないが、真子は全くかまわない様子だった。

 真子がうつむき加減にポツリと言う。
「私、本当はあまり大学になじめてないんです……」

 凌一は、真子の横顔を覗き込んだ。ポニーテールの前髪が少し目元にかかり、その下の憂いを含んだ瞳が不安げだった。

 凌一が心配そうに問う。
「それは…… どうして?」
「うーん、なんとなく。私は翻訳家志望だから、ちゃんと勉強はしてるんですけど、翻訳は通訳とは違って、才能が必要なの。原文よりも翻訳後の文章のほうが面白いぐらいじゃないとダメなの。でも、私の翻訳ってまるで機械翻訳みたい。ただ、原文に忠実なだけ…… ユーモアもウイットもないの。戸田奈津子さんのような翻訳家を目指しているのに……」

 それを聞いた凌一は、天候が回復して澄みわたった夜空を見上げ、
「それは、真子ちゃんがまだ原文を翻訳することに精一杯だからじゃないのかな。戸田奈津子さんのような翻訳をするためには、原文を完全に理解したうえで、原作者が文章に描ききれなかったような細かい感情や状況まで汲み取れないとダメだと思うんだ。僕の好きな写真家の言葉に『写真で説明しようとするとつまらなくなる』という言葉がある。

 実際には立体的で、絶えず動いてるものを、写真では一枚の小さな紙切れに写すんだから、当然、全ての情報は入らない。どこを強調し、どこを省略するか? 選択が必要になる。感性の勝負さ。

 でも感性の勝負に持ち込む以前に、カメラで写真を撮る技術は完璧でなきゃいけない。写真の腕が十分でない間は、ちゃんと写すことばかり考えてしまうから、『ただ説明してるだけの写真』になる。

 真子ちゃんの感性が発揮されるのは、翻訳の技術がもっともっと上達してからのことじゃないかな?」

 凌一の言葉を聞いた真子の表情はパッと明るくなった。
「凌一さんの言うとおりですね。才能の心配なんかするのはまだまだ早いですね……」

 凌一は黙って微笑んだ。

 正直言って、凌一は真子の学業にそれほど関心があるわけではなかった。それよりも、半年前からは比べられないほど目に見えて真子の自閉症が改善していることの方が嬉しかった。

 身体的に何ら異常なく出生した真子の様子に、父の真治と母の祥子が不審を抱き始めたのは、生後、数週間からのことだった。他の乳児のように、泣いたり笑ったりせず、ただ、いつもうつろな表情で遠くを見ている真子、真治や祥子があやしても何の反応も見せない真子、真治と祥子の心配は、生後半年頃には疑いの余地がないものとなっていた。

「お子さんには自閉症の疑いがあります」

専門医にそう宣告されたのは、生後一年近い頃だった。内科の開業医である真治にとっても自閉症というのは、あまり接することのない病気であったため、当初二人は、真子のことを内気な性格で、努力次第では改善できるものかと期待したが、専門医による説明は残酷なものだった。

「自閉症は、先天的な脳の疾患と考えられており、性格や教育の問題じゃありません。また、生後の治療や努力により完全治癒した例は、ほとんどありません。ただし、ノーマライゼーションといって、トレーニング次第で症状が軽減されることはありますし、健常者と同じように生活できるようになった例もあります。一口に自閉症と言っても、その症状は千差万別なので、長い目で見てあげて下さい」

 その日、帰宅後、
「どうして私たちの子が……」

 真子の将来を悲観して泣き叫ぶ祥子を真治が諭した。
「真子がどんな子でも、私たちにとっては宝物だ。世の中にはいろんな宝があるんだ」

 その後の真治と祥子の生活は、真子のちょっとした仕草に一喜一憂することの繰り返しだった。
 真子の場合は、知的発達傷害を全く伴わない高機能自閉症で、その症状は、自閉症というよりも『失語症』と言った方が適切かもしれない。小中学校から大学生となった今まで、真子は筆記試験では決して他の子供に劣らない学力を示していたし、思うことは思うように文章に表わすことが出来た。ただ、他の人と面と向かって会話をすることが出来なかったのである。

 大学入学を直前に迎えた高校三年の冬、そんな真子に一大転機が訪れた。凌一との出会いである。
凌一はその夜、偶然、真子と妹の真穂が河原で地元の悪ガキどもに絡まれているところに通りかかり、二人を救助した。そして姉妹の両親である中井夫妻は、感謝のしるしにと凌一を夕食に招待した。その食事後に、真子が生まれて初めて言葉を発したのだ。それは凌一に対して発せられた言葉だった。

「コーヒーお召しになる?」

 これが真子が生まれて初めて発した言葉だった。

 真子のこの言葉を聞いた時の両親の喜びは、口では表現できないほどのものだった。中井夫妻はこの時まで真子の会話能力の欠如については、回復をあきらめていたのである。

 次の朝、早速、母の祥子は専門医を訪ね、真子が言葉を発したことを報告した。専門医は祥子に説明した。

「とても稀なケースですが、ありえないことじゃありません。恐らく、真子さんはその刑事さんのことが好きなんでしょう。家族と違って、相手が他人の場合は、以心伝心というわけにはいきませんから、好きな人と親しくなりたければ、会話をしないわけにはいきません。だから、真子さんは心の壁を破って言葉を発することが出来たんだと思います。その刑事さんが協力してくれれば、真子さんの会話能力はもっともっと向上する可能性があると思います」

 専門医の意見を聞いた祥子は、すぐに凌一にその旨を伝え、協力を依頼した。そして、凌一は快くそれを承諾した。
 凌一にとって、中井邸の訪問は市民サービスの一環のつもりだった。警官の仕事は犯人逮捕だけじゃない。安全で快適な市民の生活を守ることが警察官の仕事だ。だから、自分が訪問することで真子の病気が回復するのなら、これも警察官の役目の一つだ。凌一はそう考えていた。

 凌一が訪問すると、真子の症状が改善する理由が、真子の凌一に対する恋愛感情にあることは、両親ともに気づいていた。また二人は、妹の真穂まで凌一を慕っていることも知っていた。しかしながら、凌一の人柄には、真治も祥子も絶対的な信頼を寄せていたため、三人の交際には、真治も祥子も口を出さなかった。

「凌一君は、分別のある立派な大人の男性だ。彼は純粋に真子の回復を祈って、うちを訪れてくれてる。もともとそれを頼んだのは我々の方だ。妹の真穂まで彼に惹かれているのは、彼がそれだけ立派な男性だという証拠だ。この先、あの三人がどんな結果になったとしても、それはそれで、あの三人の人生だ」

 これが父、真治の意見であり、祥子も同感だった。



 凌一と真子は中井邸に着いた。
 凌一が中井邸のインターホンを押すと、いつものように真穂が飛び出して来た。真穂は、凌一と真子が二人並んでいる姿を見て、急にむくれた表情になった。
「あれ、凌一さんとお姉ちゃん、一緒だったの! そう、私に内緒で密会してたわけ?」

 凌一は、慌てて首を横に振った。
「そんなんじゃないよ! 例の放火魔の件、今日、明和まで片づけに行ってたんだ。その帰りに偶然、同じ電車に乗り合わせたのさ」

 それを聞いた真穂が納得したようにうなずいた。
「あーっ それでわかった。夕刊にもニュースにも出てたわよ。放火魔逮捕って…… 犯人の女、覚せい剤中毒だったんだってね。もう密会の容疑が晴れたから入っていいよ、さあ、どうぞ、どうぞ」

 たった一つ違いの姉妹なのに、真子に近寄り難いような気品があるのとは対照的に、真穂には何とも親しみやすい人懐っこさがあった。
 門から玄関までの通路の両側にはパンジーがあでやかに寄せ植えされていた。三人は、笑顔を交わしながらその通路を歩き、中井邸に入った。

 中井邸は豪邸というほどのものではないが、閑静な住宅街に建つ立派な屋敷である。ただ、その中は、大きな家では感じることの少ない、心の安らぐ温もりが漂っていた。中井家の訪問を始めた頃は、緊張してお地蔵さんのように固くなっていた凌一も、最近はやっとリラックスして、くつろげるようになっていた。

 料理を食卓に並べながら、祥子が上品な笑顔を見せた。
「凌一さん、きのうは大変な目に遭われたんですね。でも、さすがですね、一日で犯人を逮捕なさるんだから……」

 周りを見回して真治がいないのに気づいた凌一が祥子に尋ねた。
「今夜は、お父さんはお出かけですか?」

 祥子が答えた。
「ええ、医師会の会合だそうで……」

 それを聞いて真穂がクスクス笑った。
「お父さん、一応は、内科医だもんね……」

 祥子が真穂を諭した。
「『一応』は、余分でしょ!」

 四人とも真治の仏頂面を思い浮かべながら笑いをかみ殺した。真治がくしゃみをしている姿を想像した。和やかな夕食の時が流れた。

 夕食の後、いつものように真子がコーヒーを入れてくれた。
 ミルクをたっぷり入れたカフェラテのようなコーヒーが凌一の好みだった。コーヒーにミルクを注ぐ真子の横顔は美しかった。たった一年年下の真穂がどんなにおめかししても真似できない大人の女性の魅力が真子から漂っていた。

 真子のほほに小さなニキビを見つけた凌一は、急に表情を曇らせた。

 真穂は凌一の変化を見逃さなかった。
「凌一さん、どうかしたの?」

 凌一は慌てて首を横に振り、
「いや、なんでもない」

 忘れかけていた昼間のことが凌一の胸いっぱいに膨らんだ。凌一は自分に言い聞かせた。
(あの件は、一件落着だ、一件落着)

 凌一がコーヒーを飲み干すと、真穂が言った。
「私、凌一さんを送ってくる」

 祥子が半ばあきらめ顔で真穂を諭した。
「それで、また凌一さんに家まで送って来てもらうんでしょう。凌一さんが気の毒じゃない」

 それを聞いた凌一は、
「いいですよ。どうせ近くですから」

「いつもすいません。わがままばかり申しまして……」
 凌一と真穂の二人は中井邸を出て、坂を下った。

 真穂が夜空を見上げた。
「凌一さんと二人の夜って、いつも星が綺麗ね」
「そうだね。雨が降ったことはないね」
「曇り空もないのよ」
「そうだね。不思議だね」

 二人の頭上には満天の星空が広がっていた。
「真穂ちゃんは三陸海岸の星空は見たことあるのかな?」
「ううん、そんなに綺麗なの?」
「別世界だね。目が回りそうになるよ。三陸の星空を見ると、流れ星なんか当たり前の景色に思えてくる。数えられないぐらいの流れ星が飛び交ってる」
「へえ、そんな星空、想像できない。絶対見に行く」
「ああ、お父さんに頼んでごらん」
「いやよ。凌一さんと見に行くの」
「それなら、一度、五人でいっしょに行きたいね」
「まあ、それでもいいけど……」

 栄橋のたもとに着いた。凌一が訊いた。
「真穂ちゃん、またお願い出来るかな?」
「うん、いいよ」

 真穂は少し照れくさそうにしながら唄い始めた。真穂は声の美しい娘だった。凌一は、真穂に、時々、この大好きな歌を唄ってくれるようにねだるのだった。

菜の花ばたけに、入り日薄れ
見わたす山のは、かすみ深し
春風そよふく、空を見れば
夕月かかりて、におい淡し

里わのほかげも、森の色も
田中のこみちを、たどる人も
かわずのなくねも、かねの音も
さながらかすめる、おぼろ月夜

 それは、天使の歌声だった。全てを忘れて、凌一は歌に聴き入った。既に日は暮れ、河原には、遊歩道に設置された街灯の明りが等間隔に見えるだけだったが、凌一は、真美川の両側が菜の花の幸せ色で埋めつくされる昼間の景色を思い浮かべた。川面に降り注ぐ星の滴が、心の中で幸せ色にきらめいていた。

「ありがとう、感動した」凌一が言うと、真穂は少しはにかんでコックリとうなずいた。
二人は、さっき下った坂をもう一度上り始めた。二人は手をつないで無言で坂を上った。

 人は親しくない人と一緒にいる時、会話が途切れると緊張するものである。今、こうして凌一と真穂が無言で歩き続けられるのは、二人の間に何か強いものが出来ていることを意味した。

 中井邸の門の前まで来た。真穂が言った。
「凌一さん、ありがとう。おやすみなさい」
「それじゃ、おやすみ」

 坂を下る凌一の後ろ姿を真穂は、ずっと見送っていた。真穂は、頭上に三陸海岸の星空を想像した。夜空に、小さな流れ星がひとつ、流れた。

 ハイツに戻った凌一は、真穂の美しい歌声の余韻に浸っていた。シャワーを浴びてもテレビを観ても、耳元には真穂の透きとおった歌声が響いていた。しばらくして凌一はベッドに寝転び、明かりを消して、静かにまどろんだ。



第三章 真っ白け事件




 翌朝、凌一が真美署に出勤して部屋に入ると、待っていたかのように渡辺が声をかけた。
「明日野、早速だが、明和署に行ってくれ」

 凌一は一瞬、不審に思ったがすぐにピンときた。
「明和署? ああ、放火事件の現場検証ですね」
「残念だがそれどころじゃない。まだ、調書も取れていない」
「調書も取れていないって、きのうの夕方、課長から聞いたことは?」
「あそこまでは順調だったらしい…… ところがそれから、その谷口可奈子という女、わけのわからんことをわめき散らすわ、看守に噛み付くわ、服を食いちぎったり、裸でうろうろしたり、どうにもならんらしい」

