黒き魔人のサルバシオン

鈴谷凌

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一章「王都動乱~紅蓮の正義~」

一章 第三十九話「イブリスとリーベの闘争」

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 ロベールが先ほど魔獣の脅威を取り払ったはずの中庭は、どうやら殺伐とした争いに愛されているらしい。

「うわぁっ、来るな、来ないでくれぇ!」

 その身に高貴な雰囲気を纏わせる青年が、何かに怯えているように走る。

 艶やかな金髪は無様に乱れ、白い豪奢な意匠が施された召し物にはあちこち泥が付着している。

 見ているものが哀れになるほどの慌てぶり、一切の余裕が感じられないその様子。

 しかし、彼がいま人よりも一回り大きく、不気味な魔素質で身体を覆われた魔人に追われているともなれば、その醜態も致し方ないのかもしれない。

「オオォォォォ!」

 魔人の咆哮が辺りに響き渡る。目の前を逃げる青年を威嚇するような激しさを伴うそれに、青年はまんまと嵌ってしまう。

「……っ、うあっ!?」

 精神を乱され、駆ける脚は躓き、青年の身体が頭から勢いよく地に叩きつけられた。

 辛うじて保たれていた両者の距離が、修復不可能なほど残酷に近づく。

「ひっ……」

 数歩進めば触れ合う距離。首元に刃を突きつけられたに等しい状況。

 青年は足を痛めたか、起き上がることすらできずに、上半身だけを必死に捩って後退ることしかできない。

「アァ……オォ……」

 黒く変色し肥大した魔人の身体が、徐々に青年へとにじり寄る。
 先ほどまでの俊敏さとはかけ離れたその緩やかな動きは、これから味わう獲物へ対する悦びを己に刻み込んでいるかにも見え、青年の心に果てしのない絶望を植え付けた。

「あぁ……レイモンド……ボクが分からないのか!? 何故、何故だぁ……! レイモンド、父上……!」

 恐怖で歯の根が合わない口で呟くほかない青年に、魔人の豪腕がにじり寄る。
 青年の息は詰まり、瞳はいっそう昏く。

 もはや叫びを上げることさえできない彼のその命が、理性あるリーベとしての在り方が、今まさに終焉を迎えようとしたその時だった。

「させぬぞおおぉぉ――!!」

 滅びをもたらす魔の手に、その空いた横腹を目がけて飛びかかる影が。

 大柄の体躯に、銀の甲冑、そしてそれら全てを覆いつくさんとするほどに巨大な長方盾を構えた男である。

 彼が繰り出した圧倒的な質量を伴う突進は、すんでのところで魔人の凶行を防ぎ、その樹木の如き巨体を吹き飛ばした。

「ご無事ですか、ルイス殿」

「え……あ、貴方は、オスマン騎士団長……?」

 離れた地点で倒れ伏す魔人に目を合わせたまま、王国騎士団長ロベールが呆然と尻もちをつく金髪の青年に笑う。

 本来、彼ほどの手練れであったとしても、魔人に接近するのは相応の危険性を孕むが、その甲斐あって間一髪の所で間に合ったようだった。

 命が零れるのを防いだ安堵と、この状況への疑念は、相も変わらすロベールの胸中に立ち込めてはいるが。

「当て身をしたところで魔人は倒せんな……ルイス殿、かなり憔悴なされているようですが、もう暫らくお待ち頂けると。即刻あれを滅ぼしてまいりますので」

 見れば地に伏していた魔人が体勢を整えつつあった。

 露骨な魔素質と醜悪な黒い身体を隠しもしないそれは、恐らく誕生して間もないのだろう。
 このまま有利を保って押し切れば楽に対処できる。

 そう結論づけたロベールは慎重に彼の者との距離を詰めようとしたが、後ろから伸びる腕にその歩みが止められる。

「……何をなさるのか」
「い、いや……これは、その。で、でも……ダメだ、行ってはダメなのだ。あれは、あの魔人は……ボクの……」

 目だけで後ろを見ると、地を捩ってきたのだろうルイスの細腕がロベールの脛を掴んでいた。

 今まさに戦闘に入ろうとしていたものを止めるなど中々に図太い行いだと思われるが、当のルイスの表情はそんな強気を一切感じさせなかった。

 困惑、逡巡、恐怖。

 腕にかかる力もまた、ロベールが力を込めればいとも容易く解けるほどに儚い。

「……ふう」

 しかし、ロベールはそれを強引に振り払おうとはしなかった。こんなにも切羽詰まった状況であるにもかかわらず。


 ここに辿り着くまでにロベールは聞いてしまっていたのだ。
 親しき者の名を呼ぶ青年の叫びを。

 見てしまっていたのだ。
 逃げる傍らに、うしろの魔人に縋るような視線を向けていた青年の姿を。

 当初はミクシリアの襲撃に、このマクダウェル邸を取り巻く異常に、ルイスを含むマクダウェルの人間が関与していると疑いを持っていた。
 彼が殺されたヌール伯と最後に出会っていたこと、記憶の術者のこと、騎士の移動の事にこの屋敷で目にした、大量の愛玩用リーベを購入した形跡。

