檻の中のピアニスト(前編・後編)

ナタリーJ

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檻の中のピアニスト(後編)

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第五章 少女溺死事故




 翌朝、凌一は、新阿久山病院を訪れ、三崎医師に会い、可奈子の状況を聞いた。話が終わって病院を出ようとした時だった。凌一の携帯が震えた。渡辺からだった。

「明日野、貴瀬川の河原で少女の水死体が発見された。場所は水管橋の下だ。今、鑑識が調べている。こちらからは、谷川と久保を向かわせるので、君も合流してくれ」
「わかりました。現場に直行します」

 凌一が現場に着くと、既に谷川と久保が到着し、現場付近を探索していた。谷川が凌一の姿を見て声をかけた。

「明日野か、少女の遺体が発見されたのはここだ。死因は溺死と推定される。体中に打撲を負ってるが、致命傷になるような外傷はない。恐らく打撲は川に転落した時と、流される途中で出来たものだ。亡くなった少女は、榊原里美ちゃん、九歳、この近くの県営住宅に母親と二人で暮らしていた。遺体の第一発見者は母親の榊原綾香さんだ。ちょっと目を放した隙にいなくなったので、近所を探してたらしい」

 凌一は、何も語らず現場周辺を探索した。嫌な予感がした。凌一の予感は的中した。

 しめやかに進められるはずの里美ちゃんの通夜は、マスコミに取り囲まれて、さながらナイトコンサートのようになった。凛として懸命に喪主を務める母親の綾香の周りには、レポーターが群がった。

 翌日以降も榊原綾香の自宅は、マスコミに取り囲まれ、黒山の人だかりが出来ていた。マスコミは、近隣の住民にも付きまとって取材を行っていた。母親はアル中でほとんど娘の世話をしていなかったとか、母親に命じられて自動販売機で焼酎を買う里美ちゃんを見かけたとか、さまざまなインタビューがワイドショーで報道された。
 新聞紙面には、「畑山鈴香」、「模倣犯」、「代理ミュンヒハウゼン症候群」などのキーワードが掲げられていた。
 告別式には、通夜をはるかに上回る群集があつまり、さながらパレードのような様相を呈した。上空には取材ヘリが旋回していた。

 告別式の後、凌一は、母親の榊原綾香の自宅を訪問した。

 母親が話を切り出した。
「みんな、私がやったと思ってるんですね……」

 凌一が慌てて首を横に振り、
「警察は、現状では事故と事件の両面から捜査を行っていますが、お母さんを容疑者とは考えていません。私は、お母さんにお悔やみを申し上げに来ただけです。きのう、谷川と久保が詳しくお話を伺っているので、事情聴取するつもりはありません」

 母親が言った。その表情は生きた抜け殻のようだった。
「私を疑ってるのなら、遠慮なく逮捕して下さい。私が酒びたりでちゃんと娘の面倒を見ていなかったことは事実ですし、娘を亡くした今、この世に思い残すこともありませんので……」

 凌一は、部屋の内部を見回した。安物の焼酎やウイスキーの空き瓶が散乱して、部屋全体が酒臭かった。台所には、インスタント食品の空箱やそれを料理したらしい不潔な食器が山積みにされていた。

 アルコールに漬かる人間の心には隙間が出来ている。その隙間を埋めるために、酒を飲む。でも、酒では心の隙間は埋まらない。隙間風の吹く心の痛みを一時的に麻痺させるだけである。
 凌一は、アルコール依存のために指を震わせながら、痛々しいまでにやせ細った母親が、必死で平静を装っている姿を見て、彼女の心の隙間を垣間見た思いがした。

「娘さんのこと、心からお悔やみ申し上げます。あなたが自虐的になる気持ちもわかります。でも、事実はひとつしかありません。私たちがそれを解明するまで、つらいでしょうが強く生きていただきたいんです。繰り返し申し上げますが、現時点において、我々はあなたを容疑者とは考えていません」
「でも、私が怪しまれるのはあたり前ですよね。畠山鈴香の事件と同じパターンですもの。だから、あんなにマスコミが群がってるんですよね。自分の娘を殺した女だと怪しまれながら生きていくぐらいなら、逮捕されて死刑になったほうがいいんです。どうせ、私にはもう、失うものはないんですから……」
「我々が事実を解明するまで、どうかご辛抱下さい。私にはわかります。あなたは、ろくに娘さんの面倒を見ていなかった。でも、あなたが娘さんを愛していたことに嘘偽りはない。違いますか?」

母親は声を詰まらせてうなずいた。凌一は、深く一礼して綾香の家を出た。



 凌一が署に戻ると、すでに谷川と久保が榊原綾香の身辺を調べて資料にまとめていた。凌一はその資料に目を通した。
 榊原綾香は、高校卒業後、親元を離れ、会社の独身寮に住みながら堺市内の化学工場に勤めていた。そこで知り合った男性と結婚し、娘の里美を生んだ。里美を生んでから一年足らずでその男性とは離婚し、その化学工場も退職している。
 それからしばらくは、大阪市内のスナックやキャバクラ等、水商売を転々とし、何度も男性を替えて同棲しているが、誰とも長続きしなかったらしく、二年前に両親の住む香芝市に戻っている。今住んでいる県営住宅の別棟に両親は暮らしている。

 谷川が凌一にポツリと、
「似てるだろ」
「似てるって何がですか?」
「榊原綾香だよ、畠山鈴香と境遇が似てるだろ。娘が川で水死したことまでそっくりだ」
「娘をネグレクトしていたことまで一緒ですね。ただ、畠山鈴香は、娘をネグレクトしながら、愛情を注いでいたような一面も見せています。榊原綾香の場合はどうなんですか? 娘に多額の生命保険をかけたりはしていませんか?」

 その質問には久保が、
「保険をかけたりはしていません。ただ、近所の人の証言どおり、娘のネグレクトは、畠山鈴香以上に酷かったようです。近所に祖父母が住んでいるので、娘の里美ちゃんは祖父母の世話で育っていたようなものです。しかし、最近、祖母が寝たきりになってから、祖父は祖母の面倒にかかりきりになり、里美ちゃんの世話も出来なくなりました。実家の近くに戻ってきた頃は、綾香もホステスやキャバクラのアルバイトをしていたんですが、次第にそれもしなくなり、最近では一日中酒びたりの日が多かったようです」
「生活費はどうしてたんだ?」
「ほとんど実家の援助で暮らしていたようです。ただ、見てのとおり、彼女は美人です。スナックやキャバクラに行った日は、かなりの日当を稼いでいたようです」
「鑑識の報告は?」
「有力な証拠や遺留品はあがっていません。ただ、貴瀬大橋の欄干のたもとで、里美ちゃんの靴の片方が見つかっていますので、里美ちゃんが貴瀬大橋から転落したことは間違いなさそうです」

 それを聞いて凌一は首を傾げた。
「靴の片方? 誤って転落したとしても、誰かに突き落とされたにしても、靴の片方が橋の上に残っているというのは不自然な感じがしますね……」

 谷川が、
「綾香を任意で引っ張ってみるか? 案外簡単に吐くかもしれんな」

 それを聞いた凌一が、
「簡単に吐くでしょうね。彼女はもう生きる希望を失っています。死刑になることを望んでいます。里美ちゃんの死に綾香が関与していようがいまいが、彼女は自分がやったと言うでしょう。彼女は、マスコミの取材攻勢にあって憔悴しています。この状態で彼女を引っ張れは、彼女は嘘の自供をする可能性があります。私は、今の時点で彼女の事情聴取を行うことは、冤罪のまま、一件落着になる恐れがあり、危険だと思います」

 三人の会話を聞いて、渡辺が横から釘を刺した。
「明日野の言うとおりだ、この件はまだ事件とも事故ともわかっていない。見込み捜査は危険だぞ。あくまで客観的に捜査を進めろ」

 それを聞いて、三人はハッとして、
「わかりました」

 凌一は、榊原綾香の両親を訪ねた。母親は寝たきりで、話が聞ける状態ではなかったため、凌一は、父親から事情を聴取した。父親はガックリとうなだれ、ショックを隠せない様子だった。
「娘は、男運が悪く、最近は酒びたりの生活をしてました。私たちは、娘に酒をやめるように口うるさく説教してましたし、本人もやめたいと思ってました。アルコール依存症の専門病院にも通院してます。

 酒さえ飲まなければ、娘は真面目でおとなしい子です。しらふの時は孫の面倒もよく見てました。孫は娘の宝物でした。孫の面倒を見なくなったのはアルコール依存症のせいです。

 娘は心の中で孫に詫びながら酒をやめられない自分を責めてました。娘が孫を殺すなどありえません。絶対にそんなことはありません」

 凌一は、もの静かに祖父の話を聞いた後で尋ねた。
「娘さんは専門病院に通院してたんですね?」
「はい、新阿久山病院です」
「そうですか…… やっぱりあの病院ですか。どうも大変参考になりました。ありがとうございます」

 凌一は、一礼して、榊原綾香の父母の家を後にした。



 次に凌一は新阿久山病院を訪れ、受付で、榊原綾香の担当医師を尋ねようとした。既に外来の時間は過ぎていたので、受付には誰もいなかった。
「すいません。どなたかいらっしゃいませんか?」

 凌一が、受付の奥の事務室を覗き込みながらそう呼ぶと、奥から事務服を着た女性が出て来た。
「あいにく、今日の診察は終了しましたが……」

 凌一は、警察手帳を出し、身分証明のページを開いた。
「診察ではないんです。私は警察の者です。明日野と言います。こちらに通院されていた榊原綾香さんのことで、少しお尋ねしたいことがありまして。彼女の担当の先生にお会いしたいんです」

 その女性は後ろの書棚からファイルを取り出し、それに目を通した。
「榊原綾香さんですか、えーと、担当は三崎医師ですね」

「三崎医師?」
 凌一がそう問い返すと、女性は、
「そうです。榊原綾香さんの担当は三崎医師です」
「三崎医師にお会い出来ますか?」

 その女性は、出勤簿に目を通した。
「ええ、三崎先生は今夜当直なので、院内にはいらっしゃると思いますよ」

 そう言った後、女性は電話の受話器をとり、内線で何か話していた。相手は三崎医師のようだった。
女性は受話器を置き、凌一の方を見て言った。
「三崎先生は当直室でお会いになるとのことです。当直室は、四階の一番奥の部屋です。そちらのエレベータをお使い下さい」
「ありがとうございます」

 凌一は、そう言って事務の女性に一礼した後、三崎医師の待つ当直室を訪ねた。
「コンコン」凌一は当直室のドアをノックして、
「明日野です。三崎先生はご在室ですか?」
「どうぞお入り下さい」

 中から三崎医師の声がした。凌一が部屋に入ると三崎が、
「どうぞ、おかけ下さい」

「ありがとうございます」
 凌一は、三崎医師に一礼して椅子に腰掛けた。
「三崎先生、榊原綾香さんの件ですが、娘の里美ちゃんが貴瀬川で水死したことはご存知ですね」
「はい、ニュースでも新聞でも大きく報道していましたね。なんでも畠山鈴香の再来だとか、模倣犯だとか……」
「あんな報道は気にしないで下さい。それより、彼女はどんな症状だったんですか?」
「アルコール依存症の治療では、患者がアルコールに頼るようになったきっかけまで、深く掘り下げて質問をします。ですから、彼女の生い立ちから今に至るまで、詳しく聞いています。アルコール依存症患者は、全てを医師に打ち明けるわけじゃありませんし、嘘をつくことも多いんですが、彼女の場合、酷く男運の悪い女性だったようです」
「男運が悪いとは?」
「最初の男性、つまり里美ちゃんの父親ですが、ろくに仕事もせずにギャンブルにのめり込み、綾香さんは、四六時中暴力を受けていたようです。その男と別れた後、彼女は何人かの男性と同棲していますが、どの男性も似たり寄ったりです。彼女が求めていたのは、里美ちゃんをかわいがってくれるような真面目な男性だったんですが……」

 三崎の話を聞いて凌一が尋ねた。
「それで彼女は酒で憂さを晴らすようになったんですか?」
「そのようです。ただ、彼女は夜の仕事をしていたので、仕事上酒を避けることは難しかったようです。職場で酒を飲み、自宅では酒で憂さを晴らす。アルコール依存症が出来上がる条件は整っていたようです」
「彼女は、代理ミュンヒハウゼン症候群だったんですか?」
「彼女は、いつも里美ちゃんを連れて通院していました。さすがに病院に来る時は酔っていないので、彼女と里美ちゃんの様子はよく見ています。とても仲の良い親子で、綾香さんは娘の里美ちゃんをとても愛しそうにしていました。酒びたりの時に、ろくに娘さんの面倒を見ていなかったのは事実でしょうが、一日中酒びたりの状態では家事なんか出来ないのは、あたり前のことで、ネグレクトや虐待とは別の問題です。代理ミュンヒハウゼン症候群には覆面症状、つまり他人から見てもわからないことが多いんですが、私の見立てでは、彼女は違います。彼女には、娘さんを殺したり出来ません」

 凌一は席を立ち、三崎医師に一礼しながら言った。
「そうですか、ありがとうございます」



(そうだ、せっかくここまで来たんだから可奈ちゃんに会っていこう)

 そう思った凌一は可奈子に面会した。こころなしか、可奈子の表情は明るかった。
「やあ、可奈ちゃん。少し元気になったみたいだね」

 可奈子はぶっきらぼうに答えた。
「元気になんかなってません」

 凌一は首を傾げながら、
「そうかな? 確かにまだ離脱症状が出るだろうから、辛い時期だろうと思うけど、三崎先生のような優しい先生に診てもらえて君はラッキーだよ」

 可奈子は冷淡に、
「ラッキーだなんて、勝手なことを言わないで下さい。私にラッキーはありません」
「?」

 凌一には可奈子の話の意味がわからなかった。可奈子は話を続けた。
「私は、不幸になるように神様に定められて生まれてるんです。私にラッキーはありません」

 凌一はやや呆れた表情を浮かべた。
「そんなに自暴自棄になっちゃいけないよ……」
「三崎先生にはとても親切にしてもらってます。感謝してます。でも、私はラッキーなんかじゃありません」
「……」

 凌一には次の言葉が見つけられなかった。

 凌一は、鉄格子がはめられた面会スペースの窓越しに外の景色を見た。そしてつぶやいた。
「君をそんなにゆがめてしまったものが何か、僕にはわからない。訊こうとも思わない。でも、運命に定められた不幸があるからといって自分をゆがめちゃいけない。その報いは全て自分が受けることになる。どんなに辛いことがあっても強く正しく生きていくんだ。その先にしか幸せは見えてこない」

 それを聞いて、可奈子は冷淡に笑った。
「幸せが見えてくる? 笑わせないで。そんなこと私にはないの。ありえないの。私が明るく見えるのは、ここが外の世界よりも私に向いてるからよ」
「そうかい。それじゃいつまでもここにいるんだね……」

 凌一は、そういい残して可奈子と別れ、新阿久山病院を後にした。
 翌朝から凌一は、少女の遺体が発見された貴瀬川周辺の聞き込みを開始した。聞き込みではマスコミの取材と同じように、綾香の自堕落な生活ぶりや里美ちゃんの可哀想な生活ぶりを散々聞かされた。しかしながら、里美ちゃんの死因と関係のありそうな有力な情報は全く得られなかった。

 最後に凌一が得た情報は、この付近でネグレクトにあっていた児童は里美ちゃん以外にもう一人いるということだった。その子は、里美ちゃんと同じ九歳で、近くのハイツに住んでいる高山祐樹という少年らしい。里美ちゃんと祐樹君は、よく二人で遊んでいたという。

 児童相談所はちゃんと対応しているんだろうか? 祐樹君のことが気になった凌一は、その子のハイツを訪れた。ドアの横のチャイムを鳴らすとインターホンに母親の声がした。
「どちらさまですか?」
「明日野と言います。警察の者です。先日、貴瀬川で児童が水死した件を調べているんですが、少し、お話を伺えますか?」
ドアが開き、母親が顔を出した。部屋の中を見られたくないような様子だった。凌一は、警察手帳を見せながら言った。
「祐樹君は里美ちゃんとは、仲良しだったようですが、少し祐樹君のお話を聞かせてもらえますか?」

 母親は怪訝そうな表情を浮かべながら、
「祐ちゃん、ちょっとこっちにおいで」

 母親にうながされて少年が出て来た。凌一は、しゃがみ込んで尋ねた。
「祐樹君だね。おじさんはおまわりさんなんだけど、こないだ、里美ちゃんが貴瀬川にはまったことは知ってるね」
それを聞いたとたん、その少年は「ワッ」と泣きながら、

「わざと落としたんじゃないんだ!」

「えっ!」

 意味がわからずに凌一が訊き返すと、少年は同じ言葉を繰り返した。

 「わざと落としたんじゃないんだ!」

 凌一は優しい声で尋ねた。
「詳しく話してくれるかい? 怒ったりしないから」

 少年は泣きじゃくりながら答えた。
「あの時、二人で鬼ごっこをしてたんだ。僕が里美ちゃんにタッチした時、里美ちゃんの靴のかかとを踏んづけちゃったんだ。そしたら、里美ちゃん、つまずいて川にはまったんだ。わざとやったんじゃないんだ」

「……」

 凌一は言葉に詰まった。母親が叱り声を上げた。
「祐樹! お前、どうしてそれを早く言わなかったの!」
「ごめんなさい」

 少年は泣きじゃくるばかりだった。

 凌一が物静かに母親に、
「息子さんの話では、どうも不可抗力だったようですが、一応お話を聞かないといけないので、二人で署まで同行願います」

 母親はかなり動揺した表情で、
「わかりました」

 凌一は二人を車に乗せ、真美警察に向かった。
 真美署で二人からの事情聴取を谷川と久保に任せた凌一は、榊原綾香の自宅に向かった。

 綾香と向かい合った凌一は、事故の真相を報告した。綾香はポタポタと大粒の涙をこぼした。
「私が悪かったんです。私がちゃんと娘の面倒を見ないものだからこんなことになったんです」

 つらそうに語る綾香の吐息は酒臭かった。凌一の訪問時に慌てて片づけたと思われるウイスキーのボトルとガラスコップがキッチンの上に置かれていた。多分、朝から飲んでいたんだろう。
 依存症患者はあくまで酔うための薬品として酒を飲む、だから銘柄や味にはこだわらない。依存症者の部屋にあるのは決まって安物のウイスキーか焼酎、つまり、安くてアルコール濃度の高い酒だ。

 凌一が尋ねた。
「祐樹君を責める気持ちはお持ちではないんですか?」

 綾香がしばらくの沈黙を破った。
「運が悪かったとは思いますが、もとはと言えば私が悪いんです。祐樹君を責めても、里美は戻ってきません。もう、私には何もありません」

 そう言いながら綾香はよろめくように立ち上がり、フラフラと歩いて、キッチンの上の酒瓶に手を伸ばした。凌一がそれを制止し、
「あなたがしっかりと生きていくことが里美ちゃんの一番良い供養になるんです。どうか、ご自分を大切にして下さい」

 それを聞いた綾香は、恥じ入るように凌一の方を振り向き、視線を床に落とした。
「すいません。刑事さんのおっしゃること、わかってはいるんですが……」
「三崎先生のところには、必ず行くようにして下さい。きっといい方向に向かうと思いますよ」

 綾香が小さくうなずいた。
「そうします。ありがとうございます」

 凌一は、綾香と別れ、外に出た。外ではマスコミが待ちかまえていた。凌一が綾香を逮捕に来たと思っていたらしい。凌一は、マスコミのフラッシュや質問を避けるように小走りに車に乗り、その場を離れた。



 凌一は胸のポケットから携帯を取り出し、真穂に電話した。
「こんにちは、今夜、行っていいかな?」
 真穂はいつもの明るい調子で、
「もちろん!」
「それじゃ、今からすぐ行く」

 凌一は、そう言って携帯をポケットに収め、車を走らせた。
 少女が一人溺死した。不幸な出来事だった。でも、それはマスコミが期待したような実母による殺人事件ではなかった。凌一の仕事は終わった。
 凌一は、何か無性に真子と真穂に会いたくなった。会いたいというより、甘えたい心境だった。真子と真穂に対して初めて感じる感情だった。

(疲れているのかな……)

 凌一はそう思いながら、中井邸に急いだ。
 中井邸に着くと、部屋の窓からちらちら覗いていた真穂が飛び出して来た。
「凌一さん、いらっしゃい。早く入って」

 玄関に入ると、真子が出迎えてくれた。
 凌一は、いつものようにリビングのソファに腰掛けた。真治が出て来て言った。
「貴瀬川の少女水死事件、君が担当しているんじゃないのかい? 世間じゃ、畠山鈴香の再来だと騒いでいるようだが……」
「いえ、あの件は、事件というより事故です。もう真相は解明されました。報道されていたように、母親の榊原綾香は、アルコール依存症で、ろくすっぽ娘の面倒を見ていなかったことなど、秋田の連続児童殺害事件に類似していた点が多かったんでマスコミが騒いだんですが、事件性はありません」
「そうかい。それなら良かった」

 真治がそう言った時、凌一の携帯が震えた。渡辺からだった。電話の向こうから渡辺の切迫した声が聞こえた。
「明日野、今、どこにいる。榊原綾香の家にいたんじゃないのか?」
「はい、ついさっきまでいました。事故の真相を説明した後、亡くなった娘さんの供養のためにも強く生きていくように励まして来ました」
「励ましただと? 綾香はお前が帰った後、首を吊った。たまたま、父親が見つけて119番したが、意識不明の重体だ。今、香芝市総合病院のICUにいる」
「えっ」

 凌一は愕然とした。一瞬言葉に詰まった後で言った。
「今からすぐに病院に向かいます」

 凌一は携帯をポケットに収め、真治に、
「申し訳ありませんが、急用で今日は失礼します」
「渡辺さんの話、聞こえたよ。榊原綾香が自殺を図ったって?」
「そうらしいです。今、意識不明の状態で、市立病院のICUにいるらしいです。私もこれから向かいます」
 真穂は心配そうに、
「凌一さんは、ちゃんと事件の真相を解明したんでしょ。その榊原さんにはお気の毒だけど、自殺を図ったことは、凌一さんとは関係ないじゃない」

 凌一は、うわの空で真穂の方を見やりながら、
「榊原綾香さんは、不幸な女性だ。娘さんの面倒を見なくなったのも、憂さ晴らしのために酒を飲んでいるうちにアルコール依存症になったからで、娘さんを愛していなかったわけじゃない。むしろ、里美ちゃんは綾香さんのたった一つの宝物だった。その宝物を失えば自殺を図るのも想像できる。だから、さっきまで僕は彼女の家で強く生きていくように励ましていたつもりだったんだ。でも、彼女の心の傷は、そんな通り一遍の励ましで繕えるようなものじゃなかった。僕の見込みが甘かった。確かに彼女の自殺企図は僕の職分じゃない。でも、それを防げたのは僕だけだった。僕の見込みが甘かったんだ」

 そういい残して凌一は、小走りに中井邸を飛び出し、香芝市立総合病院に向かった。



 受付で事情を話した凌一は、ICUの入り口近くにある面会スペースに入った。そこには、綾香の父親がいた。凌一はなんと声をかけていいかわからずに、黙ってその近くに腰掛けた。父親が独り言のようにつぶやいた。
「この年になって、孫と娘に先に逝かれるとは思わんだ……」

 凌一は、痛々しげに父親の顔を見た。やはり、かける言葉が見つからなかった。

 長く苦しい一夜が始まった。壁の掛け時計がゆっくりと、ゆっくりと時を刻んだ。凌一には、時計が動いているように思えなかった。しばらくして、あたりをキョロキョロ見回しながら、人影がもうひとつ、面会スペースに入って来た。真穂だ! 凌一は驚いて声をかけた。
「真穂ちゃん! こんな時間に、こんな所まで来るなんて、危ないよ!」
「何言ってるの? 家はすぐ近くじゃない。ここの病院には救急外来があるから、この辺りは一晩中人通りが多いのよ、危なくなんかないわ」
 真穂はそう言って凌一の隣にチョコンと腰掛けた。

 凌一が、周りを気にしながら、声を押し殺して言った。
「真穂ちゃん! 帰らないといけないよ! ご両親には黙って来たんだろ?」
「うん、でも、お姉ちゃんにメールを入れておいたから大丈夫」
「そんな…… 何時になるかわからないんだよ。真穂ちゃんが早く帰らないと、僕はご両親にあわす顔がなくなるよ」
「いいのいいの、二人で綾香さんの回復を祈りましょう」
そう言って真穂は凌一の肩にほほを寄せ、じっと目をつむった。なんともいえない淡い乙女の香りが、凌一の周りを包んだ。その心地よい乙女の香りにときめく心の余裕が凌一にはなかった。

(後悔先に立たずか……)

 凌一はそんなことを考えていた。さっき、もっともっと真剣に自分が綾香の相手をしてあげていたら、もっと時間をかけて、彼女の悩みや苦しみを聞いてあげていたら、もっと情のこもった励ましの言葉を彼女にかけてあげていたら、こんなことにならなかったんじゃないか? 自分は、早く真子と真穂に会いたいものだから、通り一遍の話を済まして、そそくさと綾香の家を出たんじゃないのか?