 凌一は机の上の書類に目を通しながら、無表情に、
「離脱症状ですかね? 今はどうしてるんですか?」

 凌一の問いに渡辺が首を傾げた。
「虫がついているとかぶつぶつ言いながら、自分の腕をつまんだり、何か捨てるような仕草を繰り返しているらしい……」

「振戦せん妄ですね…… 送致までに正気には戻らないでしょう。しかし、あの件は明和署の管轄で、私は単なる目撃証人ですから、私が行っても出来ることはありません。ただ、おかしいですね。普通、覚せい剤では……」

 そこまで言った凌一の肩が急にビクッと震えた。渡辺がどうしたのか尋ねようとした時、凌一が叫んだ。

「まさかっ!」

 先月まで明和署にいた薬物取締課出身の太田は、他署へ転任になっている。後任はまだ着任していない。明和署には薬物依存に詳しい者はいない。

「しまった!」

 凌一は、そう叫んで部屋を飛び出し、捜査車両に飛び乗り、エンジンをかけた。普段は収納されている回転灯のスイッチを入れ、けたたましいサイレンの音を立ててアクセルを踏み込んだ。ハンドルを握る凌一の手のひらに汗が滲んだ。

 明和署に着いた凌一は、奥の留置所まで転がるように駆け込み、看守に向かって叫んだ。
「開けろ! そこを開けろ!」

 先日の放火容疑の誤認逮捕の件で、凌一は明和署でも有名人になっていた。凌一のあまりの迫力にあっけにとられた看守は、慌てて留置場の扉を開いた。凌一は看守が持っていたキーホルダーを奪い取り、谷口可奈子が留置されている一番奥の女子房に向かった。

「……!」

 凌一の目に入ったのは、まるで電気イスにかけられたように、全身を激しくさせながら、白目をむき、口からブクブクと泡を吹いて倒れている可奈子の姿だった。顔の周りは嘔吐物で池のようになっていた。まるで噴水のように吹き上げたのか? 嘔吐物は、天井にまで飛び散っていた。

 凌一は一瞬凍りついたが、すぐにハッとして鍵を開け、房の中に飛び込んだ。凌一は可奈子の胸に耳をあて、そして叫んだ。

「間にあった!」

 凌一は、歯を食いしばっている可奈子の口を両手でこじ開け、その中に強引に左の手のひらを突っ込んだ。そして、後をついて来た看守の方を振り返って叫んだ。

「両足を持ち上げろ! この娘を逆立ちにするんだ!」

 看守が驚いて訊き返した。

「えっ?」

 可奈子の食いしばる歯が容赦なく凌一の手のひらにくい込んだ。可奈子の口の周りは、凌一の手のひらから滲み出る鮮血で赤く染まった。凌一は苦痛に顔をゆがめながら、もう一度悲痛な叫び声をあげた。

「両足を持ちあげろ! この娘を逆立ちにするんだ。気道を開けるんだ! わからないのか!」

 そこへ中村と藤田が飛び込んで来た。凌一の叫び声が聞こえていたのか、二人は急いで可奈子の両足を持ち上げた。嘔吐物で手が滑って何度か可奈子の足を落としそうになった。看守が手を添えた。可奈子は壮絶な全身痙攣を続けながら、白目をむき、逆立ちになった。口からこぼれ出る凌一の血液が可奈子の顔を伝って、床にポタポタ落ちた。

「ゴボッ」という音とともに、凌一の手のひらがはさまった可奈子の口から嘔吐物が吹き出した。それをまともに受けて、凌一の顔が黄土色に染まった。

 悪魔ばらいのような光景だった。



 ハアハアと可奈子の呼吸が聞こえた。

 凌一が叫んだ。
「気道が開いたぞ! 大丈夫だ! 助かる!」

 中村が叫んだ。
「明日野! 今だ! 手を抜け! このままじゃ手を食いちぎられるぞ!」

 嘔吐物にまみれて、表情すら見えない凌一が、
「離脱発作だ! 舌を噛んでしまう! 手を抜くわけにはいきません!」

 中村が後ろを振り返り、
「救急車だ! 誰か救急車を呼べ! 早く呼べ!」

 凌一は大きく首を横に振りながら、
「無駄だ! 救急病院に運んで何になる! パトカーでいい! このままの態勢でパトカーまで運ぶんだ! 南生駒の新阿久山病院に行くんだ!」

 中村は合点がいったのか、
「新阿久山病院? そうか! わかったぞ! そうだ! 新阿久山病院へ行くんだ! この娘をこのままパトカーに積め!」

「ちょっと待って下さい!」
藤田がそう叫んで駆け出して行った。すぐに戻った藤田は、可奈子の口にタオルを噛ませ、頭の後ろで結んだ。そして、
「明日野! もう大丈夫だ! 手を抜いていいぞ!」

 可奈子の歯が凌一の手のひらに食い込んでいた。凌一は苦痛に顔をゆがめながら、ゆっくりと可奈子の口から左手を抜いた。鮮血が溢れ出る傷口をハンカチでギュッと縛った。

「さあ、行きましょう!」

 全身、血と嘔吐物にまみれ、白目をむいて大痙攣しながら、口にタオルを噛まされている可奈子が四人の警官に両手両足を支えられ、十字架のような姿で留置場から出て来た。

 全署員が呆然とその光景を見送っていた。運転免許の更新に来ていた主婦が「ヒャッ、何あれ!」と叫び声をあげた。拾った財布を届けに来ていた青年の手のひらから財布が滑り落ちた。四人はそんなことにかまわず、可奈子をパトカーに乗せ、新阿久山病院に向かった。

 看守がハンドルを握り、藤田が助手席に座った。可奈子は後部座席の中央に乗せられ、両側から中村と凌一にガッチリと押さえつけられていた。看守がバックミラーに目をやると、全身が嘔吐物にまみれ、口から血をたらしながら白目をむいて大痙攣している可奈子の姿が見えた。彼女がチラッっと上目使いにバックミラーをにらんだように見えた。看守は背筋が寒くなって目をそらした。その隣には、頭からセメントをかぶった様な姿の凌一がいた。

 この世の光景とは思えなかった。

 パトカーはけたたましいサイレンを響かせていたが、車中の四人は無言だった。交わすべき言葉を見つけられずにいた。



 パトカーは、新阿久山病院に着いた。

 頂部に有刺鉄線が張り巡らされた高さ約三メートルの古びたコンクリートの塀に囲まれた、一見して精神病院とわかる薄気味の悪い建物だった。玄関は、黒いペンキが塗られた鉄格子製の門で閉じられていた。しかし、病院は、既に明和署から連絡を受けていたらしく、パトカーが近づくと、門が開き、門番がパトカーを病院の駐車場に誘導した。

 病院の中から白衣を着た若い医師が小走りに出て来た。その後ろから寝台を転がしながら屈強そうな男性看護師が二人出て来た。何も説明する必要はなさそうだった。看護師は可奈子を寝台に縛りつけ、院内に運び込んだ。医師が歩きながら可奈子の脈を取り、胸に聴診器をあてていた。可奈子は処置室に運び込まれた。凌一たちは看守をパトカーに残し、後の三人で病院に入った。

 凌一たちが処置室に入ろうとするのを医師が制止した。
「ここから先はちょっと…… 外でお待ち下さい。すぐに終わりますので……」

 そう言って医師は処置室の扉を閉め、中から施錠した。凌一たちは処置室の前のベンチに腰掛けて、身じろぎもせず、処置が終わるのを待った。病院の外来患者たちが、セメントにまみれたような姿の凌一に奇異な視線を送っていた。ハンカチで縛った凌一の左手から、ポタポタと血が滴り落ちていた。

 処置室の扉が開き、マスクと手袋を外しながら医師が出て来た。立ち上がって医師に一礼した凌一たちに医師は無表情に話しかけた。

「ご安心下さい。容態は安定しました。ただ、申し上げにくいんですが、医長の指示により、彼女については、精神保健福祉法に基づく緊急措置入院とさせていただきます。緊急措置入院の有効期限は七十二時間です。それ以降の処置については、二名の精神保健指定医の診断を経て、県知事より命令が下されます。二名の精神保健指定医の診断が一致しない場合、患者さんには、医療保護入院、任意入院、その他、医療の立場から最善と考えられる処置が採られます。患者さんは建造物等以外放火および覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕・留置され、取調べ中だったとお聞きしていますが、間違いありませんか?」

 中村が答えた。
「はい、間違いありません」

「患者さんの場合、医療上の立場からみて、留置期限の四十八時間以内に退院することは不可能と判断されます。したがって、今後については、入院中のまま在宅起訴となるか、あるいは起訴猶予・不起訴などの処分となるか、いずれにせよ検察の判断を仰ぐことになります。大変申し上げにくいんですが、時系列的に考えて、彼女、谷口可奈子さんは、現時点から警察の手を離れることになります。お役目、大変ご苦労様でした」

 可奈子に浴びせられた嘔吐物が乾いて、真っ白けになった凌一は、黙って医師の説明を聞いていた。そして、医師に深々と頭を下げた。

「わかりました。おっしゃるとおりです。ただ、彼女の身柄は警察の手を離れますが、事件の捜査は警察を離れていません。この点は、ご理解下さい。また、彼女には母親がいますが、認知症のため、精神保健福祉法上の保護者または扶養義務者とはみなしえないと思います。恐らく公的扶助が適用される事案と思いますが、これは法律上の扶助であり、ご存知のとおり建前に過ぎません。現実的には先生だけが頼りです。どうか、彼女のことをよろしくお願いします」

 医師は凌一の言葉を意外そうに聞いていたが、少し表情を和らげた。
「承知しました。最善を尽くします。それから、あなた、真っ白けの刑事さん、その手を診させて下さい。応急処置をしますので……」

 凌一は初めて自分の左手に視線を向けた。薬指の先から、ポタポタと血が滴り落ちていた。凌一は医師とともに処置室に入った。

 一九七〇年代までは、日本にも『精神外科』という分野があり、精神病院でも外科的手術が行われていた。しかしながら、一九七五年に日本精神医学学会において『精神外科を否定する決議』が可決されて以降、精神病の治療を目的とする外科的手術は原則的に禁止されている。

 凌一が招き入れられた処置室も、今では院内で怪我をした患者の応急処置程度にしか使われていない様子で、室内は古び、壁の塗料はあちこち剥がれ、さながら老朽化した小学校の理科室のようになっていた。薄汚れた窓ガラスには、錆だらけの鉄格子がはめられ、クモの巣だらけになっていた。

 凌一には、かつてこの処置室で何が行われていたか想像できた。精神病院の処置室で過去に行われていたことと言えば、二つしかない。ロボトミー手術とECTだ。ロボトミー手術についてはプロローグに記したが、ECTは、電気ショック療法あるいは電気痙攣療法とも呼ばれ、難治性のうつ病に対しては安全で、しかも非常に効果も高い治療法として知られており、自殺の危険性の高い重症うつ病の患者に対しては、特に有効であると考えられている。
アメリカ精神医学会の報告によれば、ECTはうつ病の治療法の中で最も有効率が高く、難治性うつ病に対しても約半数に有効だったとされている。ただし、ECTがうつ病に有効だという医学的根拠は未だに確立していない。薬物療法にも言えることだが、精神科の治療法の場合、とりあえずやってみたら効いた、という事実が先で、理論は後追いのことが多い。

 そもそもECTは、一九三八年にイタリアのツェルレッティとビニが開発した治療法で、精神病患者の頭に電極をあて、脳に通電して痙攣を引き起こすというものである。

 なぜ彼らがそんなアイデアを思いついたかと言えば、当時のヨーロッパでは統合失調症とてんかんは拮抗するという考えがあったためである。

 統合失調症患者はてんかんになりにくいし、てんかん患者は統合失調症になりにくい(この傾向は現在では否定されている)。それなら人工的に、てんかん発作を起こしたら統合失調症は治るのではないかという推察のもとで、一九三〇年代にはウィーンのザーケルによるインスリンショック療法(インスリンを注射して人工的に低血糖発作を起こす方法。かなりの危険を伴う)や、ハンガリーのメドゥナによるカルジアゾール痙攣療法(薬物を注射して痙攣を起こす方法。注射の後しばらく不快感が続く)など、ショック療法がいくつも生まれたのである。

 一九三八年四月、ツェルレッティらは身元不明の統合失調症患者に世界初の電気痙攣療法を施行、合計十一回の治療によりこの患者は改善、予後は良好だったという。最初に試したのが身元不明の患者だということが如何にも精神科医のやることらしく、施行したツェルレッティらの自信のなさを暗示している。

 当時は精神病の治療薬など何もない時代だったため、電気ショック療法は瞬く間に世界を席巻し、日本の精神病院でも盛んに行われるようになった。ただ、その使われ方にはいささか、いや、深刻な問題がある。

 松本昭夫氏の手記『精神病棟の二十年』(新潮文庫)には、昭和三十年代の精神病院における電気ショック療法の様子が克明に描かれている。 

【畳が敷かれた部屋に連れていかれた。三、四人の男が寝ている。その中の一人は、口にタオルをくわえて、全身をガタガタと震わせている。その光景は私の眼に異様に映った。

 次の男の番になった。タオルを口にしっかりとくわえさせてから、係員が器具の二つの端子を二、三秒間男の左右のこめかみに当てた。すると、男の身体が、一瞬硬直し、のけぞって失神した。それから全身をガタガタと震わせた。ちぎれそうにタオルをくわえた口から、激しい息遣いが聞こえた。私の心は氷ったようになった。

