婚約破棄されたので黙って退いたら、王太子が勝手に崩れました ― 私は王弟公爵の隣で幸せになります ―

こもど

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1話 卒業夜会の婚約破棄

1話 卒業夜会の婚約破棄

 王立貴族学院の卒業記念夜会は、華やかな光に満ちていた。

 天井から吊るされた大きなシャンデリアは、磨き上げられた床へいくつもの光を落とし、色とりどりのドレスや正装をきらびやかに照らしている。春の終わりの夜にしては少し冷えるはずなのに、この広間だけは人の熱気でほんのり温かかった。

 貴族の子女にとって、この夜は特別だ。

 学び舎を出る節目であり、社交界へ正式に踏み出す場でもある。誰と踊ったか、誰と親しげに言葉を交わしたか、どの家がどの家と近いのか。そんなことすら、明日には王都じゅうの噂になる。

 だからこそ、ヴィオレーヌ・グランシェールは一つひとつの視線を意識していた。

 深い紫紺のドレスを纏い、背筋を伸ばして立つ彼女は、誰の目にも完璧な公爵令嬢だった。亡き王妃に見込まれ、将来の王太子妃として長く教育を受けてきた令嬢。優雅で、美しく、隙がない。

 だが、今夜の彼女は少しだけ違った。

 胸の奥に、静かな確信があったからだ。

 ――今夜、終わるのだわ。

 最近のヴァレリオ王太子の態度を思えば、十分にあり得る。

 それまで当然のようにあった面会は減った。届く手紙は短くなり、内容は曖昧になった。話しかけてもどこか上の空で、以前なら相談してきたようなことも、今はなにも言わない。

 その代わりに、彼の隣にはいつもフェリシアがいた。

 ヴィオレーヌの異母妹であり、父が後妻とともにこの家へ迎えた少女。ふわりとした栗色の髪に、潤みやすい大きな瞳。可憐で、儚げで、男が守ってやりたくなるような顔をしている。