 凌一は自責の念にさいなまれた。

 苦悩にゆがむ凌一の表情とは対照的に、真穂は凌一の肩にほほを寄せて幸せそうに目をつむっていた。しばらくして、スースーとあどけない真穂の寝息が聞こえて来た。凌一は、祈った。

(真穂のこのあどけない寝顔がいつまでも、いつまでも世間の荒波にゆがめられることなく、このままでありますように……)

 深夜、綾香は息を引き取った。凌一は、後頭部をフライパンで殴られたような重い衝撃を頭に感じながら、朦朧とする意識の中で、搾り出すように一言、父親に告げた。

「心から、お悔やみ申し上げます」

 父親は何も答えず、ただ、抜け殻のように娘の亡骸を見つめていた。

 凌一は、魂の抜けた視線を真穂に向けて、
「真穂ちゃん、ありがとう。僕のことを心配して来てくれたんだね。もう、用件は終わったから送っていこう」

 真穂が心配そうに凌一を見上げた。
「凌一さん、綾香さんのこと、お気の毒だけど、凌一さんのせいじゃないわ、思いつめちゃダメよ」
「ああ、わかってる。さあ、車に乗って……」

 凌一は、真穂を車に乗せ、中井邸に向かった。
 中井邸に着くと、真子の部屋には、まだ、明かりが灯っていた。真穂が真子の携帯に短いメールを送ると、二階から忍び足で降りて来た真子が、そっと玄関の扉を開けた。

 真穂が声を押し殺して言った。
「おやすみなさい」
 凌一も声を押し殺して答えた。
「おやすみ」

 凌一は、再び車に乗り、自分のハイツに戻った。シャワーを浴びた後、缶ビールを一気飲みしてベッドに潜り込んだ。

 幸せ薄い少女が一人、溺死した。その後を追って母親が自殺した。世の中に数限りなくあるような不幸のひとつだ。いちいち気にしていたら刑事なんかやってられない。凌一はそう自分に言い聞かせた。なかなか寝付かれずに寝返りを繰り返す凌一の耳に、いつもは聞こえない掛け時計の音がカチカチと響いていた。

「恥ずかしい……」

 真っ暗な部屋のベッドの中で、凌一が一言つぶやいた。寝返りを打って横向きになった凌一の両目から一筋の涙が流れた。

 今夜でなくても、いずれ綾香は自殺したかもしれない。それは自分には防げない。でも、今夜一晩明かすつもりでじっくりと綾香の相談にのってあげていたら、少なくとも今夜の自殺は防げた。それだけは疑いない。でも、自分は、早く真子と真穂の二人に会いたくて浮き足立っていた。だから、通り一遍の話を済ませてそそくさと綾香の家を出たんだ。

(お前の怠慢で救えたかも知れない命が一つ失われた)

 その言葉が凌一の胸の中に響き渡った。

 結局、一晩中寝付かれず、凌一はベッドの中で寝返りを繰り返していた。

 依存症者にとって、酒や薬物はサタンである。鉄の鎧を身にまとい、鉄壁の要塞を築いて断ち切ろうとしても、ありとあらゆる卑劣な手段を用いて、依存症者に誘惑をかけてくる。
 ほんの僅かな心の隙を見つけ、執拗につけ込んでくる。

 サタンは城壁の前に立ち、こう言う。

『何を迷っているのだ? これさえ受け入れれば楽になる。辛いことは何もなくなる。人生が薔薇色になる。毎日が愉快に過ごせる。悲しさも寂しさも全て忘れられる。何を躊躇しているのだ。心配することは何もない。安心してこれを受け入れればいい。代償は何も求めない。ただ、あなたに永遠の快楽を与えたいだけだ。安心してその身をゆだねるが良い。さあ、城門を開けなさい。これは、辛く厳しい試練だけを与える現実の世界から、永遠の快楽の世界にあなたを導くだろう』

 サタンはそう言って、依存症者に甘い誘いをかけてくる。
 一旦、誘惑に負けて心の砦を開城すれば、サタンの背後に潜んでいた無数の魔物が一気に城になだれ込む。依存症者はなす術なく命尽きるまで酒や薬物という邪悪な魔物の虜になる。

 天は自らを救う者のみを救う。自ら望んでサタンに魂を売り渡した依存症者に救いの手を差し伸べることはない。
依存症者をサタンの魔の手から救うものがあるとしたら、それは神ではなく『愛』である。愛のみがボロボロに踏み荒らされた砦の中で依存症者の心を守る盾となりえるのである。


第六章 檻の中のピアニスト




 翌朝、出勤した凌一に、渡辺が声をかけた。
「榊原綾香さんの件、気の毒だったな……」

 凌一は席を立って渡辺に歩み寄り、力なく問いかけた。
「私が悪かったんでしょうか?」

 渡辺がぶっきらぼうに答えた。
「警察はよろず相談所じゃない。お前の責任なわけがないだろ……」
「しかし、何か出来ることがあったんじゃないかと……」
「それじゃ一体、何が出来たと言うんだ?」
「何がって……」

 そう言って凌一は、うつむいた。警官には人の不幸は救えない。それは、警官になって以来、凌一が嫌というほど思い知らされてきた事実だった。

 渡辺が話題を変えた。
「明日野、話は変わるが、谷口可奈子については、建造物等以外放火と覚せい剤取締法違反で在宅起訴と決まった。今日、検察立会いのもとで放火現場の検証が行われる。君は目撃証人だ。検証に立ち会うように」

 凌一が渡辺に尋ねた。
「新阿久山病院から放火現場までの護送は中村さんと藤田さんが行くんですね」
「そうだ」

 凌一は、席に戻り、明和署の中村に電話した。
「明日野です。今日の現場検証の件、課長から聞きました。新阿久山病院まで谷口可奈子を迎えに行くんですね。私も同行したいんですが……」
「わかった。一緒に行こう」

 中村の返事を聞いて、凌一は受話器を置いた。
 渡辺が尋ねた。
「何でお前が病院まで同行するんだ?」

 凌一は、戸惑いながら答えた。
「谷口可奈子は、まだ、心を開いていませんし、反省の態度も見せていません。でも、それは彼女の本心ではないように思うんです。このままの態度で公判に臨めば、判決は彼女に不利なものになるでしょう。私はそれを避けたいんです」

 渡辺は少し首を傾げながら、
「わかった。好きにしろ」

 しばらくして、明和署の車に乗り、中村と藤田がやって来た。凌一は、後部座席に乗り、三人で新阿久山病院に向かった。

 新阿久山病院に着くと、凌一が中村と藤田に、
「少し時間をもらえますか? 彼女と二人だけで話したいので……」
 中村が答えた。
「それはかまわんが、早くしてくれ。俺たちはここで待ってる」
「わかりました」

 凌一はそう言って、一人だけ車から降り、病院に入った。現場検証の件は、病院には連絡済みだった。病院の受付は、凌一の姿を見て声をかけた。
「谷口可奈子さんを迎えに来られたんですね。今日の現場検証の件は連絡を受けています。すぐに連れて来ますのでお待ち下さい」

 凌一が受付に、
「あの、ちょっと、その前に、少し彼女と話したいんですが……」
「わかりました。それでしたら、閉鎖病棟の面会スペースでお待ち下さい」

 凌一は、受付で記帳して、閉鎖病棟に入り、面会スペースに腰掛けた。



 しばらくして、看護師に導かれて可奈子がやって来た。
 可奈子の姿を見て凌一が声をかけた。
「やあ、可奈ちゃん、こんにちは」

 可奈子がパッと表情を明るくした。
「あれっ、明日野さん。こんにちは、今日の現場検証って、明日野さんも来るの?」
「うん、一応、僕は放火事件の目撃者だからね……」
「わあ、良かった」

 良かったと言う可奈子の言葉の真意をはかりかねた凌一が尋ねた。
「良かったって?」
「ええ、ちょっと…… 現場検証って大勢の刑事さんに囲まれてやるんでしょ。ちょっと気が引けてたの」
「そうかい。そう言ってくれて嬉しいよ。現場検証でも検察の取調べでも、大切なことは捜査に協力的であり、反省している態度を見せることだよ。僕がわざわざ先に君に会いに来たのはそれを伝えるためさ。
君は初犯だし、君の罪状なら、普通は執行猶予がつく。ただし、執行猶予というのは、本人が罪を認めて反省していることが大前提なんだ。明和警察の取調室の時のように、心にもない悪態をついたり、捜査に非協力的だったりすると、実刑判決が下っても不思議じゃない。
執行猶予がつけば、執行猶予期間中、普通に暮らしてさえいれば、処罰自体がなかったことになる。つまり、何も罪を犯さなかったのと同じことになる。ところが、実刑判決が下れば、君は刑務所に入らないといけないし、前科者になる。天と地ほどの差があるんだ。わかってくれるかい?」

「わかった、いい子にしてます」

 可奈子の返事を聞いて凌一はホッと胸をなで下ろした。そして微笑みながら言った。
「フフッ、それじゃ行こうか?」
「はい」

 可奈子の態度は少し軟化していた。物腰にも目つきにも穏やかさが感じられた。凌一は、外で待っていた中村に電話し、閉鎖病棟の入り口まで来るように頼んだ。中村と藤田を待つ間、凌一が可奈子に話しかけた。

「ここの生活になじんだみたいだね」
「ええ、少し落ち着きました。三崎先生から聞きました。明日野さんの手の怪我、私が噛み付いたんですってね。すいませんでした」

 凌一はニッコリと微笑んで、
「あれは、発作の症状だから、気にしなくていいよ」

 中村と藤田の二人が閉鎖病棟の入り口まで来た。看護師にうながされて閉鎖病棟を出た可奈子の両手に藤田が手錠をかけた。手錠をかけられた瞬間、可奈子はハッとして表情を曇らせた。精神病院の閉鎖病棟とは言え、ここでは患者として扱われている可奈子が、一歩外に出れば、自分は犯罪者なんだと実感させられた瞬間だった。

 四人は車に乗り、現場検証に向かった。現場は、常時使用されている月極駐車場だったので、既に放火現場は綺麗に清掃されていた。可奈子は、明和署の担当刑事の指示にしたがって、素直に事情聴取に応じた。現場検証は円滑に進み、なんら不審な点もなく、短時間で終了した。か細く青白い両手に手錠をかけられた可奈子が、捜査員たちに犯行時の状況を説明している姿は、痛々しく不憫だった。

 現場検証の後、中村と藤田と凌一の三人は、可奈子を送り届けるため、再び新阿久山病院に向かった。
 病院に到着し、凌一と可奈子が後部座席から降りると、三崎医師が迎えに出て来た。三崎が言った。
「明日野さん、こんにちは、現場検証、ご苦労様でした。可奈ちゃん、いい子にしてたかい?」
 可奈子が答えた。
「はい」
「それじゃ、可奈ちゃん、後で回診に行くから、先にベッドに戻っていなさい。明日野さん、少し話したいことがあるんですが、お時間はよろしいでしょうか?」

 凌一が中村と藤田の方を見ながら、
「中村さんと藤田さんは先に帰って下さい。私は、三崎先生と話した後、バスで帰りますので……」
 それを聞いた中村が、
「そうか、わかった。それじゃ我々は、閉鎖病棟の入り口まで彼女を送って、先に帰るよ」
「それじゃ、よろしく」
「それじゃ」

 三崎医師の部屋に入った凌一が、
「彼女、随分素直になりましたね」
と言うと、三崎は、
「はい、最初は私たちにも心を閉ざしていたんですが、最近は、随分明るくなったように思います」
「何が彼女をあんなに頑なにさせてたんでしょうか?」

 凌一の問いに、三崎は少し考えた後で答えた。
「さあ、それは私にもわかりません。ただ、心理テストやカウンセリングの結果から推測すると、何か心に深い傷を負っているようです。多分、その心の傷を繕うために薬物やお酒に溺れていたんでしょう。明日野さんのお考えのとおり、彼女は、生まれつきの性悪女じゃありません。
 この病院には、何か不幸な出来事がきっかけになって酒や薬物に依存するようになった患者さんが沢山います。そうした人たちと接する機会が多いことも彼女の励ましになってるんじゃないかと……」
「そうですか…… いずれにせよ、三崎先生のようないい先生と出会えたことは彼女にとって幸いでした。今後ともよろしくお願いします」

 三崎は、少し自嘲的な笑みを浮かべて言った。
「何をおっしゃいます。私なんか何の力にもなりません。彼女の本当の闘いはこれからです。薬物やアルコールの依存症というものは、何年、それを絶ち続けていても、たった一回の摂取で元の木阿弥に戻ってしまうんです。健全な生活を営むためには毎日が誘惑との闘いなんです」
それを聞いて凌一は黙ってうなずき、三崎に深く一礼して部屋を出た。



 凌一が帰った後、三崎は閉鎖病棟の回診で可奈子のベッドを訪れた。三崎が言った。
「今日の現場検証はお疲れだったね。強面の刑事さんに囲まれて、いろいろ訊かれたんだろ?」
「いえ、明日野さんがいてくれたから、何も怖いことはありませんでした。元はと言えば、私が撒いた種だし……」
「明日野さん、優しい刑事さんだね」
「明日野さんも、三崎先生のこと、言ってましたよ。優しい先生だねって。他の入院患者さんに聞いたんだけど、精神病院って、すごく怖いところもあるんでしょ」
「ああ、ある。刑務所より怖いようなところもある。でも、この病院の阿久山院長は、そうした精神病院の体質を改善するために闘ってる。
この病院も精神病院の体質を改善し、まともな医療を実現したいという院長先生の夢をかなえるために設立されたんだ。
もともと廃院になった古い精神病院を買い取って設立された病院だから、お世辞にもきれいな病院とは言えないけど、この病院は他の精神病院とは違って、患者を社会から隔離することが目的じゃなく、早く退院して社会復帰してもらうためにあるんだ。僕たちもそのために頑張ってるつもりだよ」
「そうだったの。じゃあ、あの保護室の落書きは、きっと前の病院の患者さんが書いたんだ…… 私、この病院に運ばれて来て、初めて目を覚ました時、目の前の落書きを見たの。
『神様おゆるしください』って書いてあったわ。私、その落書きを読んで急に怖くなったの。きっと、前の病院で、不幸な目に遭っていた患者さんが書いた落書きなのね…… でも、今の私がいるのは新阿久山病院だから安心ね」

 三崎が苦笑いを浮かべながら言った。
「その落書きは消しておくよ。でも、いくら安心だからと言っても、いつまでもこんな病院にいちゃダメさ。早く治って人生をやり直さないと…… そうだ、今日は天気がいい、少し中庭を散歩しようか」

 それを聞いた可奈子は目を丸くして、
「えっ、外に出てもいいんですか?」
「外と言っても中庭だけだよ。君の場合、刑事処分が決まるまで、当分、外出許可は出せないから」
 可奈子がベッドから飛び起きながら、
「それでも嬉しい。連れて行って下さい」
「それじゃ、行こう」

 三崎は看護師に目配せして閉鎖病棟の鍵を開けさせ、可奈子と一緒に中庭に出た。中庭のベンチに腰掛けた可奈子が両手を左右に広げ、深呼吸しながら言った。
「うわー まぶしい! 外ってこんなに明るかったんだ……」

 三崎が中庭の花壇に寄せ植えされた花を指差しながら言った。
「きれいな花が沢山植えてあるだろ、みんな開放病棟の患者さんたちが植えてくれたんだ。この病院は財政難だから、患者さんたちの寄付で植えてもらった花ばかりさ」

 中庭の花壇には、パンジーやビオラ、マリーゴールドや日々草、ノースポール、ペチュニアなど、いろんな花が寄せ植えされていた。
「開放病棟もやっぱりアル中やヤク中の患者さんなの?」
「そうさ、退院が近くなると君も開放病棟に移れるよ。開放病棟には鉄格子も鍵もないし、普通の病院と変わらない」

「退院?」

 そう言って可奈子は少し瞳を曇らせた。可奈子にはこの病院に守られているような意識が芽生えていたし、可奈子にとって退院するということは現実の世界に連れ戻されることを意味した。外の世界に何かいいことがあるとは思えなかった。

 可奈子の心情を察したのか、三崎は、
「何もあせることはない。外で暮らす自信がつくまで、ゆっくりとここで療養すればいい。薬物やアルコール依存の患者にとってあせりは禁物だよ」
「はい、わかりました」

 可奈子はコックリとうなずき、花壇の花に目をやりながらつぶやいた。
「かわいい……」

 可奈子は思った。花を見てかわいいと思うような感覚は何年も忘れていた。可奈子の心はそこまで荒んでいた。でも、なぜ今、自分は花を見てかわいいと感じるんだろう。可奈子にもわからなかった。自分の心の中で起こっている静かな変化の理由が可奈子にはわからなかった。

 三崎は穏やかな表情で中庭の花を眺める可奈子の横顔を見ながら、美しいと思った。

 二人は黙ってそよ風になびく花びらを眺めていた。



 その頃、凌一はバスの中できのうのことに思いを巡らせていた。自分は警察官だ。刑事事件を扱うのが仕事だ。渡辺が言うようによろず相談屋じゃない。里美ちゃんが亡くなったことは不幸な出来事だった。綾香が後を追って自殺したことも悲しいことだ。でも、綾香が自殺したのは刑事事件じゃない。自分の職分じゃない。凌一はそう自分に言い聞かせていた。でも、最後に綾香と会ったのは自分だし、自分は自分なりに綾香を励ましたつもりだった。あの時自分がもっと親身になって綾香と話をしていたら…… 凌一の考えはどこまで行っても堂々めぐりだった。

 その時、凌一の携帯が震えた。真穂からのメールだった。
〔凌一さん、どこかで会えない?〕

 綾香の自殺のことで自分が苦しんでいることが真穂にはわかっているんだろう。きっと心配して、こんなメールを送って来たに違いない。
〔もうすぐ栄橋のところに着くから、そこで待ってるね〕

 凌一はそう返信した。

 栄橋のたもとでバスを降りた凌一は、橋の真ん中まで歩いて行き、欄干にもたれながら川面を眺めていた。
初夏の日差しに照らされてきらめく水面が美しかった。

しばらくして、後ろから真穂が声をかけた。
「こんにちは」

 凌一が覇気のない声で返事した。
「こんにちは。きのうの夜、真穂ちゃんが抜け出したこと、ご両親怒っていなかったかい?」
「いいえ、私が抜け出したことには多分、気づいてたんだろうけど、事情は知ってるから、何も言わないわ」

 凌一が視線を下に落とした。
「そう、でも本当はちゃんとお詫びしないと……」
「私が勝手に抜け出したのよ。凌一さんが謝ることじゃないわ」
「だけど……」

 真穂が心配そうに尋ねた。
「凌一さん、綾香さんのこと気にしてるのね……」

 凌一は、首を横に振りながら言った。
「いや、気の毒だったとは思うが、彼女の人生さ。今更悔やんでもどうにもならない。それより、少し歩こうか?」
「うん」

 二人は、しばらく遊歩道を歩いた後、河原に下りた。凌一は、河原の石を手に取り、サイドハンドで川面に向けて投げた。石は、川面でチョンチョンと何度もバウンドして、綺麗な水紋を残して消えていった。
それを見た真穂が瞳を輝かせて言った。

「きれいきれい! もう一度投げて!」
「いいとも!」

 凌一は、もう一度、河原の石を手に取り、サイドハンドで川面に向けて投げた。さっきと同じように、石は川面で何度もバウンドし、美しい軌跡を残して沈んでいった。

「私にも出来るかな?」
「コツを教えてあげよう」
「まずは石選び。投げやすい大きさで、平べったくて、円い石がいいんだ」
「平べったくて、円い石ね。こんなのどうかな?」
「いいね。次は投げ方。横手投げで、石に横回転がかかるように投げるんだ」
「わかった。やってみる」
「あれっ!」

 真穂が投げた石は、とんでもない方向に飛んでいった。

「ノーコンだな。もう一度やってごらん」
「はいコーチ」

 真穂は石を選び、不器用なサイドハンドで石を投げた。
「ドボン」
「プッ フフフ」
 目の前に石が沈むのを見て、二人はふきだした。
「もう一度」
「まるで鬼コーチね」
 真穂は、ぼやきながら石を拾い、一球入魂してそれを投げた。
「チョン」
 石は、川面で一回だけバウンドして沈んでいった。

「やった! 今、一回跳ねたよね!」
「ああ、確かに。コツはわかったみたいだね。後は練習だけさ。高く投げ上げたらダメだよ。出来るだけ川面に水平に、滑らせるように投げるんだ」

 無邪気に遊ぶ二人を静かに沈む夕陽が照らしていた。夕陽に照らされた川面がキラキラと光っていた。
 凌一が「今日はこれぐらいにしよう」と言うと、二人は河原から遊歩道に上がった。心地よい風が二人のほほをなでた。二人は離れがたい気持ちを抑え、別れを告げて、それぞれの家路につこうとした。
 その時だった。若い女性の大きな声がした。

「つかまえて! そのバイクをつかまえて!」

 凌一には、すぐにピンと来た。最近、この界隈を騒がせているミニバイク強盗だった。手口はいつも同じで、ミニバイクで横を通り過ぎる瞬間に、女性のバッグをひったくるのである。

 ミニバイク強盗は、歩道を歩いていた女性のバッグを引ったくり、そのまま歩道を走って、凌一と真穂の方に向かって来た。凌一は真穂をかばってバイクの前に立ちふさがった。

 凌一の『妖刀』がうなった。

 ミニバイクはあっけなく転倒し、フルフェイスのヘルメットをかぶった男がバイクから転げ落ち、主を失った無人のミニバイクが歩道を走って転倒した。エンジンがかかったまま横倒しになったミニバイクの後輪が空しく回転を続けた。

 真穂には何も見えなかった。なぜバイクの男が転倒したのかわからなかった。凌一はパールスティックを胸ポケットに収め、ミニバイク強盗に近づいた。

「警察だ。強盗容疑で現行犯逮捕する」

 凌一は男の片手に手錠をかけ、手錠のもう片方を、歩道の手すりにかけた。それから凌一は携帯を取り出し、何か話していた。まもなく、サイレンを鳴らしながらパトカーが近づいて来た。パトカーから降りた二人の制服警官が凌一に敬礼した。凌一も軽く敬礼を返し、何か話していた。凌一は、男が落としたバッグを拾い、それを被害者の女性に返した。

「これはあなたのバッグですね」

 女性は息を切らしながら答えた。
「ありがとうございます」
「お怪我はありませんでしたか?」
「はい、大丈夫です」
「それは良かった。大変お手数ですが、あのお巡りさんに事情を説明して下さい。私はこれで失礼しますので」