 これが電気ショック療法だった。しかも、麻酔をすることもなく生のままかけていたのだった。それはまさに処刑場の光景だった。係員は冷酷な刑吏のように見えた。

 そのうちに、私の番になった。何か叫び出したい恐怖を感じたが、今更逃げ出すことも出来ず、どうにでもなれといった捨て鉢な気持ちになって、床に身を横たえた。
タオルを口一杯にかんだ。瞬間的に電流を走るのを感じたが、その後の意識はない】

 さらに、精神病院への潜入ルポとして有名な大熊一夫氏『ルポ・精神病棟』(朝日文庫)には、ECTが患者たちの間で『電パチ』と呼ばれ、恐怖の対象だったことが書かれている。 

【女子病棟保護室。副院長は電気ショック療法用の二つの電極を握っていた。
「なぜ脱走した?」、「だれが計画したんだ?」
問い詰めながら、電極で花子のほほをなでた。ビリビリッ。百ボルトの電流で感電させられるたびに、花子は身をよじった。反抗的な顔は一転して恐怖に引きつった。説教は続く。
「こんなことやられて気持ちがいいかい?」、「悪いことやったと思わないの?」 

 これじゃとても治療とはいえない。ただの拷問である。
 当時は麻酔などかけず、ナマで電気をかけることも多かったので、けいれんを起こしたときに骨折したり呼吸停止を引き起こしたりという例も少なくなかったし、電気ショック後の記憶障害も問題だった。当時は反抗的な患者に電気ショックを行っておとなしくすることが多かったのだけれど、それは恐怖によって患者を押さえつけるようなもので、あくまで一時しのぎにすぎないし、治療効果など期待できるはずもない】

 もちろん、これらはいずれもECT本来の使い方とは言えないのだが、こうした暗い過去のイメージが強いせいか、日本ではいまだにECTは閉鎖的で恐怖に満ちた精神病院の象徴のように扱われ、タブー視されている。

 ところが一九八〇年代以降、欧米では日本とは逆にECTの再評価が進んでいる。

 まず日本と違うのは、欧米では一九五〇年代には既に安全性の高い修正型ECTが導入されていたことである。この修正型の場合、事前に患者に全身麻酔をかけ、筋弛緩剤を投与するので、先の引用文で描写されていたような、見た目の恐ろしい全身痙攣は起こさないし、事故も少ない。一九八〇年代にはうつ病への高い効果が再評価され、安全で有効な治療との評価が確立している。たとえば自殺の危険が迫っている重症うつ病の患者の場合など、薬が効くまでのんびりと待っているわけにはいかず、即効性のあるECTの方が有効だという考え方もある。

 一九九〇年にはアメリカ精神医学会が適用マニュアルを作成、一九九三年には四万五千人の患者がECTを受け、その数は年三パーセントの割合で増加しているという。もちろんアメリカのことなのでインフォームド・コンセントは怠りない(ただし、現状でもECTへの批判意見はあるし、一般的な治療になっているとは言い難く、アメリカの精神科医のうちでも約八パーセントが施行しているにすぎない)。

 日本でも一九九〇年代になって、ようやく大学病院や総合病院を中心に、麻酔医の協力のもと、少しずつ修正型ECTが行われるようになったが、依然として従来型の有痙攣性のECTしか行っていない病院が多い。しかも国に認可されている治療器は一九三八年以来まったく変わっていないというありさまである。欧米では一九七〇年代に開発されたパルス波治療器が主流になっているのに、日本で医療機器として認可されている治療器はサイン波電流(コンセントから得られる交流そのまま)のものだけなのだ(パルス波の方が、必要なエネルギーが少なくて済むため、記憶障害の副作用が少なく、安全性も高い)。

 実際、日本の精神病院で使われているECTの治療器は、患者の全身にコンセントからの電流を流すだけで中学生の工作のような装置である。

 林郁夫氏(文春文庫)『オウムと私』には、オウム真理教が製作し、『ニューナルコ』と称して記憶や煩悩を消す目的で多用していた電気ショック装置のことが書かれている。

 「記憶を消す方法を考えろ」という麻原の厳命に対し、林郁夫氏が苦し紛れに提案したのが電気ショックだった。
「装置は安全機構が何重にもつけられた、オウム製作の機械としては、例外的に良質なものでした。装置自体についていうならば、市販のものより使用時の安全対策が施されていました」

 もし、オウムが参考にしたのが欧米の電気ショック装置の設計図だとしたら、彼らが作ったのはおそらく日本では認可されていないパルス波治療器だったに違いない。医療機器の認可など無関係なオウム真理教だからこそ良質なものが作れたというのは、なんとも皮肉な話である。

 痙攣を伴わない修正型のECTの場合、施行は、ほとんどが麻酔科医の仕事で、精神科医の仕事は電気をかけるボタンを押すことくらいである。

 修正型の場合、まずは患者を手術室に運び、全身麻酔をかけて酸素吸入をし、筋弛緩剤を投与してから、マウスピースを咬ませ、両方のこめかみにつけた電極に数秒間通電する。電圧は百ボルトが一般的である。これを週二~三回、合計六~十二回くらい施行して1クールとする。

 なお、最近では、電気痙攣療法よりも、もっと侵襲が少なく安全性の高い経頭蓋磁気刺激法(TMS)という治療法も開発されている。磁場をかけることによって脳内に電流を流すというこの方法なら、麻酔はいらないし、痙攣も起こさなければ記憶障害にもならないので、外来で手軽に出来ると言う。しかも治療効果はECTとほぼ同じであると言われる。

 くどいようだが、ECTやTMSは薬物療法の補助的なものであり、緊急避難的処置に過ぎない。その理由は、これらの療法により患者の症状が改善するという医学的根拠がないからである。本来、現代医学の世界に結果オーライのような治療法があってはならない。

 確かに、反抗的な患者や粗暴な患者に対し、スタンガンの一撃を加えれば、しばらくはおとなしくなるだろう。常識人ならそれを『懲罰』と呼んだり『拷問』と呼んだりするだろうが、精神科医はそれを『治療』と言う。
電気ショック療法の効果について三十年間研究を重ねた神経学者ジョン・フリードバーグ博士は二〇〇四年、以下のように述べている。

「ショック療法が一般的に人々にどんな影響を与えるのかを言い表すのはとても難しいことだが、人々の覇気を破壊し、生命力を破壊する。人々をむしろ受け身で無気力にする。そして、その記憶喪失や無力感、精力の欠如が、いまだ(精神科医が)罰せられずにその処置を行える理由であろう」

 この病院は、廃院となり、現在の新阿久山病院となるまで、極悪暴力病院として、地元の人にも恐れられているような悪質な精神病院だった。その頃、この処置室では、人体実験さながらのロボトミー手術やECTが頻繁に行われていたに違いない。そう思った凌一は、背筋が寒くなる感覚を覚えた。

 処置室のイスに腰掛けた凌一が、医師に手のひらを見せながら問いかけた。
「さっきの彼女の症状は、やっぱり『あれ』ですか?」

 医師が凌一の傷口を消毒しながらぶっきらぼうに、
「そうです」

 医師が続けて言う。
「随分ひどく噛まれましたね…… 骨が見えてますよ。彼女いい歯並びをしてますね……」

 凌一は、黙って苦笑いを浮かべた。

 医師は凌一の傷口に止血の処置を施しながら、
「中途半端な処置をすると、かえって専門医の治療が難しくなるんで、ここでは、止血までにしておきますね。後で必ず外科の専門医の診察を受けて下さい。それから、真っ白けのまま帰っていただくわけにもいきませんので、奥の職員用のバスルームでシャワーを浴びて下さい」

「ありがとうございます。そうさせていただきたいんですが、このスーツ、一度脱いだら、また着るわけにもいかないので……」

それを聞いた医師は、笑いを押し殺した。
「私のものでよかったら着替えて帰って下さい。当直用のものがありますので……」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」

「ちょっと待って下さいね。傷口が濡れないようにしておきますので」
 医師は凌一の手のひらにビニールを被せ、手首をガムテープでぐるぐると巻いた。

「いいですよ」
 医師はそう言って凌一をバスルームに導いた。シャワーを浴びてバスルームから出た凌一の目の前には、バスタオルと横縞のパジャマが置いてあった。

「お待たせしました」
そう言って処置室から出て来たパジャマ姿の凌一を見た中村と藤田は、思わず「プッ」と噴き出した。あまりにも間抜けな姿だった。

 後ろから医師が出て来た。
「手の傷はあくまで応急処置ですので、出来るだけ早く外科の専門医の診察を受けて下さい。着替えは適当なものがなくてすいません。スーツはクリーニングに出しておきます」

 凌一が首を横に振った。
「いえ、スーツは持ち帰ります。一応、証拠品の扱いになりますので……」
「わかりました。今、お持ちします」
一旦処置室に戻った医師は、ビニール袋に入れた凌一のスーツを持って出て来た。
三人は医師に深々と頭を下げ、パトカーに乗ろうとした。

 別れ際に凌一が医師に尋ねた。
「あの、失礼ですが……」
「私ですか? 三崎と申します」
「三崎先生ですか、私は真美警察の明日野と申します。この二人は明和警察の中村と藤田です。くどいようですが、谷口可奈子の件、くれぐれもよろしくお願いします」

 三崎医師は最後にニッコリと笑顔を見せて、
「承知しました」



 帰りの車中、凌一が、
「誠実そうな医師でしたね」

 それを聞いた中村が、
「ああ、それもけっこうなイケ面だしな」

 藤田が凌一に尋ねた。
「さっきの彼女の状態、あれ、一体何なんだ?」
「てんかんに似ていますが離脱発作です」

 藤田が怪訝そうな表情をした。
「離脱って、覚せい剤の離脱症状はあんなに酷くないはずだぞ」

 凌一が答えた。
「だからマニュアル刑事はダメなんです。覚せい剤はシャブと呼ばれますが、覚せい剤だけで骨までシャブられる人は多くありません。でも、禁止薬物に手を出すような人は、気持ちよくなる薬なら何でもやるんです。しかも、それぞれの薬物には相乗作用があります。単独で服用するよりも、いろんな薬物を一緒に服用することで、薬の作用は何倍にも強くなるんです。禁止薬物じゃありませんが、相乗作用が最も強いのはアルコールだと言われています。そう、酒です。

 今、世間ではタバコの害ばかりが取りざたされていますが、タバコを吸って暴れる人はいません。反対に、酒に酔って暴れる人は沢山います。それくらい酒は、脳に及ぼす影響が大きいんです。

 アメリカには一九二〇年代、アルコールによる治安悪化、風俗の乱れなどを理由として、禁酒法が施行された時代がありました。アメリカ全土で酒類の製造・販売が禁止されたんです。ところがその結果はどうなったか? 合法的な酒の製造・販売はなくなりましたが、マフィアによる密造・密売が横行し、ギャングが幅を利かせ、治安はかえって悪くなりました。

 日本でもギャングのボスとして有名なアル・カポネは、酒の密造・密売組織の元締めです。市民もこぞってマフィアから酒を買い、酒をやめようとはしませんでした。例えギャングから購入してでも酒をやめられなかったんです。
中村さん、藤田さん、あなた方は酒をやめられますか? 無理でしょう。現在、宗教的な理由で酒を飲まない国はありますが、それ以外の理由で酒を禁じている国はほとんどありません。それは、酒に害がないからではなく、やめさせられそうにないからです。それぐらい酒というのは、麻薬作用の強い依存性薬物なんです。

 禁止薬物を酒と一緒に飲むと、薬物の作用は何倍、何十倍となります。彼女の場合、自宅から発見された禁止薬物は覚せい剤だけだと聞いてますが、部屋からは安物の焼酎やウイスキーのボトルが見つかったんじゃないですか?」

 藤田が答えた。
「ああ、焼酎の空き瓶がたくさん見つかったよ」

 凌一が話を続けた。
「禁止薬物だけじゃありません。睡眠薬や風邪薬、花粉症の薬だって、含まれている成分によっては、酒と一緒に服用することで麻薬のように作用します。また、酒は何処ででも好きなだけ買えますし、摂取量にも上限はないので、一年中、好きなだけ飲めます。だから、気がついた時には既に重症のアルコール依存症になっていることが多いんです。

 酒は禁止薬物以上に離脱症状が強く、急にやめれば、さっきのような大発作を起こすこともあります。薬物と酒のチャンポンを常習的に摂取していたというのなら、何が起こっても不思議じゃありません」

 藤田が少し不安げに、
「彼女は、治るのか?」

「強い離脱症状は三~四日で治まるでしょう。ただ、長期間の薬物とアルコールで内臓はボロボロでしょうから、長期の内科的な治療が必要になると思います」

「廃人になったりしないのか?」

「薬物とアルコールの長期摂取は、悩萎縮の原因になりますから、知能の低下や性格の変異が起こる可能性はあります。ただ、最近の研究によれば、これらの症状は、薬と酒をやめれば、ある程度回復するという説が有力です。彼女の若さなら、薬と酒をきっぱりやめれば、おそらく元気になるでしょう。ただ、それが一番難しいことなんですが……」

 中村が口をはさんだ。
「難しいらしいな……」

 凌一は窓の外をぼんやりと眺めながら、
「ええ、一度でも薬物の快楽を知った人間は、死ぬまでその快感を忘れません。だから薬物依存を絶ち切るということは、死ぬまで薬物の誘惑と戦い続けるということです。薬物の誘惑を絶つために、自らの命を絶つ人も沢山います。気が遠くなるほど難しいですね……」

