婚約破棄ですか?構いませんわ。ですがその契約、すべて我が家のものです

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第32話 王太子の公開断罪

第32話 王太子の公開断罪

王宮大広間には、朝から異様な緊張が満ちていた。

高い天井から吊るされた無数の燭台が、昼間でありながら冷たく白い光を落としている。磨き上げられた大理石の床には、中央に一本の赤い絨毯が敷かれ、その先に玉座が据えられていた。普段なら祝宴や舞踏会に使われる華やかな場所だが、この日の空気は重く沈み、そこに集められた貴族たちの表情にも浮かんでいるのは好奇心より緊張だった。

すでに王都では噂が広がりきっていた。

港が止まった。
銀行が引いた。
市場が荒れた。
王家の信用が揺らいだ。

そして、その原因が王太子ディオン・ラグナルトの婚約破棄にあるということまで、もはや隠しきれなくなっていた。

広間の左右には重臣と有力貴族が並び、その後方には招集された商人組合の代表や王国銀行関係者の姿もある。いつもの貴族だけの評議会ではない。これはもう、王家の内輪の揉め事では済まされないということだった。

やがて、国王が姿を現した。

玉座の前に立ったその姿には、疲労の色があった。だが、それ以上に、抑え込まれた怒りがあった。

その少し下がった位置に、ディオンが立たされている。

もはやいつもの自信に満ちた顔ではない。顔色は悪く、唇は乾き、視線は落ち着かない。それでもなお、最後の最後まで自分は王太子だという意地だけで立っているように見えた。

その斜め後ろには、騎士に囲まれたヴェルナー、マルセル、ヴァネッサの姿があった。

ヴェルナーは顔を強張らせ、何度も喉を鳴らしている。
マルセルは扇を持つ手が震え、落ち着きなく周囲を見回していた。
ヴァネッサは目を腫らし、しかしまだどこかで「殿下が守ってくださる」と信じているような顔をしていた。

その時点で、すでに勝負はついているというのに。

広間の扉が改めて開かれ、カリスタ・ヴァレリオンが入ってきた。

場の空気が、目に見えて変わる。

彼女は深い青のドレスに身を包み、飾りは最小限でありながら、その場の誰よりも揺るぎない気配をまとっていた。後ろには執事グレイが控えている。王宮に呼び出された被告のような姿ではなく、むしろこの場で交わされるすべてを確認するために来た当事者そのものだった。

ディオンの目が、一瞬だけ彼女に向く。

昨夜、公爵邸で会った時と同じく、カリスタの顔には怒りも涙もなかった。それがディオンには何よりこたえた。怒られる方が楽だっただろう。責められる方が、まだ言い訳の余地がある。だが彼女はすでに、個人的な感情の段階をとうに終えている。

国王が短く告げた。

「始めよ」

財務卿ラドフォードが進み出る。

その手には、分厚い書類束がある。王国銀行、港湾管理会社、商人組合、監査局、地方地銀。各所から集められた報告をまとめたものだ。

「これより、王家とヴァレリオン公爵家の契約終了に伴う王国混乱の原因、およびヴェルナー一族による公爵家資産流用について、正式に報告いたします」

広間が静まり返る。

ラドフォードは一枚目の文書を開いた。

「王国銀行における王家向け信用保証のうち、三割強はヴァレリオン家の出資および裏付けによるものでした。加えて、王都港の荷役、保管、優先通行証の発行、保険組合の大型貨物引受には、同家の資本および契約が深く組み込まれております」

彼は顔を上げる。

「殿下が婚約破棄を宣言したことにより、これらの契約はすべて正規の手続きに従って終了しました。その結果、港湾、物流、金融、保険が同時に硬直し、王都全体の流通が急速に悪化しました」

ざわ、と広間が揺れた。

聞いていた話ではある。だがこうして公の場で、公式な言葉として読み上げられると重みが違う。

ラドフォードは続ける。

「さらに、ヴェルナー殿による公爵家資産の不正流用、王国銀行への虚偽申請、マルセル殿による帳簿改ざん補助、ヴァネッサ嬢による公爵家資金を原資とした贈答、風説流布工作も確認されております」