 そして、自分が欲しいものを手に入れるためなら、どこまでも愛らしく振る舞える娘でもあった。

「ヴィオレーヌ様」

 背後から声がかかる。

 侍女のクララだった。

「少しお飲み物をお持ちしましょうか」

「ありがとう。でも、今はいいわ」

「かしこまりました」

 クララは一礼しながら、ほんのわずかに眉を寄せた。

 おそらく彼女も察しているのだろう。今夜、穏やかには終わらないと。

 そのときだった。

 ざわり、と広間の空気が動いた。

 人々の視線が一斉に一方向へ集まる。

 ヴィオレーヌもまた、そちらを見た。

 やはり。

 ヴァレリオ王太子が歩いてくる。

 その隣に、フェリシアを伴って。

 しかも、ただ並んでいるのではない。まるで最初からそうあるべきだったかのように、親しげな距離で。

 楽団の音が少し遠くなった気がした。

 広間のあちこちで、会話が途切れていく。

 人は皆、見世物が好きだ。ましてそれが王太子と公爵令嬢、それに異母妹まで絡む話となれば、なおさらだった。

 ヴァレリオはヴィオレーヌの前まで来ると、いかにも決意を固めた顔で立ち止まった。

「ヴィオレーヌ・グランシェール」

 名を呼ばれ、ヴィオレーヌは優雅に一礼した。

「お呼びでしょうか、ヴァレリオ殿下」

「そうだ」

 彼は周囲にも聞こえるよう、必要以上に大きな声を出した。

「今日は皆の前で、はっきり告げておかねばならないことがある」

 広間がしんと静まる。

 フェリシアは隣で不安そうに身を寄せていたが、その唇の端には見逃せないほど小さな笑みが浮かんでいた。

「私は、君との婚約を破棄する」

 はっきりと、そう告げられた。

 予想していた言葉だった。

 それでも胸の奥が、かすかに痛む。

 長い年月をかけて積み上げてきたものを、たった一言で断ち切られるのだ。なんとも思わないわけがない。

 だがヴィオレーヌは顔色一つ変えなかった。

 それが癪に障ったのか、ヴァレリオはさらに声を張る。

「私は真実の愛を見つけた。私が愛しているのはフェリシアだ。彼女こそ、私の隣に立つにふさわしい」

 どよめきが広がる。

 フェリシアはおずおずと前へ出た。

「お姉様……申し訳ありません」

 言葉だけはしおらしい。

 だがその目は、勝者のそれだった。

 ヴィオレーヌは静かに妹を見つめ返す。

 昔からそうだった。

 髪飾りでも、舞踏会の席順でも、贈り物でも、フェリシアは欲しいと思ったものを欲しいと口にし、泣き、周囲に庇わせ、最後には自分のものにしてきた。

 ただ今回は、少々大きなものに手を伸ばしたというだけだ。

「殿下」

 ヴィオレーヌは穏やかに問いかけた。

「理由を伺ってもよろしいでしょうか」

「理由だと?」

 ヴァレリオは鼻で笑った。

「君は冷たすぎるのだ。いつも正しいことばかり言い、私の気持ちに寄り添おうとしない」

 周囲の何人かが微妙な顔をした。

 それも当然だろう。

 王太子が無茶な予定を組めば、調整していたのは誰か。軽率な発言で諸侯を怒らせれば、頭を下げて回っていたのは誰か。贅沢な催しで予算を超えれば、その穴を埋める算段をしていたのは誰か。

 ヴィオレーヌである。

 だが当の本人は、そうした支えを支えとすら認識していなかったらしい。

「フェリシアは違う」

 ヴァレリオは愛おしげに妹を見た。

「優しく、思いやりがあり、傷ついた人の心がわかる」

 フェリシアは、今にも涙を零しそうな顔を作る。

「お姉様は立派な方です……でも、わたくし、いつも怖くて……」

 それを聞いて、ヴィオレーヌはほんの少しだけ目を細めた。

 怖かった、か。

 夜会で王族より派手な色を着てはならないことを注意した時も。招待もないのに上位貴族の輪へ割り込もうとした時も。使用人に勝手な命令をして叱られた時も。

 あれがすべて虐げだったとでもいうのだろうか。

 便利な言葉だ、とヴィオレーヌは思った。

「さらに!」

 ヴァレリオは勝ち誇ったように続けた。

「フェリシアは君からずっと不当な扱いを受けてきた。私は、彼女を守る」

 その言葉に、周囲のざわめきが少し質を変えた。

 同情ではない。

 戸惑いだ。

 フェリシアの粗相をヴィオレーヌが何度も庇っていたのを知る者は少なくない。今の言葉に、素直に頷ける者ばかりではなかった。

 だがヴァレリオは、誰の視線にも気づいていないようだった。

「さあ、ヴィオレーヌ。なにか言うことはないのか」

 詰問するような口調だった。

 泣いて縋りつくと思っているのだろうか。取り乱して見苦しく言い訳でもすると期待しているのだろうか。

 ヴィオレーヌは、ゆっくりと息を吸った。

「承知いたしました」

 その一言に、ヴァレリオの顔が固まる。

「……なんだと?」

「婚約破棄、承りました」

 ヴィオレーヌは穏やかに微笑んだ。

「殿下がそれをお望みなら、わたくしに異存はございません」

 あまりに静かな返答だったため、その場にいた誰もが一瞬言葉を失った。

 フェリシアでさえ、目を見開いている。

 おそらくは、もっと劇的な反応を期待していたのだろう。泣くとか、怒るとか、妹を責めるとか。そういうものが欲しかったに違いない。

 だがヴィオレーヌは、ただ静かに立っていた。

「ただし」

 その一言で、再び空気が張りつめる。

「婚約が解消される以上、婚約を前提として我がグランシェール公爵家が担ってきた支援も、すべて見直しとなります」

 ヴァレリオが眉をひそめた。

「……支援?」

「はい」

 ヴィオレーヌは丁寧に頷く。

「王太子宮の運営費補助、宝飾や衣装の優先手配、各家との仲介、寄付先の調整、地方視察の受け入れ準備、夜会運営に関する根回しなどです。わたくしが婚約者として引き受けていた分も含め、すべて終了いたします」