 パトカーを運転しながら看守が凌一に尋ねた。
「新阿久山病院はどんな病院なんですか?」

 中村が呆れた顔で逆に問い返した。
「君は、警官になって何年だ?」

 看守が答えた。
「半年です」

 その答えを聞いて中村は合点がいったのか、
「それじゃ、しょうがないか…… いいか、大阪府と奈良県の県境は、精神病院銀座と言われるほど沢山の精神病院がある。大阪と奈良の精神病者のハキダメだ。山奥の精神病院にまともな医療をしているところは少ないが、その中で、新阿久山病院は、薬物依存症の専門病院として有名だ。入院中も治療だけでなく、個人的なカウンセリングをしたり、薬物の怖さを教え、それを断ち切るための教育をしたり、先端的な医療を行ってる。明日野が迷わず新阿久山病院を選んだのはそのためさ。

 新阿久山病院は、廃院になった古い精神病院を買い取って設立された病院だから、見た目は古びていて薄気味悪いが、薬物やアルコール依存症の専門病院としては、近畿で一番の先端医療を行ってる」

 看守はなるほどという表情で、
「そうだったんですか……」

 凌一が付け加えた。
「アルコールを含め、日本では薬物依存患者は精神科の医師が治療するが、実際は、依存症と精神病は全く別の病気だ。

 依存症患者は、薬物が体から完全に抜ければ、もう正常人だ。遊び心ではじめた薬物なら、それだけで治ってしまうこともある。ただ、患者に家庭環境とか、精神的に薬物に頼らざるをえないような事情がある場合、その事情が解消されないかぎり、依存症を克服することはとても難しい。だから、治療よりもカウンセリングや教育が大切なんだ。しかし、精神科医でも薬物依存に関する知識が豊富な医師は非常に少ない。まして、普通の医師など論外さ……」

 凌一を送り届けるため、看守は真美署に向けてパトカーを走らせた。真美署の駐車場にパトカーが止まった。その様子がたまたま書類を持って署から出てきた島婦警の目にとまった。

 パトカーの中には制服警官一人と刑事が二人、後部座席には横縞のパジャマを着た凌一が乗っていた。どう見ても護送される囚人にしか見えない。

「プッ」

 何か事情があるとは思ったが、島は笑いをこらえることが出来なかった。島は口元を押さえながら振り返って部屋に戻り、渡辺に報告した。

「ククッ、あの、フフフ、課長、フゥ、明日野さんが、クックック、いまっ、プッ、戻りました」

 そこへ凌一が入って来た。それを見た渡辺が腹を抱えて笑った。

「ゥアハハハッ、あ、明日野っ、ククククッ、何だその格好は?」

 周りからも、クスクス、ケタケタと失笑が漏れていた。

 凌一は、適当な言葉を見つけられずにいた。
「いや、あの……」

 渡辺が苦しそうに腹を押さえながら、しぼり出すような声を出した。
「クックックッ、いいんだ、別にいいんだけどな……、事情は聞いてる。しかし…… フフフッ、お前は私服警官だからクックッ、別にいいんだけどな…… しかし、たいした私服警官だなァ」

 横で見ていた島婦警は、あまりのおかしさに笑いすぎて息が苦しくなり、おなかを押さえ、涙を流しながら部屋を出て行った。

 凌一は奥のロッカールームに入り、間に合わせのジーンズを履き、薄いジャケットを羽織って出て来た。そして渡辺に、
「すいません。外科の診察を受けて来ます」

 渡辺は笑いを押し殺しながら答えた。
「ああ、行って来い。しばらく戻ってくるな。これ以上笑わされたら仕事にならん」

「わかりました。それじゃ、診察を受けた後、谷口可奈子の実家に行って来ます。母親の様子を見たいんで…… 母親は、認知症らしいですが、可奈子が逮捕されても面会にも来てませんし、認知症が重症の場合、ひとりで放置するわけにもいかないので……」

「それは心配するな。家宅捜索の時に明和署が母親の容態も見てる。医師にも診せたが認知症は重症らしく、今は、特別養護老人ホームに預けてある」

「そうでしたか…… それを聞いて安心しました。それでしたら、とりあえず外科に行って来ます。でも、どちらにしても彼女の家には行かないと…… 病院では着替えや洗面用具等は支給されないんで、持って行ってあげないと……」

 渡辺が怪訝そうに尋ねた。
「病院って、そんなものは支給されるんだろ?」
「課長はご存知なかったんですか? 病院は、ホテルじゃありません。医療に直接必要なもの意外は、一切支給されません」
「そうか…… それなら持って行ってやらないとな…… ただし、彼女の家に行く時には明和署の婦警に同行してもらえ。いくら犯罪者の家だと言っても、女性のタンスの中を男の警官がまさぐるのはな…… 明和署には連絡しておく」
「わかりました。助かります」
凌一は、そう言って部屋を出た。

 外科の専門医はボクサーのグローブのように腫れ上がった凌一の手のひらを見て驚いた。
「なんだこりゃ? 犬にでも噛まれたんですか? えらく傷が深いですが……」

 医師はレントゲン写真を覗き込んだ。
「小指と薬指の付け根が骨折してますね。指を使うと回復が遅くなるんで、ギブスをはめたいんですが、傷口によくないので、サポーターと包帯で固定しておきます。左手を使わないように気をつけて下さい」

「わかりました」
凌一にはそう答えるしかなかった。

 外科の治療を終えた凌一は、左手の激痛に初めて気づいた。
(こんなに痛かったのか? 今まで興奮していて感じなかったんだな……)

苦痛に顔をゆがめながら凌一は署に戻った。



 一方、凌一らが去った後、新阿久山病院では、可奈子の治療が続けられていた。三崎医師は、女性看護師に指示して、可奈子の髪や体に付着した嘔吐物や血液を綺麗に拭き取らせ、衣類も病院に備え付けのものに着替えさせた。
看護師が尋ねた。

「保護室に入れますか?」

 三崎が答えた。
「いや、ここでしばらく様子を見ましょう」

 保護室と言うと聞こえはいいが、精神病院の保護室とは鉄格子で覆われた独房であり、それは刑務所の独居房のような小綺麗なものではない。三畳ほどの部屋の一画に便器がむき出しの状態で備えられた『牢屋』である。

 建前上は、自殺や自傷の恐れのある患者を一時的に保護するための部屋で、精神病院には例外なくあるが、多くの場合、保護室は医師や看護師の指示に従わない反抗的な患者に対する懲罰房として使われる。

 保護室内の患者は、コンクリートの壁に設けられた小さな窓から食事や飲み物をもらい、部屋の便器で用を足す。便器の水洗ボタンは部屋の外にあり、医師や看護師がボタンを押してくれない限り、患者は自分の汚物を流すことすら出来ない。長時間誰も様子を見に来てくれないことも多く、この場合、患者は便器の水で顔を洗い、それを飲む。男女の区別はない。患者のプライバシーなどという高尚なものはここにはない。日本国憲法で保障された国民の『健康で文化的な最低限度の生活を営む権利』など、ここには存在しない。

 看護師が気軽に「入れますか?」と尋ねた保護室とはそういうところである。

 新阿久山病院の院長である阿久山医師はそのような精神病院の『強制収容所』のような状態を改めるために私財を投げ打ってこの病院を設立した熱血医師であり、その下で働く医師たちも、同じ情熱を持って集まった集団である。三崎医師も保護室廃止論者の一人だった。

 しかしながら、高い理想とは裏腹に、薬物依存患者の治療を専門とする新阿久山病院の保護室の稼働率は高かった。薬物依存患者は、薬が体から抜けていく段階で、妄想、幻覚、幻聴、痙攣などさまざまな離脱症状を伴い、時として、他の患者に危害を加えることがあるためである。

 三崎は、発作がおさまって穏やかに眠っている可奈子の青白い寝顔をぼんやりと眺めていた。白く細い手に刺さっている点滴が、痛々しく見えた。

(外来の患者を待たせたままだな……)
そう思った三崎は看護師に指示した。

「外来の患者を診るから、その間だけ保護室に入れておいて下さい。出来るだけ頻繁に様子を見るように……」

「わかりました」
看護師は、可奈子が乗せられた寝台を押して処置室を出て行った。

保護室に収容されてしばらく後、可奈子の意識が戻った。
うっすらと見開いた可奈子の目に入った景色は、きのうのものとは違っていた。

(違う留置場に移されたのかしら……)

 一瞬、そう思った可奈子は周りを見回した。そして、自分の左手に点滴が刺さっていることに気づいた。
(何? これ……)
 そう思った可奈子の目の前の壁に、何か書かれていた。それは、ペンや鉛筆で書かれたものではなく、コンクリートの壁に爪で彫られた古い文字だった。

『神様おゆるし下さい』

 それを見た可奈子は急に何かにおびえ、上半身から血が引いていくのを感じながら、悲鳴をあげた。
「キャーッ! 何これ! ここどこ! 誰か助けて!」
立ち上がろうとした可奈子はよろめいて膝をついた。目の前にむき出しの和式便器があるのを見た可奈子は完全にパニックになった。
「ギャー! ギャー! 助けて!」

 可奈子は強引に部屋から出ようとして鉄格子の隙間に顔を突っ込んだ。

 慌てて看護師が駆けつけた。そして叫んだ。
「落ち着いて! ここは病院です! 何も心配ありません!」

 悲鳴を聞いて、三崎が駆けつけた。そして冷静に言った。
「鍵を開けて下さい」

 看護師が鍵を開けると、必死の形相の可奈子が飛び出して来た。逃げ出そうと暴れる可奈子を三崎がしっかりと抱きとめて穏やかに諭した。
「谷口さん、落ち着いて、ここは病院です。何も怖くありませんよ」

 三崎の両手を振りほどこうと暴れる可奈子に三崎は繰り返し言った。
「私は医師です。ここは病院です。何も怖くありませんよ」

「じゃあ、この檻は何よ! 何で病院に檻があるのよ!」

 三崎は物静かに、
「後で詳しく説明しますが、あなたは明和警察の留置場で発作を起こしてこの病院に運ばれたんです。これは檻じゃなく保護室といって、患者が暴れてけがをしたりしないように一時的に収容する部屋です。暴れたり逃げたりしないと約束してくれるなら、もう、保護室には入れません。冷静にすると約束してくれますか?」

 それを聞いた可奈子は、やっと冷静さを取り戻し、暴れるのをやめた。

 三崎が、
「ベッドを用意してありますから、病室に移って下さい。自分で歩けますか?」

 可奈子はうつむいて小さな声で答えた。
「大丈夫です」

 可奈子は女子患者の大部屋に案内された。ベッドに腰をおろすと、古びた小さなベッドがギシギシと音を立てた。
三崎の透きとおった温かい視線が可奈子に向けられた。
「さっきも言いましたが、あなたは、明和警察の留置場で離脱発作を起こしてここに運ばれました。警察からは、建造物等以外放火と覚せい剤取締法違反の容疑で留置されていたと聞いてます。離脱発作は、依存性のある薬物を長期間服用していた患者さんが発症するもので、薬が体から抜けていく時に起こる症状です。刑事さんの対応が早かったから良かったものの、処置が遅れれば、命に関わる発作です。内臓もボロボロに病んでますし、当分、ここで治療する必要があります。ここは、新阿久山病院と言って薬物依存の治療を専門とする病院なんで、安心して療養して下さい」

 三崎の穏やかな説明を聞いた後、可奈子が恥じ入るような声で、
「でも、私は犯罪者です。刑務所に行かなくていいんですか?」

「医長より、あなたには、緊急措置入院の診断が下されてます。今日中には院長の診断を加えて、措置入院の扱いになります。正式に県知事より措置入院の命令が下されれば、精神保健福祉法により、刑の執行は停止され、あなたの身柄は病院が預かることになります。ただ、措置入院による刑の執行停止は、刑法上の心神喪失とは違いますので、あなたは無罪になるわけじゃありません。検察の判断によりますが、あなたはここに入院したまま起訴される可能性もあります。ただし、もし検察が在宅起訴をして、有罪判決が下ったとしても、病気が治ってあなたが受刑に耐えられると医師が判断しない限り、つまり措置入院が解除されない限り、あなたの身柄は刑務所に送られることはありません。あなたは、逮捕されたのは初めてですか?」

 三崎の問いに可奈子が小さな声で答えた。
「はい」

 三崎は安堵の表情を浮かべ、
「それでしたら、恐らく判決には執行猶予がつくでしょうから、あなたにはここで、病気の治療に専念してもらうことになるでしょう」

「いつ頃退院できるんですか?」
「それはあなた次第です。内臓は二~三週間程度の点滴で回復すると思いますが、薬物依存は完全治癒が極めて難しい病気ですから、医師としても慎重にならざるをえません。あなたは覚せい剤だけじゃなく、いろんな薬物を、それもお酒と一緒に飲んでたんじゃないですか?」
「そうです」

 三崎が険しい表情をした。
「禁止薬物はむしろやめ易いんです。一番厄介なのはお酒です。お酒を飲むことは違法じゃありません。この病院を退院すれば、あなたは好きなだけお酒を飲めます。警察にもやめさせる権限はありません。でも、アルコール依存症は、覚せい剤や麻薬に負けないぐらい怖い病気です。合法なものばかり集めてチャンポンにして摂取すれば、薬毒の強さは麻薬なみになります。それが一番厄介なんです。あなたはまだ若い。薬をやめれば、これから楽しいことが沢山あるはずです。もっと自分を大切にしないと……」