 凌一は真穂の方を振り返って問いかけた。
「真穂ちゃん。怪我はなかった?」
「う、うん。私は全然平気」

 真穂は、ポカンとしていたが、我に帰って凌一に尋ねた。
「凌一さん、あの強盗に何かしたの?」

 凌一が微笑みながら答えた。
「いや、何もしてないよ。自分で勝手に転んだんだ。でも、いい手みやげになったよ。ここの所轄署は、あのミニバイク強盗に悩まされてたんだ」
「そうそう、私たちも先生から気をつけるように言われてたの」
「それじゃ、今度こそさようなら。気をつけてね」
「はい。凌一さん、さようなら」

 二人は、今度こそ本当にそれぞれの家路についた。

 家に戻った真穂は、玄関から大声で叫んだ。
「お母さん! 今、栄橋のところで、凌一さんがあのミニバイク強盗を逮捕したよ!」

 祥子が驚いて尋ねた。
「ミニバイク強盗って、あのミニバイク強盗?」

 真穂は、キッチンに駆け込みながら言った。
「そう! そのミニバイク強盗! 女の人が襲われてたの。私、逮捕シーンを目の前で見たのよ!」
「凌一さんはミニバイクと素手で闘ったの?」

 真穂は、首をかしげながら答えた。
「それが、よく見えなかったの。凌一さんは強盗が勝手に転んだんだって言うんだけど……
ただ、強盗が転ぶ瞬間、凌一さんの手元で何かキラリと光ったのよ。その瞬間、ミニバイクが横転したの。凌一さん、顔色ひとつ変えずに、強盗に手錠をかけてたわ。かっこいいのなんのって。あれは、まるで時代劇の剣豪が顔色ひとつ変えずに悪者を切って捨てるようなシーンだったわ」

 真穂は、真子にも真治にも同じ話を繰り返した。その夜、中井邸は、凌一のミニバイク強盗逮捕の話題で盛り上がった。
 翌朝の高校でも、真穂は、友達にきのうの逮捕劇をしゃべりまくった。真穂の友達の今どきのにぎやかな女子高生たちが口々に騒いだ。

「かっこいい~ 真穂、私たちにもその刑事さんを紹介してよ!」

 真穂は得意げに、

「ダーメ。凌一さんは私だけのものよ」



 翌朝、可奈子はベッドに横たわり、毛布を被って、一人悶々と苦しんでいた。看護師が持って来た朝食にも手をつけていなかった。

 朝の回診に来た三崎がその姿を見て言った。
「渇望が始まったんだね。しばらくは苦しいだろうけど我慢するんだ。渇望感は、次第に薄れていくからね。一ヶ月も経てば、ほとんど忘れられるようになるよ」

 三崎の声を聞いた可奈子は、毛布から顔を出して尋ねた。
「渇望?」
 三崎は穏やかに微笑んで、
「そう、渇望さ。薬物やお酒の離脱症状には二種類あって、最初の三~四日間は、幻覚や痙攣など激しい離脱症状に襲われる。君も経験したね。その後は、身体的な症状は、ほとんどなくなるけど、今度は、断続的な渇望に襲われる。渇望というのは、無性に薬が欲しくなる精神症状のことさ。
 今、君は、覚せい剤やお酒が欲しくて欲しくてしようがないんだろう。最初の一ヶ月の渇望感はとても苦しくて、自分の意思では耐えられない。だから、ここのような専門の病院に入院する必要があるんだ。でも、渇望感は、次第に薄れていく。
 早い人なら一ヶ月経てば、ほとんど薬や酒を欲しいとも思わなくなる。長い人だと一年ぐらいかかるけどね」

 可奈子が心細そうな声で、
「この、寒いような熱いような変な感覚、ものすごい焦燥感は、渇望の症状なんですか?」

 それを聞いた三崎は、可奈子の脈をとり、胸に聴診器をあてた。そして、
「うん、渇望だね。熱もないし、体には異常はないと思うよ。この病棟の患者さんは、みんなそれと闘っているんだ。君の場合、覚せい剤とお酒のチャンポンだったから、渇望感もきついと思うけど、僕を信じて我慢するんだ。渇望感は日を追って薄れていく。それを待つしかない。可奈ちゃんには何か気晴らしになるようなことはないのかい?」
「気晴らしですか?」
「そう、気晴らし、周りの人を見てごらん。みんな本を読んだり、トランプをしたりして気を紛らしているだろ。何か気晴らしになるようなものがあれば、言ってごらん」

 可奈子が少しはにかみながら、
「わたし、ピアノを弾きたいんですが、病院にはありませんよね……」

 それを聞いた三崎が少し考えた。
「ピアノか…… 実は、中庭のリクリエーションルームに電子ピアノがあるんだ。時々弾きに行ける様に、看護師に申し送りしておこう。ただし、ヘッドホンをつけて弾くんだよ。病院で大きな音を出すわけにはいかないからね……」

 可奈子は少し嬉しそうな表情を見せて、
「わかりました。ありがとうございます」

 三崎は少し意外そうに可奈子に尋ねた。
「可奈ちゃんはピアノが弾けるのかい? 素敵だな……」
「ええ、実家が楽器屋さんをしていたものですから」
「そうなんだ。是非一度、君の演奏を聴きたいな…… それじゃ、僕はこれから外来の診察があるから、がんばってね」
「ありがとうございます」

 三崎が去って、しばらくした後、可奈子のところに看護師がやって来た。
「先生の許可が出ていますので、リクリエーションルームに行きましょう」

 可奈子はベッドから飛び起きて答えた。
「はい」

 閉鎖病棟から中庭に出るのは、常時施錠された鉄の扉を開けてもらう必要がある。閉鎖病棟の患者にとって、この鉄の扉の外に出られるのは、とても嬉しいことである。この嬉しさは、刑務所や閉鎖病棟など、何らかの施設に監禁された経験のある者にしかわからない感覚である。閉鎖病棟の中と外では、空気の味さえ全く違うのである。
可奈子はリクリエーションルームに入った。そこは、小学校の講堂のような建物だったが、講堂に比べれば随分小さい。可奈子は、舞台の上にあった電子ピアノの前に座り、電源を入れた。看護師が声をかけた。
「十一時四十分までですよ」
「わかりました」

 可奈子はヘッドホンを掛け、演奏を始めた。最初に可奈子が奏でたのは、『禁じられた遊び』だった。
 リクリエーションルームには、開放病棟の患者が大勢来ていて、世間話をしたり、軽い運動をしたりしていた。
 電子ピアノをヘッドホンをかけて弾いたのだから、当然音は出ない。でも、可奈子がピアノを奏でる姿は、なぜか他の患者たちの注目を集めた。例え音は聞こえなくても、可奈子の指先の動きや体のしなり方を見れば、美しい曲を奏でていることが想像できたからである。

 一人の患者が可奈子の所に歩み寄って言った。
「娘さん。ちょっと聴かせてもらえるかな?」
「いいですよ」
 可奈子はそう言って、その患者にヘッドホンを手渡し、演奏を続けた。その患者は、しばらく目をつむって可奈子の演奏に聴き入った後、ヘッドホンを外しながら言った。
「とても上手ですね」
「ありがとう」

 可奈子は少し照れくさそうにそう言って、もう一度ヘッドホンをかけ、演奏を続けた。いつの間にか十一時四十分になっていた。

 看護師が可奈子に近づいて言った。
「時間です」
「わかりました。ありがとうございます」

 可奈子は看護師に礼を言って、席を立った。可奈子は看護師にうながされて再び閉鎖病棟の中に戻った。ベッドに横たわった可奈子の耳には、さっきまで自分が弾いていた『禁じられた遊び』が鳴り響いていた。長い間、自分がピアノを弾けることすら忘れていた。もちろん演奏の腕は落ちていたが、中学生の頃まで、天才少女とまで言われていた可奈子の演奏は、一般の人を感動させるには十分だった。

 この病院に来て、自分は、花を愛でる感情を取り戻した。ピアノの音色に感動する感情も取り戻した。何年も何年も忘れていた、とても大切なものをこの鉄格子に囲まれた檻の中で取り戻した。可奈子の瞳から、何故かとめどなく涙が流れた。



 翌日も、その翌日も、可奈子はリクリエーションルームに出てピアノを弾いた。ピアノを奏でている間も、可奈子の心から嫌なことが全て忘れられたわけではなかった。決して心の傷が完全に癒されるわけではなかった。
 でも、ピアノを奏でる度に、可奈子の心の中で長年うち捨てられていたまるで少女のように繊細で純粋な感情が呼び覚まされた。可奈子にはそれがわかった。可奈子はピアノを弾くことで、忘れ去られた自分の大切なものを呼び起こそうとしていた。
 一般の病院とは違い、精神病院にはベッド脇のテレビなどない。この病院の患者も、感動できるものに飢えていた。
 可奈子がピアノを弾いていると、開放病棟の患者たちが入れ替わり立ち替り可奈子の所に来て、一曲聴かせて欲しいと頼んだ。

「お一人一曲ずつですよ」

 可奈子は、患者たちに演奏をせがまれる度にそう言って微笑みを浮かべながらピアノを奏でた。
 閉鎖病棟にピアノの上手い女性が入院しているという噂は、瞬く間に病院中に広がった。その噂は三崎の耳にも入った。

 三崎が可奈子に、
「一度君のピアノを聴かせてくれないか?」
「ええ、いいですよ。ただ、プロのピアニストみたいに上手なわけじゃないので……」
「そんなこといいから、君のピアノが聴きたいんだ」

 二人は閉鎖病棟を出て、リクリエーションルームに向かった。ピアノの前に腰掛けた可奈子が、少し照れくさそうにしながら三崎にヘッドホンを手渡した。可奈子が奏でたのはやはり『禁じられた遊び』だった。三崎の耳に、はかなく、哀愁漂うピアノの調べが響いた。三崎は、目をつむってじっと聴き入った。一曲弾き終えたところで可奈子は手を止めた。三崎はヘッドホンを外して、可奈子に拍手した。

「すばらしい、なんて美しい調べなんだ…… もう一曲お願い」

 それを聞いて、可奈子は、はにかみながら鍵盤に視線を向け、二曲目を弾き始めた。三曲目、四曲目と可奈子の演奏は続いた。三崎は目をつむり、黙ってピアノの調べに聴き入った。
 五曲目が終わり、可奈子が三崎の方に視線を向けた。三崎はヘッドホンを外し、可奈子に拍手を送った。

「可奈ちゃん、すばらしい演奏をありがとう。他の患者さんにも聴かせてあげたいな、この部屋は、一応、防音になっているから、院長の許可が取れればコンサートだって出来る」
「コンサートなんて、恥ずかしい」
「本当は、いつもこうして僕だけのために演奏して欲しいけど……」
「三崎先生のためなら、いつでも……」

可奈子と三崎は、お互いに見つめあった。しばらくの間、沈黙の時が流れた。



 翌日、ある別件の捜査で南生駒まで来た凌一は、途中、新阿久山病院に立ち寄り、可奈子に面会した。二人は、看護師の許可を得て中庭に出た。入院中の可奈子の言動は、閉鎖病棟の患者としては模範的なものだったし、時折、可奈子が聴かせるピアノの演奏は、院内ではまるでプチコンサートのように人気を得ていたため、可奈子が中庭に出ることについては、既に医師の了解を必要としないようになっていた。
 入院患者の間では、可奈子は『檻の中のピアニスト』と呼ばれていた。可奈子もそう呼ばれていることは知っていたが、今の自分にはお似合いのニックネームだと思っていた。
 初夏の日差しを避けて日陰のベンチに腰掛けている可奈子の透けるような白い肌の奥に、細い血管が透けて見えていた。

 凌一が明るい声で尋ねた。
「可奈ちゃん、随分元気になったね。さっき三崎先生から聞いたけど、内臓もほとんど健康な状態まで回復しているらしい。三崎先生の言いつけをちゃんと守っていれば、もっともっと良くなるよ」
「ありがとう、入院患者さんも看護師さんもここの人はみな親切だから、少しずつ自分のひねくれたところが治ってきているような気がしています」

 凌一が、少しためらいながら可奈子に尋ねた。
「可奈ちゃん、三崎先生のことが好きなのかい?」

 可奈子は一瞬ハッと表情を変えたが、すぐにクスクスと笑いながら答えた。
「明日野さん、世間知らずね。世の中には身分相応というのがあるのよ。ヤク中で放火魔の私がエリート医師に恋? そんなばかな…… 私はそこまで身の程知らずじゃありません」

 凌一は真顔で、
「ヤク中で放火魔の君が三崎先生を好きになっちゃいけないかい? 人に想われることは自分の自由にはならないが、人を好きになることは自由だ。人を好きになることに身の程知らずなんてありえない。君には男の心がわかっていない。君のような若くてきれいな女性に好かれて迷惑に思う男はいない。その娘がヤク中であろうと放火魔であろうとそんなことは関係ない。それが男という生き物さ」

 可奈子はそれを聞いてひときわ可笑しそうに笑った。
「フフフ、そうね。そうかもしれないわね。三崎先生も私に好かれれば、まんざらでもないかもね。でもね、私にはわかるのよ、物語の結末が…… 私と三崎先生なんて、どこまで行っても仲の良いヤク中患者とその主治医よ。それ以上には絶対なれない。なれるはずがない。なっちゃいけない。三崎先生は、育ちのいい上品な御令嬢と結婚して、末は病院の経営者ね。人の人生なんてあらかじめストーリーの決まった出来レースよ! 私なんか、いいとこ行っても、三崎先生にとっては、若かりし頃のあわい思い出の女の一人よ! そうに決まってる」

 可奈子の話を黙って聞いていた凌一がしばらく沈黙した後でポツリと、

「やっぱり君は三崎先生が好きなんだ……」

 凌一の一言に可奈子は返す言葉を失った。

 凌一が続けて、
「ふられて傷つくのが怖くて恋が出来ない人は沢山いる。でも、僕は君に別の理由があるように感じる。僕には言えないことなんだろう。無理に訊きはしない……」

可奈子はしばらくの沈黙の後、真っ直ぐ前を見すえたまま言った。小さく、はかない声だった。
「帰って……」

一瞬の沈黙の後、凌一は、自分の足元に視線を移し、足元の砂を靴でいじくりながら言った。
「わかった」

 凌一は立ち上がり、中庭のベンチを離れて正門の方に歩を進めた。四歩か五歩進んだところで、可奈子の方を振り向き、何か言おうとして一瞬躊躇した。しかし、すぐに穏やかな微笑みを浮かべて物静かに問いかけた。
「また来ていいかい?」

 ベンチに腰掛けたままの可奈子が少し目を潤ませて言った。凌一の顔を見ようとはしなかった。
「ええ…… ご自由に……」

 看護師にうながされて可奈子はベンチを立ち、病室に戻って行った。



第七章 禁じられた遊び




 凌一が捜査している別件とは、真美署管内で発生した連続結婚詐欺事件である。被疑者の女性は、ホームヘルパーをしながら、一人暮らしの高齢者の家庭を訪問し、結婚話をちらつかせながら、かなり高額の現金を引き出させ、それを貢がせていた。被害者は、新阿久山病院の近くにもいた。特にこの被害者は、被疑者の女性に千二百万円という高額を貢がせられながら、最後は不審死を遂げている。

 結婚詐欺の罪状は、既に身柄を拘束されている被疑者本人が認めているが、不審死については、関与を否認している。凌一の任務は、被害者の自宅付近を聞き込み、交友関係や金銭関係を洗い出して、殺人事件として立件することだった。そのため、凌一は、ほぼ毎日、新阿久山病院の近隣家屋の聞き込みを続けていた。

 捜査の合間に、凌一は時々新阿久山病院を訪れ、三崎にも可奈子の様子を聞いていた。
 その日も凌一は、三崎医師を訪問し、可奈子の様子を尋ねていた。
 二人は中庭に出てベンチに腰掛け、中庭のパンジーを眺めながら和やかに話をしていた。

 凌一は、わざと三崎の方を見ず、まるで独り言のようにつぶやいた。
「三崎先生、先生は可奈ちゃんが先生に好意を寄せていることに気づいてらっしゃいますか?」
「えっ」

 三崎はそれを聞いて驚いたように凌一の顔を見た。凌一には、三崎が驚いたふりをしているように見えた。
「可奈ちゃんのような美人に慕われるなんて、うらやましいですね」と言う凌一の言葉に、三崎は苦笑いを浮かべた。

「谷口さん、確かにきれいですね…… でも、精神科では、医師と患者の間にそれ以上の感情が芽生えることは許されません。患者さんが医師に好意を寄せることはあるかもしれませんが、その逆は絶対に認められません。診断の客観性が失われてしまいます」

 凌一が少し三崎を皮肉った。
「私は、まだ、その逆の話はしていませんが……」

 凌一の言葉を聞いた三崎が少しほっとしたような笑みを浮かべた。
「そ、そうでしたね。私の早とちりです。すいません」

 凌一は急に真剣なまなざしを三崎に向けた。
「男同士です。ざっくばらんに言いましょう。先生、可奈ちゃんに好かれてまんざらでもないんじゃないですか? 私は、精神科医と患者が好きあってはいけないとは思いませんが、どうしてもダメなんですか?……」

 三崎は急に表情を曇らせた。そして、自分に言い聞かせるように、
「ダメなものはダメです。私も谷口さんに好意を持ってもらえば、嬉しいことに間違いはありませんが、それはあくまで、患者とその主治医としてのことです。それ以上の感情は断じてありません。あってはいけないんです……」

 凌一には精神科医と患者が恋に落ちてはいけないとは思えなかった。でも、それが三崎の信念なら、それはそれで仕方ないと思った。

 二人は黙って、陽光を浴びてさざめくパンジーを眺めていた。



 数日後、凌一は、捜査の合間に新阿久山病院を訪れた。
 病院の駐車場に停車し、車を降りた凌一は、トランクから重そうに布製の手さげ袋を二つ取り出した。手さげ袋の中はパンパンに詰まっており、それを両手にぶら下げようとした凌一は、思わず「うわっ、重たいなこれ……」と声をあげた。
 右手の方は何とかなるが、左手は可奈子に噛まれて骨折した指が完治していない。
 凌一は、足元に漬物石のように膨らんだ布袋を二つ置き、ハタと考え込んだ。そしてつぶやいた。

「ど~やって運ぶんだ? これ……」

 考え抜いたあげくに凌一は、一旦しゃがみ込み、左手の肘に一袋、右手の肘に一袋、それぞれ引っ掛けて立ち上がった。
 凌一は両肘にぶら下げた手さげ袋の重さに振り回されてフラフラしながら三崎の診察室に入り、しばらくして出て来た。やはり両肘にパンパンの手さげ袋をぶら下げていた。あまりの重さに耐えかねた凌一は、一旦、手さげ袋を床に置き、ハアハア言いながら呼吸を整えた。そして、包帯の巻かれた左手を見つめた。左手の怪我がなければ何とかなる重さだった。

 凌一は思った。
(左手って案外大事なんだな)

 ここまで来て諦めたら男がすたる。そう思った凌一は、今度はしゃがんでそれを両脇に抱えた。そして、やはり袋の重さにフラフラしながら渡り廊下を歩き、リクリエーションルームに向かった。
 ちょうどその時、可奈子はリクリエーションルームでピアノを弾いていた。ピアノを奏でる可奈子の姿からは、もともと良家の娘であることを感じさせる気品が漂っていた。

 凌一は可奈子に近づいて、そっと目配せした。可奈子はヘッドホンを外し、凌一に挨拶した。
「明日野さん、こんにちは、事件の捜査で毎日この辺りの家を聞き込みに回ってるって三崎先生から聞いてたの……」

 凌一は、両脇に抱えた二つの手さげ袋を「よいしょ」と言いながら足元に下ろし、可奈子に話しかけた。
「そうなんだ。今のところ、良くある結婚詐欺事件なんだけど、容疑者に貢いでいた一人暮らしの男性が何人も不審死している。連続殺人事件に発展する可能性もあるから、慎重に聞き込みをしているんだ」
「そう、怖い事件ね。私も一歩間違えていたら、どんな犯罪をしでかしていたかわからないから、人のことは言えないけど……」

 凌一がピアノに視線を向けながら、
「ピアノか? いい気晴らしを見つけてよかったね。三崎先生からも聞いたけど、君はもうこの病院では閉鎖病棟の美人ピアニストとして有名らしいよ。君はいつも自分のことを放火魔だとかヤク中だとか自嘲的に言うけど、本当は地元屈指の良家の娘だもんね。僕も警官の端くれだから、それぐらいのことは調べてるんだよ。ピアノの腕も中学時代は天才少女と呼ばれていたらしいじゃないか。天才少女が奏でるピアノを僕にも少し聴かせてくれるかい?」
「いいですよ。ただし、もう天才少女だった頃の腕前はありませんけど…… ヘッドホンをして下さい」

 凌一がヘッドホンをつけると、可奈子はピアノの演奏を始めた。一曲めはやはり『禁じられた遊び』だった。
一曲聴き終えると凌一は、深く感銘を受けたような表情を見せながらヘッドホンを外し、言った。
「切ない曲だね」
「はい、一番好きな曲なんです」
「まるで、君の心の寂しさを垣間見るような調べだった」

 それに対しては、可奈子は何も答えなかった。

 凌一は、足元の手さげ袋の中身を可奈子に見せた。
「これ、役に立つかなと思って持って来たんだけど……」

 可奈子が袋の中を覗くと、中には、どっさりとピアノの楽譜集や教本が詰まっていた。
「一応、君の自宅にあったピアノ関係の本は全部持って来たんだ。僕は楽器をやらないから可奈ちゃんぐらいの上級者には楽譜なんていらないのかとも思ったんだけど」
 可奈子は床にしゃがみこんで、袋の中の楽譜集や教本を一冊一冊取り出しながら思わず「うわー」と声を漏らした。そして、凌一の顔を見上げた。
「嬉しい! 全部あるわ! 全部! 欲しかった本が全部ある! 楽譜を忘れて弾けない曲が沢山あったの。でも、全部ある。これで弾きたい曲は全部弾けるわ! 嬉しい! 明日野さん、ありがとう! 本当にありがとう!」

 可奈子は満面の笑顔を見せた。無邪気な笑顔だった。
 凌一は、可奈子のこんな無邪気な笑顔を初めて見た。
「喜んでもらえて嬉しいよ。それにしても楽譜って重いね。死ぬかと思った」

 その言葉を聞いた可奈子は口元に手を添えて「フッ」と小さくふき出し、すぐにもとの穏やかな笑顔に戻って、
「ごめんなさい。重かったでしょう。でも、本当に嬉しい! 明日野さん、本当にありがとう」
「もう中身を三崎先生に確認してもらって、許可はとってあるからね。三崎先生は、そこの書架の空きスペースに入れていいって言ってくれたよ。こんなの、閉鎖病棟に持って行っても意味ないだろ」
「本当!、ここに置いていいの?」
「ああ、三崎先生がいいってさ」
「嬉しい!」

 凌一は、穏やかに微笑みながらピアノの横の書架に本を並べる可奈子の姿を見守っていた。本の収納が終わると、  
 凌一は空の布袋を右手に握り締めて、
「少し中庭で話そうか?」
「はい」そう言って、可奈子はコックリとうなずいた。

 凌一と可奈子の二人は、いつものように中庭のベンチに腰掛けた。今までと違って、可奈子の姿には凛とした気高さが感じられた。凌一は、可奈子の横顔に、本当の彼女を見たような気がした。
「私、三崎先生に打ち明けられたんです」
「ん?」
「三崎先生、私のことが好きだと言って下さったんです」

 凌一は、内心驚いたが、表情には出さなかった。
「そう、良かったね。本当に良かった」

 それを聞いて、可奈子は憮然とした表情を浮かべた。
「良くなんかありません」

 凌一には、良くないという意味がわからなかった。可奈子の三崎への気持ちは知っていた。とても喜ばしいことに思えた。凌一が可奈子に尋ねた。
「どうして? 三崎先生は、君の覚せい剤のことも、放火のこともご承知の上で、君に好きだと言ってくれたんだろ?」