 それらを考慮すれば、このルイスも十分に疑ってかからなければならないのだろう。
 この街の危機に立ち向かう者としても。
 原因も分からず、がむしゃらに外で戦っている協力者のためにも。

 だが一方で、ルイスのあの叫びは、視線は、真に迫っていた。

 もし彼が、彼らがこの事件に関与しているとして、こうして魔人に襲われることがあるだろうか。
 このように逃げまどい、情けなく地を這い、弱々しい腕を伸ばすなんてことがあるだろうか。

 少なくともルイス個人に関しては、疑う対象などではなく、この惨劇に見舞われた被害者の一人であると、ロベールの長年の経験で培われた直感が告げていた。

 ゆえに、この手を強引に除くことはせず、ロベールは誠実な言葉で以て返す。

「どうか、私の罪深き行いをお許しください、ルイス殿。あれはもう貴方様が慣れ親しんでいた者ではございません。元はどうあれ、ああなってしまえば……もはや戦うしか道はない」

「う、嘘だ……そんなこと、認めない……認められるか……!」

「心中お察しします。突然のことで気が触れてしまいそうなのは、私とて変わりません。が、しかし……平穏に酔う時代はもはや過ぎ去ってしまった。いえ、そんなものは始めからなかったのでしょう。イブリスとリーベの闘争……この悍ましき関係こそ、紛れもなく我々の生きる世界だったのです」

 諭すロベールをよそに、ようやく体勢を直した魔人が、魔素質で塗りつぶされた眼を向けてくる。不気味な咆哮を上げる。魔素が巡る身体を前へと進める。

 もう時間は残されていない。

 それに魔物は生まれて間もない頃が、最も力が弱いとされる。
 特に人間をオリジナルとした魔人は、時間が経つにつれてより高度な知性や魔素感覚を獲得していく。

 魔人が魔人として成長していくのをこのまま放置するのは、ルイスの精神を鑑みても、それを討たなければならないロベールの立場から見ても好ましくない。

「……このように悲しき状況が、現在ミクシリアの各地でも起きています。沢山の民が怯え、慟哭し、そして殺され、汚染されてきました。私は愚かではありますが、この身は国王陛下と王国議会により命を賜った王国騎士団長でもあります。ですからこの危機を食い止めなければなりません。未来を守らなければなりません……ですから、どうか……!」

「……っ!」


 対する魔人が再びその腕を伸ばしてきたのと、ルイスがロベールから手を離したのはほぼ同時の事。

 先制を仕掛けたことによる有利は先の問答で消し飛んでしまったが、ロベールがそれを後悔することはなかった。

 ルイスに向けた自身の言葉は、むしろこの上ない活力をもたらしたようにさえ思う。

 迫りくる魔人の巨体を、極限まで研ぎ澄ましたロベールの意識が捉える。

 まるで時の流れが引き延ばされたような感覚の中、冷静に火の強化魔法を片足に付与する。

「はぁっ!」

 低く、鋭く、片足を振るう。
 強化された足蹴りが距離を詰める魔人の軸足を芯から捉えた。

「アァア……」

 支えを失い、魔人の上体が後ろに倒れたのを、決してロベールは見逃さない。
 すぐさま長方盾の裏面に仕込んでいた短刀を手に、再び火の魔素を操る。

「――済まない」


 エンハンスを付与した刃をよろめく魔人のコアへと振り下ろす刹那、ロベールの呟きが風に舞う。

 しかし、所詮それはたかが呟きであった。

 直にそれは刃が振るわれる風切り音に、コアが砕け散る音に、喘ぐ魔人の悲鳴に掻き消され、誰の耳にも届くことはなかった。

「グォ……アァァ……!」

 短剣が魔素質の結晶であるコアを砕く。
 引っ掻くように刃を下に動かすと、コアに入った亀裂が徐々に大きく開き、魔人は不快に啼いた。

 その絶叫に眉を歪めながらも、ロベールは徹底的に短剣を突き刺す。
 徹底的に、回復の余地を残さぬように。

 やがて魔人の身体が、重力に従い落ちて行く。

 空に浮かぶその身体はついに原形を保つことができなくなり、頭部が、四肢が、そしてコアのあった胸部までもが、光り輝く魔素の塵へと変換されていった――。

「ウゥ……アァ……オ、ャアン……」

「え――?」

「オッ……チャ、アン……ルイ、ス……ボ……ッチャ、ン……」

「レイ、モンド……?」

 幻のように消える魔人から漏れたその声は、理性を失ったイブリスのものとは思えない響きで。後ろで地に座っていたルイスは、未だまともに動かない下半身を引きずり、誘われるように散りゆくその身体へと腕を伸ばした。

 彼の指先に、黄金色に輝く一粒の魔素が触れる。

 腕を伸ばしたのは、その消失を留めたいと願ったからかもしれないが。

 魔人の身体から離れ、寄る辺を失った魔素は、結局のところ束の間の煌めきを残すだけであった。

「……あ……くっ……」

 ルイスはもはや何も残っていない己の手を眺め、乾いた声を漏らした。肩を震わせ、腕を地面へと叩きつける様は、無力感や悲壮をありありと示していて。

 傍らに立つロベールは、そんな青年の喪失を忸怩たる思いで見守ることしかできなかった。

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