 可奈子が吐き捨てるように、
「私に楽しいことなんかありません。死ぬまでありません」

 三崎は優しく諭すように、
「この病院に来る患者さんは、みんなそう思ってます。酒や薬物以外に楽しいことはない、とか、酒で死ぬなら本望だ、とか、私たちは毎日同じことを聞かされてます。でも、残念ながら酒も薬物も体をボロボロにするばかりで、なかなか死なせてはくれないんです。反対に、私たちの言葉に耳を貸してくれて、薬物やお酒を断てば、最初はつらいことばかりかもしれませんが、いずれ必ず楽しい日々がやって来ます。そうして、十年も二十年もやめ続けている人が沢山いるんです」

「他の人はそうかもしれません。でも、私には死ぬまで楽しいことなんかないんです。楽しい日々なんか絶対に来ないんです」

「……」
可奈子のあまりにも頑固な返事を聞いて、三崎は一旦、次の言葉を失った。そして、気をとりなおして言った。

「まあ、いいでしょう。とにかく今は安静にして下さい。あと、一般の病院でもそうですが、医師の許可なく外出は出来ないんで、それはご理解下さい」

可奈子が答えた。
「わかりました」



 三崎が病室を出た後、可奈子は自分の周りを見回した。この病院は、もともと廃院となった古い精神病院を買い取ったものだったので、病室も老朽化が著しく、窓には錆だらけの鉄格子がはめられた気味の悪い空間だった。窓ガラスのひび割れがセロテープで塞がれているのが、何か侘しさを訴えていた。

 ただし、看護人が清掃する保護室とは違って、入院患者が清掃を命じられる病室は、みすぼらしいなりに清潔には整えられていた。一般の病院では、病室の清掃は、清掃業者の仕事だが、精神病院では入院患者たちが病室の清掃を命じられる。もちろんこれは、病院の経費節減対策であるが、精神科医はこれを『作業療法』と呼ぶ。

 現在、新阿久山病院は、薬物依存患者に対して先端的医療を行っている病院として、横須賀の久里浜病院と並び称されており、この分野を専門とする医師の間では、知る人ぞ知る病院だが、その財政状況はしているようで、院内の設備は、お世辞にも立派なものとは言えない。

『まともな医療をやっていたら、絶対儲からない』というのが、日本の病院業界の常識である。しかしながら、『実際には儲けている病院が多い』というのも病院業界の常識である。

 可奈子には薬物依存症患者の治療を専門とする精神病院に緊急措置入院させられたという自分の立場がまだ完全に理解できていなかった。

 精神病院の病棟には大きく分けて開放病棟と閉鎖病棟の二種類があり、比較的軽症で身柄を拘束する必要のない患者は開放病棟に入れられる。開放病棟は一般の病院に近く、外出や外泊も比較的簡単に認められる。一方、重症患者や脱走の可能性のある患者は閉鎖病棟に入れられる。閉鎖病棟は、病院というより刑務所に近い。もちろん、外出や外泊は、厳しく制限される。刑事犯の可奈子が入るのは、もちろん閉鎖病棟だ。

 保護室を除けば、個室のある精神病院はまれで、ほとんどの患者は大部屋に入れられる。新阿久山病院は、薬物依存の治療を専門とする病院なので、当然、他の患者たちも薬物依存(ヤク中)患者やアルコール依存(アル中)患者ばかりであり、個性豊かな面々が集まっている。

 新入りの可奈子は、同じ病室の他の患者たちから興味津々の視線を向けられた。患者の年齢層は、一見したところ十代後半~四十代後半と幅広かった。十代は恐らく可奈子と同じようなヤク中、四十代になると今度はキッチンドランカーと呼ばれるアル中患者が多くなる。ヤク中でもアル中でもある可奈子は、いわば両刀づかいと言ったところか? 他の患者たちは、もう初期の離脱症状が治まっているらしく、可奈子の目には、普通の人たちにしか見えなかった。隣のベッドで本を読んでいた中年のオバサン患者が可奈子に声をかけた。

「あなた、シャブ中なんだって? ここにも何人かいるけど、いいわね、禁止薬物は。警察が取り上げてくれるから……」

 可奈子が恐る恐る尋ねた。
「奥さんは?」

「私は筋金入りのアル中、三度目の入院よ。お酒って退院すれば、どこでも買えるし、いくらでも飲める。きちんと家事をこなしていれば、やめろとさえ言われない。だから賢いアル中は、仕事や家事はきちんとこなすのよ。人に迷惑かけない限り、やめさせられる心配がないから……。
私も酒瓶片手に家事をこなしていたわ。結局、キッチンドランカーは深みにハマるまで、誰も助けてくれないのよ」

 可奈子が自嘲気味に、
「私はヤク中のアル中です」

「そう、それなら将来はここの牢名主かもね……」
 そう言ってオバサンは、フッと笑みを浮かべ、可奈子に背を向けた。可奈子はその背中に向けて自嘲ぎみに言った。

「私、ここの立派な牢名主になります……」




 翌朝、凌一は新阿久山病院を訪れ、可奈子に面会した。

 看護師に導かれて病院の面会スペースに来た可奈子に凌一が話しかけた。
「おはよう、少しは落ち着いたかい?」

 冷ややかな表情で可奈子が答えた。
「はい。でも、刑事さん、お気の毒ね。せっかく犯人を捕まえたのに、病院に逃げ込まれるなんて……」

 凌一は、「フッ」と小さく笑った。
「警官の仕事は、市民の安全を守ることさ。留置場にいようが病院にいようが、君はもう市民の安全を脅かすことはないだろう。僕らの仕事は終わりさ。君は今日、検察に送致される。後は検察の仕事さ。送致といっても手続き上のもので実際に身柄が検察に送られるわけじゃないから、安心してここで療養すればいい」

「刑事さん、左手の怪我はどうしたの?」

 凌一は、紙袋を三つ、可奈子に手渡しながら言った。
「ああ、これかい、ちょっとね。それより、これ、着替えとか洗面用具とか入院生活に必要そうなものを持って来たから。それから、これ、明和署が預かっていたものだけど、君の財布。入院生活にも多少のお小遣いは要るだろ?」
紙袋の中を覗き込んだ可奈子は、正直にホッとした様子を見せた。入院生活に必要な日用品は意外に多い。彼女は着替えさえ持っていなかった。

「ありがとう。取調べはしないの?」
「だから言ったろ。もう警察の仕事は終わりだし、もともと僕は君の担当刑事じゃない。ただの面会人さ」

 それを聞いた可奈子の態度は急変した。可奈子はせっつくように尋ねた。
「教えて、私はこれからどうなるの? 先生は、執行猶予がつくからここで治療に専念すればいいって言うんだけど……」

「これから明和署の調書をもとに、検察が決めることだけど、君の罪状は建造物等以外放火と覚せい剤取締法違反、どちらも初犯だから起訴されたとしても、判決には、多分、執行猶予がつく。保証は出来ないけど…… 調書も不十分だし、現場検証も出来てないから、君は何度か検察の取調べを受けるだろうけど、この病院から外出の形で行くことになるから、取調べが終われば、帰って来れるよ。放火したのが住居でなくて本当に良かった。現住建造物に放火なんかしたら、殺人と同じくらい重い罪になるからね……。
執行猶予がついた場合、君は、医師の診断により措置入院が解除されるまで、この病院で治療に専念することになる。措置入院から、医療保護入院、任意入院と段階を経て退院になることもある。退院したら、もっと自分を大切にしないとダメだよ……」

「母はどうしてるんですか?」

「心配しなくていい。今、特別養護老人ホームに預かってもらってるから…… これは、君が逮捕されたための緊急的な処置で、本当は入院の順番待ちの人が何百人もいるんだよ」

「そう……」



 可奈子と別れた後、凌一は三崎医師と面談した。凌一が尋ねた。
「彼女の容態はどうですか?」
「正直申し上げて、芳しくありません。内蔵がボロボロです」
「危険な状態ですか?」
「いえ、ご心配なく、この病院にいる限り命に関わるようなことはありません。ただ……」
「ただ……?」
「問題は精神的な薬物依存の方です。退院後、禁止薬物をやめたとしても、世間にはそれに近い作用を持つ合法的な薬物が沢山あります。お酒がその代表です。一旦、ボロボロになった内蔵は、治療して回復しても元の状態に戻り易いんです。今度、薬漬けになるようなことがあれば、命は保証できません」
「そうですか……」

 今度は逆に三崎が凌一に尋ねた。
「捜査の方はどうですか? 医師の立場から言わせてもらえば、密売ルートを根絶して欲しいんですが……」
「彼女に覚せい剤を販売した密売ルートは、大阪府警がマークしてます。近いうちに全容が解明され、組織は根絶されるでしょう。彼女の個人的な処分は、だいたい先生の予想通りになると思います」
「わかりました。どちらにしても、私は医師の立場から最善を尽くします」
「どうか、よろしくお願いします」


第四章 約 束




 署に戻った後、凌一は、車両放火事件の関係書類を書いていた。ドラマや小説では刑事というと、外回りの捜査ばかりしているように描かれているが、所轄刑事の場合、デスクワークは意外に多い。特に捜査の途中や終了後の資料整理や報告書作成は、冗談じゃないと言いたくなるほど大変である。

 ただし、もともとデスクワークの得意な凌一にとっては、血なまぐさい事件の捜査よりも文書作成業務の方が、気楽で落ち着ける仕事だった。

 書類作成が一段落つき、お茶でも飲もうかと凌一が席を立とうとして周りを見回した時、凌一は署内の尋常でない雰囲気を察知した。

 通信指令本部からの各課同時通報が警報を鳴らした。

【葛城警察管内、110番入電、銃撃戦の模様、死者あり、犯人は多数の人質を取って、葛城南高校体育館を占拠、現在、葛城署PC(パトカー)、及び捜査員が包囲、以降当該方面系の無線を傍受願います】

 そばにいた署員がチャンネルを当該方面に切り替えた瞬間から、無線に無数の怒号が飛び交って理解不能の状態となった。席を外していた渡辺が部屋に飛び込んで来た。いつになく緊迫した声だった。

「葛城南高校で男が猟銃を乱射してる! 既に死者が出てる模様だ! 男は二十人以上の生徒と教師三名を人質にして、体育館に立てこもってる! 既に葛城署とART(奈良県警特殊突入部隊)が体育館を包囲してるが、各署に応援要請が来てる! 我々も、これから現場に向かう!」

 刑事課の署員が慌てて席を立ち、防弾チョッキを着用した。渡辺が銃器保管庫から拳銃を取り出し、一人一人に手渡した。準備が整うと、全員が部屋を飛び出し、捜査車両に乗り込んだ。

 久保がハンドルを握り、アクセルを踏み込んだ。捜査車両は、けたたましいサイレンの音を鳴らしながら、マイクで前の車をどかせ、葛城南高校へ急行した。車内が異様な緊張感に包まれていた。

 正門の前に車が止まると、最初に凌一が車を降り、現場に向かって駆け出した。現場に着くと、既に葛城署のパトカーが校庭に集結しており、無線で連絡を取り合っていた。体育館の周りは、ARTの部隊が包囲していた。高校の周りはマスコミが取り囲み、上空ではヘリが旋回していた。警官隊の横では、人質となった生徒の親たちが心配そうに体育館を見つめていた。

 葛城署の刑事課長は、凌一とも面識のある西田である。凌一は、西田の姿を見つけて声をかけた。
「西田さん! 状況は?」

 西田が緊迫した表情で振り返った。
「明日野か! 状況は深刻だ。猟銃男は既に校長を射殺し、体育館に立てこもってる。体育館の中では、二十二人の生徒と三人の教師が人質になってる。人質は体育館の中央に集められてるが、猟銃男の居場所は確認できてない。恐らく、体育館二階の回廊を移動しながら、人質を狙ってると思われる。三人の教師のうち、一人は、撃たれてけがをしてる模様だが、体育館の一階には窓がないため、中の様子は把握しきれてない」

 凌一が訊いた。
「ARTは?」
「今、体育館の屋根から二階の窓越しに中の様子を伺っているが、二階の窓からでは回廊の死角になって、人質の様子が確認できない。猟銃男の位置も確認できてない。今の状態では突入は不可能だ。こちらがARTの石田小隊長だ」

 石田が凌一に、
「明日野さんですか、石田です」
「真美署の明日野です」

 凌一が西田に尋ねた。
「けが人の容態は?」
「体育館から逃げ出した生徒の話によれば、教師の一人が肩を撃たれた模様だ。けがの程度はわからんが、恐らくかなりの重症だ」

 凌一は、そばにあった拡声器を手に取り、西田に、
「とにかく、けが人を運び出させてくれるように、男と交渉します」

 凌一から少し遅れて、渡辺、谷川、深浦、久保、島が来た。

 拡声器で話そうとしていた凌一を渡辺が制止した。
「県警本部の車がまもなく到着する。それまで待とう」
「あんな連中が来てもクソの役にも立ちません。それより、けが人の出血を止めないと危険です。待てません!」

 渡辺は一瞬戸惑ったが、意を決して、
「わかった。ただ、ここからでは体育館の中に拡声器の声は届かない。男と交渉するには、六箇所ある出入り口のどれかを開ける必要がある。猟銃男は二発発砲して二発とも命中させてる。かなりの腕だ。どこで狙っているかわからんぞ」