 可奈子は凌一の方に視線を向けず、つらそうな表情をした。
「それだけじゃないんです。私って女は…… 私って女は…… それだけじゃないんです」

 そう言って可奈子は声を詰まらせ両手で顔を覆い、ワッと泣き出した。
 突然のことに凌一は狼狽したが、痛々しそうに可奈子に向けていた視線をそらし、独り言のようにつぶやいた。

「三崎先生は、今の可奈ちゃんが好きなんだと思う。過去はいいのさ…… 例え君が殺人犯でも、三崎先生の気持ちは変わらないと思うけど……」

 可奈子は髪を振り乱して声を震わせた。
「三崎先生もそう言うんです。今の君が好きなんだって、例え君が殺人犯でも、僕の気持ちは変わらないって…… むしろ、君に愛される資格がないのは自分の方だって……」
「自分のほう?」

 意味がわからずにポカンとしている凌一に可奈子が話を続けた。
「でも、このまま先生の胸に飛び込むことは出来ないんです。人間として許されても、女としてそれは許されないんです」
「三崎先生の気持ちを受け入れる前に、告白しなければいけない事があるっていうことだね……」
「そうです」
「それは、例えそれを打ち明けることで、君の恋がダメになっても、打ち明けなければならない事なんだね」

 可奈子は小さな声でポツリと、
「そうです」

 凌一も小さな声でささやくように、
「それは僕には言えない事なんだね」
「いえ、今日は、明日野さんにそれを打ち明けるつもりだったんです。でも、やっぱり言えない…… ごめんなさい」

 そう言って再び可奈子は泣き出した。瞳から大粒の涙がポタポタと落ちた。
「いいんだ。無理しなくても。僕はまた来るから……」

 激しく泣きじゃくる可奈子の様子を看護師が無表情に見つめていた。



 次の日、凌一は再び可奈子に面会した。二人はいつものように中庭のベンチに腰かけた。

 可奈子がまるで機械のように無表情に、鋭い視線をまっすぐ前に向けて言った。

「私、十六歳の時に強姦されたんです」

 この告白は、全く凌一が予想していなかったことではなかった。可奈子の過去に余程のことがあることは覚悟していた。

 凌一は可奈子と同じように無表情に、まっすぐ前を見すえて言った。
「君のことは明和署から聞いている。中学まで優等生だった君が荒れ始めたのはその頃からだね……」

 可奈子は、まるで物語を語るように話を続けた。
「平成十三年三月十四日の夜、私は塾の帰りが遅くなって、夜十時頃に明神橋を通っていたんです。いつもなら両親が車で迎えに来てくれるんですが、その日はたまたま両親が外出していたので、一人で帰宅していました。橋を渡り終えた時、橋の下から目出し帽を被った男が出てきて、私の喉元に包丁を突きつけました。私は恐怖で抵抗も出来ないまま橋の下に引きずり込まれ、辱められました。私に出来たことは早く終わってくれるように願うことだけでした。
例え、命がけで抵抗することが出来なくても、何か出来ることがあったと思うんです。目出し帽を剥がしたり、噛み付いてやったり、例えボタンのひとつでも引きちぎってやれば、訴えたって証拠に出来たと思うんです。
私にはそれすら出来ませんでした。
私にはそれが許せない! かすり傷ひとつ負わずに黙って辱めを受けた自分が許せない!
私には犯人の特徴を訊かれても何も答えられない。何の証拠品もない。自分の一番大切なものを奪われていながら、体を交えていながら、何もわからないって、そんなことってありますか? 私にはそんな自分が許せないんです。夜十時なら明神橋の辺りはまだ人通りがあります。悲鳴でもあげていれば助けてもらえたかも知れないのに……」

 凌一は少し視線を下に落とした。
「君は、被害届けを出さなかった。警察の事情聴取で、かすり傷ひとつ負っていないことを知られるのが我慢できなかった。そうだね……」

 しばらくの間、沈黙が続いた。静寂の時が流れたようにも、時の流れが止まったようにも思えた。
伏し目がちに小さな声で可奈子が尋ねた。
「捜査を始めるの?」
「いや……」そう言って凌一は首を横に振った。
「どうして? 私が打ち明けたのに……」
「強姦は親告罪だ。君が被害届けを出さない限り警察は何も出来ない。ただし、処女を強姦し、処女膜を破裂させた場合は強姦致傷罪に当たる。強姦致傷は、非親告罪だから、被害届けがなくても犯罪は成立する。君がその時、処女だったことを誰も疑いはしないが、刑事裁判は証拠が全てだ。それを証明する必要がある。それに、包丁で脅迫されたのなら、非親告罪である脅迫罪が適用できるけど、強姦罪の定義が暴行・脅迫等の手段を用いた強制的な性交だから、脅迫罪を単独で適用するのはあまりにも不自然だ。つまり、僕が言いたいのは、捜査を始めるためには、君が、もう一度ボロボロになる覚悟が必要だということさ」
「もう一度ボロボロになる…… やっぱりそうなのね。明日野さんが言いたいことの意味はわかります。それでも私が被害届けを出したら?」
「捜査が開始される。ただ、事情聴取や実況見分で君は、つらい過去のことを全て思い出さされ、それを担当の刑事に話さないといけない。君は二度強姦されるようなものさ。おまけに犯行が八年前なら証拠や証言を十分に揃えることは不可能に近い。犯人を特定できるような特徴を君が覚えていたり、確たる証拠が残っているのなら話は別だけど、それがない限り、まず、犯人は逮捕できない。
もし仮に犯人が逮捕されても、公判では、被告側の弁護士から君は辛らつ極まる質問を浴びせられる。君は三度目の強姦を受けるようなものさ。それを覚悟の上で君が被害届けを出すのなら、時効までは、まだ二年ある。僕は、犯人逮捕に最善を尽くす。僕に約束できることはそれだけさ。どうする? 被害届けを出すのかい?」

 凌一の問いかけに可奈子はか細い声で答えた。
「ううん、もういいの。犯人が逮捕されたって、汚された私の体が元に戻るわけじゃないし、この八年間をやりなおせるわけでもないでしょ」
「警察官として模範解答をするとしたら、断固として泣き寝入りすべきじゃない。性犯罪者なら、再犯を犯すかも知れない。いや、もう犯しているかもしれない。例え犯人を逮捕できなくても、捜査が行われるだけで再犯の抑止力にはなる。絶対に被害届けを出すべきだと言うだろう。
でも可奈ちゃん。僕は模範警官じゃないんだ。もし、交通事故で両手両足を失ったとしたら、僕だってさぞかし加害者を恨み、憎しむだろう。でも、加害者を恨み、憎しんでいるだけじゃ、いつまでたっても幸せにはなれない。幸せをつかむためには新しい一歩を踏み出すしかないんだ。君は八年前にいわれなき陵辱を受けた。その事実はもう変えられない。
君は一生その事実を背負って強く生きていくしかない。でも、世の中には君のような理不尽な経験をしていなくても結局不幸になる人が沢山いる。それなら逆に、過去に深い傷を負った君が、最後に幸せを勝ち取ったっておかしくないんじゃないか?」
「明日野さんの言うこと、理屈では良くわかるの。でも、私には、見知らぬ男に辱めを受けた自分のこの体がゆるせない。ときどき、メチャクチャにぶっ壊したくなるの! こんな体、この世から消滅してしまえばいいと思うの!」
可奈子はそう吐き捨てるように言って、すすり泣いた。

 凌一には次の言葉が見つけられなかった。しばらくの沈黙の後、凌一が可奈子に尋ねた。
「君が、三崎先生を受け入れる前にどうしても打ち明けないといけないと言っていたのは、このことだね」

 可奈子は、コックリとうなずいた。
「そうです」
「どうしても打ち明けないといけないこととは思わないけど…… だって、君は心まで汚されてはいない。心の純潔まで奪われてはいない」

 可奈子が冷徹な表情を見せた。
「それは、三崎先生が決めることです」

 可奈子の言うとおりだった。
「そうか、そうかもしれないね…… 可奈ちゃん。さっきのこと、どうしても三崎先生に話すのかい?」
「話さないといけない。絶対に話すべきだと思っています。
私が本当に幸せになりたいのなら、自分の幸せを望むなら、話さないといけないと思っています。嘘で固めたガラスの幸せを死ぬまで守り抜く強さは私にはありません。
でも、どうしても、私、言えないんです。明日野さん、お願い、あなたの口から話して。それでダメになるのなら、それはそれでいいんです」

 凌一は、しばらく考えて、
「わかった。幸せには白か黒しかない。幸せにグレーゾーンがあっちゃいけない。それが君の考え方なら僕から話そう。でもね、可奈ちゃん、現実の世の中には、そんなイチかゼロみたいな幸せの方が少ないと思うんだ。実際にはみんなグレーゾーンの幸せの中で、いつ訪れるかわからない不幸に怯えながら生きている。僕は、そう思うんだ。それでもやっぱり三崎先生に話して欲しいのかい?」
「はい。お願いします」
「可奈ちゃん、最後に一つだけ質問していいかな?」
「どうぞ」
「君は犯人の特徴を何も覚えていないと言ったが、今聞いた話なら、犯人の服の色ぐらいは見えたんじゃないか?」
「はい、目出し帽は黒、黒いジャンパーを着て、下は紺のジーンズでした。靴は白いスニーカーでした。でも、そんなんじゃ犯人の特徴とは言えないでしょ? それ以外に私が覚えている特徴は何もありません」

「……」

 凌一は何も答えられずにいた。確かにあまりにもありきたりの服装でそれだけでは特徴とは言えない。
 二人はしばらく、呆然と中庭の花を眺めていた。初夏の澄みわたった青い空を、まるでソフトクリームのようなまっ白い雲が流れていた。



 可奈子は看護師に導かれて閉鎖病棟に戻った。凌一は、三崎の部屋を訪ねた。

「三崎先生、先生は、谷口可奈子さんにご自分のお気持ちを打ち明けられたそうですね」

 それを聞いた三崎は、少し驚いたような表情を見せた後、うつむき加減に小さな声で答えた。
「はい、好きだと言いました。私は以前、明日野さんに精神科医は患者に異性感情を持ってはいけないと言いました。その考えは今でも変わりません。でも、人を好きになることは職業倫理感では防げませんでした。どんな理屈をつけたところで、好きなものは好きです。女の色香に惑わされて、自分の信念を曲げるような奴だと笑ってやって下さい。でも、事実は事実です。私は彼女のことを愛しています」
「先生は、彼女が、放火と覚せい剤の件で逮捕された前歴を知りながら、彼女を好きになった。ご自分の立身出世よりも彼女を選んだ。そして私が知る限り彼女は先生に選ばれるに値する女性です。立派な選択だと敬服します。その気持ちは今でも変わりませんか?」
「はい、変わりません。私はもともと出世には興味がありませんし、医師の世界では私などエリートでも何でもありません。私は一生この病院に勤めて、ひとりでも多くの薬物患者やアルコール患者を治療できればいいんです」

 凌一は、窓の外をぼんやりと眺めながら、
「先生に告白された時、彼女は涙が出るほど嬉しかった。でも、彼女には、すぐに先生の気持ちを受け入れることが出来なかった。その理由をご存知ですか?」

 三崎は首を横に振った。
「いえ、わかりません。実のところ、彼女には他に好きな男性がいるのか、それとも私のようなぶ男はイヤなのか、そのどちらかだと思っていました」

 凌一が話を続けた。
「可奈ちゃんは十六歳の時に、知らない男に強姦されたことがあります。塾の帰りの夜道のことだったので、男の特徴もわからず、脅迫に屈して辱めを受けた自分が許せなかったのか、被害届も出していません。
 彼女は、もともと旧家の娘で、その事件があるまでは、品行のよい優等生でした。彼女の生活が乱れ始めたのはその事件以降です。彼女には、たとえ脅迫を受けたにせよ、何の抵抗も出来ずに、辱められた自分が許せなかった。言いかえれば、彼女が薬や酒に溺れたのは、自分で自分を痛めつけるためです。自分は純潔の女じゃない。三崎先生に愛される資格はない。彼女はそう思っています」

 それを聞いた三崎の肩が一瞬ビクッと震えた。三崎は明らかに動揺しながら言った。ほほが引きつり、顔が紅潮していた。

「そうだったんですか……」

 三崎の動揺する姿を見ながら凌一は思った。
(やっぱり、この男性には純潔の娘じゃないとダメなのか?)

 三崎が動揺した理由が他にあることなど凌一には知る由もなかった。
「どうですか? それでも先生の気持ちは変わりませんか? 私の勝手な意見を言わせてもらえれば、彼女は、根っからの放火魔でもヤク中でもなかった。一人のかわいそうな犯罪被害者です。そして、そんな彼女に生きる希望を与えることが出来るのは、先生、あなただけです。
勘違いしないで下さい。私は、先生に彼女と結婚して下さいなどと頼むつもりはありません。お互い何の問題もない立派な男女でも、一時は自分の命より大切に思い、愛しあった男女でも、最終的に破局する例はいくらでもあります。破局の心配はたとえ式を挙げて正式に入籍したところで、なくなるわけじゃありません。私が先生にお願いしたいのは、過去を理由に彼女を諦めないであげて欲しいということです。他の女性と同じスタートラインに立たせてあげて欲しいんです。過去を理由に彼女から生きる希望を奪わないで欲しいんです」

 三崎は抜け殻のように焦点の定まらない目つきをしていた。うつむいてしばらく考えていた。しばらくの沈黙の後、その場を繕うように、
「明日野さん、お話はよくわかりました。後は私と彼女の問題です。いずれにしても時間がかかるでしょう」
「そうですね。後はお二人の問題ですね。私はこれで失礼します」

 凌一はそう言って三崎の部屋を出た。

 凌一は自分の身に置き換えて考えてみた。
(もし、自分が愛した女性が過去にいわれなき陵辱を経験した女性だったら、自分はそれを理由にその女性を『ボツ』にするだろうか? ありえない。絶対にありえない。その女性のことが本当に好きだったら、心から愛しく思っていれば、それはありえない。もちろん、気にならないはずはない。一生、心の片隅にモヤモヤしたものを残しながら生きていくことになるかもしれない。それでもそれを理由に別れはしない。絶対に……)

 凌一は三崎医師に年齢を尋ねたことはなかった。でも、凌一と同じ適齢期の独身男性だということは知っている。凌一は三崎医師を信じていた。三崎医師の心情が理解できた。彼は心を持った人間だ。可奈子に『例え君が人殺しでも、僕の気持ちは変わらない』と言った人だ。自分と同じように考えるに違いない。凌一はそう確信した。
でも、それなら、さっき三崎が見せたあの動揺した様子はいったい何なのか? 凌一にはわからなかった。




 病院を出た凌一は、明神橋にいた。明神橋は、四位堂駅を東に約十分歩いたところにある橋長約二十メートルの橋である。四位堂駅から明神橋を渡ってさらに行くと、小高い丘陵地に出る。可奈子の実家はその丘陵地の上にある。川幅は約七メートルだが、川の両側に幅六メートルほどの河川敷がある。明神橋の両側のたもとには河原に下りるためのコンクリート製の階段がある。
 清流、真美川が流れ、四位堂駅のシンボルとなっている栄橋とは違い、明神橋は、どんよりと濁った水が流れる薄汚れた橋だった。不法投棄や大雨の時に流れ着いたと思われるゴミが散乱し、背の高い雑草がうっそうと茂った河原は、生臭い異臭を放っていた。
 可奈子は、駅前の塾の帰りに明神橋を渡り切ったところで襲われた。だとしたら、犯行現場は橋の東側の橋台のたもとだ。凌一は、橋の東側の階段を下りて、可奈子が襲われたと思われる河原に出た。恐らくここが可奈子が辱められた場所だ。凌一は、そこに立ち尽くして考えた。事件は八年前だ。
 この川は大雨が降ると橋台の根元まで水に漬かる。河原は完全に水没する。年に一回や二回はそんな状態になる。証拠が残っているはずがなかった。可奈子の話からは犯人の手がかりは何も得られていない。可奈子は被害届けを出していない。事件は立件されていない。もちろん凌一に捜査権限はない。

 凌一は階段を上って明神橋の歩道に立った。ここで、可奈子は喉元に包丁を突きつけられ、下の河原に連れて行かれた。犯人は、この階段に潜んで、上の歩道を通る獲物を待っていた。橋の下に入れば、隣家からは全く見えない。

(人を襲うには格好の場所だな。でも、よそ者なら特に何ら印象を受けずに通り過ぎてしまうような場所だ。土地勘のある者の犯行か?)

 直感的に凌一はそう思った。でも、八年前の出来事に直感を働かせたところで、今更どうなるものでもない。
 これが推理小説の世界なら、犯人は必ず真相究明のヒントになるものを残してくれる。しかし、現実はそんなに都合よくは出来ていない。まして、推理小説の定番であるアリバイ崩しなどここでは意味をなさない。『八年前のことなど覚えていない』その一言ですべて済まされてしまうからだ。

(付近の聞き込みでもしてみるか?)

 刑事の習性で、ふとそんなことを考えた凌一は自嘲的な苦笑いを浮かべた。

(何て尋ねるんだ? 平成十三年の三月十四日の夜十時頃にここで何か見ませんでしたか? そう尋ねるのか? 八年前だぞ…… お前、自分が八年前の三月十四日にどこで何を見たか答えられるか? 馬鹿だな…… それで何か答えられる人がいたら神様だ。可奈子は犯人逮捕を望んでいない。お前に出来ることは何もないはずだ)

 凌一はいつまでもそこにたたずんでいた。沈みかけた夕日が川面に反射してキラキラとまぶしかった。露出アンダーになったオレンジ色の景色を凌一が眺めていた。長く伸びた凌一の影がブロック塀に投影されていた。凌一には、そこにまだ犯人がいるように思えた。
 凌一は真美署に戻り、担当している連続結婚詐欺事件の聞き込みの結果を整理していた。不審死を遂げた被害者が実は殺害されたのだという証拠・証言は未だに得られていなかった。凌一は、何の成果も得られていない無味乾燥した報告書をまとめながら自分に言い聞かせていた。

(可奈子が襲われたのは八年前だ。被害届けも出ていない。証拠も証言もない。今更捜査を始めたところで犯人が特定できるはずがない。そもそも犯罪として立件されていない以上、自分には捜査権限もない。無駄なことはやめろ)

 翌朝から、明神橋を中心に、隣家を一軒一軒聞き込みに回っている凌一の姿を見かけるようになった。砂漠の真ん中で十円玉を探しているような聞き込みだった。凌一は一軒終わるごとに心の中でつぶやいた。

(次の家で終わりにしよう。いつまでこんなことを続けていてもしょうがない……)

 地方の小さな町のことである。刑事が何か聞き込みに回っているということは、すぐに町中のうわさになった。真美署には、何か事件があったのかという問い合わせの電話が多数寄せられた。凌一は渡辺に呼び出され、詰問された。
「明日野、あんなところでいったい何を嗅ぎ回っているんだ?」

 凌一は無表情に答えた。
「いや、特に……、最近、取り立てて事件がないので防犯パトロールに回っています」

 そんな答えで渡辺をごまかせるはずがなかった。
「防犯パトロールって、お前には連続結婚詐欺事件の聞き込みを命じてあるだろう」
「はい」凌一にはそう答えるしかなかった。

 渡辺が続けて、
「正当な理由を言えないなら、勤務時間内に任務外の行為をしていたことになる。懲戒処分は免れんぞ」
「はい」

 渡辺は、心の中で凌一のことを心配しながら、冷徹な視線を向けた。
「お前、いったい、八年も前の何を調べているんだ? 目出し帽の男って何のことだ? 私が何も知らないと思っているのか?」
「いえ、特に……」

 渡辺はあきらめ顔で吐き捨てた。
「もういい、下がれ、後日正式な処分が下る。それまで、自宅謹慎を命じる」
「わかりました」

 凌一は、警察手帳と手錠を渡辺のデスクに置き、身の回りのものを持って部屋を出た。その後を島婦警が追ってきた。
「明日野さん、何か事情があるんでしょ? 課長に相談したら……」

 凌一は、振り返って寂しげな笑みを浮かべながら答えた。
「いや、いいんだ」



 とうとう、隠密裏の聞き込みも出来なくなった凌一は、なす術なく明神橋のたもとにたたずんでいた。少し離れたところにバス停があった。凌一は、そのバス停のベンチに腰掛けてタバコをふかしていた。
 一人の中年男性がバス停の方向に歩いて来た。中年というより初老と言った方が適当かもしれない。だらしないス ウェット姿だけで近所の住民だとはわかるが、聞き込みでは会ったことのない男性だった。その男性は凌一に気づくと、何か思いついたように歩を早めて近づいて来た。そして、タバコに火を点けながら凌一の隣に腰掛けた。年の頃は五十代か? 頭髪はフサフサしていたが半分は白髪だった。あご下に二~三ミリ伸びた無精ヒゲも半分ぐらい白髪になっていた。

「フウー」と大きく煙を吐いた後、その男性が凌一に話しかけた。
「この辺りを聞き込んでいる刑事さんですか?」

 凌一はハッとして姿勢を正し、答えた。
「そうです。明日野と言います」
「八年前なのか、三月かもはっきりしませんが、この道を慌てた様子で走り去っていく目出し帽の男を見ました」

「えっ!」

 凌一は驚いてその男性をみつめた。男性は話を続けた。
「体格と身のこなしから二十歳前後の男性だと思います」
「あなたは平成十三年の三月十四日の夜十時に、ここにいたんですか?」

 凌一の質問にその男性が答えた。
「だから言ったでしょう。何年前かも何月かも覚えていないと。ただ、十年近く前だとは思います。そこに、今は廃屋になっている店舗があるでしょう。三年前まで私は、あの店で焼肉屋をしていました。毎日夜遅くまで店にいましたよ。飲酒運転が厳罰化されるまでは、店もそこそこ繁盛してましたから」

 凌一は質問を続けた。
「目出し帽の男は、その後どうしたんですか?」
「そこの田んぼのあぜ道の入り口のところに立てかけてあったマウンテンバイクに乗って、慌てて立ち去りました。左手に何か握っているようで、それを上着で隠していました。だから、ハンドルを右手一本で握って、マウンテンバイクを漕ぎ出しました」
「左手に持っていたのは包丁じゃないですか?」
「それはわかりません」
「目出し帽は黒で黒いジャンパーと紺のジーンズ姿じゃありませんでしたか?」
「何せ夜のことなので、黒か紺かと言われてもわかりませんが、目出し帽を被っていることしかわからなかったぐらいなんで、多分黒っぽい服装だったと思います。ただ、靴が白だったことははっきり覚えてます」
「どっちの方向へ行ったんですか?」
「はい、この坂を少し上って、ほらあそこ、あそこに旧道があるでしょう。あの旧道をまっすぐに上って行きました」

 凌一は、その男性に一礼して言った。
「そうですか、ありがとうございます。お手数ですがあなたのお名前と連絡先を教えて下さい」

 その男性の名前と連絡先を聞いた後、凌一は勇躍して旧道に向かった。旧道の奥には、三十軒ほどの集落があり、その先は雑木林になっている。犯人がその集落の住人なら、犯人の特定は難しくない。
 しかし、そこで凌一は立ち止まった。凌一は自宅謹慎中の身だ。いまだにこの辺りを嗅ぎ回っていることが知れたら、今度は厳罰に処せられるだろう。懲戒免職だってありえる。

(あせるな、あせる意味はない、これは事件の捜査じゃない。犯人がわかったところで、逮捕できるわけでもない)

 凌一はそう自分に言い聞かせて振り返り、今来た道を戻った。
 車に戻った凌一は、携帯で同僚の久保に電話した。
「久保か、今、部屋か? 課長に聞かれるとまずい、外に出てから電話してくれ」

 凌一は一旦携帯を切り、久保からの電話を待った。すぐに携帯が震えた。凌一は、通話ボタンを押し、いきなり言った。
「頼みがある。北葛城郡沢井町大字という住所で三十三軒の集落がある。その住民の中で、今現在三十歳前後の男性をピックアップしてくれ、ついでにその素性も探ってくれ。くれぐれも課長には内緒でな」

 久保が不審そうに尋ねた。
「明日野さん、一体何を調べてるんですか?」
「それは訊かないでくれ、頼む」
「わかりました。早速調べます」

 凌一は電話を切り、携帯をポケットに収めた。そして「ふう」とひとつため息をついた。
久保の調査は迅速だった。次の日の夕刻、凌一は久保と喫茶店で待ち合わせ、調査の結果を聞いた。そして、愕然として沈黙した。凌一は言葉を失った。久保の調査から、該当する男性としてピックアップされたのは、たった一人だった。
 久保は恐ろしく頭の切れる後輩だった。『八年も前の何を嗅ぎまわっているんだ』という渡辺の言葉を横で聞いて、それを意識しながら調べていた。
 凌一が探しているのが今現在三十歳前後の男性だから、八年前には二十二歳前後だった男性を探していることになる。久保は、たった一人の容疑者である男性の八年前の写真まで入手していた。
 その写真を見た凌一は、意識が遠のいていくような朦朧とした感覚に襲われた。八年前の写真とはいえ、人違いではない。その写真に写っているのは、間違いなくその人だった。

 まるで抜け殻のようになって硬直している凌一に久保が声をかけた。
「明日野さん、この男性がいったい何をしたんですか?」

 凌一はハッとして答えた。
「いや、なんでもない。頼む。これ以上訊かないでくれ。もともと、これは事件の捜査じゃないんだ。事件の捜査なら、僕が自分でやってるさ……」

 久保が不審そうに、
「事件の捜査じゃないんなら、いったい、何を調べてるんですか? きちんと事情を説明してもらえたら。もっといろいろお役に立てることがあると思うんです」

 久保の思いやりに満ちた暖かい問いかけに凌一が震える声で答えた。凌一の表情は苦悩に満ちた断末魔のものだった。

「これ以上、訊くなと言うのがわからないのか!」

 追い詰められた表情で怒りを露にし、そう言う凌一の瞳は、少し涙で潤んでいた。穏やかで、いつも笑顔を絶やさない凌一しか見たことがない久保は、凌一の悪鬼のような迫力に沈黙した。

 少し我に帰った凌一がすまなそうに、
「本当に助かったよ、ありがとう」



 喫茶店を出た凌一は、市内を廃人のようにさまよい歩いた。
 該当する男性は一人しかいなかった。八年前に可奈子を陵辱した犯人として該当する人物は一人しかいなかった。それは凌一が良く知る人物だった。とても、性犯罪など起こすとは思えない人物だった。そして、その人物が犯人であった場合、それは、疑いなく可奈子を再び不幸のどん底に突き落とす事実だった。
 凌一には、自分がどこで何をしているのかわからなくなっていた。可奈子は被害届を出していない。犯罪は立件されていない。もともと犯人を探す必要などなかった。凌一は、探す必要のない犯人を突き止めてしまった。そんなことをしても、可奈子には何のプラスにもならない。自分は一体何のために可奈子を辱めた犯人を突き止めたのか?   
 自分の興味本位か?
 だとしたら、お前、かえって可奈子の足を引っ張るようなことをしてるんじゃないのか? お前、本当に可奈子の更生と幸福を祈っているのか?

