黒き魔人のサルバシオン

鈴谷凌

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三章「フェスタ・デル・ヴェント~癒えぬ凍傷~」

挿話①~ロレッタ~「罪人の告解と贖罪のための力」

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 皮膚周辺に生じる冷感。ひたすらに肌を刺すそれは、私に身じろぎ一つすることを許さなかった。
 身体が動かせないのなら寒さは一向に和らがない。眼を開けてしまえば僅かに残った熱すらたちまち逃げてしまいそうで、私はしばらくのあいだ暗闇を友に過ごしていた。
 一方で、この漆黒と極寒は、私に課せられた罰なのだと思っている。
 姉さまを救えなかった。マリグノの企みを砕けなかった。死霊の怨嗟に心を委ねて、無惨な方法で魔物を屠った。
 私を心配するジェナをたびたび軽視した。過去に邂逅したことを覚えていなかったグレンに強く当たった。魔人であるエルキュールを心無い言葉と魔法で大きく傷つけた。そしてこの手で、罪もなきヒトの命を奪ってしまった。
 この身に刻まれた罪は数えきれず、贖いきれない。シスターの職務も真面目にやってこなかった私には、精霊もきっと愛想を尽かしていることだろう。
 愚か者に相応しい、当然の末路だと言える。だから、私はこのままでいい。――だから?
 それは欺瞞だ。私は精霊に身を捧げた殉職者のように強い人間ではないのだ。惰弱で、脆弱で、薄弱な心を持て余す、我が身を可愛がるだけの小心者。
 瞳を閉じているのは、熱が欲しかったから。眼前の絶望から目を背けたかった。
 ……ごめんなさい、ジェラールさん。六霊守護であるその尊い身を、愚かな私如きの弱きために壊してしまって。いまの私はとうてい私と呼べるものとは言い難いけれど、人命を踏みにじったという唾棄すべき事実は決して雪ぐことは叶わない。
 ……ごめんなさい、グレン。痛いでしょう? 寒いでしょう? マリグノから貰った力がこの瞬間は一際虚しい。
 私が何の才覚もない弱い少女のままであったら、姉さまと一緒だったあのときの無垢な子供のままであったら、今頃容易く殺されてあげていたのに。貴方に辛い役目を押し付けないですんだのに。
 ……ごめんなさい、エルキュール。貴方を疎んだのは、貴方が魔人であったからではないの。本当は、その境遇が私と重なって痛ましいとさえ思っていた。
 純粋な魔素を注入された私の身体は、リーベにもイブリスにも属さない。どちらもの特徴を有し、どちらもの弱点を併せ持つ。その不安定さが、私の意思と心を醜く、そして浅ましく歪ませた。
 嫌だった。貴方も私と同じなら、私と同じ場所に堕ちているべきだと思っていた。それなのに貴方は、いじらしくも周囲に溶け込みヒトと和を成そうとする。
 似たような身を持ちながら、こうも性格が異なるものかと。要するに、的外れな嫉妬だった。
 最期くらい、素直に話してみたかった。……だけれど、ジェナのことを思うと心が痛くて堪らない。
 彼女は母親と父親を物理的にも精神的にも失ったばかりなのに。またしても慕う者を亡くしてしまうのか。
 どうすれば。どうすればこの罪に釣り合う罰が下される? ここで全てから目を逸らして寒さに耐えることが本当にそうなの?
 分からない。分からない。分からない。

『……ねえ』

 分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。

『ねえったら』

 分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。

『ちょっと! あたしを無視するなあああっ!』

 ……うるさい。抗議の一つでも、と思ったが。声が出せなかった。しわがれたというよりも、音を出すための声帯器官が今の私に備わっていないようにさえ感じる。そして視界も。私は目を閉じているのではなく、世界にはもとから黒しかなかったのだ。私に残されたのは虚ろな人形の様な身体と、気を殺ぐ冷感のみ。
 その事実もそこそこ驚愕を誘ったが、目下のところ驚くべきはこの姦しい声の方だろう。

『ふん。今のあんたの本体は、魔人の魔法にやられて聖域内であの頭ツンツン男と戦っているじゃない。ここにいるあんたはただの精神体。今感じている冷感も錯覚よ。まあ、あたしたち精霊に近しい存在と言えるわね!』