 凌一が険しい表情で西田に訊いた。
「学校なら、校内放送の設備があるはずです。教師はいないんですか?」

 横から一人の教師が凌一に声をかけた。
「私は、ここの教諭です。山本といいます。校内放送の設備はこちらです」

 凌一は、職員室の隣の放送室に案内された。凌一は、マイクに向かって語りかけた。
「体育館に立てこもっている者に告ぐ、こちら警察だ。君の要求を聞く前に、中のけが人を収容させてくれ。もう一度言う。こちら警察だ。君の要求を聞く前に、中のけが人を収容させてくれ」

 山本が険しい表情で、
「ダメです。体育館内には、こちらに返信する設備がありません。犯人の返事を聞けません」

 その時、隣の職員室の電話が鳴った。犯人からのものだった。犯人は携帯電話から、学校の電話に返信して来たのだ。

 凌一はその電話を取り、犯人と話した。
「体育館の中の君か? 私は明日野という警察の者だ。君の要求は後でゆっくりと聞くから、中のけが人を運び出させてくれ。頼む」

 電話の向こうで猟銃男が、
「けが人は自分で歩ける。今から出て行かせる。妙なことをしたら人質は皆殺しにするぞ」
「わかった。一切、手は出さない。約束するから、けが人を出て来させてくれ」

 しばらくして、一人の教師が肩を押さえながら体育館から出て来た。かなりの出血だが、命に別状はなさそうだった。
 その教師を乗せた救急車と入れ違いに、県警本部の車が到着した。
 県警本部の連中は、少し離れたところで何か話していたが、どうしていいかわからないような様子で本部の指示を仰いでいた。現場の指揮は実質的に渡辺にゆだねられる状態になった。



 無線で何か話していた西田が近づいて来た。
「猟銃男の身元が割れました。佐伯敏男です。携帯番号もわかりました」

 渡辺が、
「そうか、当面この放送室と隣の職員室を対策本部にする」

 凌一が西田に尋ねた。
「佐伯敏男は何者ですか?」
「佐伯は、息子をこの高校に通わせてたが、その息子が去年、自殺した。息子の遺書には、自分をいじめた生徒四人の名前が記されてたが、学校側は、調査の結果いじめはなかったと発表した。今回の凶行は、息子の恨みを晴らすのが目的だろう」
「人質の中にその四人はいるんですか?」
「いや、いない」
「恐らく、佐伯の目的は、息子をいじめた生徒といじめを否定した教師への復讐でしょう。今のところ、撃たれたのは校長を含め、二人とも教師です。佐伯には無関係な生徒を撃つ意図はないと思います」
「しかし、中にはまだ教師が二人いる。彼らの命は極めて危険な状態だ」
「確かに…… 石田さん、まだ、佐伯の動きは掴めませんか?」

 石田小隊長が答えた。
「はい、二階の窓越しでは、佐伯の動きを完全に把握するのは不可能です」

 渡辺が携帯を手に取り、佐伯に電話した。
「佐伯か、こちら奈良県警の渡辺だ。要求を聞こう」

 携帯の向こうで佐伯が答えた。
「息子を殺した四人を連れて来い」
「それは出来ない」
「四人を連れてこなければ、人質は全員射殺する」
「落ち着け、君の気持ちはわかる。心から同情する。しかし、中の人質は無関係だ」
「そうだ、無関係だ。無関係な人質の命が大事なら、息子を殺した四人を連れて来い」

 佐伯が電話を切った。

 渡辺が、
「佐伯は恐らく、息子の遺書に名前のあった四人を射殺するつもりだろう。明日野が言うように、中の生徒を殺すつもりはないと思うが、二人の教師は危ない」

 凌一が山本に訊いた。
「体育館の図面はありますか?」
「どんな図面が要るんですか?」
「あるもの全てです。特に平面図、断面図、設備や配管の図面が欲しいんです」
「わかりました。探して来ます」

 山本は、すぐに図面を探して戻って来た。関係者全員が体育館の図面をめくった。

 体育館の平面図を見た久保が、
「うーん、人質が体育館の中央に集められているとすると、二階の回廊からなら、どこからでも人質を狙えますね……」

 それを聞いた深浦は、
「しかし、舞台裏の倉庫からなら、犯人の射程に入らずに一階に侵入できます。問題は、侵入した後どうするかですね」
 久保が、
「そうです。そこが問題です。一階の舞台に侵入できても、二階に上がる階段はありません。回廊に上がる方法は、東西に二箇所ずつあるモンキータラップを登るしかありません。犯人からは丸見えですよ」

 二人の会話を横で聞いていた谷川は、
「犯人が南側の回廊にいる時なら、一階の舞台から狙撃できるな」

 石田小隊長が、
「隊員からの報告によれば、犯人は、回廊を絶えず移動していますが、南側には、ほとんど行っていません。舞台からの狙撃を警戒しているものと思われます」

 その時、ガツンという猟銃に特徴的な銃声が鳴り響いた。

 渡辺が犯人の携帯に電話した。
「佐伯か、何をした。誰か撃ったのか?」

 電話の向こうで佐伯が答えた。
「こちらの要求を呑まないので、教師を一人射殺した」
「佐伯、落ち着け、早まるな、落ち着くんだ」
「息子を殺した四人が来なければ、残りの人質も一人ずつ射殺する」

 佐伯が電話を切った。最悪の事態となった。犯人はどこからでも人質を狙撃できる。この状態では、突入は不可能だ。

 その時、ARTの隊員から報告があった。教師が一人撃たれたことを確認したとのことだった。

 体育館の図面を見ていた石田が、
「ダメだ! あの体育館の排煙方式では、催涙弾を打ち込んだところで、煙は一階に充満するだけで、二階の犯人を無力化できない。犯人を興奮させて人質を危険にさらすだけだ! 突入は無理だ! 万事休すか……」



 その時、凌一が拳銃を机に置き、防弾チョッキをはずして、上着を脱いだ。そして、
「課長、私が行きます」

 渡辺が驚いて、
「明日野、お前、何をするつもりだ?」
「佐伯を説得します」
「ムチャな! 奴は既に二人殺してるんだぞ」
「だから行くんです。これ以上、被害者を出すわけにはいきません」
「じゃあ、なぜ、銃とチョッキを置いて行くんだ?」
「こんなもの持ってたら、説得なんか出来ません」
「明日野、お前……」

 凌一は、携帯を取り出し、佐伯に電話した。
「さっき、校内放送で話した明日野だ。今からそっちへ行く、銃と防弾チョッキを置いて、上着も脱いで行く。校庭の真ん中を歩いて一人で行く。そちらから丸腰が確認できるように、時々背中を向けるからよく見ろ」

 電話の向こうで佐伯が言った。
「何しに来るんだ!」
「君とゆっくり話がしたい」
「こっちの気をそらして、その隙に突入するつもりだろ! その手は食わんぞ!」
「そっちの状況は調べた。突入が不可能なことは知ってる。君と話したいだけだ」
「わかった。妙なことをしたら人質は全員射殺するぞ、こっちはもう二人殺してるんだ。何人殺すのも同じだぞ!」
「わかってる。とにかく行く。撃ちたければ撃て」

 凌一はシャツのポケットにパールスティックを収め、対策本部を出て行こうとした。

 それを見た県警本部の捜査員が呼び止めた。
「おい! ちょっと待て! 本部から突入の指示は出てない。勝手なことは許さんぞ!」

 凌一は振り返って、ひきつった笑みを浮かべながら答えた。
「突入なんかしませんよ。犯人を訪問するだけです」
「しかし……」県警本部の捜査員が次の言葉を探しているうちに凌一の姿はなくなっていた。

 凌一は両手を頭の後ろに組み、校庭の真ん中をゆっくりと歩いた。丸腰であることがわかるように、時々、体育館に背中を向けた。怖かった。恐ろしかった。足がガクガク震えた。指先がワナワナ震えた。佐伯は体育館のどこかで見ている。もう奴の射程圏内に入っている。恐らく、今、奴の銃口は、自分に向けられているだろう。今度、銃声が響いた時には、もう自分はこの世にいないだろう。凶弾に倒れて、自分の周りが血の海になっている様子を想像した。怖かった。とにかく怖かった。それでも凌一は、ゆっくりと歩を進めた。真子と真穂のことを考えた。もうあの姉妹に会えないかもしれないと思った。死ぬまでに二人を思い切り抱きしめたかった。二人の柔らかい温もりをもう一度感じたかった。凌一は後悔した。人間、明日のことはわからない。自分は何を遠慮してたんだろう。自分は姉妹に愛されている。自分も姉妹を愛しく思っている。姉妹の両親にも認められている。二人を思いっきり抱きしめたかった。二人に好きだと言いたかった。

(姉妹を二人とも愛して何が悪い! 好きなものは好きなんだ! 同時に二人の女性を愛することが道徳的に許されないというのなら、好きな娘を無理に嫌いになれというのか? そっちの方がおかしいだろ!)凌一はそう思った。

 体育館に近づくにつれ、足の震えが止まらなくなった。顔が引きつった。心臓の鼓動が激しくなった。背中が汗でびっしょりになった。怖かった。ただ、ただ、怖かった。

 凌一は自分に言い聞かせた。
(怖いか、怖くないかなんて関係ない。やるべきことだから、やるんだ!)

 体育館の前に着いた。ここまで来るのに、何日も歩いたように感じた。凌一は、体育館の扉に手をかけた。恐怖で手が震えて、鉄の扉がうまく開けられなかった。凌一は、両手でしっかりと扉の取っ手を握りしめ、ゆっくりと扉を開いた。凌一は震える足を体育館のフロアの上に進め、中に入ると、ゆっくりと扉を閉めた。母親を知らない凌一が心の中で唱えた。

(お母さん……)

 視線の前には、人質たちがいた。射殺された教師の周りは血の海になっていた。人質たちは体育館の中央に集められ、ガタガタ震えながら泣きじゃくっていた。確認したわけではないが、女子生徒ばかりのように見えた。人質の中に教師らしき者もいた。凌一は、どこにいるのかわからない犯人に声をかけた。恐怖で変な声になった。

「佐伯さん! 聞こえますか! 私が明日野です!」

 どこからか、佐伯の声がした。
「ああ、聞こえるぞ!」

 凌一は姿の見えない犯人に語りかけた。
「佐伯さん! 事情は聞きました! 息子さんのこと! 心からお悔やみ申し上げます!」

 佐伯の返事が聞こえた。
「お前なんかに息子を殺された俺の気持ちがわかるか!」
「わかります! 私にはわかります! 私の目の前にいたら、息子さんをいじめた奴らが私の目の前にいたら、私だって殺してやりたい! いじめは犯罪です! いじめによる自殺は人殺しです! 私はそう思っています! いじめを否定した教師たちも殺してやりたいと思います! 教師という聖職にありながら、何たる無責任! 許せない! 私には許せない!」

 犯人からは何の返事もなかった。凌一は話を続けた。
「佐伯さん、でも私はあなたにも訊きたいんです! 息子さんはどうしていじめられていることをあなたに相談しなかったんですか! あなたに相談していれば、転校させることだって出来たじゃないですか! 息子さんはなぜ自殺するまで黙っていたんですか! 今の子供たちは、親をあまり頼りにしてくれませんが、実際には、親の力で何とかなることはいっぱいあると思うんです! どうして今の子は親に相談しないんですか! 私にはそれが残念でなりません!」

 やはり犯人からは何の返事もなかった。凌一はさらに話を続けた。
「佐伯さん! 確かにあなたの息子さんを自殺するまでいじめ抜いた四人も、いじめを否定した教師たちも、今の法律で裁くことは出来ません! でも、私の友人にジャーナリストがいます! あなたに約束できます! そのジャーナリストに頼んで、この学校のいじめの実態を暴きます! 必ず紙面に載せて見せます! 私の命と名誉にかけて誓います! ですからどうか私を信じて銃を置いて下さい!」

 二階の回廊のどこかから、嗚咽する声が聞こえた。声が反響して、どこからその嗚咽が聞こえてくるのか、わからなかった。凌一は、
「佐伯さん! 今からタラップを登って回廊に上がります! お願いします! あなたに手錠をかけさせて下さい! そうしないと、警官隊が突入すれば、あなたは射殺されます! 私には、あなたのような人が射殺されるのが我慢できないんです! 今からタラップを登ります! 撃ちたければ撃ちなさい!」

 凌一は、ゆっくりとタラップを登り始めた。足がガクガク震えた。指がワナワナ震えた。自分の心臓の鼓動が聞こえた。怖かった。ただ、ただ、怖かった。それでも凌一はタラップを登り、二階の回廊に上がった。見渡すと、そこには、猟銃を床において、ぼんやりと座っている男がいた。男の瞳からは、とめどなく涙が流れていた。凌一は、ゆっくりと、ゆっくりと男に近づき、優しく声をかけた。

「佐伯さんですね。あなたに手錠をかけさせてもらいます。さっきの約束は守ります」

 凌一は、男の両手に手錠をかけ、猟銃を手に取った。そして、バッタリとその場にへたり込んだ。凌一は、しばらく呆然と体育館の天井を眺めていた。そして、思い出したようにズボンのポケットから携帯を取り出し、震える指で渡辺に電話した。

「明日野です。佐伯敏男の身柄を拘束しました。猟銃は取り上げました。中は安全です」
そう言って、凌一は両手にしっかりと猟銃を握りしめたまま、バッタリと仰向けに寝転んだ。

 一斉に全ての扉が開けられ、警官隊が飛び込んで来た。人質たちは収容され、生徒たちは父兄に帰された。血相を変えて久保と深浦がタラップをかけ上がって来た。そして凌一に声をかけた。