 凌一は考えていた。人の体は、そのほとんどが水で出来ている。心が体のどこにあろうと、そのほとんどは水だろう。
 でも、その水は、愛し、憎しみ、喜び、悲しみ、期待し、不安に駆られ、あせり、安らぎ、苦しむ。
 所詮、ただの水の塊でありながら、人であることは、なぜ、これほどまでに苦しいのか?
 いつの間にか凌一は栄橋に来ていた。無性に真穂に会いたくなった。朦朧とする意識の中で、凌一は、携帯を取り出し、真穂に電話した。

「真穂ちゃん、今、栄橋にいるんだけど会えないかな?」

 真穂の返事はOKだった。凌一は、河原の斜面に腰を下ろして、真穂が来るのを待った。河原の斜面には芝生が敷き詰められており、腰を下ろすとまるでクッションのようにふわふわして心地よかった。朝から日差しを受けてほんのりと温まった芝生は、まるでホットカーペットのように暖かかった。
 クローバーに咲く星砂のような花が幸せ色に微笑んでいた。その可憐さを愛でる心の余裕が凌一にはなかった。

「凌一さーん」

 河原の遊歩道を自転車で走りながら、真穂が近づいて来た。
 真穂は、自転車を降り、ハアハア息を切らしながら人懐っこい笑顔を浮かべた。

「おまたせ」

 凌一が言った。その表情は真穂の笑顔とは対照的に魂の抜けた能面のようだった。
「ごめんね。急に呼び出したりして…… どうしても会いたかったんだ」
「どうしても会いたかったなんて、嬉しいこと言ってくれるじゃない。何かあったの?」

 真穂の問いに凌一が答えた。
「いや、別に……」
「そう、別に用事なんてなくてもいいんだけど」そう言いながら真穂は自転車のスタンドを立てた。

 凌一と真穂の二人は河原の斜面に体育すわりし、しばらく黙って水の流れを眺めていた。
「あっ、今、魚が跳ねたね!」
 真穂がそう言いながら川面を指差した。
 凌一は黙ってうなずきながら川面を眺めていた。凌一の目はうつろで視線は定まっていなかった。

 真穂が小さな声で問いかけた。
「凌一さん、何か悩んでるの?」
「……」
 凌一は何も答えなかった。
「凌一さん、様子が変よ。何をそんなに悩んでるの? 凌一さんが栄橋に来る時って何か悩み事がある時でしょ。私に会いたかったのも、ひとりで辛かったからでしょ」

 凌一は、うつろな視線を真穂に向けて、答えた。
「悩み事なんかない。ただ……」
「ただ、何?」
「僕にはどうしていいかわからない」

 真穂が心配そうに尋ねた。
「私には話せないこと?」

 凌一は、コックリとうなずきながら答えた。
「誰にも話せない」

 そう言うやいなや、凌一はガバッと真穂の上に覆いかぶさり、両手を押さえつけた。そして言った。

「真穂ちゃん、今、僕が君を強姦したら、僕のことを嫌いになるかい?」

 真穂は全く抵抗せずに冷ややかな視線を凌一に向けた。

「凌一さんの気休めになるのなら、好きにすれば? 私はそんなことで凌一さんを嫌いになったりしないから……」

凌一は、つばをゴクリと飲み、追い詰められた断末魔のような表情を真穂に向けた。
「君は、自分を強姦した男を愛せるのか?」
「凌一さん、私を強姦できる? 出来るものならやってみなさいよ!」

しばらくの沈黙の後、凌一は、うつむいて真穂の両手を開放した。凌一は、まるで観念したように芝生の上に仰向けに寝転んだ。今度は、真穂が凌一を押さえ込んで凌一の上に馬乗りになり、叫んだ。

「意気地なし!、好きな女ぐらい抱けないの? 凌一さん、あなたそれでも男?、男はね…… 男は女の足の間から生まれて来て、女の足の間に戻って来るのよ! そして、次の命を宿すの! 凌一さん、小娘の私にこんなこと言われて、黙ってるの? 悔しかったら私を抱きなさい! 凌一さん、苦しいんでしょ?、つらいんでしょ? でも、私は相談相手にはなれないんでしょ? それなら、体で悩みを分かち合えばいいのよ!」

 そう言って、真穂は自分の唇を凌一の唇に押し付けた。
 凌一の唇に真穂のやわらかい唇の感触が伝わった。その淡い感触にときめく心の余裕が凌一にはなかった。真穂に押さえつけられたまま、仰向けになり、ただ呆然と空を流れる雲を眺めていた。
 凌一の力なら、その気になれば馬乗りになっておなかの上に乗っている真穂を跳ねのけることは簡単だったろう。 
 凌一の手首をつかんで芝生に押さえつけている細くて白い腕を振り払うことも簡単だったろう。でも、凌一はそれをしなかった。それをする力が沸いてこなかった。

 真穂は、凌一のようにすぐに力を抜いて凌一を開放しようとはしなかった。必死の形相で顔をゆがめながら凌一の両腕をグイグイと押さえ続けた。そして、いつの間にか凌一の顔の上にポタポタと何かのしずくが滴り落ちて来た。一滴のしずくが凌一の口元に落ちた。少し酸っぱい味がした。

 真穂は瞳を真っ赤に潤ませて、大粒の涙をこぼしていた。真穂が震える声で言った。
「どうしてなの? どうして私じゃダメなの? 私のどこがいけないの? どうして私には話せないの? 私は凌一さんの相談相手にはなれないの? 私は凌一さんと一緒に悩みたい。凌一さんと一緒に苦しみたい。一緒に悲しみたい。私が高校生だから? バカにしないで!。私は十八歳よ、もう結婚だって出来るんだから…… 子供じゃないのよ! さっき、凌一さんはお姉ちゃんじゃなく私を呼び出した。そう、凌一さんが、本当に苦しい時に会いたいのは、お姉ちゃんじゃなくて私なのよ! 凌一さんはお姉ちゃんと会う時、まるで腫れ物に触るように気を遣ってる。でも、自分の心にそんな余裕がない時、凌一さんが会いたいのは、お姉ちゃんじゃなくて、私なのよ! 私はそれが嬉しい。だからこうして飛んで来たんじゃない。なのに私には話せないって、私じゃ相談相手にならないって、そ………」

 真穂は声を詰まらせて嗚咽した。顔をクシャクシャにして泣きじゃくった。
 凌一は抜け殻のようになって嵐が過ぎ去るのを待っていた。

 少し平静を取り戻した真穂は、何を思ったか、凌一の額に手を当てた。
「凌一さん、すごい熱じゃない!」
「えっ」

 確かに午後から、何かふらふらするような感覚があった。でもそれは、久保からもらった資料を見てショックを受けたからだと思っていた。

 真穂は凌一の脇の下に手を入れた。そして言った。
「間違いないわ、凌一さん、熱があるよ。早く帰らないと。私、送るから」

 凌一は、真穂に連れられて自宅のハイツに戻った。

 真穂が部屋に入ろうとすると、凌一があわてて言った。
「ダメだよ、真穂ちゃん。年頃の娘さんが、一人暮らしの男の部屋に入ったりしちゃ……」

 真穂はプイと横を向いた。
「そんな説教は、病気を治してからにして」

 凌一は投げ捨てるようにスーツを脱ぎ、パジャマに着替えてベッドに潜り込んだ。ぞくぞくと悪寒がした。ガタガタと体が震えた。
「凌一さん、体温計はどこ?」
「えーと、確か、食器棚の一番右の引き出しにあると思うけど……」

 真穂は、食器棚の引き出しの中をまさぐり、体温計を見つけて、凌一に差し出した。
「さあ、熱を測って」

 しばらくしてピピッという体温計の電子音がした。凌一が脇から体温計を抜くと、真穂がそれを奪い取って、まじまじと数字を見た。

「大変! 三十八度六分もあるわ! どうしよう」

 真穂は携帯を取り出し、真治に電話した。
「お父さん、今、凌一さんのハイツにいるんだけど、凌一さん、熱が三十八度六分もあるの。インフルエンザかしら?」

 電話の向こうで真治が言った。
「この季節だからインフルエンザじゃないだろう。疲労でもそれぐらいの熱は出ることがあるから、とにかく安静にするように、薬で胃を荒らすので、お腹を減らさないように。何か温かいものでも作ってあげなさい」

 真穂はキッチンに立ってお粥を作り始めた。出来上がるとそれを器に入れ、凌一の枕元に来た。
「さあ、お粥が出来たから、凌一さん、少し体を起こして」
「真穂ちゃん、ありがとう。いただきます」

 凌一は真穂のお粥を口に含んだ。梅粥のあわいすっぱさが涙が出るほどおいしかった。凌一は年に一度ぐらい、これぐらいの熱を出す。一人暮らしで一番困るのが高熱を出した時だ。ひどい時には着替えさえなくなってしまう。凌一は素直に真穂のことをありがたく思った。お粥を食べ終えた凌一は、静かに眠りについた。

 凌一は夢を見ていた。夢の中の凌一は強姦魔だった。凌一は一人の少女を強姦した後、じっと時効が来るのを待っていた。時効直前、凌一は一人の美しい女性と恋に落ち、その女性と結婚した。その女性はすぐに凌一の子を身ごもった。出産に立ち会った凌一は、息を呑んで妻の股間を見つめていた。しばらくして妻が破水し、おなかの中から何か出て来た。毒蛇だった。妻は、まるで噴水のように次々と毒蛇を生み続けた。凌一は妻から生まれ出た毒蛇に首まで埋もれ、悲鳴をあげた。

 そこで目が覚めた。怖い夢だった。

 どれぐらい寝ていたんだろう。凌一が目を覚ますと、真穂がベッドの横に寄り添っていた。
「凌一さんお目覚め? もう一度熱を測って」

 凌一が脇に体温計をはさむと、真穂がスポーツドリンクを差し出した。凌一はそれを飲みながら時計を見た。もう夜の十時を過ぎていた。

「真穂ちゃん、もう十時だよ。送っていこう」
「何言ってるの? 途中で倒れるわよ。もうすぐお父さんが来るから大丈夫」

 凌一は体温計を見た。三十七度八分だった。
「目覚めの時に熱が下がっているのは、あまり安心できないのよ。また熱が上がるかもしれないから安静にしていないと……」
「僕は年に一度ぐらい、これぐらいの熱を出すんだ。ひどい時には、このまま死ぬんじゃないかと思ったりする。一人暮らしだから、しばらくしてミイラ化遺体か何かで発見されるんだろうな」

 真穂がクスクス笑って、
「ミイラ化遺体って、凌一さん笑わせないでよ…… 遺体の第一発見者は私ってわけ? そんなのいやよ」

 しばらくして真治がやって来た。内科医の真治はペンライトをあてて、凌一の喉を覗き込んだ。
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけして……」
「水臭いことを言うなよ。真穂はどうする? 一晩置いていこうか?」
「いえ、とんでもない。連れて帰ってあげて下さい」
「凌一さん。私、一度帰るけど、困ったことがあったら、夜中でも電話ちょうだいね」
「ありがとう。真穂ちゃん。本当に助かったよ」

 真治が言った。
「とにかく熱が下がるまで安静にするように、しばらくは仕事のことも忘れてゆっくりしないとだめだ。大丈夫、君がいなくても地球は周るから」

 真治は笑みを浮かべて、真穂に言った。
「真穂、さあ、一旦引き上げよう」

 ベッドから出て見送ろうとする凌一を真治が制止した。
 真治と真穂が去った後、凌一は明かりを消してベッドの上にいた。喉が痛く、体がだるかった。
 その頃、真子は部屋で窓の外を眺めていた。出窓の外は雨が降っていた。真穂が凌一のハイツで看病をしていることは知っていた。真子は、窓ガラスに細い指を滑らせ、○×ゲームを書いた。窓ガラスの曇りを溶かしてすべる指先に、伝わる感触は冷たかった。瞳から大粒の涙が一粒落ちた。

 翌朝、凌一は新阿久山病院に行くつもりだった。どうしても三崎に会って訊きたいことがあった。体温計で熱を測ると三十九度二分あった。凌一は、ためしに立ち上がってみた。

(大丈夫だ、歩ける)そう思った凌一は、身支度を整え始めた。指先に力が入らず、シャツのボタンをとめるのに苦労した。凌一は真治にもらった薬を飲み、スーツを着た。ドアを開けて外に出ようとした時、立ちくらみがしてガックリと膝をついた。そこへ真穂が来た。

「やっぱり。心配になって来てみたら、案の定ね」

 真穂は凌一をベッドに戻しながら言った。
「お父さんが言ったでしょ。凌一さんがいなくても地球は周るのよ」

 もう一度立ち上がろうとした凌一を真穂が体で受けとめた。
 真穂は強引に凌一をベッドに連れ戻し、そして言った。
「凌一さん、すごい汗じゃない、さあ、下着も着替えて、毛布も替えないと……」

 真穂に言われるまま、凌一はシャツを脱いだ。真穂は凌一の細いがまるでボクサーのような筋肉質な上半身を見てハッとした。凌一が着替えをしている間に真穂はシーツと毛布を交換した。
 再びベッドに横になった凌一の上に真穂が毛布をかけた。
 真穂は布団の上から凌一の胸に手をあて、小さな声で、ささやくように唄った。

菜の花ばたけに、入り日薄れ
見わたす山のは、かすみ深し
春風そよふく、空を見れば
夕月かかりて、におい淡し

里わのほかげも、森の色も
田中のこみちを、たどる人も
かわずのなくねも、かねの音も
さながらかすめる、おぼろ月夜

 まるで母親の子守唄を聴く乳児のように、凌一の緊張は解れ、体が軽くなっていった。そして、まるで体が宙に浮くようなふわふわした感覚を感じながら、凌一の意識は遠のき、やがて静かに眠りについた。

 どれくらい眠っていたんだろうか? 随分、眠っていたようだ。時計を見ると、午後三時を過ぎていた。
真穂が声をかけた。
「あら、凌一さんお目覚め? よく眠ってたわね。少し楽になったんじゃない? もう一度熱を測ってみて」
(そうか、自分は真穂の歌を聴きながら眠ってしまったんだ。今日は、新阿久山病院に行くつもりだったのに……)
凌一は、そう思いながら、脇の下に体温計をはさんだ。

 体が少し楽になっていた。多分熱も下がっているだろう。
 体温計の電子音が鳴り、数字をみると三十七度六分になっていた。今日は一日つぶれてしまったか……

 夕刻になり、真子が見舞いに来た。
「凌一さん。どうですか?」
「ああ、真子ちゃんまで来てくれたの。面目ない」

 真穂が真子に、
「熱はずいぶん下がったわね。今、三十七度六分ぐらい。凌一さんって熱が三十九度二分もあったのに、仕事に出ようとしてたのよ。信じられない。死んじゃうわ」

 それを聞いた真子が、
「凌一さん、無理しないで。真穂ちゃん、疲れたでしょ。私代わるわ」
「ううん、全然、平気」

 凌一は、二人に、 
「僕はもう大丈夫。二人とも暗くなる前に帰ったほうがいい」
「それじゃ、私たち一度帰るけど。お粥作っておいたから、チンして食べてね。薬を飲む前には必ず少しでも食べるのよ。困ったことがあったら、いつでも電話してね」

 真子も微笑みながらうなずいた。
「いつでも電話して下さい」

 真穂が真子に、
「それじゃ、お姉ちゃん。帰ろうか?」
「うん」
「凌一さん。何か欲しいものある? 先に買ってこようか?」
「いや、特にない。二人とも本当にありがとう」
「それじゃ、私たち帰るから、お大事にね」

 真穂と真子の二人が帰っていった。



第八章 選択肢




 翌朝、熱は下がっていた。体の節々が痛かったが、凌一は身支度を整え、ややおぼつかない足どりで新阿久山病院に向かった。体がふわふわしていた。

 新阿久山病院に着いた凌一は、三崎医師のもとを訪ねた。
 凌一が三崎医師に言った。物静かで礼儀正しい口調だったが、凌一が三崎医師を見る視線には、苦悩にもがき苦しんだ凌一の恨みが込められていた。
「三崎先生、少し個人的なことをお訊きしてもよろしいでしょうか?」

 三崎医師は微笑みながら問い返した。三崎はもう凌一のことを親しい友人のように感じていた。その言葉には親近感が込められていた。
「何でしょうか?」

 凌一は能面のように無表情に尋ねた。
「先生のご実家は、奈良県北葛城郡沢井町大字112、明神橋から少し上ったところの旧道を入った集落の中にある、あの辺りで三崎家と言えば知らない人はいない旧家ですね」

 三崎がキョトンとした表情で答えた。
「はいそうです。明日野さんがおっしゃるような大した家じゃありませんが……」

 凌一が話を続けた。
「この写真をご覧下さい。これは、先生の同級生の方からお借りした写真です。このマウンテンバイクに乗っているのが先生ですね。白いスニーカーが良くお似合いです」

 三崎がちらっと写真を見て答えた。
「そうです」

 凌一がさらに続けた。
「先生は、高校卒業後、二年浪人された後、大都医科大学に合格された。二回目の合格発表の日、つまり先生の二浪が決まったのは、平成十三年の三月十四日ですね」

 三崎が答えた。
「月日までは覚えていません」

 凌一は少し語気を強めた。
「加害者は覚えていなくても、被害者は覚えているんです。二度目の受験に失敗した浪人が、憂さ晴らしに何の罪もない少女を襲った日です」

 三崎が不審そうに尋ねた。
「明日野さんは何をおっしゃりたいんですか? これでも忙しい身なんで、単刀直入におっしゃっていただきたいんですが……」

 凌一は、視線をわきにそらし、吐き捨てるように答えた。
「いえ、私がお訊きしたかったのはこれだけです」

 三崎が少し不安げに訊いた。
「今のは職務質問ですか?」

 凌一は首を横に振りながら否定した。
「いえ、ただの個人的な質問です。職務質問でも捜査でもありません。私が言いたいことは、先生にはもうお分かりかもしれませんが……」

 三崎が尋ねた。微塵の戸惑いもない落ち着いた様子だった。
「私を逮捕するんですか? 何の容疑ですか?」

 凌一は、恐ろしいほど冷ややかな視線を三崎医師に向けながら答えた。
「逮捕? なぜ私が先生を逮捕しないといけないんですか? 何か身に覚えでもあるんですか? 警察は、市民の安全を守り、犯罪者を適正に処罰し、更生させ、被害者の不幸に報いるためにあるんです。私が先生を逮捕して、誰が更生するんですか? 誰が報いられるんですか? あいにく私は敏腕刑事でも熱血刑事でもありません。被害届の出ていない事件までほじくり返して、犯人を逮捕したいとは思いません」

 三崎が言った。その態度は完全に覚悟を決めた者のものだった。
「それは違います。犯人も苦しんでいるんです。早く逮捕されて楽になりたいんです。自分が、かつて不幸のどん底に陥れた女性を、理不尽に辱めた女性を、愛してしまった男の苦しみがわかりますか? 明日野さん、私を逮捕するんなら、ご自由に。私はその方が楽になります」

 凌一は冷淡に三崎医師を見つめ、物静かに答えた。
「あなたは逮捕されて楽になるかもしれません。でも、彼女はどうするんです。自分を不幸のどん底に陥れ、深い心の傷に八年間も苦しみぬいたあげくに、その加害者を愛してしまった彼女は、それで楽になるんですか? 彼女は八年間も苦しみぬいた末にやっと幸せをつかみかけているんです。その彼女から最愛の男性を奪って、それで彼女が楽になるんですか? 私にはそんなことは出来ません。彼女だけじゃありません。この病院であなたは多くの依存症患者に対して献身的な治療を施していらっしゃる。そして、多くの患者があなたのことを心のよりどころにして、再起を目指している。今後もあなたを頼ってこの病院を訪れる患者は数多く現れるでしょう。依存症の治療に対して十分な知識や熱意を持つ医師が世の中にほとんどいない、この日本で、患者からあなたを奪ったら、それで回復の道を閉ざされる患者が、いったい、何人いると思っているんですか?」

 三崎は沈黙した。凌一が言った。
「私はこれで失礼します」



 凌一が去った後、三崎は自分の診察室に呆然と立ち尽くしていた。回診の時間になった。三崎は看護師にうながされて院内を回診した。可奈子のベッドに近づくにつれて心臓の鼓動が激しくなった。口がカラカラに渇いた。とうとう可奈子のベッドのところまで来た。

 三崎が引きつった笑顔を浮かべて言った。
「どう? 変わりはないかい?」

 可奈子が明るく答えた。
「はい、おかげさまで……」

 可奈子は平静を装っていたが、内心、毎日この瞬間が不安でたまらなかった。自分は、自分の過去のことをあの刑事に打ち明けた。三崎にも話してくれるように頼んだ。あの刑事は、約束を守ったに違いない。だとしたら自分がかつて暴漢に陵辱された女であることを、純潔の女でないことを、三崎はもう知っているだろう。三崎の気持ちはもう離れてしまったんだろうか? いや、そんなことはない。三崎の様子は何も変わっていない。可奈子は自分の不安を自分で打ち消した。

 その日も三崎はいつもと変わらぬ様子を装っていた。しかし、白衣の下の足はガタガタと震えていた。

 強姦魔とその被害者が、互いに愛する者として向き合った瞬間だった。

 しばらく経って、入院患者が中庭に出ることが許される時間になった。最近は、ほとんど毎日のように可奈子のところに三崎が来て、二人で中庭に出ていた。リクリエーションルームで可奈子がピアノを弾いたり、中庭のベンチに腰掛けて談笑したりするのが二人のささやかな幸せの時間だった。

(今日も三崎先生は来てくれるのかしら?)