 精霊? 声質からして我儘な少女にしか聞こえないが。
 しかしその方から感じられる微かな水の波動は、むかし教会で読んだ聖典に描かれた彼の御霊を想起させた。
 水精霊トゥルリム。海の母。冬の化身。万物の祖たる水を司る者。古代の六大精霊と謳われる、ヴェルトモンドで最も尊き一柱である。六霊教ではトゥルリムに祈ることで水の如き柔軟さを得られるようになり、寛容なる精神が育まれるのだという。

『あら、よく知ってるじゃない。感心、感心♪ でも流石はあたしといったところかしら! 他の五柱に比べてもこんなにも愛くるしいのだから、民からの信心も一入というものよね!』

 ……ちなみに大陸有数の名著『ヴェルトモンド創世記』では、トゥルリムは光精霊ルシエルと同じく聡明な女性として描かれているのだけれど。ジェナから聞くルシエルの性格に比べて、これではあまりに幼稚極まりない。
 私はいま軽蔑すべき己の罪に目を向けているというのに。随分と好き勝手に邪魔をしてくれるものだと反感を禁じ得なかった。

『ちょっと、聞こえてるわよ!? 今のあんたの考えはあたしに筒抜けなんだから! 言葉遣いならぬ思考遣いには気を付けなさいっ!』

 ひたすら億劫。しかし、私はこれでもミクシリア教会に籍を置くシスターの端くれ。普段は教会の先輩連中から持つように指摘されている敬虔さを、たまには発揮しておくのも悪くない。とりあえず、この自称トゥルリム様のお言葉には歯向かわないでおこう。
 それに、今は他人に噛みつく余裕もなかった。無にして全の精神世界はあまりに茫漠で、私の意識を薄く薄く霞ませるのである。

『……あんた、辛そうね。大きすぎる罪に押しつぶされて、まともに考えることもできないといった所かしら? でも万物は常に流転するものよ、いまこの瞬間も事態はより深刻な方へと向かっているんだから』

 そんなことは自分自身のことなのだからとうに分かっている。
 分かってはいるが、マリグノによって植え付けられた私の中の魔は、もう私一人の力だけでは抑えきれない領域にあった。
 このままではグレンを殺め、街を守るジェナたちの元にも駆け付けず、エルキュールの純真も報われないまま。
 知っている。全て知っている。
 それでも、私にはここで凍えるほかない。かつて世を導いた尊き偉大な精霊様には、きっと理解できないだろう。

『はあ。全くしょうがない子。せっかくあの魔人がブリューナクを持ち出した隙に、わざわざあんたに憑いてやったのに。本人がやる気ないならどうしようもないじゃない! ずーっといじいじいじいじ閉じこもっていたいの? あんたの贖罪の意思はその程度のものだったの!?』

 本当に、うるさいな。
 こんな惨めな私に今更なにが出来るって言うんだ。一人で何も為せなかったから、姉さまを救えずマリグノに敗北したからこその末路なのだ。
 戦う力を鍛えても、魔素感覚を研ぎ澄ませても、私だけでは然したる価値も生み出せない。塵芥のような存在。どこまでいっても取るに足らない。果てしなく惨め。
 惨め。惨めだ。惨めだ。
 ――でも。本当は。
 ああ、やっぱり厭だ。
 罪を清算することなく終わるのは厭だ。このまま救われないなんて厭だ。私だって、本当は幸せになりたい。ジェナのように尊い使命感を胸に抱いて生きていたい。グレンのように実直な正義を重んじて歩みたい。エルキュールのように自らの価値を塗り替える生き方を肯定したい。こんな私を認めてくれる人の助けになりたい。私を大切にしてくれる人たちに報いたい。彼らの幸せを祝福し、支えられる存在になりたい!
 そのために力を! 惨めだった私の世界を変えるための、幸福を紡ぐための力が欲しい。私にもう一度だけ機会があれば! 絶対に遂げてみせるというのに! 誰にも、自分の弱き心にすら負けないと今ならば誓えるのに! 悔しい。悔しい! 私は心から悔いている! それは決して甘えからじゃない、自らの内に宿る闘争への熱がそうさせるんだ! 私をどうしようもなく駆り立てているんだ!
 だから――!

『……言えたじゃない。ずっと氷に閉ざしていた本心、この水精霊トゥルリムがしかと聞き届けたわ!』

 弾むような彼女の声が暗闇に木霊したその瞬間。
 私の景色は暗黒に別れを告げ、眩い光と共に一変した――。
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