「明日野さん! 大丈夫ですか!」

 ひと呼吸おいて、凌一が、
「いや、全然大丈夫じゃない……。おしっこちびった」

 佐伯敏男を久保にまかせ、凌一は深浦に抱きかかえられるようにしてタラップを降りた。下で待っていた渡辺が凌一の背中にそっと手をあてて言った。

「ご苦労だったな。さあ、帰ろう」

 帰りの車中、凌一は顔をクシャクシャにして子供のように泣きじゃくった。渡辺が、
「ここは、刑事ドラマの世界じゃない。刑事だって怖いんだよ。明日野、それでいいんだ……」



 翌朝の紙面には大見出しが掲げられた。

『丸腰刑事 猟銃乱射男を説得逮捕 二名死亡 学校のいじめ調査に疑問』

 凌一は新聞を読まないので、なにやら外が騒がしいなと思いながらも、何も知らずにハイツのドアを開けた。外に出た途端、マスコミのフラッシュで前が見えなくなった。凌一は、マスコミをかき分けながら駅に向かった。駅に向かう途中も、凌一の周りには異変が起きていた。女学生たちが凌一の行方を取り巻きながら黄色い歓声を上げていた。

「あの刑事さんよ! あの刑事さん! かっこいい!」

 凌一は、そばに芸能人でもいるのかなと思って、周りをキョロキョロ見回しながら歩いていた。電車の中でも、下車してからも、凌一は女学生に取り囲まれていた。中にはサインをねだる娘までいた。

 署では、凌一は拍手をもって迎えられた。席に着くと、すぐに刑事部長から電話があった。記者会見に出席するようにとのお達しだったが、凌一は頑として断った。きのうおしっこをちびったことがバレるのを恐れたからである。

 島が凌一に問いかけた。
「明日野さん、お手柄だったのに、どうして記者会見に出ないの?」

 凌一がもっともらしい建前上の理由を答えた。
「人が二人も亡くなってる。でも私には、心の底から射殺された校長のことを気の毒に思えない。むしろ、私には、いじめで息子を失った佐伯敏男が気の毒に思える。警察官には許されない感情だということはわかってるんだが、どうしても天罰覿面という言葉が思い浮かぶんだ。あの校長が学校内でのいじめを認めて、謝罪でもしていれば、こんなことにはならなかったんじゃないかと……」

 それを聞いた渡辺は、
「明日野、気持ちはわかるが、それは警察官の仕事じゃない。佐伯敏男の情状は裁判で酌量されるだろう。公判では、いじめの事実についても明らかになるに違いない。いずれにしても、お前が二十三人もの人質を救ったことは間違いない。もっと胸を張れ」

 凌一は考えていた。自分は佐伯敏男と約束した。あの高校でのいじめの実態を暴くと…… その約束は果たさなければならない。

 凌一の携帯が鳴った。真穂からだった。凌一は部屋を飛び出しながら、通話ボタンを押した。
「真穂ちゃん、おはよう。どうしたの? こんな時間に。今、授業中じゃないの?」
「うん、今トイレからかけてるの。凌一さん、きのうすごかったのね。ひどいじゃない、電話ぐらいくれてもいいのに……。今夜は、お母さんが大ご馳走を作るってはりきってたわよ!」
「真穂ちゃん、ダメだよ、授業抜け出したりしたら。ご馳走は楽しみだけど……」
「そう、それを聞いて安心したわ。きれいな娘にキャーキャー言われて、もう、うちには来ないんじゃないかって、ちょっと心配だったの」
「そんなわけないだろ」
「わかったわ。それじゃ待ってるから」
「ああ、必ず行くよ、それじゃ仕事があるから」

 凌一は電話を切り、携帯をポケットに収めた。その途端、今度は真子からメールが入った。
〔凌一さん、お手柄、おめでとう。今夜はご馳走です〕

 凌一は、短かく返信した。
〔ありがとう。ご馳走楽しみです〕

 席に戻った凌一は、なぜか深いため息を吐いた。いい仕事をしたとは思うが、まさか、こんな大騒ぎになるとは想像もしていなかった。

(そうだ、佐伯との約束を果たさないと……)

 凌一は、思い出したように携帯を取り出し、榎本真由美に電話した。
 電話の向こうの真由美に凌一が挨拶した。
「明日野です。こんにちは」

 真由美が凌一を冷やかした。
「あら、ヒーローが私に電話? ライターがみんな死ぬほど取材したいと思ってる人が自分から電話してくるなんて、どういう風の吹き回しかしら?」
「実はお願いがありまして……」
「私に出来ることなら何なりと……。ただし、交換条件として、きのうのことを取材させてね」
「その、きのうのことと無関係じゃないんです。ちょっと込み入ったことなので、直接会ってお話したいんですが、今日の午後、お邪魔してもいいですか?」
「お邪魔したいと言われても、私のマンションでもいいの?」
「はい、ちょっと喫茶店のようなところでは話しにくいことなんで……」
「わかったわ、午後はずっといるようにするから、今から住所をメールするわね」
「お願いします。出来るだけ早く伺うようにします」

 凌一は電話を切り、渡辺のところに歩み寄った。
「課長、実はきのう、佐伯と約束しまして……」

 渡辺が尋ねた。
「ん? どんな約束をしたんだ」
「あの学校のいじめの実態を暴くと……」

 渡辺が渋い表情で答えた。
「いじめは刑法犯じゃない。警察の職権外だ」
「はい、ですから知人のライターに頼むつもりです」

 少し考えた後で渡辺が、
「わかった。それならいいだろう。ただし、お前はあまり首を突っ込むな。そのライターにまかせるんだ。いいな」
「わかりました」凌一はそう言って、席に戻った。

 真由美の住所がメールで送られて来た。凌一は、その場所を地図検索サイトで調べ、部屋を出た。



 真由美の住むマンションに着いた凌一は、ドアの横のインターホンのボタンを押した。真由美の声が聞こえた。
「凌ちゃんでしょ、今、鍵開けるから」

 ドアが開き、凌一は、真由美の部屋に招き入れられた。そこは、独身女性の部屋というよりは、雑誌社の事務所のような雰囲気だった。

「ごめんね、ちらかってて。でも、ライターの部屋なんか、みんなこんなものよ」
「いえ、僕の部屋なんか、もっとちらかってます」

 凌一は、小さな円いテーブルをはさんで、真由美と向き合った。
 凌一が真剣なまなざしで真由美を見つめ、
「実は、お願いがありまして……」

 真由美が皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「おいしい料理を作れといわれても無理だけど、それ以外ならどうぞ」
「きのう、猟銃を乱射した佐伯という男、去年、自殺で息子を亡くしてるんですが……」
「酷いいじめがあったんでしょ。だいたい知ってるわ」
「学校側はいじめはなかったと発表しています」
「あんなの、厚顔無恥の嘘っぱちよ」
「きのう、佐伯と約束したんです。学校のいじめの実態を暴くと」
「でも、警察の職権外だから私に頼みに来たわけね」
「そうです」
「いいわよ。そういうことなら私の本職だから、徹底的にやってあげる。ただし、敵は学校だけじゃないのよ。バックには教育委員会がいるんだから、凌ちゃん教育委員会の怖さを知ってる?」
「いえ」

 凌一の答えを聞いて、真由美は真顔で話を続けた。
「魑魅魍魎の世界、伏魔殿、警察なんか比べ物にならないような恐ろしい役人社会よ。そんなところを敵に回すのよ。まあいいけど、それが私の本職だから。ただし、代償は高くつくわよ」
「お金はありませんが……」

 真由美が苦笑した。
「バカなことを言わないの。交換条件は、今後、私の取材には必ず応じること。それも他の記者より先に、私に取材させること。いいかしら?」
「わかりました。ただし、捜査上の秘密や被害者、被疑者のプライバシーに関わることは話せませんよ」
「わかってるわよ、そんなこと。凌ちゃんの口からそんな話、聞きたくもないわ」

 凌一は表情を和らげた。
「それなら交渉成立ですね」
「そう、交渉成立。それから、せっかくだから、きのうのこと少し教えて」
「いいですよ」

 真由美はボイスレコーダのスイッチをONにして質問を始めた。
「凌ちゃん、どうやって猟銃男を説得したの?」
「ただ、お願いしたんです。人質を解放するように」
「その時、約束したってわけね。あの学校のいじめの実態を暴くと」
「はい」
「で、当然、その時、私を当てにしてたわけね」
「はい」
「丸腰で体育館に入っていく時、怖くなかったの?」
「死ぬほど怖かったです」

 凌一のあまりにも正直な答えを聞いて、真由美は苦笑した。
「プッ、正直ね。撃たれると思わなかったの?」
「思いました」
「自分の命をかけたバクチってわけね」
「はい」
「体育館に入る瞬間の心境は?」
「お母さん……と思いました」
「凌ちゃん、お母さんいないんでしょ」
「はい、でも、お母さん…… と思いました」
「猟銃男を逮捕した瞬間の心境は?」
「死ぬほどホッとしました」

 真由美はくすくす笑った。
「死ぬほどホッとするって日本語、変じゃない?」
「ええ、でも死ぬほどホッとしました」
「今の話、記事にしていい?」
「いいですよ。ただし、装飾はなしですよ」
「装飾なんかしないわよ。今の、純朴なコメント最高だもの。来週号はいただきだわ。ごちそうさま」

 凌一が念を押すように、
「いじめの件、忘れないで下さいね」
「ご心配なく。この際、他の学校も含めて、徹底的にやってやるわ」
「ありがとうございます」
「水臭いこと言わないの。それより、今度はいつ飲みに誘ってくれるの?」
「近いうちに」
「楽しみにしてるわよ。今夜はどうせ姉妹のところに行くんでしょ」
「はい。今夜は行きます。それじゃ、僕はこれで失礼します」
「こんなところでよければ、いつでも遊びに来てね」
「はい」

 凌一は、真由美のマンションを出た。署に戻ろうかと思ったが、きのうのこともあって疲れていた凌一は、渡辺に電話した。
「明日野です。すいません。少し疲れたので、今日は早く引けてよろしいでしょうか?」
「ああ、きのうのこともある。ゆっくり体を休めろ」



 凌一は、栄橋で川面を眺めながら真穂を待っていた。凌一が中井邸の方向に目をやると、坂の上から、黄色いあでやかなワンピース姿の若い女性が近づいて来るのが見えた。凌一は、真穂によく似た女性だなと思ったが、真穂は、いつも学生服姿だったので、凌一は、それが真穂だとは思わず、再び川面を眺めていた。五月の河原は、ノースポールやタンポポ、菜の花が開花し、凌一が一番好きな季節だった。自分が五月生まれのせいもあるのか、春になると凌一はいつもさわやかで快活な気分になれた。ほほを撫でる春の爽やかで穏やかな空気も大好きだった。太陽の光を浴びて、きらめく川面のせせらぎを見ていると、まるできのうの事件が随分昔のことのように感じられた。

「おまたせ、ごめんなさい」

 その声に凌一が驚いて振り返ると、さっきのワンピースの女性は、やはり真穂だった。

「やあ、真穂ちゃん、どうしたの? そんなにおめかしして、まるでデートに出かけるみたいだよ」

 真穂が少しむくれた。
「凌一さん、それ、ごあいさつね。これでも私、デートのつもりなんだけど」

 凌一は真顔で周りを見回しながら、
「デートって誰と?」
「誰とって、他に誰がいるのよ!」
凌一が人差し指で自分を指差した。
「ひょっとして僕?」
「ひょっとしなくてもそうよ!」
凌一があわてて言った。
「あ、いや、ごめん。それは嬉しいんだけど、真穂ちゃんって学生服か普段着姿しか見たことなかったから…… いや、えらく綺麗な女性が坂を下りて来るなとは思ってたんだ。でも……」
「凌一さん、何をアタフタしてるのよ。綺麗な女性って言ってくれたのは嬉しいけど、何か変ね。凌一さん、私、おめかししちゃおかしい?」
「えっ いや、そんなわけないだろ。僕だって男の端くれだから、そりゃ綺麗な女性とデートできるのは嬉しいよ。ただ……」
「ただ……何?」
「い、いや、何もない」
「そう、それならいいの。ほうら、やっぱり。凌一さん、周りをよく見たら?」

 真穂に言われて凌一が周りを見回すと、次第に女学生たちが凌一の周りを取り囲み始めていた。女学生たちは、口々に黄色い歓声をあげていた。
「キャー」
「やっぱりあの刑事さんよ!」
「間違いないわ!」
「かっこいいー」
「案外小柄なのね~」

 凌一は驚いて真穂に言い訳した。
「あれっ、いや、さっきはこんなんじゃなかったんだ。本当だよ、本当に…… さっきまでは、あれっ、おかしいなぁ……」
「凌一さん。私がおめかししてきた理由がわかった?」
凌一が間の抜けた顔で答えた。
「いや、わからない……」
「あんな小娘たちに負けるわけにいかないでしょ! だから、きちんとした身なりで来たのよ! もう、鈍感ね!」
「あんな小娘って、真穂ちゃんと同年代じゃないか」
「同年代でも私とは違うのよ!」
「何が違うの?」
「何が違うって、凌一さんはヒーローなのよ! だから私はヒロイン! あの娘らは、ただのギャラリーよ! 何て言うかなー、そのー、私とは、役回りが違うの!」
「そ、そう」
真穂はいきなり凌一の腕をつかみ、ツンとした表情をした。
「さあ、行きましょう。あ な た 」
「あ、あ、あなたって……」
凌一を引きずるようにして、真穂は歩き始めた。それを見た女学生たちは口々につぶやいた。
「やっぱり、彼女いるんだー」
「それも結構かわいい娘じゃない」
「えーあんなの、たいしたことないわよ」