 可奈子は、そわそわしながら待っていた。いつもどおりに三崎が現れた。可奈子は思った。これは、三崎の気持ちが変わっていないと言う意思表示なんだと……。

 三崎が微笑みを浮かべながら言った。
「可奈ちゃん、行こうか?」
「はい」

 可奈子はニッコリと微笑んで、ベッドから立ち上がった。二人は閉鎖病棟を出て、中庭のベンチに腰掛けた。
その日は、どんよりとぶ厚い雲が空一面を覆っていた。可奈子はうつむきながら、思い切って三崎に質問した。消え入りそうなか細い声だった。

「三崎先生、私のこと、明日野さんから聞いたんですか?」

 自分の質問に対する三崎の答えに怯える可奈子に、三崎がやや硬直した表情で答えた。
「ああ、聞いたよ」
「先生の気持ちは変わらないんですか?」
「変わらない。僕は可奈ちゃんが好きだ。発作を起こしてこの病院に運ばれた時、君は嘔吐物と血にまみれていた。腐乱死体のような姿だった。でも、看護師さんに綺麗に汚れをふき取ってもらった君の姿を見た時、僕には泥沼の中から宝石が出てきたように思えた。今思えば、僕はもうあの時から君のことが好きだったんだ。僕が最初に見たのは、君の一番醜い姿だった。放火のことも覚せい剤のことも聞いていた。それでも、僕は君のことを好きになった。今更、何を聞いても僕の気持ちは変わらない」

 可奈子は大きな瞳を潤ませながら震える声で、
「うれしい……」

 三崎は辛そうに、
「僕の気持ちは変わらない。でも、前にも言ったけど、君に愛される資格がないのは僕の方なんだ」
「先生に愛される資格がないなんて、そんなことありえない。絶対にありえない。そんな悲しい事、言わないで……」

「……」

 三崎は何も答えなかった。自分を信じ、恋慕うこの愛しい娘に本当のことは言えない。それは自分のためだけではなく、可奈子のためにも、可奈子を再び絶望の底につき落とさないためにも、言えないことだった。

 三崎は苦し紛れに話をそらした。
「可奈ちゃん、僕の気持ちは変わらない。でも、君はまだ、裁判の判決を待つ身だし、この病院での治療も終わっていない。措置入院とはね、重い精神病の患者を県知事の命令で強制的に精神病院に入院させる措置なんだ。君は、まだ、法律的には重症の精神病患者の扱いなんだ。この処分を解くためには、二人の精神保健指定医によって、措置入院の必要がなくなったと診断される必要がある。この病院では、医長と院長の診断が必要なんだ。だから、君は焦らないでゆっくりこの病院で療養するんだ。僕はどこにも行かない。どこにも逃げはしない。二人のことは、ゆっくり考えればいい」

 三崎の言葉を聞いて、可奈子はニッコリと微笑んだ。その微笑を見た三崎は、自分の心臓をかきむしりたいほどの辛さを感じた。

 ポタポタと雨が降り始めた。三崎は可奈子の肩にそっと手をあてて言った。
「雨が降り出したね、今日は、もう戻ろうか」

 その夜、雨はあがっていた。勤務を終えて自宅に戻った三崎は、夜空の星を眺めながら考えていた。

 星より気高い光はなく、その気高さは何者も汚すことは出来ない。しかし、光あるところには必ず影があり、この影を好んで住み着く魔物がいる。

 生き物の営みには必ず幸福と不幸があり、それは時として運命という実在さえ疑わしいものによって定められ、何者とてそれに抗うことは出来ない。

 自分にとって可奈子より愛しいものはなく、花の美しさとてそれには及ばない。美しい花に虫食いがあるのは珍しいことではない。しかし、自分が可奈子に与えたものは、花の虫食いに例えるにはあまりにも痛々しい。

 時よりも正しいものはなく、距離よりも確かなものはない。
 時の流れが途絶えることはなく、距離の長短に感情の関わる余地はない。
 時の流れはあまりにも冷徹であり、自分と可奈子は疑いなく同じ時の流れの中を生きている。
 愛情が距離で隔てられることは、この上ない悲しみであるが、憎悪が距離で隔てられることは、この上ない安心をもたらす。
 肉体を距離で隔てることは出来ても、心を距離で隔てることは出来ない。
 互いに愛し、あるいは憎しむものが見上げる星は、いかなる距離を隔てようとも、耐え難く、苦しいまでに同じ星である。

 今、同じ時の流れの中を生きながら、可奈子と自分との間には、閉鎖病棟の鉄の扉という超えられない壁がある。しかし、窓の鉄格子の隙間から可奈子が見上げているものは、自分と同じ夜空の星ではないのか?

 この余りにも歴然とした当たり前の事実にいったい自分はいつまで耐えられるのか?

 同じ頃、可奈子は閉鎖病棟の窓にはめ込まれた鉄格子の隙間から、薄汚れたガラス越しに星空を眺めていた。可奈子は祈った。

(お星様、もしあなたに心があるのなら、どうか三崎先生を明るく、そして優しく照らして下さい。そして、私に生きる希望を与えて下さった三崎先生を安らかで深い眠りにお誘い下さい。三崎先生、お休みなさい。明日の朝、どうかいつものように穏やかな笑顔で私のところに来て下さい。
神様、もしあなたが本当にいらっしゃるのなら、一生に一度だけ私の願いをかなえて下さるのなら、私は誓います。今まで犯した罪を全て悔い改め、清く、潔く生き抜くことを誓います)

 この全身全霊を傾けた切なくも貴い可奈子の祈りは神には届かなかった。




 次の日、三崎は病院を欠勤し、車を走らせていた。三崎の車は国道一六八号線を走り、十津川方面に向かっていた。病院を欠勤することにも、車を走らせることにも、十津川村に向かうことにも、何ら必然性はなかった。簡単に言うと、仕事をズル休みして十津川方面にドライブしているだけだ。

 三崎のマンションから十津川村までは約二時間で着くが、十津川村は日本一大きな村である。十津川村に入ってから、その中心街にたどり着くまでは、さらに二時間近く車を走らせなければならない。奈良から十津川村の中心地である十津川温泉郷まで一六八号線を走るルートは、走ること自体が文字通り『命がけ』であり、ドライビングテクニックに自信のない人には薦められない。それほどに急峻でタイトなワインディングが連続するルートを三崎のマークXは当てもなく走っていた。

 三崎は自宅から新阿久山病院までの通勤にこの車を使っていた。通勤や買い物など、必要な時以外に三崎がハンドルを握ることは少なかった。ドライブ目的で車を走らせたことなどない。三崎は、ただ病院で依存症患者を治療し、自宅に帰って寝るだけの無趣味人間だった。週に三日は当直をこなしていたので、病院で寝ることも多かった。当直や急患時の呼び出しに備えるためには、北葛城郡の生家は遠すぎる。だから三崎は、病院まで車で七~八分程度の賃貸マンションで一人暮らしをしていた。
 実は、生家の蔵には、凌一が持ってきた写真で自分が乗っていたマウンテンバイクがまだ置いてある。凌一が調べている八年前の事件の『物的証拠』である。

(証拠隠滅? 笑わせるな、僕は逃げも隠れもしない)

 三崎はそう思った。精神科医の三崎は凌一の人柄を見通していた。

(来ない、あの刑事は生家の家宅捜索になど絶対に来ない。八年前の事件が立件されないことを誰よりも祈っているのは、あの刑事自身だ)三崎はそう確信していた。その確信は正しかった。

 今、住んでいるのは3LDKのファミリー向けマンションなので、一人暮らしの三崎にはかえって使い勝手が悪かった。
 一人暮らしなら部屋は三つも要らない。それより、広いリビングルームがあるワンルームマンションの方が余程暮らしやすい。しかし、新阿久山病院がある南生駒のような田舎には、単身者向けのワンルームマンションなど見つからなかった。

 もともと神経質できれい好きな性格の三崎は、マンションの室内も病的なほど几帳面に整理整頓していた。仕事以外では一人を好む三崎には部屋を訪れる客人もいない。本当に人が住んでいるのかと疑わせるほど整然とした3LDKのマンションで雑然としていたのは寝室だけだった。
一人での外食に寂しさを感じていた三崎は、食事をほとんどこのマンションで済ませていたが、自炊といってもスーパーの惣菜をチンする程度である。部屋に溜まっていくものは、惣菜の空パックぐらいだった。寝室だけが雑然としていた理由は、三崎の変わった読書癖である。三崎は決して机に向かって本を読まない。リビングのソファで読むこともない。本を読むのは必ずベッドの上だった。仰向けに寝転ばないと読書に集中できない。三崎にはそんな癖があった。

 ベッドで読書していると自然に眠りにつく。目が覚めれば例え夜中でも再び読書を始める。だから、興味のある本のほとんどはベッドの周りに散乱している。寝室の書架にはぎっしりと精神医学関係の図書が並べられていたが、それらは必要な時以外ほとんど読まない。三崎がベッドの周囲にばら撒いたり、平積みにしたりしていたのは、ほとんどが患者やその家族が書いた本だったり、あるいは文集だった。精神障害者団体が発行する機関紙などは、ボロボロになるまで繰り返し読んでいた。依存症患者の治療には、手術はない。処方する薬もごくごく限られている。
依存症の患者を回復させるために最も大切なことは一人一人の患者を良く知り、その患者が依存症になるに至った原因、それは本人の性格の問題だったり、職場だったり、家庭環境だったり、交友関係だったり、それらが複合的に絡み合っていたり様々だが、それを医師が的確に把握し、個々の患者に適切なカウンセリングや教育を行えば、依存症から脱却できる可能性は飛躍的に高まる。三崎はそう考えていた。だからこそ、患者やその家族の立場で書かれたものは、入手できる限りのものを揃えて、それを熟読していた。三崎は医学部の学生時代、勉強量では誰にも負けていなかったが、成績は必ずしも芳しくなかった。医学部では、数学、物理、化学など、圧倒的に理系の科目が多い。実のところ三崎は理系の科目が苦手だったし、好きでもなかった。特に、コンピュータ関係の科目は苦手だった。
ただ、精神医学だけが特殊だった。精神医学はどちらかと言うと文系の分野だった。三崎は精神医学に活路を求め、精神医学にしがみついた。

 ところが近年、精神医学にも脳の働きを科学的に究明し、精神病を理論的に解明した上で治療しようとする考え方が広まり始めた。三崎は再び追い詰められた。ただ、依存症の分野だけが科学的には解明できない、心理学的分野として残されていた。自分の良さを活かせる分野はこれしかない、三崎はそう思った。依存症治療の分野は三崎にとって『最後の砦』であり、三崎は『背水の陣』を布いてそれと向き合った。

 三崎は阿久山院長の本にたどり着いた。それを読んだ三崎は、その本を『聖書』だと思った。その本は、いつも三崎のそばに置かれていた。今でも治療に悩んだ時に読み返す本だった。その本には、依存症治療に対する阿久山院長の経験と知識が集約されていた。それ以上に、阿久山院長の、熱い情熱と温かい人柄がにじみ出ている本だった。精神病院の『強制収容所』的一面を痛烈に批判している部分もあった。

 どうしても阿久山院長の下で働きたい。依存症治療を学びたい。一人でも多くの依存症患者を救いたい。そう思った三崎は、志願して新阿久山病院に飛び込んだ。財政難の新阿久山病院が三崎医師に払える給料は僅かだった。三崎はそんなことを全く気にしなかった。将来ある若者が、新阿久山病院の先の見えない挑戦に合流することについて阿久山院長は懐疑的だった。まだ、それは依存症治療の専門病院などというものが経営的に成り立つかどうか計りかねている時期だった。 
 
「給料なんか要りません。ここで働かせて下さい」

 三崎のその一言に負けた阿久山院長は、三崎を採用した。
 今の三崎は、依存症治療の若手専門医としては間違いなく超一流だった。三崎をこの分野で超一流にしていたものは、疑いなく寝室での奇妙な読書癖だった。

 しかし、結局、前日の夜は、三崎は一度も寝室には入らず、マンションのベランダで今後のことを考えていた。一睡もすることもなく漠然と夜空を眺め、まるで出口のないトンネルのような暗澹たる考えに想いをめぐらせていた。
それでも、翌朝、ハンドルを握る三崎の眼光は鋭く、居眠り運転の心配など微塵も感じさせないものだった。少しでもハンドル操作を誤れば、車は高さ三十メートルはある渓谷の底まで転がり落ちるか、対向車と正面衝突するか、どちらかしかない狭隘なルートをひた走っていた。

(居眠り運転? 望むところだ……)三崎はそう考えていた。しかし、眠気など起きようはずもなく、眠れるはずもなかった。この状況で眠気をもよおす程、三崎の神経は太くない。

 三崎はズタズタになった神経で何かを考え、異様に鋭く血走った目を光らせながらハンドル操作を続けた。
 三崎の車の前を農家の軽トラックが走っていた。その軽トラックは、制限速度四十キロの道路を三十五キロぐらいで走っていた。理由もなく先を急いでいた三崎のイライラは頂点に達した。

 三崎は右カーブを利用して一気にアクセルを踏み込み、その軽トラックを追い越そうとした。反対車線にはみ出した瞬間、対向車線のダンプカーが見えた。ダンプカーは急ブレーキを踏み、三崎は急ハンドルを切った。間一髪で三崎の車は軽トラックの前方にすべり込み、左斜線に戻った。普通なら肝を冷やす瞬間だった。でもその日の三崎には何の感情変化も起こらなかった。ダンプカーと正面衝突したところで、別にどうなるものでもない。三崎はそう思った。

 正午少し前、もう少し正確には十一時四十分頃だろうか? 三崎は、十津川温泉郷の名所のひとつである柳本橋のたもとの側道に車を止めた。橋のはるか下にはエメラルドグリーンの二津野ダム湖がある。ここは世界遺産『熊野古道』の一部、熊野参詣道『小辺路』の入り口でもある。

 三崎は、車を降り、運転席のドアを閉じた。そして、周囲を見渡せる助手席側に回り、車にもたれながらマイルドセブンの封を切り、タバコを一本取り出した。何年もやめていたタバコだった。ライターに火をつけ「スー」と一息タバコを吸った。今度は「ハー」と言いながら煙を吐いた。

 患者の健康を管理する立場の医師がタバコを吸っていたのでは示しがつかない。それがタバコをやめた理由だった。

(もうやめる理由はなくなった。禁煙も終わりだ)

 三崎は柳本橋の欄干のたもとまで歩き、橋の欄干と側道のガードレールの間にある幅三十センチ程の隙間から下を覗き込んだ。そこに階段はなかったが、恐らく橋の維持管理に関わる作業のために人が降りることはあるのだと思わせる獣道が出来ていた。

 三崎は、周りの低木の枝に捕まりながら、橋台のたもとまで急な斜面を降りた。そして、そこからダム湖を見下ろした。高さ三十メートルはある、まるで包丁で切ったような垂直な断崖絶壁だった。普通の人なら、近づくだけで足がすくむだろう。

 三崎はためらうことなく断崖絶壁の目の前まで進み、小さな声でつぶやいた。
「可奈ちゃん、これで勘弁してくれ」

 小一時間そこに立っていただろうか? 三崎は何度も何度もそこからダム湖に向けて落ちていく自分を想像した。でも、結局その想像は実現しなかった。三崎は振り返ってダム湖に背を向け、周りの枝につかまりながら獣道を登り始めた。

「他の方法を考えよう」三崎はそうつぶやいた。

 三崎が『その方法』をやめた理由は、ある映画の1シーンだった。横溝正史の『犬神家の一族』の中で、湖の底に沈んだ男の死体が浮き上がり、両足だけが水面からニョキッと浮かび出るシーンがあった。あんな異様な変死体で発見されたくない。三崎はそう思った。三崎に残された最後のプライドだった。

 三崎の車はその場で転回し、さっき来たルートを逆に戻り始めた。

 その後、約一ヶ月が経過したある日、裁判所の判決が下り、可奈子は放火についても覚せい剤についても執行猶予付きの有罪判決を受けた。これにより、実質的に残されたものは、新阿久山病院での治療だけとなった。
可奈子は退院後、三崎と仲良く街をデートする自分を夢見ながら、平穏な入院生活を続けた。
 客観的に見て、薬物やアルコールへの依存症からもほとんど脱却しているように見えた。
 可奈子は、焦る必要はない。完全に治るまでゆっくり療養すればいいという三崎の言葉を信じて疑わなかった。彼女の措置入院が解除され、退院となる日が遠くないことを誰も信じて疑わなかった。

 ところが、ある日、いつものようにリクリエーションルームでピアノを弾いていた可奈子は、自分の指先に異変を感じた。可奈子は看護師を呼んで言った。
「あの…… 指先が震えて力が入らないんですが……」
「体調が悪い日は部屋でゆっくりした方がいいですよ」

 看護師はそう言って、可奈子をみちびき、閉鎖病棟に戻した。

 ベッドに横になっている可奈子の所に看護師から報告を受けた三崎が来た。
「可奈ちゃん、指が震えるんだって?」

 可奈子は、ベッドに横になったまま、不安げに症状を訴えた。
「はい、今朝から体がだるくて、足元もふらついたりしてたんですが……」

 三崎が微笑みを浮かべながら物静かに答えた。
「長期的な離脱症状だね。単純な薬物依存や、アルコール依存と違って、君はいろんな薬物をチャンポンにして摂取していただろ、だから、治療も一直線に良くはならない。良くなったり悪くなったりを繰り返しながら少しずつ治っていくんだよ」
「でも、今までこんなことはなかったんですが……」

 不安げに問う可奈子に、三崎医師は穏やかな口調で答えた。
「気にすることはない。今まで通り療養を続ければいい。焦らずに治療すれば必ず良くなるから心配しないように」
可奈子は、心配いらない。少しずつ良くなるという三崎の言葉を信じた。そして、可奈子の容態は三崎医師の言うとおり、少しずつ改善した。可奈子は再びピアノを弾ける程度にまで回復した。しかし、数日経つと、また可奈子の容態は悪化し、倦怠感やふらつき、指先の震えに悩まされるようになった。同じようなことが数日周期で繰り返された。



 その頃、凌一が捜査していた連続結婚詐欺事件は、被疑者の拘置期限を迎えようとしていた。連続結婚詐欺事件については被疑者の自供もあり、物的証拠も揃っていたので、問題なく起訴に持ち込むことが出来る見通しだったが、交際相手の男性の連続不審死については、混沌とした状況が続いていた。被疑者も容疑を否認しており、なかなか確証を得るには至らなかった。状況から見て、この女が不審死に関与していることは明らかだった。しかし、被疑者が容疑を否認したまま、物的証拠なしで公判を維持することはかなり難しい。

 週刊誌やワイドショーでは、この女が関わった男性がいずれも不審死していることを大きく取り上げていた。常識的に考えて、この女が無関係とは思えない連続不審死を立件できなければ、警察の権威にかかわる問題である。マスコミの報道に先導される形で警察の捜査が進められる事件は近年増加している。林真須美による和歌山毒物カレー事件や畠山鈴香による秋田連続児童殺害事件がその例である。しかし、マスコミの報道に先導される形で被疑者が逮捕・起訴された事件の中には、三浦和義によるロス疑惑のように最終的には無罪判決が下されているものもある。和歌山毒物カレー事件についても、被告の林真須美は依然として容疑を否認している。

 最高裁による林真須美への死刑判決は、被疑者否認、動機不明、物的証拠なしという状況の中で、『彼女が犯人としか考えられない』という極めて異例な理由で下されたものである。

 しかし、被疑者否認、動機不明、物的証拠なしという状況の中、善良な市民をマスコミが先導する形で、『推定有罪』とし、社会的に抹殺しかけた事件が過去にもあった。一九九四年に長野県松本市で起こった『松本サリン事件』である。

 犯人扱いされた河野義行氏が第一通報者であること、自宅から農薬が発見されたことを『証拠』として、長野県警は任意での事情聴取を装いながら事実上彼をマークしていた。もし、オウム真理教が翌年の『地下鉄サリン事件』を起こしていなければ、未だに河野氏の容疑は晴れていなかったかもしれない。それどころか、逮捕・起訴・有罪判決という最悪のシナリオさえありえた。

 そうした意味で、この種の事件の捜査には凌一は適任だった。凌一はいわゆる『熱血刑事』ではない。何が何でも犯人を逮捕してやろうと情熱を燃やすようなタイプではない。凌一は、ただ、淡々と聞き込みを続け、些細な情報を蓄積させていた。それは、『確たる証拠』には、程遠いものばかりだったが、事情聴取で、被疑者を問い詰めるには十分なものだった。その中で、最も有力な情報と凌一が考え、さらに詳細な情報を収集していたのは、連続結婚詐欺事件の被疑者が、よく魚釣りに行く女性だということだった。

 奈良県に海はないが、香芝から西名阪高速道と阪和自動車道を通り、大阪の泉南地方まで行くと、一時間程度で海に出られる。
 泉南地方で釣れるといえば、キスやカレイ、アイナメ、アジ、イワシ、少し大物としては黒鯛程度である。その魚を狙っている時に、頻繁に針にかかる迷惑な魚が『草フグ』というタマゴぐらいの小さなフグである。フグ料理に使われるトラフグと違って、この小さなフグは、煮ても焼いても食えない(実際にはフグ調理師が料理すれば食用にすることは不可能ではないが、あまりにも小さく、ほとんど食べるところがない)。それでも毒性だけは一人前で、強力なフグ毒(テトロドトキシン)を持っており、卵巣・肝臓・腸は猛毒、皮膚は強毒、筋肉と精巣は弱毒を持っている。

 フグ毒は産地や季節により変わる、また同定が難しいし交雑魚も多く報告されており実際の毒性はわからないことが多い。しかし、推理小説の花形、青酸カリの致死量が約二百ミリグラムであるのに対し、フグ毒のテトロドトキシンの致死量は約二ミリグラム、つまり、フグ毒は青酸カリの約百倍の毒性を持っていることになる。また、青酸カリには強烈な刺激臭と口に含んだ際の猛烈な苦さがあるため、青酸カリを被害者に気づかれずに二百ミリグラムも摂取させることは不可能に近い。しかも青酸カリは厳重な保管が義務付けられているので、入手も難しい。つまり、推理小説の定番、青酸カリを毒殺の道具として使うのはあまりにも難しい。

 一方、犯罪者は、魚釣りに行けば猛毒を持っている草フグを簡単に捕獲できるし、草フグ自体は何の管理もされていない上、フグ毒のテトロドトキシンは無味無臭ときている。つまりフグ毒は、極めて毒殺に適した道具である。凌一は被疑者が魚釣りに行っていたという泉南の海岸沿いで聞き込みを行い、複数の同じような情報を得た。それは、彼女はよく魚釣りに来ていたが、普通の釣り師なら捨ててしまうような草フグを大切そうに持って帰っていたという証言だった。これは、被疑者がフグ毒を使って一人暮らしの男性を殺害していたという有力な状況証拠だった。