 ぴたりと、広間のざわめきが止んだ。

 理解できた者から順に顔色が変わっていく。

 それは単なる気まぐれな贈り物ではない。王太子の体面を保ち、王家の社交を円滑に回し、余計な摩擦を防ぐための仕組みそのものだった。

「そんなもの!」

 ヴァレリオが声を荒げる。

「婚約がなくなったからといって止めるなど、あまりにも狭量ではないか!」

「そうでしょうか」

 ヴィオレーヌは首を傾げた。

「わたくしがそれらを引き受けていたのは、将来王太子妃となる予定だったからです。婚約がなくなった以上、前提が消えます」

「だが王家のためのことだろう!」

「違います」

 その声音は静かだった。

 だが、驚くほどよく通った。

「王家のためである前に、まず婚約関係に基づく公爵家からの便宜です。殿下は婚約だけを破棄し、都合のよい部分だけ残るとお考えでしたの?」

 何人かの貴族が、思わず顔を伏せた。

 笑いをこらえたのか、呆れたのかは分からない。

 ただ一つ確かなのは、場の流れが変わったことだ。

 ヴァレリオの頬が赤くなる。

「私を脅すつもりか!」

「まさか」

 ヴィオレーヌは微笑みを崩さない。

「整理の話をしているだけです」

 フェリシアが慌てて口を挟んだ。

「お姉様、そんな……! 殿下はこの国の未来を担う方なのですよ?」

「ええ。ですからなおさら、ご自分がなにに支えられてきたのか、ご理解なさるべきでしたわね」

 フェリシアの顔がこわばった。

 そのときだった。

「実にもっともだ」

 低く落ち着いた声が広間の入口から響く。

 人々が一斉に振り返る。

 そこに立っていたのは、王弟ディートハルト・ヴァルセイン公爵だった。

 王の弟であり、軍務と対外交渉を担う実力者。冷徹だと恐れられながら、その手腕で貴族たちから一目置かれる男である。

 ヴァレリオは明らかに動揺した。

「叔父上……」

「見事なものだな」

 ディートハルトはゆっくりと歩み寄る。

「婚約は捨てる。だが、その婚約で得ていた利はそのまま寄越せ。なかなか聞ける理屈ではない」

 空気が凍った。

 いや、正確にはヴァレリオとフェリシアだけが凍りつき、周囲は完全に流れを読んだのだ。

 この場で恥をかいたのは、どちらなのか。

「叔父上、これは私とヴィオレーヌの問題です」

「違うな」

 ディートハルトは一刀両断した。

「公の夜会で、王太子が婚約破棄を宣言した時点で王家の問題だ」

 ヴァレリオは言い返せない。

 フェリシアは青ざめて彼の袖を掴んでいたが、もはや可憐さより縋りつく必死さのほうが目立っていた。

 ディートハルトはヴィオレーヌへ視線を向ける。

「ヴィオレーヌ嬢」

「はい、ヴァルセイン公爵閣下」

「今夜の件、さぞ不本意だっただろう」

「……そうですね」

 ヴィオレーヌは一瞬だけ、ほんの一瞬だけ瞳を伏せた。

「ですが、もう決まったことですので」

 その返答に、ディートハルトの眼差しがわずかに和らぐ。

「そうか」

 それだけだった。

 だがその短い言葉の中に、軽い同情ではない確かな敬意があった。

 ヴィオレーヌは一礼する。

「では、わたくしはこれで失礼いたします」

「待て!」

 ヴァレリオが思わず叫ぶ。

 ヴィオレーヌは振り返った。

「まだなにか」

「お前は……これで終わりだと思うなよ」

 なんとも情けない捨て台詞だった。

 ヴィオレーヌは少しだけ微笑みを深くする。

「ええ」

 そして静かに答えた。

「わたくしも、これで終わりだとは思っておりません」

 それだけ残し、彼女は背を向けた。

 人の波が、自然と左右へ割れる。

 そこを歩いていくヴィオレーヌの背中は、婚約を破棄された哀れな令嬢には見えなかった。むしろ、これから何かが始まることを誰よりよく知っている者の背中だった。

 広間を出て、夜気の漂う廊下へ出たところで、クララがすぐ傍へ寄ってきた。

「お嬢様」

「平気よ」

「……本当に?」

「少しだけ、腹が立っているわ」

 そう言うと、クララはかえって安心したように息をついた。

「でしたら大丈夫ですね」

「どういう意味かしら」

「お嬢様が本当に恐ろしい時は、もっと静かですもの」

 ヴィオレーヌは思わず小さく笑った。

 まったく、よく分かっている。

「クララ」

「はい」

「今夜のうちに父へ報告を。それから、わたくし名義で動いていた王太子宮関連の案件をすべて洗い出して」

「承知いたしました」

「明日から忙しくなるわ」

「ええ、とても」

 ヴィオレーヌは窓の外へ目を向けた。

 夜空は静かだった。

 けれど明日になれば、王都は騒がしくなるだろう。

 婚約破棄の噂で。

 だが、それだけでは終わらない。

 ヴァレリオはまだ分かっていない。

 自分が捨てたのが、婚約者ひとりではないことを。

 フェリシアもまだ分かっていない。

 奪ったつもりでいるその場所が、ただ座れば務まるような椅子ではないことを。

 ヴィオレーヌはゆっくりと息を吐いた。

 悲しくないわけではない。

 悔しくないわけでもない。

 それでも。

 もう泣いて縋るつもりはなかった。

「帰りましょう」

「はい、お嬢様」

 その声は穏やかだった。

 けれどその夜、王都で最初に動き出したのは、誰よりも静かなその一歩だった。
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