ヴァネッサが顔を上げた。

「風説流布工作……?」

ラドフォードは冷たく言った。

「可哀想な義妹という評判を流させるため、下級貴族令嬢、侍女、仕立て屋、宝石商などに金品を配っておりました。証言も取れております」

広間のあちこちで、露骨な軽蔑の視線がヴァネッサへ向く。

彼女は何度も首を振った。

「そ、そんな……わたくしはただ……!」

「ただ何だ」

国王の低い声が落ちる。

ヴァネッサはそこで初めて、顔色を失って黙った。

だが、そこで引き下がらなかったのがディオンだった。

彼は一歩前に出ると、広間を見回して言った。

「待ってください」

その声にはまだ王太子としての響きが残っていた。いや、残そうとしていた。

「確かに、ヴェルナーたちに不正があったのかもしれません。だが、それと王都の混乱をすべて私の責任にするのはおかしい」

広間の空気が変わる。

また始まった、と皆が思ったのだろう。

ディオンはさらに続けた。

「ヴァレリオン家がここまで極端に契約を引き上げたこと自体が異常です。国家を支える立場なら、感情でこんなことをしていいはずがない」

その言葉に、カリスタはようやく視線を上げた。

だが何も言わない。

先に口を開いたのはラドフォードだった。

「殿下、契約は感情で終了したのではありません。契約条項に基づく、完全に合法な終了です」

「だが時期が――」

「時期を決めたのは殿下です」

その一言が、広間に突き刺さった。

ディオンの顔が強張る。

ラドフォードは退かない。

「王太子の婚約は個人の気分で結んだり切ったりするものではございません。王家とヴァレリオン家を結ぶ国家契約の根幹です。その破棄を、人前で、証拠も確かめず、激情で二度も行ったのは殿下ご自身です」

後方の貴族たちが、あえて隠そうともせず目を伏せた。

もはや誰もディオンを庇えない。

それでもディオンは認めなかった。

「私は騙されたんだ!」

ついに彼は声を荒げた。

「ヴァネッサは怯えていた! カリスタは冷たかった! 誰が見てもヴァネッサの方が――」

「殿下」

国王の声がそれを遮った。

低く、よく響く声だった。

ディオンは言葉を止める。

国王はゆっくりと玉座から立ち上がった。

その動作だけで、広間は完全に静まり返る。

「お前はまだ、自分が何をしたのかをわかっていないようだな」

ディオンの喉が動いた。

「父上、私は……」

「黙れ」

その一喝は、広間の隅々まで響いた。

国王の目は、もはや父のものではなかった。王の目だった。

「お前は王太子として、国家契約を私情で破棄した」

「証拠も確認せず、風聞と涙に流され、王家の信用を切り売りした」

「さらに今この場に至ってなお、自らの責任を認めず、他人に押しつけている」

一言ごとに、ディオンの顔が蒼白になっていく。

国王は広間全体に聞こえるよう、はっきりと宣言した。

「ディオン・ラグナルト」

誰も息をしない。

「本日をもって、お前の王位継承権を剥奪する」

その瞬間、大広間はどよめきに包まれた。

だが国王は止まらなかった。

「加えて、お前を北方辺境の旧砦へ永久謹慎とする。以後、王都への立ち入り、政務への関与、軍権への接触を禁ずる」

ディオンは目を見開いた。

「……は?」

理解が追いつかなかったのだろう。

そして次の瞬間、顔を真っ赤にして叫んだ。

「ふざけるな!!」

その絶叫は、王族の威厳など欠片もなかった。

「私は王太子だ! こんな裁きが認められるものか! たかが婚約一つで――!」

彼は半歩、国王の方へ踏み出した。

騎士たちが一斉に動く。

「近づくな!」

だがディオンは止まらない。

「取り消せ! 父上、今すぐ取り消せ! こんなのは陰謀だ! カリスタの、ヴァレリオンの――」

そこで彼は、カリスタを見た。

そしてまるで溺れる者のように叫んだ。

「お前だ! お前が仕組んだんだろう! こんなもの、止めろ! 今すぐ契約を戻せ!」

その声には怒りだけではなく、明らかな恐怖が混じっていた。

ようやく、自分が本当に失ったものの大きさを理解したのだ。

しかしカリスタは、一歩も動かなかった。

「契約は終わりました」

ただそれだけを、静かに告げた。

その一言が、最後の扉を閉めた。

ディオンは完全に取り乱した。

「黙れ!! お前に言っているんじゃない、戻せと言っているんだ! 私は王太子だぞ!」

「元、でございます」

グレイが静かに補足する。

その瞬間、ディオンの顔が怒りで歪みきった。

「貴様……!」

彼はグレイに向かって突進しようとした。

だが、そこまでだった。

左右から飛び出した近衛騎士が両腕を取り、床へ押し倒す。ディオンは激しく暴れた。片膝をつかせられてもなお立ち上がろうとし、肩を押さえつけられても身体をよじり、床を蹴って叫び続けた。