 不審死を遂げた一人暮らしの男性は、誰も司法解剖を受けておらず、遺体も既に焼却されているので、被害者の体からテトロドトキシンを検出することは、今からでは不可能だ。
 しかし、頻繁に魚釣りに行って草フグを持ち帰っていたという事実は、被疑者の女性を追及するには十分な状況証拠だった。実際、被疑者の家宅捜索では、大量の釣り道具が確認されている。

(立件できる)

 凌一は確信めいたものを感じていた。
 その日、久しぶりに凌一は、新阿久山病院を訪れ、可奈子に面会した。しかし、可奈子はいつものように面会スペースには出てこなかった。看護師に尋ねると、可奈子は少し気分が悪く、ベッドで塞ぎ込んでいると言う。
 凌一は、看護師の了解を得て、閉鎖病棟に入り、可奈子のベッドに歩み寄った。凌一は、閉鎖病棟の病室内に入るのは初めてだった。さすがに廃院になった精神病院を買い取って作った病院の閉鎖病棟だけあって、病室内は古めかしく、窓に張り巡らされた鉄格子の隙間から漏れ入る太陽の光が、病室内を格子状に照らしていた。

(まるで古い警察署の留置所だな……)

 凌一はそう感じた。普通の病院の大部屋とは違って、患者と患者の間はカーテンで仕切られてはいない。精神病院にプライバシーなどという高尚なものはない。凌一は、病室全体を見回した。他の患者もドロンとした輝きのない視線を凌一の方に向けていた。

 この病院は、廃院となって今の院長に買い取られる以前は、重症患者向けの精神病院だった。廃院となったのも、ろくな医療をせず、患者をまるで囚人のように扱っているという良くない評判が広がったのが原因だった。恐らく、新阿久山病院となる以前は、この病室内でも、患者たちは不幸な入院生活を送っていたのだろう。いったい、この病室は、今までどれだけ多くの患者の不幸を飲み込んで来たのだろう? それを考えた時、凌一は、漠然とした恐怖を感じた。

 可奈子は、毛布を耳元まで被って、凌一に背を向ける形でベッドに横たわっていた。

 凌一が、可奈子の後ろから、優しくささやくような声をかけた。
「可奈ちゃん、こんにちは、気分が悪いんだって?」

 凌一の声を聞いた可奈子は、ベッドの上で寝返りをうち、凌一の顔を見て小さな声で答えた。
「特に気分が悪いわけじゃないんですけど……」

 看護師が面会者用の丸い椅子を持って来てくれた。凌一は、それを可奈子のベッドの脇に置いて腰掛けた。

 凌一が可奈子に尋ねた。
「どんな具合なの? 僕に話してごらん」

 可奈子は不安げにすがるような視線を凌一に向けて、
「体がだるくなったり、一日中眠かったり、指先が震えたりするんです。でも、いつもそんなわけじゃなくて、そんな症状は、数日で治まるんです。でも数日後には、また同じような症状が出て…… 私、いったい、いつになったら治るんでしょうか?」

 凌一が可奈子に尋ねた。
「三崎先生は何て言ってるんだい?」
「長期的な離脱症状だから、良くなったり悪くなったりを繰り返しながら自然に治っていくから、心配しなくてもいいと……」

 凌一は、可奈子の枕元に、白い紙袋に包まれた粉薬があるのを見た。それを見た凌一は少し不審に思った。通常、薬物依存症やアルコール依存症の患者に対しては、治療初期の数日だけは、離脱症状を緩和するためのごくごく軽い精神安定剤や睡眠導入剤が処方されることがあるが、可奈子のような長期入院患者に対して、いつまでも薬が処方されることはない。

 凌一は可奈子に尋ねた。
「可奈ちゃんは、ずっとこの薬をもらっているのかい?」
「いえ、最初の頃は薬はもらっていませんでした。この薬をもらい始めたのは、最後に明日野さんが面会に来てくれた頃からです」
「三崎先生は、これを何の薬だと言ってるんだい?」
「回復を早める薬だと……」
「そう」

 凌一の心の中に、漠然とした不信感が芽生えた。最後に可奈子を見舞った頃、もう可奈子には依存症らしき離脱症状は出ていなかった。そんな時期から処方される薬というのは、凌一には思い当たらなかった。凌一が尋ねた。

「この薬をもらい始めた頃、可奈ちゃんはどこか具合が悪かったのかい?」
「いえ、そんなことはありませんでした。自分では順調に回復していたつもりでした。この薬も毎日飲んでるわけじゃありません。何日か続けて出された後、何日か出なかったり……」

 それを聞いて凌一は、心の中で首を傾げた。依存症患者に出される薬で、断続的に処方される薬と言えば、ノックビンが思い当たる。しかし、ノックビンは外来患者が誘惑に負けて飲酒することを予防する抗酒剤だ。酒など手に入るはずがない閉鎖病棟に入院している可奈子に処方する意味がわからない。

 凌一が可奈子に訊いた。
「この薬、一包だけもらって帰っていいかな?」

 可奈子が不審そうに問い返した。
「いいですけど、この薬をどうするんですか?」
「いやちょっと…… 深い意味はないんだ。三崎先生が出している薬だから、可奈ちゃんのためにいい薬に決まってるけど、依存症患者に対して、数日おきに処方される薬なら、多分ノックビンだと思うんだ。ノックビンを服用してるんなら、今、可奈ちゃんに出てるような症状が副作用として現れても不思議じゃない。でも、僕の素人知識では、閉鎖病棟に入院してる可奈ちゃんにノックビンを処方する意味がわからない。ひょっとしたら僕が知らない新薬かもしれない。直接、三崎先生に尋ねてみようと思うんだけど、実物があった方が話がし易いだろ」

 それを聞いて、可奈子はむしろ喜んだようだった。
「それなら、ぜひ持って帰って下さい。何の薬か私も気になってるんです」
「わかった。とにかく君は何も心配せず、三崎先生を信じて、ここでゆっくりと療養するんだ」
「はい、そうします」
「それじゃ、近いうちにまた来るから……」

 凌一は、可奈子にそういい残して閉鎖病棟を出た。そして、三崎医師の部屋を訪れた。
「コンコン」と三崎の部屋をノックすると、中から返事があった。三崎医師の声だった。
「はい」
「明日野です。ご無沙汰しておりました。可奈ちゃんを見舞った帰りなんですが、少しよろしいでしょうか?」
「どうぞ、お入り下さい」

 凌一が部屋に入ると三崎医師が穏やかに微笑んで、
「お久しぶりです。どうぞ、おかけ下さい」

 この刑事は八年前の事件のことをこれ以上蒸し返さない。これ以上それを話題にすることはない。三崎はそう確信していた。そのとおりだった。

「ありがとうございます」

 凌一は、三崎医師に一礼して席に着き、話を始めた。
「可奈ちゃんの容態ですが、あまり順調ではないようですね」
「うーん」三崎はそう一言うなって、しばらく考え込んだ。そして、話を始めた。
「依存症の治療では、順調に回復するほうがむしろ珍しいんです。あまり当てになる統計値ではないんですが、依存症の治癒率は約五十パーセントと言われていて、要するに患者の中で、完全に回復するのは二人に一人だと言うことです。成功例の半数もほとんどの患者さんは、治療の段階では何度も挫折を経験します。でも谷口さんの場合は、まだ、閉鎖病棟にいますから、最悪のケース、すなわち『スリップ』はありえません。
それが覚せい剤のような禁止薬物なら『再犯』と呼ぶことになるんでしょうが、麻薬的作用を持つ薬にはアルコールなど合法なものもたくさんあるので、医師は『スリップ』という言葉を使います。
『スリップ』とは、長期間完全に絶っていた薬物やアルコールに再び手を出すことを言います。一旦、『スリップ』した患者は、ほとんどの場合、また、薬漬けの状態に戻ってしまいます。
私は現在の彼女の容態についてはあまり心配していません。心配なのは、やはり退院後です」

「そうですか…… わかりました。ところで先生は可奈ちゃんにノックビンを処方されているようですが、私のような素人には閉鎖病棟に入院している患者にノックビンを処方する意味がわからないんですが……」

 凌一の質問を聞いた三崎医師の肩が一瞬ギクッと震えた。表情も微妙に引きつった。その微妙な変化を凌一の目は見逃すことなく捉えた。

 三崎医師はすぐに平静な表情を取り戻して答えた。
「ああ、あの薬ですか? 確かにノックビンです。抗酒剤にはノックビンとシアナマイドがありますが、ノックビンが粉薬や錠剤で服用しやすく、保存も楽なのに対し、シアナマイドは液剤で、しかも冷蔵保存する必要があります。
今は、液体は飛行機にも持ち込めない時代です。だから、シアナマイドは旅行の時などに不便なんです。でも、実際の医療現場で患者さんに処方されている薬としては圧倒的にシアナマイドの方が多いんです。
私は、彼女が退院後も安全に回復を続けるためには、抗酒剤は必要だと考えています。でも、出来ることなら、飛行機に持ち込めないとか、冷蔵保存する必要があるなどの理由で、服用が途絶えやすいシアナマイドを使いたくないんです。
ただし、長期間同じ薬を服用する場合には、副作用について注意する必要があります。ほとんどの医師がノックビンではなく、シアナマイドを処方している理由が副作用にあるなら、医師としてノックビンは諦めざるをえません。
実際、今、彼女が訴えている諸症状は、ノックビンの副作用かもしれません。でも、抗酒剤の副作用は、次第に体がなじんで症状が出なくなるという報告も多いんです。ですから、私は、もし彼女の体がノックビンに適応できるものなら、入院中になじんでおいて欲しいんです。彼女にノックビンを処方しているのはそのためです」

 凌一は、三崎医師の説明を聞いて、大げさにうなずき、
「なるほど、そう言う理由でしたか…… いや、よくわかりました。先生の深いご配慮には感服しました。ご丁寧な説明、ありがとうございます」

 凌一は席を立ち、深々と一礼して三崎の部屋を出た。凌一は、可奈子から薬を一包預かっていたことは三崎に言わなかった。それは、三崎の説明に何か釈然としないものを感じていたからである。可奈子の今の症状が本当にノックビンの副作用なら、三崎はなぜその理由を可奈子に対して長期的な離脱症状などと言う必要があったのか? さっき、凌一に対して説明したとおりのことを話せばよかったのではないか?



 新阿久山病院を出た凌一は、その足で、中井姉妹の父、真治の医院を訪ねた。ちょうど、午後の休診時間中だった真治は、凌一を自分の部屋に招き入れた。

 凌一は、可奈子から預かった粉薬の包みを真治に見せながら言った。
「お父さん。この粉薬なんですが、何という薬か調べていただくことは可能でしょうか?」
「何の薬か調べる?」真治が不思議そうに言った。
「そうです」
「この薬は誰が誰に処方したものなんだい?」

 真治の質問に凌一が答えた。
「薬物依存患者に対して精神病院で処方されたものです」
「何かの事件に使用された薬かい?」
「いえ、事件に使用された薬なら警察の科捜研で分析しますが、今のところ事件性はないので……」
「事件性がないのに、どうして刑事の君が薬の分析なんかするんだい?」

 その質問に凌一は一旦沈黙し、言葉を選びながら答えた。
「この薬を処方されている患者さんが少し体調を崩しています。主治医はノックビンという薬の副作用だから心配ないと言っています。私はその患者さんの症状が本当にノックビンの副作用かどうか知りたいんです」
「ノックビン? 聞いたことないな…… 君とその患者さんはどういう関係なんだい?」
「放火の容疑で私が逮捕しました。逮捕後に覚せい剤やアルコールなど、あらゆる薬物の依存症になっていることも発覚しました。その患者は、今、薬物依存治療の専門病院に入院しています」
「わかった。薬の成分分析をしてくれる試験機関は知っているから、そこに頼んでみよう」
「ぜひ、お願いします」

 凌一は、そう言って一礼し、真治の医院を出た。

 その日の夜、凌一は、久しぶりにフリーライターの榎本真由美と約束していた。以前、凌一に連れられて行った四位堂駅前の洋風居酒屋を気に入った真由美が凌一を誘うのはいつもその店だった。真由美は、週刊誌に連続結婚詐欺の容疑で逮捕された女に関わった一人暮らしの高齢者が何人も不審死している問題について連載記事を載せていた。

 カルピスサワーを片手に、真由美が人懐っこい笑顔を浮かべて、
「凌ちゃん、今日は私の奢りだからとことん行こうね」

 凌一が皮肉っぽい笑顔を浮かべた。
「奢ってもらうわけにはいきませんが、真由美さん、羽振りがよさそうですね。連続不審死の連載記事、えらく売れてるそうじゃないですか」
「確かにあの連載記事のおかげで羽振りがいいのは事実よ。でも、凌ちゃん、私の性格知ってるでしょ? 私は、ただ、読者の興味を引けばいい、記事が売れればいい、それだけの目的で事件を追ってるわけじゃないわ。私が追ってるのは社会正義よ」

 凌一はビール片手に穏やかな笑顔を浮かべて言った。繊細な優しさがにじみ出ている凌一の端正な笑顔を真由美はじっと見つめていた。
「わかってますよ。真由美さんがただ読者の興味をそそるだけの低俗な記事を書くライターだったら、僕が、ここにいるわけがないでしょう」

 真由美が鋭い視線を凌一に向けた。
「私の信念を理解してくれてありがとう。そこでお願い。凌ちゃん、教えて、あなた何か掴んだでしょう」
「ええ、掴みましたよ。あの女については殺人容疑で近々逮捕状を請求するつもりです」

 真由美が両手をスリスリしながら凌一にせっついた。
「お願い、何を掴んだの? 教えて、凌ちゃんが逮捕状を請求すると言うことは、公判を維持するのに十分なものを掴んだってことでしょ? 教えて、お願い! それがわかれば大スクープだわ」

 凌一が穏やかな微笑を浮かべながら、
「僕はしらけた『サラリーマン刑事』ですよ。僕が掴んだ情報なんか当てになりません。真由美さん、とんでもないガセネタを掴まされても知りませんよ。それに、僕は世論を味方につけるために捜査情報をマスコミにリークするつもりはありません」

 それを聞いた真由美は、顔を紅潮させながら心外な表情で言った。
「マスコミ? 凌ちゃん、ひどいことを言うのね。以前、葛城南高校の事件の時、二人で命がけで戦ったことを忘れたの? 凌ちゃんにとって、私は共に命をかけて戦った戦友よ。大勢いるマスコミのうちの一人じゃないはずよ!」

 凌一は、大げさに右手を左右に振りながら慌てて否定した。
「とんでもない。僕にとって真由美さんは戦友であり恩人です。マスコミの中の一人なんて、そんなふうには考えてません」

 二人は、結局、その店で夜遅くまでと議論をしていたが、その日、その店は満席の賑わいだったので、二人の話はそれ以上聞き取れなかった。

 ついに真由美のスクープ記事が週刊誌に掲載された。タイトルは『釣り好きの女』だった。その情報が凌一のリークによるものかどうかは最後までわからなかった。

 それから数日後、連続結婚詐欺事件の聞き込みを続けていた凌一の携帯が鳴った。真治からの電話だった。
「こないだの薬の分析結果が出たよ。説明するから、来てもらえるかな?」
「わかりました。これからすぐに向かいます。四十分ほどで着くと思いますので」
「それじゃ、待ってるから」

 凌一は、携帯をポケットに収め、真治の医院に向かった。

 真治の部屋に入った凌一に真治が言った。
「薬の成分がわかった。クロルプロマジンという強力な向精神薬だ。投薬の対象となるのは、重症の統合失調症・躁病・神経症患者等だが、副作用や依存性が強いという欠点があるので、精神科医はやむをえない場合以外は使わないようにしているはずだ。少なくとも言えることは、薬物依存症患者に処方する必要は全くない薬だと言うことだ。薬物依存患者にクロルプロマジンなんか処方したら、今度はクロルプロマジンの依存症になってしまうだろう。向精神薬というのは、麻薬の親戚みたいなものなんだ。作用も良く似てる。薬物依存患者にこれを処方すると言うのは、違法な麻薬を止めさせる代わりに合法な麻薬を与えてるようなものだ。
凌一君、事情は良くわからんが、とにかく急いで、この薬を処方されてる患者さんを保護するんだ。保護してすぐなら、尿検査や血液検査で薬の服用歴も証明できる。医療法違反に該当する不適切な処方を受けてたのなら、それも証明できる。そんなことより、薬物依存症の患者にこんな薬を投与するなんて、まともな医療とは思えない。患者の健康が心配だ。もし、警察が動かないと言うのなら、私が奈良県精神保健福祉センターに直訴する」

 それを聞いた凌一は仰天した。そして尋ねた。
「どんな副作用が出るんですか?」
「軽い副作用としては、倦怠感や眠気、手足の震えなどが出る。重い場合は、パーキンソン症候群や悪性症候群が出る」

 真治の話を聞いた凌一は愕然とした。次の言葉が見つからなかった。凌一はかろうじて真治に一礼し、可奈子が服用していた薬の成分表を手に真美署に向かった。
 真美署の刑事課には、たまたま全員が署に戻っていた。

 凌一は、自分の席に着き、渡辺の方を見て言った。
「課長、重大な相談事があります。他のみんなも聞いて欲しい」

 普段とは違う凌一の深刻な表情を見た渡辺が尋ねた。
「どうした? 言ってみろ」

 凌一が話を始めた。
「新阿久山病院を強制捜査させて下さい」
 渡辺が眉間にしわを寄せて不審な顔で尋ねた。
「新阿久山病院って、あのアル中、ヤク中治療の専門病院か? なんであそこを強制捜査するんだ? 容疑はなんだ?」
「容疑は麻薬及び向精神薬取締法違反ならびに公文書偽造です。患者に対する不適切な向精神薬の投与は、麻薬及び向精神薬取締法違反にあたりますし、カルテに虚偽の記述があれば、公文書偽造にあたります」

 渡辺は首を傾げながら質問を続けた。
「その根拠は? もっと具体的に言ってみろ」

 凌一は、しばらく沈黙した後、ゆっくりと話し始めた。
「以前、明和署の管内で、自動車に放火した女性を逮捕しました。その女性の尿からは覚せい剤反応が検出されました。この件は、課長もご存知ですね」
「ああ、覚えてる。取調べ中に女が離脱発作を起こしてお前が噛み付かれた上にゲロを吐きかけられた件だろ。あの女にはもう判決が出ている。放火についても覚せい剤についても執行猶予付きの判決を受けて、今は、新阿久山病院に入院しているはずだ」
「そのとおりです。話はそこからです。
彼女が新阿久山入院に入院してから、私は何度か面会に行きました。彼女は、あの病院で三崎という若い医師に治療され、日に日に良くなっていきました。そして、何度か彼女と面会しているうちに、私は、彼女の性格が覚せい剤や他の薬物、アルコール等にのめり込り、放火までやるようになるほど、ゆがんでしまった理由を知ったんです。
彼女は、もともと裕福な良家の娘で、中学までは品行のよい優等生でした。その彼女が変わってしまったのは、十六歳の時に塾の帰りに暴漢に襲われ、強姦されてしまったからです。彼女が襲われたのは平成十三年の三月十四日の午後十時頃、現場は明神橋の下の河原です。彼女は目出し帽を被った男に包丁を突きつけられ、恐怖で何の抵抗も出来ずに辱められました。何の抵抗もせずにかすり傷ひとつ負わず、陵辱された自分を恥じた彼女は、警察に被害届けを出しませんでした。彼女の生活が荒れ始めたのはそれからです。
私は彼女の口からそれを聞きましたが、強姦は親告罪なので彼女が被害届けを出さない限り、警察に捜査権限はありません。しかも事件は八年前の出来事です。彼女は犯人の特徴を何一つ覚えていませんでしたし、もちろん犯人の遺留品もありません。今更、被害届けを出したところで犯人が逮捕できる可能性は限りなくゼロに近い。私はそう思いました。
そうは言っても私も警官の端くれです。彼女を辱め、八年間も苦しめたのが、いったい、どこの誰なのか突き止めてやりたいと思いました。
自宅謹慎処分を受けてまで、私が課長に無断で明神橋付近の聞き込みをしたのはそのためです。
聞き込みの結果、日付も時間もはっきりしないんですが、十年近く前、目出し帽を被った男が、明神橋から慌てて逃げていく姿を見たという目撃者を見つけました。目撃者の話では、目出し帽の男は当時二十歳前後で、明神橋から少し離れた田んぼのあぜ道に止めてあったマウンテンバイクに乗り、そこから少し上ったところにある旧道を通って逃げて行ったとのことです。
その旧道の奥には、三十三件の民家があります。私は久保に頼んで、その民家に住む今現在三十歳前後の男を洗い出してもらいました。その結果、該当する人物は、たった一人しか浮かんできませんでした。その男とは、現在、新阿久山病院で谷口可奈子の主治医をしている三崎医師です。
私は直接、三崎医師に会い、この件について問い詰めました。もちろん、谷口可奈子が強姦された件は、犯罪として立件されていませんので、あくまで個人的に尋ねたんです。
三崎医師はこう言いました。
『私を逮捕するんならご自由に、犯人も苦しんでいるんです。早く楽になりたいんです』
本当は、この時点で谷口可奈子を説得し、被害届を出させた上で、三崎医師を逮捕すべきだったのかもしれません。でも、私にはそれが出来ませんでした。その理由は、三崎医師と谷口可奈子の間に恋愛感情が芽生えていることを知っていたからです。過去はどうあれ、現在の三崎医師は、薬物やアルコールの依存症患者を治療することに人生を捧げている優秀で誠実な医師です。そして、三崎医師の献身的な治療に谷口可奈子は心を開いた。そして二人はいつしかお互い愛し合う仲になった。もちろん、お互いに、強姦の被害者と加害者という過去があることを知らずにです。
でも、現在、彼女は三崎医師の治療のおかげで素直な明るい自分を取り戻し、一途に三崎のことを慕っています。また、三崎医師の彼女に対する愛情にも偽りはありません。今更、八年も前の事件をほじくり返して、三崎医師を逮捕したところで、一体誰が救われるんでしょう? 谷口可奈子は、十六歳の時に凌辱され、長年苦しみぬいた末に、やっと三崎という男性に心を開き、幸せになりかけているんです。その彼女に、三崎医師は、本当は八年前に君を強姦した男だと知らせれば、彼女のショックは計り知れないものです。私にはそんなことは出来ませんでした。
結局、私は二人の今後のことは二人に任せておこうと考えたんです。このとき、私の中にはいくつかのストーリーが描かれていました。
・三崎が本当のことを可奈子に告げたうえで、可奈子がそれを赦し、二人の恋愛は成就する。
・三崎が本当のことを可奈子に告げた結果、二人の恋愛は破局する。
・三崎は本当のことを可奈子に告げないまま、二人の恋愛は成就する。
・三崎は本当のことを可奈子に告げないまま、自分の過去を赦せない可奈子が自ら身を引く。
でも、結果は、私が想像していたいずれとも違うものでした。これがその証拠です」

 凌一は、一包の粉薬とその成分分析報告書を差し出した。
 渡辺は、その粉薬の包みを見ながら凌一に尋ねた。
「何だ? これは……」
「クロルプロマジンという強力な向精神薬です。投薬の対象となるのは、重症の統合失調症・躁病・神経症患者等です。ヤク中やアル中患者に投与されるような薬じゃありません。しかし、三崎医師は可奈子にこの薬を投与していました。しかも周期的に……」