 凌一は、真穂に引きずられながら、近くのお洒落な喫茶店に入った。店のウインドウ越しに、女学生たちは二人の様子を眺めていた。
 真穂がウインドウの外をチラチラ見ながら、
「もうあの子たちは気にしないで、いつもどおり、話しましょう」
「そうだね。それがいいね。僕は芸能人じゃないから、こんな騒ぎ、今日一日で収まるさ」

 真穂がうんざりした表情を見せて、
「本当、そう願いたいわ。あんな子供たちにいつまでもつきまとわれたら、楽しくないもの」

 凌一が首を傾げた。
「子供たちって、どう見ても真穂ちゃんと同年代だけどなぁ」

 真穂はむくれて、
「それでも子供は子供なの! 私とは違うのよ! 私は、日本一素敵な刑事さんの彼女なの!」
「に、日本一素敵な刑事って、それって、あばたもえくぼって言うやつじゃ……」
「自分で言うことないでしょ!」

 ウエイトレスが来た。凌一はコーヒーを、真穂はレモンティーを注文した。

 真穂がウエイトレスの後ろ姿を見つめた。
「あのウエイトレス、いやらしい目つきで凌一さんを見てたわね」
「そんなことないって」
「まあいいわ。凌一さん、きのうのこと話して」

 真穂のその言葉を聞いて、凌一は沈黙した。凌一は急に表情を曇らせた。そして、しばらく間をおいて、グラスの水を見つめながら、伏し目ぎみに言った。
「人が二人死んだ。それだけさ」

 その言葉を聞いた真穂は、すぐに凌一の心情を汲み取った。凌一は、英雄扱いされて浮かれるようなタイプではない。女の子たちにキャーキャー言われて喜ぶタイプでもない。そのことを真穂はよく知っていた。
 恐らく、凌一の心には、人が二人死んだという事実しか残っていないんだろう。
 ひょっとしたら凌一は、その二人を助けられなかった自分を責めているのかもしれない。
 真穂は恥ずかしくなった。
 凌一の人柄は、よく知っている自信があった。その自分が、こんな浮かれた服装をしてくるなんて…… 恥ずかしい。真穂は、出来ることならその場で、ワンピースを脱ぎ捨てたい気分になった。

 真穂は瞳を潤ませた。
「ごめんなさい。私、凌一さんの気持ちも考えずにこんな格好をして来て…… 私、凌一さんの気持ちは、自分が一番よく知っているつもりだったのに…… 私、恥ずかしい……」
「何を言うんだい。真穂ちゃんのあでやかな姿を見せてもらって、僕の心は晴れた。救われた。僕だって日本一素敵な女子高生とデートしてるんだ。楽しくないわけないだろう。
二人が死んだのは彼らの寿命さ。僕らにはどうすることも出来ないし、気にする必要もない。
人間は、生まれた時から死ぬまでの運命を神様に定められてる。僕はそう思ってる。だから、体に悪いと言われながらも僕はタバコを吸う。どんな病気で死ぬかは、生まれた時から決まってると思ってるからさ。
僕は別に、『運命は自分で切り開くものだ』という考えに反対なわけじゃない。でも、運命で定められてることには抗えない。僕はそう思ってる。
きのう、凶弾に倒れた二人は、生まれた時からそれを定められていた。僕はそう思っている。
僕に出来ることはした。助けられる人は助けた。でも、それは助けられた人たちに、僕に助けられるという運命が定められていたからさ。
僕は、自分の努力で何とか出来ることは必ずなんとかする。でも、努力してもどうにもならないことには抗わない。真子ちゃんを見てみるといい。真子ちゃんは、自閉症という先天性の病を運命に定められながら、自分の努力で普通の人に負けない生活が出来るようになった。僕は真子ちゃんを見ていると頭が下がる思いがする。
きのう亡くなった二人には気の毒だけど、それは彼らの持って生まれた寿命さ。僕らが気にすることじゃない」
「そうね。お姉ちゃんだったら、きっと、いつもどおりの服装で来たと思うわ。お姉ちゃんは大人だもの」

 凌一は話題を戻した。
「きのうの事件、亡くなった人も気の毒だけど、実は、犯人も気の毒な人なんだ」

 真穂もやっといつもの調子に戻って答えた。
「ええ、新聞にも少し書いてあったけど、息子さん、いじめで自殺したんでしょ」
「学校はいじめの事実を否定した。きのうの犯行はその復讐さ。真穂ちゃんの高校でもいじめとかあるの?」
「いじめのない学校なんかないと思うわ。凌一さんの時代にもあったでしょ」
「確かに……」
「最近のいじめは、相手が自殺するまでとことんやるの。大人の世界よりずっと怖いのよ」

 凌一が硬い表情をした。
「例え学校内のいじめでも、殴られたとか、恐喝されたとか、刑法に触れる行為があれば、それは本来、僕たち警察官が担当する仕事なんだ。昔は、学校の先生に情熱的な人が多かったから、生徒もよく先生の言うことを聞いたし、警察が介入する必要なんかほとんどなかったけど……。
僕自身は、相手が自殺するほどいじめるのは、殺人に近いぐらい重い罪を適用すべきだと思ってる。それが出来れば、いじめの加害者には、保護処分のような甘い処分じゃなく、懲役刑が適用できるんだ」

 真穂がうんざりした表情を見せた。
「今の先生なんて、ただのサラリーマンよ。いえ、サラリーマン以下ね。聖職者なんて呼べる人、見たことないもの」
「やっぱりそうなんだ……」

 真穂が話を続けた。
「学校内にしょっちゅうお巡りさんがパトロールに来てくれたら、生徒はどんなに心強いかわからないわ、きっと、ほとんどの生徒は、先生よりもお巡りさんを頼りにするようになると思うわ」

 凌一が困った表情で言った。
「僕らだってそうしたいんだ。でも、今の規則では、警察官は、学校からの要請がない限り、無断で校内に入れないんだ。学校内の暴力は、家庭内暴力と同じで、被害者が警察に通報してくれないと、なかなか警察は介入できないんだ」
「家の問題もあるのよ。今の生徒は、いじめられていても親に相談しないし……」
「あれは、なぜなの?」

 凌一の問いに真穂が答えた。
「今の子供たちって、友達同士のことは、友達同士で解決しようとするのよ。親に相談するのは、恥ずかしいとか、ずるいとか、変なプライドがあるの」
「人間は成人になるまでは、子供なんだ。あくまで親権者の保護の下で生活してるんだ。法律上も一人前の人間としては認められていない。もちろん、問題解決能力もないとみなされてる。『親に相談するのは恥ずかしい』なんていうのは、十年早いと言ってやりたいところだけどね」
「私は大丈夫よ。私はもうすぐ十八歳になるけど、まだ両親の保護の下で生きてるって自覚してるから」
「そう、その自覚、とても大切なことだよ。特に真穂ちゃんのご両親は二人とも立派な人だし」
「はい、私はちゃんと両親に感謝してます」
「真穂ちゃんは、えらいね」



 二人は、喫茶店を出て中井邸に向かった。
 中井邸に着くと、父の真治、母の祥子、そして真子が玄関で待ち構えていた。
 三人が口々に言った。

「凌一君、お手柄だったね」
「凌一さん、よくご無事で……。本当に、おつかれさまでした」
「凌一さん、すごい。けがしなかった?」

 凌一は、すこし引きつった笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます。でも、実際は、そんな格好いい話じゃないんです」

 それを聞いた祥子は、
「凌一さん、そんなご謙遜なさらなくても、新聞に詳しく書いてありましたよ。真子も真穂も、駅で手当たり次第新聞を買って来て、切抜きを額に入れて部屋に飾ってますのよ。自分たちの宝物だと申しまして……」

 凌一はうつむいて首を横に振った。
「いえ、謙遜でもなんでもなく、本当にそんな格好いい話じゃないんです」
「さあ、とにかく上がって、上がって」真穂に促されて凌一はリビングに通され、いつものソファに腰掛けた。

 凌一は思った。きのう、体育館に向かう途中、生きて帰ったら絶対に抱きしめてやろう、折れるほどに強く抱きしめてやろうと思った真子と真穂がここにいるのに…… 何故、今の自分にはそれが出来ないんだろう? きのう思ったのに、人間、明日のことはわからない。やりたいことは今やるべきだと思ったのに…… 何故、二人を抱きしめることが出来ないんだろう。

 五人は食卓に移った。そこには目がくらむほどの料理が並べられていた。

 祥子が、
「今日一日かけて料理しましたの。一日にこれほどの料理を作ったことはありませんので、味にはあまり自信ないんですのよ。お口に合わないものは残して下さい」

 正直言って、ハラペコだった凌一は、
「遠慮なく、いただきます」

 最初、凌一は遠慮がちに料理をつついていたが、あまりのおいしさに、次第に凌一は猛獣と化していった。凌一は、真子の言葉にも、真穂の言葉にも、うわの空で返事しながら、むさぼるように料理を食べ続けた。ようやく、ある程度、満腹感が得られた。凌一は、我に返った。凌一は冷静になってテーブルの上を見た。五人分の料理の三人分ぐらいを自分が平らげていた。凌一は後悔した。

(しまった。もう少し遠慮すればよかった)

 祥子が目を細めた。
「おいしそうにお召しいただいて、ありがとうございます」

 凌一はあわてて答えた。
「あ、いや、その、お腹が減ってたので、つい遠慮なくいただいてしまいました」

 二人の会話を真治は微笑みながら聞いていた。



 翌日から、真由美の命をかけた葛城南高校、いや日本全国の小中高校、教育委員会との戦いが始まった。真由美は使いうる全ての人脈を使い、日本中の週刊誌を動かして、苛烈なまでの学校批判を行った。

 真由美の動きに呼応したのは、当初、一部の週刊誌のみだったが、小中高等学校のいじめ対策のおそまつさ、教師の無責任さ、無気力さを叩く動きは、次第に一般紙やワイドショーに波及し、全報道機関をあげてのいじめ撲滅キャンペーンとなった。そして、それは全国の報道機関対学校・教育委員会の戦争のような様相を呈し始めた。

 教師のいじめに対する無関心、無気力、無責任な体質は、市町村議会、都道府県議会ひいては国会審議の対象にまでなった。

 真由美は亡くなった人を悪く言わないという日本の報道機関の暗黙の了解を敢えて無視し、禁忌とも言える射殺された校長の批判記事を掲載した。そこには、捜査権限を持たないライターが入手したとは思えないほどの確固とした証拠、証言が添えられていた。

 一躍、時の人となった真由美は、ワイドショーにも出演し、そこで、はばかることなく公言した。
「現在の学校や教育委員会のいじめに対する取り組みのお粗末さ、無関心さ、無気力さ、無責任さは、目に余るものがあります。いじめというと所詮、子供同士の喧嘩のような幼稚な印象を持ちますが、現在のいじめは、暴力、脅迫、恐喝など立派な刑法犯に相当するものが多く、今の子供たちは、相手が自殺するまでいじめをやめようとはしません。
教師たちは、これらのいじめに対して、見て見ぬふりをするだけでなく、いじめに加担しているような者さえいます。日本の学校からいじめがなくなるまで、いじめに対して、学校と教育委員会が本気で取り組むようになるまで、私は絶対に批判報道をやめません」

 毎日、真由美のマンションのポストには、いじめに苦しむ親たちからの相談や激励の手紙が大量に届き、すべてに目を通すのが辛いぐらいの量になった。真由美は、友人のフリーライターに協力を依頼し、警察の捜査本部なみの組織を作って、それらの投稿者に対して取材を行った。

 投稿には匿名のものも多かったが、敢えて真由美に取材を依頼する親や、真由美に救済を仰ぐ親も多くいた。真由美のマンションは、さながら、いじめ110番の様相を呈した。

 取材に協力的な親たちの証言からは、とても小中高校生のやることとは思えないような、陰湿で、悪辣ないじめの実態が暴露された。真由美は、それらの事実を臆することなく、紙面に掲載した。当初、真由美の記事に対して、事実無根、名誉毀損という立場を貫いていた学校や教育委員会側は、次第に守勢に回らざるをえない状況となった。

 その日、ついに葛城南高校は、いじめはなかったとした先の発表が誤りであったという、謝罪会見を行った。謝罪会見の席上では、PTAや報道関係者から学校側に対する痛烈な非難の言葉が浴びせられた。謝罪会見を行った教頭は、淡々と謝罪原稿を読み上げ、PTAや記者からの罵声に対しては、何も答えなかった。正式な質問に対しても、深くお詫びいたしますという同じコメントを繰り返した。

 真由美は謝罪会見の席上で言い放った。
「いくら謝罪されても自殺した子供たちは帰って来ません。私たちは、今後、学校や教育委員会がいじめをなくすために、どういう取り組みをするのか? それが聞きたいんです!」

 教頭がボソボソ答えた。
「教師一同、全力で取り組む所存です」
「そのお答えは、今までは全力で取り組んでいなかったと解釈してよろしいのですね!」
「え、あ、決して、そう意味ではなく……」

 真由美は拳を握りしめて、腕を震わせた。
「あなた方のような人たちが、一日も早く、教育現場を去ることが、最も良い、いじめ対策ではないのですか?」
教頭は沈黙した。真由美が続けた。
「お答え下さい!」
教頭は沈黙を守った。学校側と記者団のにらみ合いが延々と続いた。

 翌日の各紙紙面は、辛らつ極まる学校・教育委員会批判で埋め尽くされた。

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