「離せ! 触るな! 私は王太子だ!」

騎士の一人が低く命じる。

「押さえろ!」

さらに二人が加わる。

ディオンはなおも暴れた。衣服が乱れ、髪が崩れ、喉が裂けそうな声で喚く。

「父上!! 父上、命令しろ! こいつらを止めろ!」

だが国王は、ただ冷たく見下ろしているだけだった。

その視線に気づいた瞬間、ディオンの顔に浮かんだのは怒りではなく、ようやくの絶望だった。

しかしそれでも彼は止まらなかった。

「ヴァネッサ! お前、何とか言え!」

名を呼ばれたヴァネッサは震え上がり、一歩後ろに下がった。彼女自身も、もはや自分が助かる側ではないと理解していたのだろう。

国王が言う。

「連行しろ」

その一言で、騎士たちは容赦を捨てた。

両腕を後ろにねじ上げられ、ディオンは半ば引きずられるようにして立たされた。だが足を踏ん張って抵抗する。踵が大理石の床を激しく擦り、甲高い音が広間に響いた。

「やめろ! 離せと言っているだろうが!」

誰も答えない。

彼はなおも叫んだ。

「カリスタ!! お前なら止められるだろう! 助けろ! 聞いているのか!」

カリスタは静かに彼を見ていた。

その目に憐れみがあったかどうかは、ディオンには最後までわからなかっただろう。

騎士たちはそのまま、彼を扉の方へ引きずっていく。

ディオンは最後まで見苦しく抵抗した。床に重心を落として進まぬよう踏ん張り、肩を振り、足を蹴り上げ、それでも押し負けると今度は喚き散らした。

「これは無効だ! 私は認めない! 王家の裁きじゃない、ただの私怨だ! 父上! 父上ぇ!!」

その声は、大広間の重い扉が閉まるまで響き続けた。

扉が閉じられたあとも、しばらくの間、外からかすかに怒鳴り声が聞こえていた。

誰も口を開かなかった。

広間に残ったのは、あまりにも無様な断罪の残響だった。

そして国王は視線をヴェルナーたちへ向けた。

それだけで、三人の顔色が土気色に変わる。

「ヴェルナー、マルセル、ヴァネッサ」

国王の声は低く、容赦がなかった。

「お前たちは公爵家資産の不正流用、虚偽申請、風説工作により王家を欺き、王国経済を混乱に陥れた」

ヴェルナーが膝をつきかけながら叫ぶ。

「お、お待ちください陛下! 私は、私は王家のためにも――」

「自分のためだ」

国王は切り捨てた。

マルセルが泣き崩れる。

「わたくしは何も……!」

「帳簿改ざんの指示書が出ている」

ラドフォードが書類を掲げる。

ヴァネッサは震える声で「殿下が……殿下が守ってくださるはずでしたのに……」と呟いたが、もはやその名に何の力もないことを、広間の誰もが知っていた。

国王は断じた。

「ヴェルナーは全財産没収のうえ終身労役」

「マルセルは国外追放」

「ヴァネッサは王宮資金流用と詐欺工作の罪により修道院へ終身幽閉」

その瞬間、ヴァネッサが悲鳴を上げた。

「いやっ! いやです! そんなところ行きたくありません! わたくしは悪くありません! 全部お姉様が――!」

だが騎士たちはためらわなかった。

彼女が広間の床に崩れ落ち、必死に縁を掴んで抵抗しても、腕を取って引き離す。マルセルは泣き喚き、ヴェルナーは何かを弁明し続けていたが、その声はもう誰の耳にも入らなかった。

やがて三人もまた、別々の扉から連れ出されていく。

その姿が消えたあと、大広間には長い沈黙だけが残った。

国王はゆっくりとカリスタを見た。

「ヴァレリオン嬢」

「はい」

「……王家は大きな誤りを犯した」

カリスタは一礼した。

「承知しております」

国王はそれ以上何も言わなかった。

それが謝罪だったのか、敗北の宣言だったのか、あるいはその両方だったのかはわからない。

だが少なくともこの場にいる全員が理解した。

今日終わったのは、ただ一つの婚約ではない。

愚かな王太子の時代そのものが、ここで終わったのだ。

その日の夕方、ヴァレリオン公爵邸の書斎で、カリスタは静かに新しい契約書へ署名していた。

窓の外では冬の風が木々を揺らしている。

グレイがそっと報告する。

「王太子――いえ、ディオン殿は北方へ移送されました。最後まで騎士に食ってかかっていたそうでございます」

「そう」

カリスタはそれだけ答えた。

「ヴェルナーたちもそれぞれ執行待ちとなりました」

「わかりました」

ペン先が紙の上を滑る。

王家との契約は終わった。
王太子との関係も終わった。
義妹たちとの因縁も終わった。

終わらせたのは復讐ではない。ただ、破られた契約をそのまま終わらせただけだ。

カリスタは最後の署名を終えると、静かにペンを置いた。

それで、すべてが終わった。
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