 渡辺が首をひねりながら凌一に尋ねた。
「どういうことなんだ? さっぱりわからん」
「クロルプロマジンは、向精神薬としては最初に発明された非常に古い薬品で、副作用と依存性が強いという欠点があります。この薬を投与すれば、患者には、倦怠感や眠気、ふらつき、指先のふるえ等の副作用が出ます。しかもこの薬には耐性がつきやすいという欠点があるので、服用量をどんどん増やさなければ次第に効かなくなります。服用量を増やせば当然、副作用も強く現れます。重篤な副作用としては、パーキンソン症候群や悪性症候群が現れます。
知り合いの医師は、薬物依存患者にクロルプロマジンなんか処方したら、今度はクロルプロマジンの依存症になってしまうと言っていました。クロルプロマジンのことを麻薬の親戚だとも言っていました。もし、警察が動かないと言うのなら、自分が奈良県精神保健福祉センターに直訴するとも言っていました。このままでは患者の健康が心配だと…… しかし精神保健福祉センターは所詮、お役所です。病院とはツーカーの仲でしょう。厳格な抜き打ち検査が行われるかどうかは、甚だ疑問です」

 渡辺は、薬の成分分析表に目を通しながら言った。
「難しくてよくわからんが、要するに、三崎医師は谷口可奈子に必要ない薬を処方してたということだな。必要ないというよりむしろ病気を悪化させるような薬じゃないか? それは何のためなんだ」

 凌一は視線を下に落として、しばらく沈黙した後、ポツリと答えた。

「可奈子をかごの鳥にし、飼い殺しにするためです」

 渡辺が問い返した。
「飼い殺し?」

 凌一は、少し視線を上げ、他の署員にも視線を向けながら話した。
「三崎医師は、谷口可奈子を愛しています。その気持ちに嘘偽りはありません。でも、彼は、八年前に可奈子を襲い、凌辱した強姦魔です。その後の可奈子の苦悩を思えば、事実を打ち明けることは出来なかったんでしょう。でも、措置入院には、六ヶ月という期限があります。このまま治療が進めば、六ヶ月目の再診断では、もう措置入院の必要はないという診断が下るでしょう。つまり、このままでは、可奈子はそう遠くない時期に退院することになります。
可奈子が退院した後も交際を続けるためには、可奈子に事実を打ち明けるか? あるいは事実を隠し通すか? 三崎にはその選択が必要になります。でも、三崎医師にはどちらを選ぶ勇気もありませんでした。
結局、三崎は可奈子にクロルプロマジンを服用させ、さまざまな副作用を生じさせて、彼女の病気があまり改善していないように見せかけていたんです。しかし、クロルプロマジンを常用させれば、最終的にはパーキンソン症候群や悪性症候群などの重篤な副作用が起こる可能性があります。だから、三崎は、可奈子に断続的にこの薬を処方して、彼女の症状を巧妙にコントロールしていたんです。
つまり、三崎は可奈子をいつまでも『かごの鳥』にしておこうとしたんです。
動機はともあれ、副作用の強い薬を必要のない患者に投与し、病気の症状に見せかけるという手口は悪質です。しかも三崎医師はこの薬を私に対して抗酒剤のノックビンだと言いました。恐らくカルテにもそう記載しているでしょう。カルテを押収する必要があります。
可奈子を保護するためにも、新阿久山病院の強制捜査が必要だと思います。被害者本人の証言が取れており、物的証拠である薬包とその成分分析書がここにあるのですから、令状は下りるんじゃないですか?」 

 凌一の話を最後まで聞いた渡辺は、口を真一文字に結び、ひとつ大きくうなずいた。そして言った。
「わかった。令状を請求する。谷川、久保、深浦、島、君たちも行くんだ。私も同行する」




 翌日、強制捜査の令状が下りた。

 渡辺が刑事課の署員全員を集めて強制捜査の手順を説明した。
「これから、新阿久山病院の強制捜査に向かう。容疑は三崎医師の麻薬及び向精神薬取締法違反だ。君たちの任務は、三崎医師の身柄を拘束し、谷口可奈子の血液と尿のサンプルを入手することだ。病院からは谷口可奈子のカルテを押収する。 
一般に、病院の犯罪を警察が立証することは非常に難しいが、今回は病院ぐるみの犯罪じゃない。あくまで一個人の犯罪だ。みんな臆することなく捜査に臨め」

 久保が渡辺に問いかけた。
「谷口可奈子は保護しないんですか?」
「彼女には精神保健福祉法に基づく措置入院命令が県知事より下っている。現状で、彼女を保護する権限を持つのは奈良県精神保健福祉センターだけだ。既に状況はセンターに連絡してある。我々に出来ることはセンターの検査官が彼女を保護するまで、彼女の安全を守ることだけだ」

 谷川が渡辺に尋ねた。
「拳銃は携帯するんですか?」
「病院にいるのは医療関係者と患者だけだ。恐らく必要はないと思うが、万が一、どんな想定外の事態が起こっても我々には谷口可奈子の安全を守る義務がある。全員拳銃を携帯するように。それから深浦、お前はバールとチェーンカッターを持って行け。精神病院の扉は、ほとんどが施錠してある。いざという時に扉をこじ開けるのに必要だ」

「わかりました」深浦が答えた。

 渡辺は全員に拳銃を配布した。拳銃を受け取る署員に緊張が走った。

 渡辺が全員に号令をかけた。

「さあ、行こう」

 真美署刑事課の全員が二台の捜査車両に分乗し、新阿久山病院に向かった。車中、全員が無言だった。署員たちは、鉄格子で閉じられた病院の門の前に停車し、門番に令状を見せた。鉄格子の門が開けられた。全員が車を降り、小走りに院内に入った。渡辺が受付で令状を見せた。受付は内線でどこかに連絡を取ろうとしたが、渡辺がそれを制止して言った。
「谷口可奈子のカルテを押収します。速やかに提出願います」

 凌一たちは、小走りに可奈子が収容されている閉鎖病棟に向かった。静かな病院の廊下にカツカツという靴音が響いた。スーツを着た集団が廊下を駆け抜ける姿に、入院患者たちが奇異な視線を送っていた。
谷川が閉鎖病院の入り口にいた看護師に令状を見せた。看護師はそれを見ると黙って閉鎖病棟の施錠を解いた。凌一たちは閉鎖病棟の中に入り、一直線に可奈子のベッドに向かった。しかし、そこに可奈子はいなかった。凌一が看護師をにらみつけて怒鳴るような大声で尋ねた。

「谷口可奈子は!?」

 凌一のあまりの迫力に看護師が狼狽しながら答えた。
「谷口さんは、今、三崎先生と処置室にいます」
「処置室?」

 一瞬、凌一の胸を嫌な予感がよぎった。凌一たちは、緊迫感を胸に閉鎖病棟を出て、処置室に向かった。

 その頃、可奈子は処置室で全身麻酔をかけられ、手術台に横たわっていた。その横には、手術衣を着た三崎医師が立っていた。能面のように無表情だった。三崎は手術用のマスクをし、両手にゴム手袋をはめた。そして、電動ドリル、アイスピック、メス、縫合用ステープラを入念に消毒した。

 普段、精神病院で外科手術が行われることはない。三崎は処置室の器具や薬品を入念にチェックした。
 最後に三崎は、試しに電動ドリルのスイッチを二、三回押した。
「ウィーン、ウィーン」という電動ドリルの回転音がした。歯科医で使うような細い針状の電動ドリルがうなるような高周波音を発した。不気味な音が部屋中に反響した。それは歯科医で聞いても決して心地のよい音色ではない。しかしその音を聴いた三崎は何故か冷淡な笑みを浮かべた。三崎は爪楊枝のような細いドリルの刃先を見つめた。これなら、こめかみに残る傷跡はニキビ程度の大きさだ。傷口は前髪に隠れる。可奈子の美を損ねることはない。三崎はそう思った。

 三崎は手術用の照明を点灯させた。ギラギラした照明が可奈子を照らした。三崎はそれを可奈子の額に向けた。
三崎は、眠っている可奈子に向って話しかけた。

「可奈ちゃん、これからは、僕たち二人はずっと一緒だよ。いつまでも一緒にいられるんだ。これからは、もう、つらいことも、悲しいことも何もないんだよ。君は一生僕のものになるんだ。もう、僕も悩む必要はなくなるんだ。苦しいことは何もなくなるんだ。だって、君は全てを忘れてしまうんだから、もう何も考えなくなるんだから…… この手術が終われば、僕たち二人は幸せになれるんだ。いつまでも幸せに暮らせるようになるんだ。もう、何も心配はいらない。この電動ドリルが全てを解決してくれる。君から全てを忘れさせてくれる。僕は君を離さない。永遠に離さない。君はいつまでも僕のものさ。二人で幸せになろう」

そう言いながら、三崎は電動ドリルを可奈子の額に近づけた。

 三崎にとってはじめての外科的手術だった。しかし、三崎は前もってロボトミー手術の方法を徹底的に学習していた。ペットショップで犬を一匹買い、その犬の脳で練習もした。

(大丈夫だ。きっと成功する)三崎は自分にそう言い聞かせた。

 電動ドリルを握る三崎の右手がワナワナ震えた。三崎は深呼吸して必死に手の震えを止めようとしていた。

 凌一たちが処置室の前まで来た。処置室は、中から施錠されていた。凌一が叫んだ。

「三崎さん! ここを開けなさい!」

 中からは何の返事もなかった。

 凌一は処置室の扉をドンドンと叩きながらもう一度叫んだ。

「三崎さん! ここを開けなさい!」

 やはり中からは何の返答もなかった。

 凌一が深浦に言った。
「こじ開けろ! バールでこの扉をこじ開けるんだ!」
 深浦が扉の隙間にバールを差し込み、力づくで処置室の扉をこじ開けた。
 
 凌一たちの目に入ったのは、全身麻酔をかけられて手術台に横たわっている可奈子と、彼女の額に電動ドリルを突き刺そうとしている三崎医師だった。
「ウィーン」という電動ドリルの回転音が響いていた。

 久保の手がホルスターの拳銃にかかった時、凌一が低い声を絞り出すように唱えた。

「オンベイシラマンダヤソワカ!」

 次の瞬間、凌一のパールスティックが唸りを上げて宙を舞った。

 全身全霊の祈りを込めた凌一の乾坤一擲の一振りは、魂の塊となって、電動ドリルを握り締めている三崎の右手の甲を射た。

「痛っ」三崎は思わず電動ドリルを足元に落とした。

 渡辺が叫んだ。

「取り押さえろ!」

 久保と深浦が三崎に飛びかかった。谷川は、床にうつぶせに押さえつけられている三崎の両手を背中に回し、後ろ手に手錠をかけながら、

「三崎宏幸、麻薬及び向精神薬取締法違反容疑で逮捕する」

 院長と医長が処置室に飛び込んで来た。床に押し付けられ、手錠をかけられている三崎医師、全身麻酔をかけられ、手術台に横たわっている可奈子、床に落ちている電動ドリル、手術台の横のテーブルに置いてあるアイスピック、精神科医が見れば、一目でロボトミー手術とわかる光景だった。院長が声を震わせながら言った。

「三崎君、君、まさか、この患者に……」

 谷川、久保、深浦の三人に取り押さえられている三崎に向かって凌一が問いかけた。顔が苦悩にゆがんでいた。
「何故なんですか? あなたが苦しんでいたのは良くわかります。つらかったでしょう。悲しかったでしょう。その気持ちは痛いほどわかります。
 あなたがこの娘を想う気持ちに嘘偽りはなかった。あなたにとっては彼女が全てだった。でも過去に犯した自分の過ちは元には戻らない。そして、あなたの過ちによって苦しみぬいているのは、あなたにとって最愛の人だ。彼女の苦しみを取り去ってあげたかったでしょう。ご自分のためだけでなく、あなたを慕う彼女のためにも、本当のことは言えなかったでしょう。その苦しさ…… お察しします。
 でも、何故なんですか? あなたは苦しみもがいた結果、一つの解決策を選択した。選択肢はいくつもあったでしょう。でも、ハッピーエンドで終わる選択肢などない。あるはずがない。ありえない。だからといって、何故、最悪の選択肢を選ぶ必要があったんですか?
 それじゃ、どうすればよかったのか? どうするのがベストだったのか? それは私もわからない。わかる人などいるはずがない。
 でも、私は私なりに勝手な想像をしていました。二人の過去と現在が天秤にかけられ、二人の現在の愛情の方が重ければ、今の愛情が勝つ。二人は結ばれる。もちろん、結ばれたからといって、二人を待っているのは手放しで喜べるような幸せじゃないでしょう。二人は結ばれた後も、被害者と加害者という過去の関係に苦しみ続けるんでしょう。二人は、死ぬまで過去の影に怯えながら、記憶の中で時折よみがえる過去の残像に苦しみながら生きていくんでしょう。あなた方二人は、死ぬまでそれに苦しみもがきながら、苦しみを分かち合いながら、生きていけるのか? それは私にはわかりません。でも、私は心のどこかでお二人がその道を選択することを祈っていた。目の前があまりにも険しい『いばらの道』であることを知りながら、敢えてその道を選択するだけの深く強い絆が二人の心に結ばれていることを祈っていた。
 あなたが今、やろうとしたことは、彼女の体だけをそのまま残して、彼女の人格を破壊し、記憶を消し去ろうという行為です。でも、あなたが愛したのは彼女の体だけじゃなかったはずだ。はっきり言えば、今のあなたは彼女の体などにさして興味はなかった。あなたが愛したのは彼女の人格であり人柄だ。あなたは、ご自分でもそれを認識していたはずだ。なのに、何故こういう結末を選ばなくちゃいけなかったんですか?
教えて下さい。彼女はもうすぐ目を覚ますでしょう。その時、あなたはもういない。もうこの病院には帰ってこない。彼女はあなたが逮捕されたことを知るでしょう。そして、その理由を私に問うでしょう。教えて下さい。私はいったい何と答えればいいんですか?」

 凌一は声を詰まらせた。両目を真っ赤に腫らし、ポタポタとこぼれ落ちる涙を拭おうともせず、再び三崎に問いかけた。

「教えて下さい。いったい私は何と答えればいいんですか? 私は彼女にこう答えればいいんですか?

『可奈ちゃん、君の最愛の男性は、実は過去に君を陵辱し、八年間も苦しめぬいた婦女暴行魔だ。その婦女暴行魔は、自分の過去を君に知られることを恐れ、君を永遠に独り占めにするために、君の知能を破壊する違法な手術をしようとした。だから逮捕したんだ』と…… そう言えばいいんですか?
でも、そうじゃないでしょう? あなたがこんな方法を選んだ理由は、そんなんじゃないでしょう。そ……」

 凌一は嗚咽し、声を詰まらせた。どうしても次の言葉を発することが出来なかった。
 凌一の話を黙って聞いていた三崎は、既に我に帰っていた。自分がしようとしたことの意味に気づいていた。
廃人のように無表情に、三崎が絞り出すような口調で、

「苦しみに苦しみ、悩みに悩み、悲しみに悲しみ、もがきにもがいた結果、最悪の選択をした。そうお伝え下さい」

 渡辺が院長の方を振り返り、
「三崎医師を連行します。容疑は麻薬及び向精神薬取締法違反ですが、院長先生もご覧になったとおり、三崎医師は谷口可奈子に対してロボトミーを施術しようとしていました。起訴時には傷害未遂容疑が加わるでしょう。院長先生は谷口可奈子から、血液と尿を採取して下さい。証拠として押収します」

 院長はその場にガックリ膝をついてワナワナ震えていた。しかし、渡辺の言葉に対しては、しっかりとした口調で答えた。

「わかりました…… 私にも監督責任があります。捜査には全面的に協力しますので、その点だけはご安心下さい」

 渡辺は島婦警の方を見て、
「島、血液と尿の採取には君が立ち会え、血液と尿がすりかえられる可能性がある」

 島が背筋を伸ばして答えた。
「はい、わかりました」

 渡辺は今度は凌一に、
「明日野、お前は島と二人でここに残れ、彼女の保護を命じる。精神保健福祉センターの検査官が来るまで彼女を守るんだ」

 谷川と久保は、三崎を引き起こし、捜査車両の後部座席に乗せた。運転席には深浦が乗り、別の車に渡辺一人が乗った。

 凌一と島婦警を病院に残して、二台の捜査車両がゆっくりと動き始めた。

 それから約一時間後、精神保健福祉センターの検査官たちが数名現れ、まだ全身麻酔が抜けずに眠っている可奈子を寝台に乗せたまま立ち去った。眠ったまま車に乗せられ、搬送される可奈子の姿を凌一と島が見送った。



 数日経ったある日、真美署刑事課の電話が鳴った。電話に応対した島が明らかに狼狽した様子で凌一の方を見て、

「明日野さん、電話よ。谷口さんから……」 

 凌一がハッとして尋ねた。
「谷口さんって、谷口可奈子か?」

その問いに島は黙ってうなずいた。

 凌一が受話器を取った。緊張でほほが引きつった。
「明日野です」

 電話の向こうから可奈子の明るい声が聞こえた。
「明日野さん、可奈子です。あれから別の病院に転院になりました。今、当麻町の当麻松水会病院にいます。お会い出来ますか?」それは、一片の陰りもない涼やかな声だった。

 凌一は返答に詰まった。ゴクンとつばを飲み込んで、
「う、うん。今から行く」

 来るべき時が来た。凌一は覚悟を決めて立ち上がり、渡辺の方を向いて、
「今、谷口可奈子から電話がありました。当麻町の当麻松水会病院に転院になったそうです。会いたいというので、これから行ってきます」

 渡辺は凌一の方を見ようとはせず、視線をそらしてポツリと、
「行ってこい。頼むぞ」

 凌一は車に乗り、真美署からは約三十分の距離にある当麻町の当麻松水会病院に向かった。
当麻松水会病院に着いた凌一は、車を降りた。ここは、依存症患者専門ではない、ごく一般的な精神病院だ。病院の入り口には鉄格子の門などなく、駐車場から病院まで、何のチェックも受けずに入ることが出来た。建物の構造そのものは、新阿久山病院に似ているが、あれほど古めかしくも、薄気味悪くもない。恐らく、もともと重症患者向けの病院ではないんだろう。

 凌一が面会スペースに入って待っていると、まもなく看護師に導かれて可奈子がやって来た。凌一の心臓の鼓動が高まった。

「やあ」凌一にはそう言うのが精一杯だった。

 可奈子は、凌一の隣に腰掛け、妙に吹っ切れたような澱みのない笑みを浮かべて言った。
「あの、明日野さんに、お尋ねしたいことがあるんです。刑務所に入っている受刑囚と結婚することは出来るんでしょうか?」

 突然の質問に凌一が言葉を失っていると、可奈子がもう一度質問した。
「執行猶予付きの有罪判決を受けて、精神病院に措置入院中の患者と実刑判決を受けて服役中の囚人が結婚することは出来るんでしょうか?」

 質問の内容に凌一は困惑した。戸惑いを隠すことが出来なかった。可奈子の問いは、凌一が想像していたものとは全く異なっていた。

 凌一が震える声で、必死に平静を装って答えた。
「成人の場合、婚姻は両性の合意によってのみ成立する。それは服役中の身にも当てはまる。例え執行猶予中の身であろうと、死刑囚であろうと結婚は出来る。ただし、措置入院で入院中の患者の場合には、恐らく精神保健福祉法上の保護者または扶養義務者の同意が必要になると思う。君の場合、公的扶助が適用されているから、法律上は奈良県知事の同意が必要ということになると思うけど、恐らく過去にそんな事例はないから、僕にも良くわからない」

 それを聞いた可奈子が明るい声で言った。
「そう、それじゃ、私の措置入院が解除されてからなら、結婚は自由だってことね」

 凌一が戸惑いながら答えた。
「う、うん、そうなる」
「よかった」
 可奈子の「よかった」という言葉の真意をはかりかねた凌一が尋ねた。
「よかったって、君、結婚するつもりなのか?」
「はい、三崎先生と……」

 それを聞いた凌一はギョッとした。恐らく、まだ詳しい事情を聞いていないんだろう。そう思った凌一が尋ねた。
「三崎先生って、君、新阿久山病院から転院になった理由を知っているのか?」
「はい、精神保健福祉センターの方から聞きました。三崎先生、逮捕されたのね。私に廃人化手術をしようとしたんでしょ」

 朗らかな表情でそう答える可奈子に凌一がためらいながら尋ねた。
「そ、そうだ。でも君は、三崎医師がそんなことをしようとした理由を知っているのか?」

 可奈子はニッコリと微笑んで答えた。
「それも聞きました。八年前の犯人は三崎先生だったんでしょ」

 可奈子は、自分を陵辱し、八年間も苦しめた犯人を三崎だと知っていた。凌一は、戸惑いながら尋ねた。
「そうだ。それを承知で君は彼と結婚しようと言うのか?」

 凌一の問いに対し、可奈子が朗らかな口調で答えた。
「三崎先生は、私が放火魔で覚せい剤犯だと承知で私を愛して下さいました。今度は、私が先生を強姦魔でロボトミー犯だと知りながら、彼を愛する番じゃないですか?」

「……」

 凌一は、困惑のあまり、次の言葉を発することが出来なかった。可奈子が続けて言った。
「私、思うんです。私は見知らぬ男に陵辱された女じゃなかった。私は最愛の男性と八年前に婚前交渉しただけだったと。いまどき、そんなの珍しくもないでしょ?」

 可奈子の言葉を聞いた凌一が震える声で問い返した。

「き、君は、本心からそう思えるのか?」

 可奈子が澱みない口調で答えた。
「私は、何もないところから三崎先生と言う宝物を得ました。三崎先生は私に『例え君が殺人犯でも僕の気持ちは変わらない』と仰って下さいました。私を廃人にしてでも手放したくない、そこまで愛して下さいました。それなら私は先生に言います『たとえ先生が、強姦魔であろうとロボトミー犯であろうと私の気持ちは変わりません』と。言い換えれば、これでやっと私と先生は同じ穴のムジナになれたんです」

「……」

 何も言葉を返せずに沈黙している凌一に可奈子が、
「明日野さん、今日はこれで失礼します。式には招待しますので、ぜひいらして下さいね」

 病院を出た凌一は、駐車場から病院の外壁を見上げた。
 建物の一部に鉄格子がはめ込まれた一画があった。恐らくあそこが可奈子のいる閉鎖病棟だ。
 凌一は思った。あの時、自分たちは間違いなく彼女がロボトミーを施術されるのを阻止した。彼女は無傷だった。でも、実際は、全身麻酔を受けた時点で、彼女は精神的にロボトミーを施されてしまったのではないかと……

 あの日、あの時、可奈子は三崎がロボトミー手術をすることを知っていて、自分を廃人にしようとしていることを知っていて、覚悟の上で全身麻酔を受けたんじゃないかと……
 三崎の手術は成功だったんじゃないかと……

 凌一はうつむきぎみに車に乗り、静かにドアを閉めた。
 凌一を乗せた車がゆっくりと動き出した。






参考文献

X51.ORG:前部前頭葉切截 ― ロボトミーは“悪魔の手術”か
 http://x51.org/x/05/08/1413.php
松本昭夫「精神病との二十年」(新潮文庫)
大熊一夫「ルポ・精神病棟」(朝日文庫)
飯田裕久「警視庁捜査一課刑事」(朝日新聞出版)
林郁夫「オウムと私」(文春文庫)

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みんなの感想(5件)

りこ
2025.08.15 りこ

殺人トリックものではない本格派ミステリーでした。

解除
翔p
2025.08.15 翔p

途中であちこち話題が飛ぶように感じるのに、結末でそれらがすべて意味を持ってつながる、すごいプロットです。
殺人のトリック以外にも、こんなどんでん返しがあるのですね・・・

解除
takaaki
2025.08.14 takaaki

ミステリー小説と言っても、ありきたりな殺人トリックの話じゃなくて、殺人の話はどこにも出てこない。でも、精神科医療の問題や恋愛についても考えさせられる作品。最後のどんでん返しはヤラレタ!と思いました(笑)

解除

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